長文をあまり好まれない方々にも読んで頂けるよう、出来る限りの工夫をしました。
全く趣の異なる五つの怪談を、『三鑑』という大きな流れの中に散りばめたのも、その工夫のひとつです。
出来れば時間にゆとりのあるときに、じっくりと読んでくださればこれ以上の幸せはありません。
夜空は澄み亘り、星群が天球に貼りついているようだ。
彼らは自分がこの世に生を授かるその時より、遥か昔の姿を今晒している。先人たちはこの果てのない宙に、やり場のない想いの丈を投じていたのだろうか。
残暑も和らぎ秋が訪れ、時折はっとするように冴えた夜風が頬を撫でる。
社殿には灯りが燈っていた。
覗きこむと、そこには対峙する親子。
室「まだまだ。こい」
室父「ふん、若造が」
室の父は愉快そうにそう言って、手札の一枚を場に放り山札からもう一枚。松尾さんがさも面白そうに事の成り行きを見守っている。
その一枚を場に出す。みるみる室の表情が硬くなった。
室父「四光。…あがりだ」
項垂れる室。そこに父が一言。
室父「欲望は人を盲目にする、とはよく言ったものだ。青い」
秋の夜長に花札とは、情趣のある親子だ。
那波「今晩は。少し早かったですかね」
室父「おお、那波君。おいでおいで」
その日、月光は無かった。
新月の夜。
松尾「今日那波君を呼んだのは他でもない、『百物語』に参加してもらうためだ」
那波「百物語って…あの百物語ですか」
松尾「そうだ。まあ正確には百ではないが。…つまり、ここにいる那波君、寛二、室さん、私の4人が、それぞれひとつずつ、怪談を披露する」
那波「……」
室「どうした那波。顔色が悪いぞ」
那波「いや…この3人の怪談だと、冗談じゃ済まなそうだなって思って」
俺以外の全員が声をあげて笑った。
室父「確かにな。…うん、君の立場に立ってみたら、なんとなく解る気がする。不安だろう」
松尾「心配しなくていい。何か起こったとしても、我々がいるから」
那波「…何のための百物語ですか」
松尾「『弾指(ダンシ:高級な憑き神)』の一件で少し神経過敏になっていると思ってね。違うかい」
那波「…はい。あのあと、なんだか躰が疲れやすくなっているみたいで。頭も重いし、気分が晴れないというか」
松尾「人は怪談を語るとき、自然と気持ちが昂ぶる。それは適度な恐怖心が人にとって益となるからだ。脳が日常とは異質な刺激を求めているとき、往々にしてそれは恐怖心という容で充たされる。
君は物事に対して敏感だ。些細なことに必要以上に意味性を見出そうとする癖がある。それはむしろ良いことだ。なぜなら、それができなければ何事かを成すことなどできないからだ。しかしその癖の使いどころをまだ君は会得できていない。それは当然だ。君はまだまだ若いから。
手当たりしだいに思索を張り巡らせば、神経が弱っても無理はない。そういう意味で、恐怖心という解釈のできない刺激は効果的なのだよ。…特に君には」
室「怪談を語り合うことが、適度な恐怖心を得るのに最適な方法なんだ」
那波「…でも、それは霊に恐怖を抱く者だけにあてはまる話なのではないですか」
室父「では、那波君は霊を恐れないと」
那波「…例えば、殺人鬼を前にしたときの恐怖とは、少し違う気がします。でも、恐いのは確かです」
松尾「君は様々な神と相対し、ある種の敬いの感情を抱いているのかもしれない。そしてそれは正しいことだ。今でも我々は神霊に畏敬の念を抱いている」
室父「そういう考えを持つ者が集まると、百物語はまた違う趣を持つようになる。自分が何を見、何を想ったか。歩んできた人生を披露するようなもの」
室「あまり重く考えなくていいんだ。初めは俺たちの話をただ聴いているだけでいい。そのうえで、自然に湧いた感情に身を任せろ。なにも考えなくていい。ただ感じるんだ」
室父「神に対面したとは言え、恐怖を克服することはできない。誰しも人間なら当たり前のこと」
そこで、室の父は少し俯き、不敵に笑った。
室父「震えあがらせてやろう。思う存分恐怖するといい」
松尾「正式な百物語の方法に則ることにする。ただし少し異なる点もあるから、よく聴いておいてくれ。寛二、私、室さん、那波君の順で怪談を披露してゆく。語り終わった者は、そこの廊下をつたって離れまで行く。しかし一切灯りはないから、手探りで進むことになる。離れに着いたら、そこにある行燈(アンドン)の火をひとつ吹き消す。そして、傍に置いてある鏡で自分の顔を確認してから、この部屋に戻る。但し、火を消しに行った者が一刻、すなわち30分経っても戻ってこないときは、次の者が語り始めることにする」
戻ってこないとは、どういう意味だろう。
那波「離れはどこにあるんですか。行ったことがないので確認させてください」
室父「ならん。廊下に岐路はない。辿れば自然と行き着くだろう。…松尾」
松尾「では、準備をして来る」
室の父の一声に一瞬たじろいだ。
不安もあったが、何かが始まる、という期待感がそれ以上で、要するに雰囲気に呑まれた。
気分が昂揚してくる。
室父「沙知!…茶を頼む」
羽織っている浴衣は、紺藍の下地に光沢のある若草色の菊がとても馴染んでいる。締めた青鈍(アオニビ)色の帯に描かれている金色のすすきの群れが美しい。
盆に4つの湯呑と急須をのせて静かに一人の女性が現れる。髪をまとめあげ簪でとめていた。
室の母、沙知さんだ。
沙知「今日は百物語をするんですってね。…大丈夫なのですか」
室父「心配ない。ありがとう」
錫製の茶托を四皿並べ、その上に湯呑をそっと置く。
杏色の胴に、熱された釉薬(ユウヤク)の醸し出す特有の紋様が映える。
萩焼だろう。実際に赴いて自分の手で作ったことがある。
松尾さんが戻ってきた。入れ替わるように沙知さんが出てゆく。手際良く散乱した花札を片づけて行った。
廊下が暗い口を開けている。全ての灯りを消したようだ。さらに社殿の灯りもしぼる。
燭台の上に心許なく樹立する一本の蝋燭の火が、唯一の灯りとなった。
室の父は一口茶を啜ると、座布団の上で佇まいを直し、室の方を見て頷いた。
室父「さあ、はじめよう。…寛二」
室「はい。…では、怪談をひとつ」
空気が一気に張りつめる。心地良い緊張感に浸かる。
それは、黒雨滴る朝のことでした。
いつものように通学路を友達と喋りながら歩いていると、こめかみの辺りに鈍い衝撃が走ったのです。
脳天が揺れ動いたのかな、世界もゆりかごのように廻天されて。
傘を放り投げ、その場で頭を抱え込みうずくまりました。
友達が心配そうに声をかけてきますが、この日の曇天のような脳内には響くだけで届きません。
痛みはないのですが、妙に気味が悪い痼(シコリ)ができたような違和感がありました。
いや、実際に痼ができたわけではないのですよ。
どれくらいの時間が経ったのでしょう。多分、通学路を行って帰って来るくらいの時間はあったと思います。
薄く瞼を持ち上げると、霞む視界の中、前方に小さな靴があるのが確認できました。
そのかわいらしい小さな靴は、仲良く並んで爪先を僕の方に向けていました。
もちろん靴だけではありません。ちゃんと脚も伸びています。
その双子の靴にも、その周りにも、雨粒が落ちて細かな飛沫をあげています。
おかしいな、あの子は傘をしていないのだろうか。
顔をあげてみようか。あの子が誰なのか確かめることができるかも。
知っている子かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
そういえば、雨が躰にあたらない。僕の傘は傍に落ちて誰もいない場所を雨から守っている。
あの子が傘で僕を覆ってくれているのだろうか。
そうだとすると、あの子はすごく胴体が長いか、すごく腕が長いのかな。
やっぱり隣にいた友達なのだろう。
すっと横に目を遣ります。
しかし、そこには誰もいませんでした。
急に恐ろしい心持ちになり、固まって動けなくなりました。視線も地面を凝視したままです。
雨が躰にあたらないのが、とても恐ろしくて。
「かやのおくつ、お母さんに買ってもらったの」
真後ろから声をかけられました。自分は小さいながらも、その状況に暗いものを見出しました。
その、自慢のおくつはあそこにあって、ちゃんと履けているじゃないか。
君は何故そんなところから声をかけられるの。
気付いたら全身ずぶ濡れでした。靴も消えていて、振り返っても誰もいません。
しばらくして友達が母と一緒に駆けてきました。
この日を境に、雨の降る日は必ず、カヤに声をかけられるようになりました。
カヤの靴が淋しそうに路脇に佇んでいるのです。
もちろん靴だけではありません。ちゃんと脚も伸びています。
膝から先は無いけれど。
その靴を目にすると、急に傘を打つ雨音がやみ、後ろから声をかけられるのです。隣を歩く友達は見向きもしません。
何度か繰り返すうちに、カヤの声は自分だけに聞こえるものなのだ、と自然に理解しました。
最初はただ怖かった。でも、雨の日が訪れる度にカヤの存在を背中に感じていると、次第に恐怖はゆるくなり、悲しい、と感じるようになったのです。
いつのまにか、カヤの胸の内に秘められた想いを、探っている自分がいました。
室「…静かな夜だった」
その日も、庭を前に夜空を見上げ、あてもなくうち眺めます。
月輪は雲表に身を隠し、おぼろげな華を咲かせていました。
今の自分の心のようだ。
徐々に雲層は薄くなり、月華が力強さを増し。
ついに浮雲が主にその場を譲りました。
するするとその姿を明らめたのは、月だけではありません。
ひとつ、閃いたものがありました。
初めは一瞬の内に絶ち消えたその閃光も、芽だけは遺していて、朝を迎える頃には華を咲かせ実を結びました。
翌日も雨でした。
例の通り、路脇にかわいらしい双子の靴が並んでいます。
もちろん靴だけではありません。ちゃんと脚も伸びています。
にわかに雨音がやみ。
「かやのおくつ、お母さんが買ってくれたの」
迷いはありませんでした。佇む靴の元へ行き、自分の持っている傘で覆ってあげます。
すると、そこには無垢な少女が立っていました。
なにものにも染まっていない瞳を覗きこむと、吸い込まれそうで。
「佳耶のおくつ、お母さんが買ってくれたの」
本当にうれしそうに言うのです。おもわず顔が綻んでしまいました。
泪を止めてあげることしか、僕にはできないから。
どれだけ自慢のおくつが大好きでも、それはもう手元にはないから。
もう、履くことはできないから。
君が僕の泪をとめようとしてくれたのは、その想いを誰かに伝えたかったから。
梅雨が、明けた。
心も、晴れた。
室「…ありがとうございました。では」
室はすっと立ち上がり、なんの迷いもなく無明の回廊の入口に消えた。
しっとりとした余韻。
初めは恐怖しか感じなかったが、終盤にさしかかるにつれ次第に緊張が解れ、最期には晴れ晴れとした気分で充たされた。
まるで感情が話の中の室に移入したようだった。
これが、語りなのだ。
聴き手を巻き込んで、感情を揺さぶる。
しかしそれは決して煩雑なものではなくて、整然とした満足感を与えてくれる。
ただ、浸った。
とても心地良い。脳内でもつれていた糸が、解かれるのではなくそっくり取り除かれて、白紙の状態から一色に染まった。
幼少の頃の室の心情一色に。
煎茶を一口含む。静かに室の父が口を開いた。
室父「そういえば、…寛二がみえるようになったのはそれからだった」
松尾「懐かしそうですね」
室父「昨日のことのように鮮烈に甦った。あの日の寛二は、とても精悍な顔つきをしていた。思わず息を呑んだ」
松尾「那波君、寛二の怪談は美しく終わったが、私はそうはならない。今の内に息をついておくといい」
松尾さんが真顔で言った。
蟋蟀(コオロギ)の鳴く声に耳を澄ませていると、秋の訪れを耳で実感できる。
室父「霊は強い思念を遺してこの世に留まる。その思念が悪いものだったとき、悪霊となり祓うしか道はない。しかしそれが善いものであったとき、浄土へ導くこともできる。その際、特に至難だとされているのが、霊体を形作る思念を的確に把握すること。人の気持ちを忖度できぬ者には絶対に務まらない業だ」
松尾「これから寛二は大きく成長するだろう。今は束の間の休息だが、これからは過酷な苦行がまた始まる。しかし一切弱音を吐かないのは驚くばかりだ」
どうしても言いだせなかった。
その修行に、俺も加わりたい、とは。
今の自分は弱すぎる。それは肉体の問題ではない。意志の強さの問題なのだ。
しかし、生命の到達しうる限界まで行き着くことで、なにかみえてくることがあるのではないか、という思いも否めなかった。
この寺に再訪し、吉川と丹羽に会った。彼らは一年前、悪しきものに取り憑かれ自己同一性を失った。
眼隠しを外すことは一生できない、と2人は言った。
もう光を拝むことはない、それがどれだけの絶望をもたらすかは容易に想像できた。自分がそうなっていたかもしれないのだ。
しかし、しかしだ。
2人は、実に生き生きとしているのだ。
我をも忘れ極限を追い求めるその状況を、心から愉しんでいるのだ。
生きることは、人生に付随するものでは決してない。人生そのものなのだ。
この2人には、瞼を閉じたその奥に、真の自己がみえている。
生きることに真の価値を見出した2人は、眩しかった。一年半ぶりに室に会ったときと似たような感覚を覚えた。
自分の矮小さ、醜さ。それらを改めて思い知らされる。
今動かなければならない、そんな強い衝動に駆られた。駆られたのだが。
室父「…一刻。松尾、頼む」
その意志は急速に趨勢を衰えさせ、頭を引っ込めてしまった。
室が戻ってこないというのに、なぜここまで平静として居られるのだろう。
疑念と焦燥が根を張る。
松尾「では…怪談をひとつ」
怖い話投稿:ホラーテラー 1100さん
作者怖話