室「那波!!…良かった気付いたか!」
那波「…除霊は…どうなってんの」
辺りを見渡すと、他の学科仲間は変わらず柵に寄り掛かり眼を瞑っている。
しかし、苦悶に充ちた表情をしていた。
盥はひっくり返って、水を撒き散らしている。
水が、汚濁していた。腐っているのか。
盥のあったところも、床が一層黒ずんでいて、朽ちている。
いつの間にか念仏はなくなっていて、室の父と紫乃さんが大声で口論しているのが耳に入った。
室の父は疲労困憊といった様子で、額の汗が光っていて、目の下の隈も目立つ。
室父「一体どういうことだ!!…紫乃、それは確かなんだな」
紫乃「何度も言いましたが、そのときは気配すらしなかったんですよ!!」
室父「なんてことに…」
室の父がこちらに気付き駆け寄ってきた。後から紫乃さんもついてくる。
室父「大変なことになった。那波君、なにを見た」
ありのままを、語った。
室父「………では他の者も…」
那波「一体なにが起きているんですか」
紫乃「除霊開始から三日目の夜、君が目覚める二刻ほど前に、盥の上に社(クニツカミ)が姿を現した」
室父「紫乃はそう言う。だが俺には、三木の死霊となった姿が見えた」
那波「…クニツカミって」
室「地神のことだ。その地で祀られている神」
紫乃「おそらく、*山の神だと思う。だが、那波君と寛二を助けに行ったときには、なにも感じなかった」
室「学科生全員を包み込んでいた褐色のモヤが、時間をかけてゆっくりと盥の上に集まっていったんだ。祓えそうだった……」
那波「…じゃあ今モヤは」
室「変わらない。今もおまえを覆ってる」
室父「三木は、罰だ、と言って消えた」
那波「出題されたときには驚きました。罰とはそのことかも」
室父「とてつもない力だ。憑き神に優るとも劣らない。…」
紫乃「門下の者が喰われた。一瞬だった」
那波「…喰われた………喰われたって…」
室父「化け物だ。…俺は、…少し時を遡ってみる。紫乃、*山へ行って来い」
紫乃「直ちに」
室「こんな夜半にですか」
紫乃「寛二、那波君の仲間を頼む。事は一刻を争う」
那波「あの、ちょっといいですか」
全員の視線が突き刺さった。
那波「山の頂上に祠があったんですが、…」
紫乃「どうかしたのか」
那波「古過ぎるんです。教授の話では、玉那覇がその祠を設えた。でも、それは10年前のことですよね。いくらなんでも10年であそこまで木は朽ちません。…苔も繁茂していましたし、悠久の時を感じさせられました」
流れに身を任せ、胸の奥に秘めた想いを、言葉にした。
那波「山が、…泣いていました。あり得ないかもしれないですけど」
紫乃「…山の声を聴いたのか……………まさか」
室父「そのまさかだ。…玉那覇…恐ろしいことをしてくれた」
那波「どういうことですか」
室父「……重封印だ」
室「嘘だろ!!……それは絶対にしてはならないことのはずです!」
室父「そうだ外道だ。しかしそんなことは忘れていた。…そこまで愚かな者はいないと、無意識のうちに断じていたのかもしれない」
那波「重封印ってなんですか!!説明してください!」
紫乃「クニツカミの力を利用して悪霊を封じ込める禁手だ。つまり玉那覇は、地神が祀ってある祠の中に、三木の悪霊を封じ込めた」
室「…じゃあ…」
いきなり室が駆け出し、襟をめくって寺島の首筋を確かめる。
そういえば、初夏であるにも関わらず、襟の高い上着を羽織っていた。
室「…そんな…重封の紋だ。……」
室父「寛二、おまえの失態ではない。俺ですら露ほども予想しなかった事態だ。六芒星と聞いて、重封を疑うことなどできない。自分を責めるな」
紫乃「…重封の紋は六芒星に酷似しているんだ」
室父「神と人間の地平は決して交わってはならん。神の住まう祠に人間を封じるなど、考えただけでも蒼ざめる」
紫乃「対処法は…どうしたら」
室父「それを知るために、時を遡ると言っている」
紫乃「私は……」
室父「もう山へ行っても益はない。ここにいる全員を頼んだ」
言って、室の父は早足でその場を去った。
時刻は、丑二つ。
29人の学科生が円を描いて座っている。
そしてそのひとりひとりが、異なる壺天を旅し、試練に堪えている。
しかし、自分にできることは何ひとつない。
今はただ、全員が無事還って来ることを祈るだけだった。
俺、室、紫乃さんの3人で、部屋の隅にじっと座り、仲間の生還を待つ。
初めは無かった松明が四本、坊主の居た位置に設置されていた。
焔の揺らめきで、影が生き物のように妖しく踊る。
松の木の弾ける音が、ときに峻烈に夜気へ突き刺さる。
蛙声がひとつ。
螽嘶(キリギリス)の鳴き声を背景に、蛙市が夜魄に融け込んでゆく。
ふっと
虫たちの鳴き声が、途絶えた。
伏していた眼を上げる。
突然石川が奇声を発した。
那波「無事か石川!」
石川「…嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ…那波どうしよう!!!…誤答しうわぁあ!!」
石川「ぁぁ…あああぁぁあああああ!!!ヴァアアアアアアアア!!!」
泣きながら大絶叫する石川を観て皆絶句する。
両の掌を交互に食い入るように見つめ、小刻みに震えている。呼吸がどんどん不規則になり、ついにその場に激しく嘔吐した。
そしてもう一度両手を見て、泣き喚き、吐く。
おそるおそる自分の頬を擦る。
だんだん瞳が吊りあがっていき、眼球から姿を消した。
すとん
頬に当てられていた両手が床に落ちる。
天井を仰ぎながら、白い眼で頭を振り乱し始める。
松明の灯りに照らされた石川の顔面を観て、生路は断たれてしまったのだと、悟らざるを得なかった。
不意に、石川の動きがぴたりと止まって。
なにも捉えていない両眼のまま、硬直する。
駆け寄ろうとして一歩足を踏み出した瞬間
いきなり石川が勢いよく天を仰いで立ち上がる。
俺は腰を抜かしてその場に倒れ込んだ。
棒のように背筋を伸ばし直立する石川。首筋に血管が青く浮き出ていた。
開いた口は、翳って洞穴のようになっている。
天井を仰いでいた石川が、おもむろにこちらを向く。
白い眼球の上に、滑るように瞳が舞い落ちてきた。
その瞳には、尽きようとする生命の、最期の灯が宿っていた。
灯は、ひときわ明るく煌めき、間を置かず闇に吸い込まれる。
この瞬間が、命の畢わりなのだと。
生命が散る、その一瞬に咲き誇る儚い花は、例えようもなく、どこまでも哀婉でした。
俺と相対していた石川が、
ぶるっと大きく痙攣して、人形のように倒れ込む。
絶命していた。
紫乃さんが駆け寄り、脈を確かめ、静かに瞼を下ろす。そして死体を抱きかかえ部屋を出て行った。
人生で初めて、生命が尽きる瞬間を目の当たりにした。
それは、儚くて、不条理で、唐突で、美しかった。
生の存在は感じたことがないのに、死はこんなにも明瞭に、貌を成して訪れる。
そのとき泪は、なかった。
底知れぬ絶望と死の香りに、肺が充たされていった。
永訣の際、あまりの衝撃に言葉を失い、ふるまう術ひとつすら見いだせない。
茫昧として、ただひたすら部屋を出ていく紫乃さんの背中を見るともなく見ていた。
石川を皮切りに、次々と学科仲間が意識を取り戻す。
俺に話しかけてくる者もいたが、なにを喋っていたかは憶えていないし、そもそも誰が話しかけたのかもわからない。
殆どの者が正解を導き出したようだった。しかし、そうではない者も居た。
奥島、丹羽、吉川、和田の4人が誤答したのだと、後で知った。
おぼろげに記憶に残っているのは、暴れる者を抑えつける光景ただひとつ。
混沌とした意識が、一縷をかろうじて保っていたのはそこまでだった。
意識を失っては取り戻すの繰り返しで、疲労は頂点に達していた。
薄明るい部屋を見ても、夜明けなのか、日が暮れた後なのか判断がつかない。
隣には、仲間が布団を並べて寝ていた。
そういえば、いつのまにか自分も布団の上に寝ていた。
庭の方を見ると、縁側に誰かが正座している。
その背中を観て、すぐに室の父だと判った。
室父「…起きたか那波君」
那波「……わかるんですか」
室父「命が尽きる直前まで行き着くほどの過酷な修行を乗り越えると、普通の者には見えないものが見えてくる。背中でおよそのことを感じることもできる」
那波「……」
室父「寛二は、今は眠っている。僧といってもまだまだ未熟者だ。精神的に疲れたのだろう」
那波「紫乃さんは…」
室父「鎮守の森へ精神を鎮めに行っている。これから我々は、乾坤一擲、大勝負にでる」
那波「…大勝負…ですか」
室父「皆が起きたら話す。…俺の背中に話しかけていないで、隣においで。朝の空気は旨いぞ」
それから、しばらく庭を眺めたり、遠く連なる山脈に想いを馳せたりしていた。
なにもしていないと考えることが多くなりそうだったが、不思議とただ風色を眺めているだけで、頭の中はからっぽという感じだった。
仙人は食物を摂らなくても、霞(カスミ)を食らうことで命を繋げると云うが、確かにこの寺の朝の空気は旨い、と感じた。贅沢をしているような妙な感覚がする。
陽が高くなり、山肌を緋色に染める。
学科生全員が起床したのは、午前九時頃だった。
朝食を済ませた後、大部屋に集められる。
部屋の奥に、8人の僧侶が並んで正座していた。
中心には紫乃さんと室の父、室は一番端に座っている。
室父「まずは、皆に伝えておきたいことがある。石川君と、寺島君が死んだ」
ざわめきが起こる暇も与えず、言葉を重ねる。―寺島?
室父「黙祷を捧げよう。皆で」
やりきれない思いでいっぱいだった。
たとえ死そのものは理解の及ばないものだとしても、寺島の死に際に立ち会う機会すら与えられなかったことが、どうしても納得できなかった。
俺にとって、石川の壮絶な死とは対極にある、寺島の秘かな死。二つの性質を異にする死を考えたとき、やはり、自分は石川のように誰かに見届けられて畢わりたいと切に思う。
しかし、石川のときと同様に、悲しみはそれほど感じなかった。
今になって思う。
死を、悲しんで、悼む人は、まだ生の側にいると。
死をすぐ傍に感じている者にとって、死とは少なくとも悲しむべきものではなかった。
そこには、ある種の称賛、賛美の感情が確かにある。生を全うした者への敬意が、確かに。
室父「黙祷、やめ」
別れを言うことは、しなかった。
実際に石川と寺島は、死んだ。
だがそれは肉体との決別であって、魂は。
死がもたらしたものは、死とはなんなのだろう、という疑念と、生とはなんなのだろう、という疑念と。
自分は一体いつ死ぬのだろう、そして、自分の死にたいように死ねるのだろうか。
生と死。
それは相反するものであってそうではない。
生があって死があり、死があるから生がある。
そう考えると、死への恐怖は少し和らいだ気がした。
怖い話投稿:ホラーテラー 1100さん
作者怖話