僕の実家は、準田舎とでもいうべきところにある。
道は大体舗装されているものの、高く臨むのは山々しかない、という感じで。
家の正面には墓地があって、幼少の頃からその前を通って通学していた。
そういうこともあってか、墓地というものに恐怖心とかそういうものは無かった気がする。どちらかといえば身近なもので、風景の一部としてとけこんでいた。
今思えば、それは墓地と言えるようなものでもなかった気がする。
松や杉の木が鬱蒼と生い茂るなかに、乱雑に置かれた墓石。ちゃんとした直方体じゃなくて、ひしゃげたいびつな石。
もしかしたら、あれは何かを祀っているのかもしれない。あの地に住まう神々のために置いてあるのかも。よく墓の並ぶ林のなかに野球ボールを放り込んでしまったとき、なんだか申し訳ない気持ちになって、「ごめんなさい」とか謝った覚えもある。
親に「入らないようにしなさい」って叱られた記憶もある。
前置きが長くなるけども、僕の故郷のことをもう少し話させて欲しい。
実家は比較的高い土地にあって、墓地の向こうには低い所に川が流れてる。こっそり墓地から見下ろすと、川がとても細く見えた。足がすくんだのを思い返しても、けっこう高かったんだと思う。
実はその川に下る坂道が三つあるのを発見するんだ。
北の方角に続く坂道は犬の散歩コースだったからよく知ってた。赤いマフラーを巻いた白い狐のまえに、小さな御椀が沢山重ねられたへんてこな祠のある竹林を抜けると、そこに小さな畑と墓地がある。
道は二つに分かれていて、左の道は県道に、右の道は川に続いてる。
右の坂道は苔が生えていて滑りやすいんだ。左手には石垣、右手には小さな鳥居と御堂がある。なんのために使うのか、そもそも使われているのかも知らない。だけど、ときどき御堂に灯りがともっているのを見た事がある。
坂道を下りて平坦になると、一面に田んぼが広がっていて、遠くには山が連なっている。小さい頃も、今になっても、その風景に心が躍る。建物なんてない、ありのままの自然が迎えてくれる。
そこを進んでいってさらに下っていくと、森の中に入り、そこに川が流れてる。
多分本流じゃなくて、支流のようなものだと思う。森から浸みだした湧水かも知れないけれど、浮かんだ枯れ葉に身を隠して、そっけなく水を湛えてる。
その向こうには小屋があって、踏み入ったことは無い。小さい頃は、なんだか秘境みたいでわくわくしたものだ。沢ガニとかをとって遊んだ。とても澄んだ水だった。
真ん中、東側に続く坂道は荒れていて、なんの舗装もされていない。
雑草が茂っていて、左右も木々が覆っていて昼でも薄暗い。左手には民家があって、右手には奥の方に小さな御地蔵様があった気がする。
しばらく進むと開けた場所に出て、犬の散歩コースと繋がるんだ。左右を梅の木が囲っていて、小さな沢が流れてる。そこは冬が近くなるとマムシやらアオダイショウが出てくるから、よく友達と遊びに来た。
蛇を見た日はなんだか幸運なことが起きそうな気がするんだ。
南側の坂道は、通学路の途中にあるのだけど、僕のごく近所に住んでいる人なら、そろそろここがどこだか分かるんじゃないかと思う。坂の真正面にはよく吠える犬がいて、びくびくしながら通学したものだ。
坂道は円を描きながら下に続いていて、ここはとても暗い場所で恐くてあまり近寄らなかった。
下まで行き着くとそこにはでっかい川が流れていて、多分墓地から見下ろしたものと同じだと思う。その手前には民家があって、なんだかワケのわからない掘っ立て小屋が幾つもある。
僕が小学校に通い始めてすぐのことだと思う。その記憶は一旦沈むとなかなか浮き出てこない。だけど、必ず息を吹き返す時が来る。ある一定の周期で、記憶の波が押し寄せる。ほんの些細なキッカケで、驚くほど鮮明に甦る。
小林秀雄氏の著した『無常といふこと』の中で、似たような場面が描かれていると最近気付いた。違う時代にタイムスリップするような感覚。そのとき感じたこと、見たもの、聞いたこと。その全てが、生々しい現実感を伴って再生される。
これが小林の言うところの『思いだす』ということなのだろうか。
無常ではない、常なるもの。
僕の心にしまわれたものが、鮮やかに息を吹き返したのは今まさにこのときだった。
夢かも知れない。だけど、そうじゃないと僕の心は叫んでる。
ある日、目覚めたら庭に立っていた。夜風が頬を撫でる。満点の星空。月明かりがとても強い。
どうして僕は庭に立っているのだろう。ベッドに入ったはずなのに。
庭の生け垣を見ると、白く光る小さな点が二つ。タヌキだった。小さなタヌキ。
初めて見たから妙に興奮して、なにやら言葉をかけた気がする。
すると静かに生け垣から出てきて、墓地のほうへ向かってく。僕も夢中で追いかけた。普通だったら逃げてしまうのだろうけど、そのタヌキは距離があくとこちらを振り返って立ち止まるんだ。まるで誘導されてるみたいだった。
墓地の前に来ると右に曲がって通学路を進んでゆく。必死に追いかけた。
今思うと、異常に静かだった気がする。いつもなら県道を走っている車が見える筈なのに、一台も通らない。自分の足音すら聞こえなかったような。
ただ、発する声だけは聞こえた。待ってよ。その声だけが春の夜に木霊した。
タヌキは例の坂道を下っていく。
おかしいな、いつも吠えてくる犬がいない。小屋のなかで寝ているのだろう。
追いかけていくと、坂を下りきったところで忽然とタヌキの姿が見えなくなった。急に心細くなる。ただでさえ普段は恐くて近寄らない場所だ。真夜中に一人きりでいるのを考えると、とてつもない恐怖感に膝がガクガク震えた。早く家に帰らないと。でも、後ろから誰かに追いかけられそうで背を向けて引き返せない。
すると、人の声が聞こえてくる。
かなり遠くの方から、人の声がする。
とりあえず安心して声のする方へ向かう。何かを疑うような気持ちは微塵もなかったんだ。声の主には悪いものを感じなかった。むしろ耳にするものを安心させるような、不思議な力を持っていた。何と喋っているのかは分からない。「うう」とか「むう」、「はあ」なんて感じの声ははっきり聞こえた。
あの小屋が乱立する場所だ。
小屋のひとつから、その声は発せられているようだ。なんの躊躇もなく、嫌な音を立てる扉を押し開ける。中から埃と土の匂いが漂ってくる。
窓のない、淋しい小屋だ。
壁にはなにも掛っていないし、家具もひとつもない。しかし、床の中心に穴があいている。相当深そうで、覗いてみると中から幽かに明かりが漏れている。
間違いない、中から声が聞こえてる。
耳を澄ますと、喋っていることが今度は鮮明に聴きとれた。
アオいシャリンにマタガるカゲ
アオいヒトミ、アオいタテ、アオいトリ
ナンジにどれかヒトつだけ
青い車輪に跨る影
青い瞳、青い盾、青い鳥
汝にどれか一つだけ
穴蔵に足を踏み入れると、突然なかからの歌が止んだ。すると、別の調子の歌が聞こえてくる。
アカいトビラ、アカいツルギ、アカいシズク
ナンジにどれかフタつだけ
赤い扉、赤い剣、赤い雫
汝にどれか二つだけ
さらに声色を変え、もうひとつ
シのトリイ、シのカブト、シのカガミ
ナンジにすべてサズけよう
紫(死?)の鳥居、紫の兜、紫の鏡
汝にすべて授けよう
穴蔵を滑り降りると、その先には顔があった。とても大きい顔面。
土壁に埋もれ、顔だけをのぞかせている。白い顔に、青い模様が描かれていた。
目は瞑っていて、唇だけが動いていて、さきほどの歌を繰り返し口ずさんでいる。なにもないのに、妙に明るいんだ。顔そのものが光を発しているようだった。
そこで意識が途切れ、再び気付いたのは朝になってからだった。
居間にいくなり母が目を見開いて駆け寄って来るんだ。そして、ああ、ああとか言って相当おろおろしてる。血相を変えて奥へ駆けて行った。見ると、体中泥だらけだった。
するとこちらも顔を真っ青にして祖父と祖母がやって来る。
「まさか…しかし、これは光栄なことだに、見守るしかないだろ」
「ああなんてことに…玲、おまえ神様に会ったんだね」
昨夜の経緯を子供ながらに語ったんだと思う。みるみる大人たちの眼に涙が溢れた。一体どうしたんだろうと、疑問符を掲げたような顔をしていたと思う。
「神さんの顔に模様があっただろう、何色だった」
一言、「青」と答えた。
その瞬間全員が泣き崩れて、よかった、よかったって言いながら咽び始めるんだ。
「いいかい、これからも毎日神さんを訪ねるんだよ。この子は本当に幸運だ」
「よかったなあ…御力を授かることができるよ」
正直ワケが分らなかったが、言われた通り毎日神様のところへ通った。状況は毎回同じで、タヌキに誘導された。
だけど、訪ねる度に、穴蔵が浅くなっていくんだ。六日目には、穴を降りてすぐのところに顔があって跳び上がった。
大きな異変があったのは、七日目だった。
案内役のタヌキがいない。
どうしようと慌てふためていると、庭にあの歌が聞こえてきた。しかも、青い歌だけだった。
その声に引っ張られるように、あの穴蔵へ歩を進める。
小屋に入ると、昼間なんじゃないかと思うほどの強烈な光が穴から湧き出てる。目を覆うほどのものだった。
慎重に穴を覗くと、すぐそこにあの顔面があった。穴いっぱいの顔の大きさで、
目が開いていた。
その瞳は、空を映したように青かった。意志とは無関係に、両膝をついて咽び泣いた。自分でも理解不能だったけど、そこに普通じゃない神聖なものを感じ取ったのかもしれない。
その日を境に、僕はよく同じ夢を見るようになった。水の形をした人が歩み寄ってきて、話しかけてくるのだけど、何を喋っているのか聞きとれない。
その意味するところが、今分かった。
あの水人は、僕を見守ってくれているんだ、神様が授けてくれたものなんだって。
*****
ありがとうございました、と誰もいない空間に向かって呟いた。
意外にもすらすら語ることができた。あとは行燈の火を吹き消すだけだ。
しかし暗い廊下を目にすると、怖気づいて腰を浮かすことができない。情けない気持ちになって、開き直る気持ちで立ち上がり、廊下に向かう。
社殿から覗きこむと、真っ暗だ。ただ真っすぐに伸びた廊下ではないのだろう。
手には汗が浮いていた。その手を握りしめ、意を決し廊下に足を踏み入れる。
ギィ、と床が軋む。壁に左手を這わせて、慎重に進む。本当に真っ暗だ。今まで光のある世界にいたため目が慣れない。耳鳴りがして、蝋燭の光の残像が幽霊のように舞っている。
ふと明かりが恋しくなり振り向いて驚愕した。
社殿から漏れる明かりが、ないのである。
そのまま硬直する。まっすぐ、ほんの数歩進んだだけだった。振り返ればそこにあるはずのものが、ない。それをきっかけに、不吉な考えが次々と浮かんでは消えてゆく。意志とは裏腹に、恐怖に支配された脳は勝手に身も蓋もない想像を生み出していく。
暗闇の向こうから
あの穴蔵にあった顔面が、目を見開いてやってきたらどうしよう
異常に深いお辞儀をした女が、「誰かいませんか、ごめんください」と近付いてきたら
小さな靴が並んでいて、背後から声をかけられたら
「カヤのおくつ、お母さんが買ってくれたの」
黒貂が、八禁が、阿鼻砂利が
怨子が、弾指が、邪兒が、玉那覇が
暗闇のむこうから
黒い妄想が突っ走る。独走する。
今まで見たもの、聞いたものが、新たに加えられた恐怖を携えて脳裏をよぎってゆく。
完全に息は乱れ、腹の辺りに鈍い痛みが生じ始める。手足の先が痺れてきて、洋服が脂汗で肌に貼りつく。
目を閉じていても、開けていても、拡がる世界は変わらない。
自然と、仏にすがっていた。
―羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
声は出ない。しかし心の中では懸命に叫んでいた。
向きなおり、震える体に喝を入れ、歩を進める。
すると、床を這うような音や、自分のものではない足音、念仏、人の呻きや溜息、髪や衣の擦れ合う音、荒い息遣いなど、あらゆる気配で廊下が充たされる。
幻聴だと自分に言い聞かせ、必死で脚を動かす。ほんの一瞬でも立ち止まれば動けなくなる。目をぎゅっと瞑り、歯を喰いしばって襲いかかる恐怖の波に立ち向かう。
一体どこまで長いのだ、この廊下は。
歩けど歩けど風景が変わらない。もう目は慣れてきているはずだが、新月の夜だということもあって底なしに暗い。依然辺りは何者かの気配で充たされている。
正気を失いそうだった。もう感覚は麻痺していて、精神も限界を迎えようとしている。
突如、壁に這わせていた手に伝わる感触がなくなる。空間がある。
目を開けると、そこに明かりの漏れる部屋があるではないか。行燈の灯が煌煌と輝いていた。
一瞬前まで先は暗闇に包まれていた。理屈で考えていたら頭がおかしくなる。
しかし明かりがこうも人の心を安堵させるとは。
さきほどまでの不気味な気配は消え去り、再び静寂が訪れた。
左手には妖しく煌めく姿見がある。幅は1mほどで、高さは2.5mほどの、とても大きな鏡だった。
行燈の火を吹き消し、鏡で自分の顔を確認する。
紫乃さんの言葉を反芻し、行燈の元へ駆け寄る。既に明かりを放っていないものが三つある。早く社殿に帰りたい、という気持ちが昂ぶって、残るひとつに顔を覗かせ一息で吹き消した。
部屋が真っ暗になると同時に、また恐怖が芽吹き始める。部屋になにかが入ってきたらどうしよう。
急いで姿見の前に立ち、自分の顔を確認する。情けないほど青ざめ憔悴しきっているが、確かに俺だ。
なんで俺が鏡に映っているのだろう。
異変に気付き戦慄する。なぜ、鏡に映っているのだ。
光のない部屋で、なぜ俺はいとも簡単に鏡を発見し、姿を確認できているのだ。
直後、鏡のなかの俺の背後で、空間がゆらゆらと波打つ。
間髪いれず、鏡の方へ向かう途轍もなく強い引力が、背中を押した。
吸い込まれるわけにはいかない。見ると、波紋を描く水面のように鏡が波打っている。
渾身の力を込めて躰を捩らせ謎の引力をかわすと、突然異常に躰が軽くなった。
部屋を飛び出す俺は、視界の端に未だ動かず直立している鏡のなかの誰かを捉えていた。
風のように廊下を駆けると、唖然とするほどすぐそこに社殿から漏れる光を見た。
頓狂な声を発しながら社殿に飛び込むと、そこには沙知さん、室の父、室、松尾さんが、さも当たり前という顔で坐っている。なんだか腹立たしくなってきて、大声でまくしたてた。
那波「どういうことですか!!…廊下は長いし、なんか変な音がするし、鏡が動くし、…ハァ…説明して下さい」
室父「そう声を荒げるな、那波君。一切の説明をすることができなかったことは、致し方なかった。すまない」
松尾「本当にお疲れ様。この『百物語』は、君のために催されたんだ」
室「よく頑張ったな。これは大量の憑きものを一挙に取り除く儀式なんだ」
那波「大量の憑きもの…」
室父「それはすごい数だった。見えただけでも13体ほど。松尾、おまえは」
松尾「低級な憑き神が5体、動物霊が6匹ほど」
室父「大きな姿身があっただろう」
那波「はい…暗い中でも姿を映せました。あれは」
室父「そのような鏡はこの寺にはないのだよ。あの部屋に置いてあった行燈も、実は最初から四つとも火を燈していなかった」
那波「まさか…そんな」
松尾「恐怖を極限まで高めることによって、潜んでいる憑きものをことごとく体外に追い出す。あの鏡が、最終的にはその憑きものを取りこんでくれるんだ」
室「だから真相を明かすことはできなかった。真の恐怖しか効果がないから」
那波「あの鏡はなんなのですか」
室父「さあ…俺もよく分からん。この寺に古くから伝わる方法なのだよ。なにしろおびただしい数の神霊が憑いていて、普通に祓うには君に壮絶な苦痛を与えることになる。そこでこの方法を選んだ」
沙知「この水を、一口目は含んだあとこの盆に吐き出して、二口目は呑みこんで。さあ、おいで」
銀色に輝く杯に注がれたものを、口に含む。味はなにもないけれど、新鮮な刺激があった。それを銀色に輝く盆に吐き出す。そして、二口目を呑みこんだ。冷たいものが喉を伝っていくのが分かる。
すると松尾さんが小さく咳払いをして、一言。その言葉の意味は、理解できなかった。
松尾「今度はこちらから質問だ。君は一体何者だ」
怖い話投稿:ホラーテラー 1100さん
作者怖話