俺は工学部のある学科に所属していて、その日は一コマ目から解析学の講義があった。
期末試験が間近にせまっていることもあり、普段は欠席の多いこの授業も全員が出席していたと思う。
永遠に感じられる90分間が幕を閉じ、辺りから参考書やらノートやらを鞄にしまう音がし始める。
次は空きコマだったから、友達を誘って図書館でテスト勉強でもしようと席を立ったときだった。
同じ学科生の篠崎が、大声を張りあげる。
篠崎「謝ってばっかじゃなにもわかんねぇよ!!一体なにしたおまえ」
寺島「だってさ!……ごめん取り乱した。でも俺だってワケわかんねぇんだよ。…次は空きコマだよな。篠崎…みんなを集めてくれるか」
篠崎「おいみんな!ちょっと集まってくれ」
学科生30人が、怪訝な面持ちで集まってくる。当然俺も駆けつけた。
教授が黒板消しを持ったまま静止してこちらの様子を窺っているのが妙に気になった。
寺島「みんな、これは冗談じゃない。……先に謝っとく。…ごめん」
事情がわからず皆が困惑する中、一人寺島だけが思いつめた表情で俯いていた。
寺島「昨日、*山にいったんだ」
その言葉を寺島が放った瞬間、生徒の幾人かが怒号をあげる。口を開いたまま唖然としている者もいる。
その山は、この大学では近付いてはならない場所、いわゆる禁忌だった。
入学式の際もそのことについて触れたぐらいだ。
教授が教壇の前で「まさか」と呟き、深刻な表情でこちらに向かってくる。
教授「頂上に祠があっただろう。見たか」
寺島「ありました。六芒星みたいな記号が印字されてました。それが…」
教授「それは封だ。………おまえまさか剥がしたのか!!なんてことをした!!」
教授が狂ったように寺島の両肩に掴みかかり激しくゆさぶる。
篠崎「ちょ!教授なにしてんすか!…落ち着いてください!!」
篠崎が暴れる教授を強引に寺島から引き剥がす。
篠崎「おい寺島!!!てめぇ封破ったのか!!」
寺島「破ってねぇよ!…燃えたんだ。近づいただけだぞ!?近づいたら札が燃えたんだ!!どうしようもないだろ!」
笠井「マジか。前触れもなく、自然に?」
寺島「ああそうだ。俺はただ見てることしかできなかった。どうにかできるワケないだろ!!…それにこんなメールも送られてきた」
そう言ってケータイを取り出す寺島の手は震えていた。そのメールの内容を以下に記す。
『自分の唯一の取り柄を失った。自殺するに当たって、僕と同じ学科の奴等に宣言する。
先に謝っとく。ごめん。フフフフフフオマエラは何も悪くない。だからこれは僕の個人的な憂さ晴らしだと思ってくれ。迷惑だろ?だから謝っといた(笑)
僕は厄介なモノにこれからナルだろう。さっきから沢山の腕が僕を掴むんだ。でも別に嫌な気はしないよ。だってさ、今よりできることが増えそうなんだもの。例えば、呪い殺すとかネ冗談だよフフ
殺しはしない。そんな結末はつまらなすぎる。もっと苦しんで欲しい。
そこで、提案がある。僕は死んでから、君たちに問題を出す。もちろん出席番号順だよ。コンタクトの取り方はわからない。まだ死んでないからね。でも
必ず君たちのところへイク
問題内容は様々だと思う。解析学、量子力学、初等幾何学、初等整数論、確率、線形数学、いくらでもあるさ。重要なのはそこじゃなーい。もし一週間以内に正答できたら、あ…解答は一回のみだからなぁ!正答できたら、見逃す。何もしないよ。もし、モシ!!誤答したらララララララララッ。
呪ウ。
君たちの自己同一性を奪う。ヒトにとって最も大切なモノだよ。それを失ったら、鏡に映るのは化け物でしかなくなる。コワイヨネェェェェェェッ!
それじゃ、楽しみにしていてね』
教授「…ありえない」
笠井「一体どこのどいつだ。メルアドが表示されてない。信じられない。どうやって送信したんだ」
望月「うわ!!おいみんなコレ見ろ!!」
望月が寺島を指差して叫ぶ。何事かと皆が寺島の後ろに回りこむようにして移動する。
俺も含めて全員が息を呑んだ。
寺島の首筋に、六芒星らしき印が、烙印のように刻まれている。
本人も初めて知ったらしく、周囲の人間に必死にその様相を訊いている。
同時に、教授がうわごとのように「大変だ」と言って、ポケットからケータイを取り出しその場を離れていく。
寺島が泣きながら首筋を掻き毟る。しかしその烙印は消えない。
笠井「肌が黒く変色してる。塗料じゃない」
「いやだ、いやだ」と寺島が嗚咽を漏らしながら連綴して泣き叫ぶ。
周囲の人間も事態が想像を絶するものだと察知したようで、空気が一気に重くなる。
そんな中、俺の脳裏にある男の存在が浮かんだ。室だ。
すぐさまケータイを取り出し電話をかける。4、5回のコールの後、通話状態に切り換わる。
室「那波!久しぶりだなあ。一年ぶりか…いきなりどうした」
那波「大変なことになった。とりあえず話を聴いてくれるか」
室「嫌な予感しかしない。…久しぶりの会話が台無しになるな。何があった」
俺は起こったことのすべてをなるべく詳細に説明した。気が動転していたせいか、うまく言葉が続かず、説明の順序がめちゃくちゃだったが、何とか伝えきった。
すると、室が出し抜けに信じられない言葉を放った。
室「その寺島とかいうやつの身体のどこかに、覚えの無い傷とか、不自然な痕とか、そういうものはあるか」
その事実をピンポイントで訊かれたことに驚愕する。
事態は確実に良くない方向に向かってる、そう予感させるには充分すぎる質問だった。相手が室であればなおさらである。
那波「ある。六芒星みたいな印が、そいつの首筋に。…それがどうした」
最後の一言は、やっとのことでしぼり出した。勇気の要る一言だった。
長い沈黙。答えを待ちきれず焦る自分と、その答えを知るのが恐ろしい自分が共存していた。
室「いいか、よく聴け。霊がある特定の人に痕を遺すとき、それにはちゃんと理由がある。
…見失わないようにするためだ。
…恐らく、寺島を中心にして周りのやつらにも取り憑いていくと思う。
通常悪霊は死に場所から動くことができない。だが、媒介となる人間がいれば、そいつを通して動き回ることができる。その人間が、おそらく寺島なんだろう。
封が破れたのも、寺島が触媒となったせいだと思う。
断定はできないから、親父に訊いてみるが、これだけは覚えとけ。
そいつは悪霊の域を超えてる。
だいたい、メールで生きた奴と接触できるなんて、元が人間だとは思えない。
間違いなく、『憑き神』程度の力を持ってる。
具体的にいえば、生者の精神に直接働きかけることができるんだ。
操ることもできるし、気を狂わすこともできる。
何が起こるか見当もつかない。
この後すぐに、寺島に送られてきたメールを俺にも送ってくれ。で、周りに異常があったら、すぐに連絡しろ。
電話が繋がらないときは、実際は繋がっているから、構わず話せ。
奇妙な音とか声とか聞こえてきても、だ。
これからは肌身離さずケータイを持っておくから、コール三回以内には必ず出る。
それ以上まだコールがなるようなら、それは現実に起こっていることじゃない。
いいか、今、お前には危険が迫ってる。
それをちゃんと自覚しろ。
周囲に細心の注意を払って、少しの異常も見逃すな。いいか?」
室の対応の的確さと親身さに心底安心したが、それは事態がこの上なく深刻であることの裏返しでもあった。
那波「分かった。すぐにメールを送信する」
室「こっちで何か解ったらまた連絡する。気を抜くなよ那波。観察力なら誰にも負けないだろ」
那波「警戒しとく。…ありがとな。じゃあ」
普通の人間ならば、『憑き神』と聞いても実感は皆無だと思う。
たとえ先ほどの室の言葉に恐怖や不安をおぼえたとしても、それはあくまで言葉によるものであり、具体的経験を通したものではない。
憑き神がいかに恐ろしく、いかに厄介かは、実際に遭遇してみないと解らない。
森羅万象に通じることだが、知識と経験の最も決定的な違いは、物事をどこまで理解できるか、というところにある。
言うまでもなく、経験とは五感を以って対象を深識することであり、これが単なる知識と比べて、事物の深奥をどこまで悟れるか、という点において雲泥の差だということは自明である。
かと言って知識が無駄というわけでもない。
知識の利点は多々あるが、その中でこの話に関係のあるものだけを取り上げようと思う。
例えば、Aという事柄について、あなたは造詣を深めたいとする。その際、まず知識を豊富に備えてから実際に経験を積むのと(知識を得るのは経験を積んだ後でもよい)、経験のみを積むのとでは、どこに差異があるのだろう。
率直に、それは労力の差である。
すなわち、修験の果てに悟ったものをどう解釈するか、この部分に割く労力の違いである。
先人たちが、究極をもとめる修験の中で悟ったものをどう解釈したか。それこそが知識であり、俺たち人間はそれを礎にして物事に自分なりの解釈を与えることができる。
前置きが長くなったが、俺の言いたいことは、除霊などを生業とする者にとって先人たちの知恵はとても重要であり、にも関わらず憑き神というものは、その詳細が記された書物がほとんど無いということだ。
こうなると、憑き神によって人の命が奪われても、まずそれが憑き神によるものだと判断するのが不可能であり、さらにどう対処したらよいかも分からないことがほとんどだ。
先人の教えにすがることができないからである。
これは憑き神の特性に起因している。
毎年おびただしい数の人間が憑き神に魂を喰われるという。
しかし、周囲の人間は憑き神に殺されたと認識することができない。これこそ最も厄介な点である。
一個の生命の根絶が、憑き神によるものか、それ以外の原因によるものかを判断できる唯一の人間が、『神兌(カダ)』と呼ばれる者たちであり、彼らなくして憑き神の存在が明かされることはなかったという。
神兌の能力は、まず憑き神を視認できることである。ただし、彼らは通常の霊はまったく視えないのだという。いかに霊と憑き神が異質であるかということが判る。
さらに、対話することもできる。
この対話は、取り憑いた者から離れるよう憑き神を説得するためにあるが、憑き神が同意しなければ神兌でさえどうすることもできない。
対話は言葉によってはなされず、互いの精神を汲み合うものだという。
神兌が慈悲を乞えば、それを汲んでくれることもあり、逆に憤怒することもある。それは憑き神のまったくの気まぐれなのだ。
死体を観ることによってその者が憑き神に喰われたか否かを判断することもできる。
たびたび見慣れない言葉を出して申し訳ないが、憑き神が取り殺した者には『瑕虚(ゲコ)』と呼ばれる特殊な傷跡が遺るようだ。
現在日本で確認されている神兌はたったの6人であり、その能力は血筋とは無関係に発現すると云われている。実際、神兌のほとんどは、最初のうち憑き神を「仮装した人間」だと思っているらしい。
だが、もちろんすべての憑き神が人間に似た姿をしているわけではないし、仮装という解釈にも限界があるから、いつか気付く。自分に視えているものが、普通のものではないということに。
その特殊な能力が、室や彼の父のような人々の目に触れなければ、神兌として認められることはない。精神異常者として扱われるだけである。
俺は神兌の一人と知り合いになることができたが、それも室のおかげである。
実は、俺自身三度も憑き神に憑かれたことがある。
そのどれもが超自然的存在で、恐怖と同時に畏敬の念をも抱かせる。
ただしそれらはすべて今から語る事件が起こった後のことであり、俺はこの時点では憑き神の恐ろしさを何も解っていなかった。
今後の具体的方針がたち、室の後ろ盾もあったからか、ケータイをたたんだ時には安心しきっていた。
ふと学科仲間の方を見ると、全員が同じ方向をみつめ眉をひそめている。つられるように俺もその方向に目を向ける。
すぐに異変に気付く。
教授が、電話しながら爆笑している。
別に爆笑することは誰にでもある。だがどう考えてもこの場面にはそぐわない、というか不自然だ。
腹を抱えこんで含み笑いし、身体を大きくのけ反らせて呵呵大笑。これを機械のように正確に一定のリズムで繰り返す。
しかも、こちらを見たまま一瞬たりとも視線を外さない。
まるで、
私たちは君らの馬鹿さ加減について面白おかしく語り合っているんだよ
とでも言いたそうな様子だった。
教授の突然の異常行動に、全員がじりじりと後ずさる。
するといきなり、教授はケータイを投げ捨て、そのまま笑いながら机のほうに向かって走り出す。そして机の前の椅子に座ると、机の中に頭を突っ込み始める。
相当机の中に頭をうずめたいのか、身体をくねらせ、頭部の角度を変えながら捻じ込んでゆく。
何がおかしいのか依然大爆笑しているのだが、机の端が多少頭蓋にめり込んでいるのを見ても、尋常ではない激痛が伴っているはずだ。
すると、いきなり笑うのをやめ無表情になる。同時に、凹凸のある頭蓋が不気味な骨音を響かせ始める。
ゴリッゴリッ…
なにかが弾けたように全員同時に絶叫し、一目散に逃げ出す。
凄まじい速さで講義室を飛び出し、そのまま食堂まで脇目も振らず走り続けた。半泣きしている奴もいた。
学科生30人が血相を変えて猛ダッシュしている異様な光景に周囲は眼を丸くしているが、そんなの微塵も気にならなかった。
必死に室の電話番号を押している俺がいた。
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作者怖話