夏休みがやってくる。
約束された長期休暇は僕にとって、大量の宿題でさえ塵と思えるほどのとんでもない価値を持っていた。
いま考えると、そこに教育の場とは違う、未知への期待や興奮とか、自由に世界を跳びまわれる解放感なんかを見出していたのかもしれない。
世界といっても、国境を跨ぐわけではもちろんない。
あのころの僕にとっての世界とは、自分の身をとり囲む大自然に他ならなかった。
立ち塞がる宿題という巨大な壁に対しては無計画極まりないのに、
「初日は川だな。川で泳いで、そのあと山に入って探検」
大野「二日目はクジラ山」
「ワナを仕掛けるのに一日かかる」
大野「三日目の朝たしかめに行こう。去年みたいにはいかん、絶対勝つ」
遊びに関しては180度態度が違った。
これは夏休み初日、川に泳ぎに行ったときの話。
緩やかなカーブを描く坂道をひたすら上る。うだるような暑さも、これから向かう場所を想像すれば忘れられた。
すぐ後ろをついてくるのは、級友の大野。言葉は交わさず、目的地に疾走した。
耳元をかすめる風と、無数のセミがしのぎを削る喧騒で、自分の声すら呑みこまれた。
30分ほど上り続けると、ガードレールがほんの少しだけ途切れた場所が現れた。
その先には細い石段があって、下りたところに目的の河原がある。
自転車を担いで階段を降りながら下方に目を遣ると、絶え間なくこの地の渇きを充たしてきたものが、去年と変わらずそこにあった。
名も知らぬ、決して大きくはない川だ。際限なく湛えられるように思える流水も、いつかは枯れてしまうのかもしれない。
でも、知ったことか、とそっけなく流れ続けるその様に、感動を覚える。
川幅7mほど。複雑にうねる流水が、陽光に煌めきながらあちこちで飛沫をあげ景観に動きをもたらす。
道路と反対側には川を挟んで森があり、水面に濃い影を落としている。
地質が違うのか、流水の速さが違うのか、奥の方、すなわち森のほうに向かうにしたがって水深が増してゆく。
今回は例年と違って、上流のほうで泳いでみよう、ということになっていた。
河原に着くと、そこに自転車を放ってまずは雰囲気を満喫した。
湿り気のまざった涼風が沢の匂いを運んでくる。
僕ら以外に人はいなかった。あの大自然を二人占めできるのがどれほど贅沢なことか。あの頃はそんなこと思いもしなかった。
大野「…いくかあ。わくわくしてきた」
「絶好の飛び込みポイント、見つけような」
上流に向かって川を遡ってゆく。
岸辺には、岩に囲まれ流れが淀んでいるところにハヤの子供たちが群がっていた。見慣れた光景だ。
いつの間にか道路側も森となっていて、川幅もどんどん狭くなっていく。当然そこらへんに転がる岩もごつごつした巨大なものが多くなってきた。
「いい感じになってきたな」
大野「ああ。この辺りから先は行ったことない」
1時間ほど川を遡ったところで、それは姿を現した。
単調に狭くなっていた川幅が、そこだけ異様に広い。
俯瞰ではコブができたように見えるのだろう、半円を描いて対岸の森がえぐられている。
黒々とした水面を見て、相当な深さであることが瞬時にわかった。
しかもお誂えむきに、高さ6mほどの超巨大な巌がそそり立っていて、ここから飛び込んでくれと言われているようなものだった。
「出たな」
大野「やばい。二人だけの秘密な」
大野はそう言いつつ服を脱いで水着一枚になると、
大野「深いかどうかたしかめてくる」
と言ってざぶざぶ川に入っていった。
一方の僕も水着になり、川の水を手で掬って浴び体を慣らす。いつも僕らが泳ぐ場所より幾分冷たいようだ。
潜った大野の姿は消えていた。
黒々と不気味に水を湛える淵。大野を呑みこんでしまったのだろうか。
上がってこない。
もう潜ってから一分は経つというのに、上がってくる気配さえない。不吉な予感に身震いしたものの、どうすることもできない。
人気のない山奥に、子供二人。些か頼りなさすぎる。助けにいこうにも川の中では困難を極める。
ただ待つ。情けないが、それしか選択肢はなかった。
水面を凝視していると、さらに数十秒経ったところで細かい泡が浮いて弾けた。
はっとなり身を乗り出すと、間を置かず大野が勢いよく顔を出す。
安堵で体が重く沈んだ。心配していたことを悟られるのが恥ずかしくて、そっけない態度で向かえる。
「どうだった」
大野「…」
「おい…」
大野「深い。川底が見えなかった。かなり潜ったのに」
「ほんとかよ。一分以上潜ってただろ」
大野「うそ言ってるように見えるか。…こりゃすごいぞ。10mじゃ収まらない」
川から上がってきた大野とハイタッチ。僕も溢れんばかりの笑顔で上気していたと思う。
「まず俺から飛び込むぞ」
大野「おいおい待て…俺だろここは。深さ確かめたのも俺だし」
「…ジャンケンだ。11回勝負な」
結局6勝1敗で圧倒的勝利をおさめ、不機嫌な大野を尻目に急いで巌によじ登る。
ちなみに7戦中4回大野の手はチョキだったので、笑いをこらえるのに必死だった。
というのも、HUNTER×HUNTERのなかで、人はチョキを最も出しやすいことを学んだばかりだったからだ。
実証に裏付けられたものかは分からないが、少なくとも当時の僕は信じ切っていた。
実際に登って立ってみると、これが予想以上に高い。思わず足がすくむほどだ。
でも今さら止めるなどとは口が裂けても言えないので覚悟を決める。背筋が異様なほどぞくぞくする。
大野「どうした恐くなったか。はは」
大野の野次は無視して深呼吸し、黒い淵に目を遣る。
水面がゆらゆらと対流している。ほんとうに呑みこまれそうだ。いや、実際呑みこまれるのだ。
水深10m以上、未だかつて経験したことのない興奮が全身を包み込む。
あのときは意識していなかったが、大野も空気を察したらしく一言も発さなかった。
ひゅっと音を立て空気をとりこむと、一本の槍のように、淵にむかって空を裂き落下する。
どんどん水面が近付いてくるが、その刹那、体全体が縦に伸びるような奇妙な感覚に襲われた。
気にする間もなく水面に突き刺さり、そのままの勢いで川底に向かい猛進する。しかしその勢いも浮力によって相殺され、次第に落下速度は緩くなり、停止する。
確かに川底が見えない。相当深い。
視界は開けていなかった。濁った深緑の水が辺りを包んでいる。
流されないように上流に向かって泳ぎつつ、少し辺りを泳ぎ回ることにした。今思うと、とんでもないことをしていた。
全方位を濁った水に囲まれた状況というのは、考えるより遥かに恐ろしい。
自分の体が今どこにあるのか、それを確かめる術がないからだ。
とりあえず大体の見当をつけて淵のほうへ進路をとる。
この時点で潜ってから15秒ほど。流れが速く、異常に冷たい。まるで氷水に体を浸しているようだった。
しばらくすると川の流れが極端に緩くなる。ここだけ流れが淀んでいるのか。どんな地形をしているのだろう。その直後、
急に視界が開けた。
完全とはいかなくとも、それに近いほど水が澄み亘った。ここで下を向けば、間違いなく川底が見えただろう。しかしそれを許さぬ別のものを、僕の両眼は捉えていた。
目の前で暗い口を開ける巨大な洞窟。その壁面にはなんと、千はゆうに超えるであろう、おびただしい数のドンコが張りついているのだ。
体長15cmほどのそれはえらの部分を細かく動かしながら、平たくつぶれた顔面に乗った黒い小さな瞳を一斉に向ける。
そのほら穴の中心には、目を疑うものが。
女だ。
無数のドンコに囲まれて、女が黒紫色の顔面を覗かせている。体は見えないから、爪先を奥のほうに向けているのだろう。
極太の髪の毛がゆらゆらと扇状に拡がっていて、眼球を白濁した膜が一枚覆っているように見える。
その両眼は、まるで孵化を待つカエルの卵のようだった。
口を大きく「は」の字に開け、そこから数匹のドンコが顔を覗かせている。歯がない。
黒色の両肩が前後に動いているのをみると、水中で体をうねらせているようだ。
ひとしきり女と見つめ合ったあと、もう一度水中に拡がるこの異様な光景を眺めまわし、ここで初めて恐怖がこみあげてきた。
地上であったら絶叫していただろうが、水中では大量の気泡が口から溢れだすだけだった。
女の右手が奥の方からぬっと飛び出し、洞窟のへりを掴む。
その素早い動作にも関わらず、周囲を取り囲む子分たちは無反応だった。
体を捩らせ前に進み出そうとする女の仕草を見て、頭の中で火花が散り反射的に身を翻して水面に向かって手足をめちゃくちゃに動かす。
ところが、進まないのだ。
急に流水の粘度が増した。体にしつこく絡みついてきて、手足の動きが鈍くなる。進み具合とは真逆で、疲労がどんどん堆積してゆく。
突如、僕の左足首をこの流水より遥かに冷たいものが掴んだ。
ぬめっとしたそれは確かに人の指の形を成している。その五指はまんべんなく足を舐めまわすとすっと離れ、今度は右ふくらはぎを掴んできた。
間を置かず背中に這いのぼるなにか。そのなにかは、ふくらはぎを掴む指とは対照的に形を成していなかった。
体の芯に響くような冷たさを帯びた粘着質なカタマリは、下方というよりはむしろ上方に向かう引力を生じさせ背中に陣取る。
無我夢中で水を掻きまくる。ただ空気に身を晒したくて、大野の顔を見たくて、水面に向かって手足を動かす。
思いは既に地上にあった。
流水の粘度は次第になくなり、濁りが強くなっていく。浮力を強く感じるようになったときには、陽光を映じて煌めくみなもが見えた。水中だから分からないが、本気で号泣していたと思う。
頭が水面から飛び出すと同時に勢いよく鼻から空気をとりこむ。水を被った視界が乱反射する光でまばゆい。
大野「おまえ潜水士かよ。何してればこんなに時間くうんだ」
天を仰いで大笑いしている友人がとても頼もしく、また尊く見えた、がもちろん本人には言わない。
それよりも気になるのは、大野の隣で、岩の上にちょこんと据わる老人だった。
「…そのじいさん、だれ?」
大野は質問の意味が分からないという顔をしながら僕の目線を辿ると、腰が抜けたのか面白い悲鳴をあげて倒れ込んだ。
大野「…い、いつから…」
音を立てながら川から上がる。地に足をつけられることがうれしかった。すると老人が岩から飛び降り、僕とすれ違う形で岸辺に歩み寄って、低くうなりながら川に左手を浸ける。その様子をへたりこんで動けない大野と並んで眺めていると、よく響く声で老人の背中が語りかけた。
老人「…ああ…きみ、中でなにをみた」
「…はい?」
老人「川の中で、なにをみた」
「…女の人がいました…あれは何なんですか」
大野「は!?…なに言ってんのおまえ」
老人「ふーん…そりゃこの川の神さんだわな」
「神様…」
そんな風にはまったく見えなかったが。
老人は立ち上がると、ゆっくりと振り向き俯きながら向かってくる。目の前でしゃがみこむと、濡れた左手で乾いた岩になにやら文字を描き始めた。達筆だった。あまりに流麗な漢字は、まるで絵のようだった。
老人「こう書くんだ。淵女子(ブチメノコ)言うてなあ、…小僧、よくよく運がええ」
大野「どういうことだよ。詳しく話せって」
「…ちょっと待ってろ」
老人「いいことがあるぞ。どれ、ちょいとついてきてみ」
大野と顔を見合わせる。老人の恰好はおよそ現代人には見られないものだったから、余計に怪しい。
笹色の大きな笠を被っていて、古木のような皺が深く刻まれた顔面に影を落としている。
右手には老人の上半身は容易に覆い隠せそうなほどの巨大な扇子を握っていて、こちらも異常なほど大きい朱色の番傘を背負っている。傘の柄の部分と先端は木筒に覆われていて、肩にかけられた紐と繋がって吊るされていた。
ふっくらと余裕のある淡い若草色の装束は両膝の部分が紐で締められ、逆に両肘の部分は裾が広い。
腰には大小様々の巾着袋を吊るしていて、扇をおりたたんだり展開したりしながら微笑む。ぼろぼろの草履を履いていた。
老人「…心配せんでええ。こんな老いぼれより、君らのほうがよっぽど速くとべる。逃げたいときはいつでも逃げえ」
蝉時雨はいつの間にか止んでいた。
さわさわと風にそよぐ木葉が擦れ合う音。ころころと水が湛えられる音。
謎の老人の、驚くほどうまい口笛。これはほんとうに上手で、まるで小鳥がさえずっているようだった。
大野が立ちあがって、まず僕を見、次に老人を見た。
老人は笠で翳った両眼を光らせると、無言で川の上流に向かって歩み始めた。僕らも素早く服を着て無言で後をついていく。
軽々と岩を跳んで進む老人の両脇の木々が、周りより激しく揺らめいている。岸辺を見ると、やはり老人の歩む傍だけさざなみが立っていた。少し小走りでないと置いていかれる。
踏み入ったことのない、僕らにとって完全な秘境。
両側を覆う森林は屋根のように頭上を覆い、木漏れ日が川面を柔和に照らす。
凹凸の激しい岩がどんどん増え、流水の覆う面積よりも岩肌の露出した面積のほうが大きくなる。川幅も単調に狭くなり、3mを下回る。
安定陸塊に住む異国の人が見たら、「これは滝だ」とでも言いそうなほど、急な勾配を飛沫をあげて流れ落ちる小川。
しばらく無言で歩き続けると、不意に老人の歩みが止まった。
老人「よおく目に烙きつけておけ…こりゃ二度とお目にかかれんぞ」
大野「…あれ…あれってまさか」
「ああ、きっとそうだ。…でかい」
前方10mほど。木々が折り重なってできた天然の屋根が、そこだけ円形にくり抜かれている。
さらに奥には小さな滝があって、滝壺の真ん中に大の大人が二人は寝られそうな広さの平たい岩が顔を出している。
その上に、僕らの身長とさほど変わらない、おそらくはこの川の主が、静かに佇んでいた。
はじめ、ここはほんとうに僕の居た世界なのだろうか、と思った。
オオサンショウウオだ。
巨大な体躯には細かい斑紋があり、体側と腕脚には襞(ヒダ)がついている。
平たい顔を滝のほうにもたげていて、その周囲を百匹ほどだろうか。ミヤマカラスアゲハの成虫が、深呼吸をするようにゆったりと翅を動かしながらとり巻いている。
圧巻だった。
小さなカラスアゲハが、余計にオオサンショウウオの大きさを際立たせる。
何年、いや何十年、この川に生きてきたのだろう。本来夜行性のはずがこんな昼間に姿を現すのは、なにか尋常ならざる作用があったに違いない。
あの頃僕らはケータイなんか持たされていなかったから、写真に残そうにも残せない。
でも、そんなもの必要なかった。
その光景は、色褪せることのない鮮やかな衝撃を伴って脳裏に烙きついた。強烈に烙きついた。
今も、そしてこれからも、薄れることはないだろう。
老人は消えていた。別にそれを不思議とも思わなかった。
番傘を開く音がしなかったら、消えたことにも気付かなかっただろう。
川の主はその風貌に反して、とぷん、と静かに川面に消えた。
一斉に飛び立つカラスアゲハが、まるで舞台の終わりを告げる緞帳のように視界を遮る。
余韻にたっぷり浸り、そのあと二人同時に絶叫した。「あああ」とか、「うおおお」とかマンガみたいな雄叫びをあげていたと思う。
息が続かなくなって絶叫が止むと、下流に向かって疾駆した。狂ったように走り続けた。とにかくこの感動を体で表現したかった。
途中なんども盛大に転んだが、脳内に渦巻く感動の嵐が痛みをことごとく中和した。
全身擦り傷だらけになりつつ、例の淵のまえで感謝の詞を述べ、再び全力疾走。
ちなみに、老人の描いた「淵女子」という三文字は渇くことなく残っていた。
あっという間に自転車を放った場所に行き着いた。
帰りの坂道は気持ちが良かった。ヒグラシの奏でる旋律が、この日に起こった全てを祝福しているようだった。
家に帰って夢中でこの日の出来事を語ったのは言うまでもないが、
父「はっは。おまえも会ったか」
の一言に、それまでの興奮が急激に冷めたのは今でも忘れられない。
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