小学生の頃、野球ばかりしている時期があった。
野球チームに入っているわけではなく、遊んでいるだけだったが
時間があれば野球をしていた。
学校のグラウンドが上級生や中学生に占領されているときは
他の空き地へ移動してでも野球だった。
ある日、友人Tの家の近くの空き地でいつものように野球をしていた。
そこで野球をするのは初めてだった。
近くに数軒の家があって、ボールが飛び込むかもしれず
窓ガラスが割れないようにとゴム製のカラーボールを使っていた。
しばらく遊んでいるうち、ファールボールが塀を飛び越え
一軒の家に飛び込んでしまった。
俺たちは「すいませ~ん。ボール取らしてくださ~い」と声を掛けた。
普通、どこの家でも快くボールを取らせてくれたのだが、その家は違った。
T曰く、その家にはおばさんが一人で住んでいるらしいのだが、
「ウチの敷地に入った物は、もうウチのもん。勝手に敷地にゃ入らせん」
冗談かと思ったが本当に返してくれなかった。
俺たちはボールが飛び込んだことを謝り、他の場所で遊ぶので
ボールを返してほしいと頼んだが、それでも返してくれなかった。
やがてそのおばさんは俺たちに文句を言い始めた。
「だいたい、こんな家の近くでボール遊びなんかして。
ガラスが割れたりとか、人に当たってケガさしたらどうするん?」
ネチネチと言われて少しイラついていた俺は、つい言ってしまった。
「プワンプワンボール(ゴムボールをこう呼んでいた)やけん、
ガラスも割れんし、当たってもケガせんもん」
おばさんは烈火のごとく怒りだした。
「大人に向かって、なんちゅう口をききよるんか。 お前はどこの子供か?」
そう言いながら、棒を持って追いかけてきた。
俺たちは散り散りになって逃げ帰った。
それ以来、おばさんのあだ名は「キチガイばばあ」になった。
俺たちのあいだでは「口裂け女」のような存在だった。
「あの辺で悪さすると『キチガイばばあ』が追いかけてくるぞ」
もちろん、本人や大人たちの前では言わなかったし
仲間内で冗談のネタになっているだけだったが。
2~3ヶ月たったある日、また野球をしようと集まっていた。
だが、グラウンドも他の空き地もすでに使われていた。
他の遊びをすればよかったのだろうが、その時の俺たちの頭の中は
「どこかで野球をする」しかなかった。
あの空き地しかあいていなかった。
「キチガイばばあ」の家がある、あの空き地だ。
少し迷ったが、そこでやることにした。
あれから期間が開いていて、ほとぼりは冷めているだろうし
万一、ボールが飛び込んでも諦めればいいやと考えていた。
正直、冗談のネタになっている「キチガイばばあ」を
もう一回見てみたいという気持ちもあった。
野球を始めてすぐ、塀の陰から「キチガイばばあ」が覗いているのに気づいたが
特に何も言ってこなかった。
「もしかしたら追いかけてくるかも」と身構えていた俺たちは拍子抜けした。
しばらく野球を続けていると、友人Mが子犬を連れてやってきた。
野良犬だそうだがコロコロして可愛かった。
ウチでも犬を飼っていて可愛がっていたのだが、ウチの犬は大型犬で
可愛さの点ではあきらかに子犬が勝っていた。
皆、野球を中断して子犬と遊び始めたのだが、一匹の子犬に
十数人の俺たちが集まると抱っこするにもなかなか順番が回って来なかった。
俺たちは野球を続けることにした。
そして攻撃側のバッター以外の奴が子犬と遊べることとルールを決めた。
俺が子犬と遊んでいる時だった。
ファールボールが俺の脇をかすめて飛んでいった。
ボールはそのままバウンドしながら「キチガイばばあ」の家の塀の下に飛び込んだ。
「キチガイばばあ」が飛び出してくるかもと、ゆっくり近づいたが
幸いどこにも「キチガイばばあ」の姿は見えなかった。
俺たちは、塀の下から「キチガイばばあ」の庭を覗き込んだのだが
草がぼうぼうで、ボールは見えなかった。
草をかき分けようと、バットに使っていた竹を取ろうとしたときだった。
子犬が塀の下に飛び込んでしまった。
その瞬間だった。
「バキン!」という音とともに、「ギャゥン」という声が聞こえた。
嫌な感じがして俺は竹バットで草をかき分けた。
そこにあったのは、ちょうど胴を寸断するかたちでトラバサミに鋏まれた
あの子犬の姿だった。
子犬はぴくりとも動かなかった。
あまりの光景に、俺たちは動くこともできずに子犬の姿を見ていた。
「あ~あ、可愛そうに。しっかり掴まえとかんけん。 もうダメやね」
ビクッとして声がした方を見ると「キチガイばばあ」だった。
俺たちと子犬をはさんだ形で、正面に「キチガイばばあ」がいた。
「キチガイばばあ」はニヤニヤと笑っていた。
恐ろしかった。
普通ではなかった。
子犬を殺しておいて、ニヤニヤ笑う神経が信じられなかった。
「お前が手を伸ばしとったら、お前の手がちぎれとったとになぁ。あ~、残念」
その言葉を聞いた瞬間、俺たちは逃げ出した。
泣きながら、Tの家に逃げ込んだ。
Tのお母さんが驚いて、何事かと聞いてきた。
俺たちはしゃくりあげながら今見たことを説明した。
お母さんは顔を引きつらせていたが、聞き終わると何件か電話を掛けた。
やがて近くに住む何軒かの親が集まり、「キチガイばばあ」の家へ向かった。
俺たちも後をついて行った。
「キチガイばばあ」の庭で見たのは、胴がちぎれかけて死に絶えた子犬と、
トラバサミについた血を洗う「キチガイばばあ」の姿だった。
その光景を見て、皆しばらく声も出なかったが
やがて親たちは口々に非難し始めた。
「こんな住宅地でそんな物を仕掛けるのは非常識だ」
「もし、事故でも起こったらどうするんだ?」
「子供が間違って鋏まれたら大変やろうが」
だが、「キチガイばばあ」は言い返した。
「ウチの敷地に何を置こうが自由やろが」
「子供にも人の家に勝手に入らんように躾けとけばよかろうが」
「人の家の敷地に勝手に入ってケガしたっちゃ、自業自得たい」
大人たちの話は耳には入っていたが
俺は横たわる子犬から目が離せなかった。
しばらくたって誰かが呼んだのだろう、警官が二人やってきた。
警官はそれぞれの話を聞き、「キチガイばばあ」を連れて行った。
俺たちも家に帰るように言われ、この空き地では遊ばないようにと
念を押された。
「キチガイばばあ」に何があったのか、何がそんなに気に食わなかったのかは
わからずじまいだった。
もともとはご主人と二人暮らしで、人当たりもよかったそうだが
ご主人が亡くなってからは近所付き合いもほとんどなかったらしい。
「キチガイばばあ」がその後どうなったのかはわからない。
その後あの空き地で遊ぶことはなかったし、「キチガイばばあ」を見ることもなかった。
ただ、俺には強烈な恐怖心が残った。
穴や隙間に手を入れるのがものすごく怖かった。
しばらくの間、悪夢にもうなされた。
地面の穴や、塀にあいた隙間、岩の間など場面はいろいろだが
何か大事なものを中に落としていて、俺は怖いながらも取り出したかった。
最後は手を突っ込むのだが、「バキン」という音が聞こえて
手が鋏まれた瞬間に目覚めるという夢だった。
目が覚める瞬間、なぜか穴の中の物が何だったのかわかるのだが
いつも死んだ子犬だった。
時が経つにつれ、恐怖心は薄れていったし悪夢もだんだん見なくなった。
だが、それと反比例するように俺の中には「怒り」や「嫌悪」といった感情が
ふつふつと湧き上がってきた。
もしかしたら、以前俺たちくらいの小学生に嫌な思いをしたのかもしれない。
あるいは、俺たちが仲間内でからかっていることに気づいていたのかもしれない。
そうであれば、そのことについては申し訳ないと思う。
だが、それを考慮したとしても俺は許す気になれなかった。
今でも多少の恐怖心は残っているのだが
それ以上に「憎悪の記憶」として俺の中に残っている。
怖い話投稿:ホラーテラー 灰色の狐さん
作者怖話