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件名:幕間としての『彼』 Ⅰ

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件名:幕間としての『彼』 Ⅰ

 彼が、『自分は、どこかオカシイ』と思い始めたのは、中学生の頃だった。そして、中学を卒業するまでには、『自分は、どこかオカシイ』から、『自分は、確実に狂っている』と認識を改めるに至った。しかし、『狂っている』という自覚を持つに至っても、彼は、この『正常なる世界』に生きていること自体からは逃れることはできるわけではなかった。したがって、彼には、自分を『世界』に合わせる努力が必要となった。

 彼は、その方法を探した。色々と試してみたが、ついに高校一年生の秋にそれを見つけることができた。

 文章を書くこと。

 それ以来、彼は、毎日文章を書いている。

  

  

 『 まるで油絵のような空だった。

   灰色、鉛色、くすんだ世界。

   未来が、見えない世界。

   未来は、ありえない世界。

   二週間ぶりに部屋から出た僕は、そんな空を見上げていた。』

  

  

 彼は、『文章を書く』という行為によって、自分が『狂っている』ことを客観化することができるように思えた。つまり、自らが書いた文章を読むことによって、他人がどれほど自分対して嫌悪感を持っているかを知ることができると彼は、思っていたのだ。もし、彼が、この方法を見つけることができなかったとしたら、彼は、とっくの昔にこの『正常なる世界』から排斥されていたことだろう……少なくとも彼は、そのように自分のことを理解し認識していた。

 しかし、彼の努力は無駄に終わることになった。

 なぜなら、『正常なる世界』の方が、終わろうとしていたからだ。

第二章 『あたし』、あるいは、探索者

 1

 あたしは、本を探していた。

 

 その本は、あたしが、まだ小さかった頃に親に買ってもらったもので、その当時は、何度も繰り返して読んだ覚えがある。だけど、今、その本は、あたしの手元にはない。家中ひっくり返してみたけど、結局その本を見つけることができなかった。

 あたしは、散らかりきった家の中を見て、大きく溜息をついた。

 自分が半日をかけてしたことが、無駄な努力に終わってしまったのだ。この惨状を元通りに回復させる気力は、今のあたしにはない。それに、このままにしておいても、誰からも文句は言われたりはしない……。

 

 パパとママ、そして弟は、もう死んでいる。

 国によって個人の移動が制限されてから、あたしは、高校へ行っていない。電話も通じなくなってからずいぶん経っている。仲の良かった友達もほとんど死んでいるはず……

 

 あたしだけが、取り残されてしまった。

 

 家族の死体は、庭に埋めてある。

 ママが死んだときは、パパと弟と一緒に、

 パパが死んだときは、弟と一緒に、

 弟が死んだときは、あたし独りで、庭に埋めた。

 ママを埋葬するときに感じていた違和感―そう、嫌悪感ではなく違和感は、弟を埋める頃にはすっかりなくなっていた。おそらく『死』が身近なものとなって私の『日常』の一部となって慣れてしまっていたからだと思う。もし、死体が『死』の記号であるとしたら、至るところで死体が転がっている今のような状況では、『死』は、『日常』であると言っても許されると思う。

 昔、あたしは、今のような状況をテーマにした映画を見たことがあった。だけど、現実は、あれほどパニックになったりはしなかったし、それほどドラマチックでもなかった。あたしがいるこの『世界』に訪れた『終わり』は、とても緩やかに、そして確実なもだった……そう、静かに閉じていったのだ。

 あたしは、こんなものか……と少し拍子抜けし、だけど、自分にも確実に『終わり』が近づいてきている現実に恐怖した。その恐怖は、決して激しいものではなく、とても静かなものだった。襲いかかってくるわけではなく、まとわりつく……気づけばそこにあるといった感じのものだった。

   2

 あたし以外に生きている人間を見なくなってから一週間が過ぎようとしていた。

 もしかして、もうこの近くで生きているのは、あたしだけになっているのかもしれない。たとえ、それが事実であっても、今のあたしにとっては、それほど重要なことではない。「ふーん、そっか」ぐらいで済ませてしまえる。こんなことは、十分に予想していたことだし、それが特別悲しいことだとも思わない。『最後の一人』という役目は、必ず誰かに割り当てられるものなのだ。それが、あたしだとしてもべつに不思議なことではない――とまあ、今、あたしは、そんなクダラナイことを考えながら、適当に散歩していた。

 あたしの探している本は、家の中にはなかった。もちろん、こんなふうに適当に散歩をしていてもその探しモノが見つかる可能性が低いことはわかっている。だけど、こっちの方が、探し尽くした場所にいるよりもはるかにマシなはずだ。だから、取りあえず適当に散歩している。 

 ”目的のない散歩”というは、案外難しかった。

 気づいたら、同じ場所を三回ぐらいグルグルとまわっていたりする。全く意味がない。その繰り返し。さすがに、四度目のループに入ってしまうのは、あまりにもバカらしく思えたので、あたしは、タマタマ近くにあったコンビニに入ってみることにした。

「いらっしゃいませ」 

 レジに男の人いた……生きている人だ。

 一週間ぶりに生きている人間を見た……とういうことは、まだ、あたしは、『最後の一人』になっていなかったんだ……。少しあたしの顔が緩んだ。

 その明るくあたしに挨拶してきた店員さんは、あたしが絶対聴かないようなジャンルが好きであることが簡単に分かった。つまり、そんな分かりやすい服装をしていたのだ。

 もしかして……コワイ人かもしれない。

 あたしは、久しぶりに他人と会話をするので、上手く口を動かすことができるかと心配しながらなんとか挨拶を返した。

「うちは、結構品揃えがいいっすよ。ゆっくり見てって下さいね」

 店員さんの口調は、そのハゲシイ服装とは、かなりギャップがあるとても気さくなものだった。だから、自然とあたしも「ありがとうございます」と口に出すことができた。

 あたしは、レジを通りすぎ、店内をゆっくりと歩いていく。

 確かに、店内の棚には、たくさんの商品があった。しかも、そのどれもが保存の効くものばかりだった。それらは、今の状況に合ったラインナップと言える。

 だけど、いったいどうやって集めたのだろう……?

「近所の家から持ってきたんっすよ」

 あたしの表情を読み取ったのだろう……店員さんがあたしの疑問に答えてくれた。

「勝手に?」

「もちろんっす。でも、『窃盗罪』にはならないっすよ。無主物占有っす」

「ムシュブツセンユウ?」

「そっす。つまり、もう持ち主が死んでしまった物を、オレが、新たに占有し所有権を取得したわけっすよ。今の状況だと、相続も観念できないので、『窃盗罪』の構成要件には当たらないというわけっす」

「……」

 あたしは、店員さんが言っていることの半分も理解できなかった。ただ、店員さんが、自分の行為が法律に違反していないと主張していることだけは、なんとなく理解することができた。……だけど、女子高生に、法律のことを真正面から喋るのはマチガッテイルと思うのは、あたしだけではないはず……。

「オレ、こう見えても○×大学の法学部生っすから」

 そう得意そう言った大学名は、いわゆる『一流大学』のものだった。誰が聞いてもそう言うだろう。やっぱり、人は見かけによらないというのは本当みたいだ。ちなみに、あたしが通っていた高校は、誰が聞いてもお嬢様校と言ってくれるはず……ま、どうでもいいけど。

「わかりました。じゃあ、お金は、店員さんにお支払いすればいいんですか?」

「そんな、お金なんていらないっすよ。だって、今更そんなものがあっても仕方ないでしょ?」

「それもそうですね」

 二人して笑いあった。

   3

 あたしが、いくつかの缶詰と缶ジュースを持ってレジにいくと、店員さんは、それらを丁寧にビニール袋に入れてくれた。

「お客さんで、今日は、二人目っすよ」

「二人目? まだ生きている人が近くにいるんですか?」

「そっす。司法試験を勉強しているの方で……えっと、年齢は、オレよりも少し上ぐらいっすね。なんか、女の子が、寝る前に空に向かってお願いする、というような内容の本のことを熱心に話す方でしたっす」

「えっ……」

 その店員さんの言葉が、私の身体を捕らえた。

 その本って……もしかして、あたしが探している本と同じかも……。 

 手がかりだ……やっと手がかりを見つけることができた。

 あたしの中で、その男の人についての興味がドンドン大きくなっていく。

「その人、どこに住んでいるのかわかりますか?」

「ごめんなさい……わからないっす。あ、でも、これから図書館に行くって言っていたっすよ」

「……図書館って、この近くにあるあの区立図書館の分館ですか?」

「そっす。だけど、その方が来店されたのは、午前中のことなので、もう図書館にはいないと思うっすよ」

「でも、一応行ってみます。色々とありがとうございました。また来ますね」

 あたしは、店員さんにお礼を言うとにコンビニを出て、足早に図書館へと向かった。

 もちろん、その男の人は、もうそこにはいない可能性の方が高いのはわかっている。だけど、あたしは、それを確かめずにはいられなかった。せっかく掴んだ手がかりなのだ。どんな小さいものでも大事にしなければならない。

 すぐに二階建ての白い建物が見えてきた。小さな町の公民館といった感じの小じんまりとした建物だ。

 あたしは、あまりこの図書館を利用したことがない。そもそもあたしは、本を読むという習慣がなかった。それなのに、こんな状況になって、昔読んだ本の行方を必死になって探している……そんな自分がとても不思議に思えた。むしろ、滑稽だ。ま、それは、それでこの状況に合っていているかもしれないけど。

「お邪魔しますよ……入りますよ? いいですか?」

 一応、声をかけて館内へ足を踏み入れる。

 すると、直ぐに、ツンと鼻につく匂いを感じた。

 この匂いは、なに?  

 もしかして、これが古くなった紙の匂いだろうか……独特の匂いがする。

 あたしは、周囲を警戒しながら、このあまり広くない図書館の中を歩いていく。最近誰かが出入りしたような跡は残っていたけど、一階には誰もいなかった。

 次は、二階だ。

 階段を上る。

「誰かいませんかぁ?」

 二階に着くと、図書館中に届かせるつもりで呼びかけてみた。無駄だと分かっていても取りあえず声をかけてみた方がいい。やらないよりもやる方がいい。

 そして、予想通りの無反応。

「そりゃあそうだよね……」

 せっかく来たのに、なんかこのまま帰るのは、もったいない。

 一応あの本を探してみるか……大きな図書館ではないので、児童書のコーナーを中心に見ていけばそれほど時間はかからないはずだ。

「がんばるとしますか」

 あたしは、一階に戻ると本棚を探索し始めた。

 作者の名前は、覚えていないけど、題名や装丁はしっかりと覚えている。目の前にあの本があればすぐにわかるはずだ。

 だけど、現実は、厳しかった。なんとか児童書を含めた小説の棚は全て探してみたけどあの本を見つけることはできなかった。

 あたしは、諦めて家路についた。

 その足取りは、重い。

 手がかりの男の人に会えなかったからではない……家に帰っても、あたしを待ってくれている人はいないからだ。

 

 これだけは、まだ慣れることができていない……。

   4

 図書館から帰った私は、急に眩暈を覚え、そのままベッドの上に倒れた。そして、それから二週間ずっと高熱にうなされ続けた。その間、食事は喉を通らず、辛うじて水を口にすることができるだけだった。

 あたしは、この症状を知っていた。何度も、何度も目にしてきたものだ。あたしもついにあのウイルスに感染したのだ。

 自分が死病に侵されたことを自覚したあたしは、ベットの中で声を上げた。腫れた喉を振るわせ、叫び続けた。今まで溜め込んできたものを全て吐き出そうと叫び続けた。

 

 ようやく……ようやく……あたしも死ぬことができるんだ……。

 

 あの日から、あたしの周りでたくさんの人達が死んでいった。

 親しかった人、そうでない人の死を、あたしは目の当たりにしてきた。そして、あたしは、一人取り残されてしまった。こんな状況になっても自殺する勇気のないあたしは、ただただ自分も早くウイルスに感染することを願いながら惰性で生きていた……ついにその願いは、通じたのだ。

 今朝、目が覚めると、身体がとても楽になっていた。これが、あの『最後の晩餐への招待状』なのだろう……ということは、あたしの命もあと一週間というところか。

 あたしは、せっかく身体を動かせるようになったんだから、何かしようと思い、取りあえず久しぶりに高校の制服を着てみた。あたしが通っていた高校は、ミッション系の学校だったので、いかにもそれっぽい感じのブレザーだった。

 特に制服を着たことに理由はない。

 もし、あえて理由を挙げるとするなら、”もう着る機会はないから”……といった感じだ。とにかく積極的な理由はなかったし、必要でもなかった。理由というものは、『他人』という存在が意味を持っている『世界』の為のものだ。今、あたしを取り囲んでいる『世界』には……必要ではない。

 せっかく久しぶりに制服を着たのだから、家の中でジッとしているだけではもったいない……いや、もったいないという表現は、あまり合ってないかもしれないけど。

 とにかく外に出てみることにした。

 

 玄関の扉を開けると、男の人の後ろ姿が見えた。

 

 あたしは、なんだか嬉しくなり、声をかけてみようと思った。

 普通の状況なら、見知らぬ男性に声をかけたりはしないと思う。だけど、今ではお互い数少ない生存者だ。ま、死ぬことは確定しているので、助け合って生きていくことはないだろうけど、一応挨拶ぐらいはしておいても損はないはず。

 あたしは、玄関から一歩外へ踏み出した……だけど、そこまでだった。

 あたしの身体は、その場所で停止してしまった。

 

 ……あれって……死体だよね……?

 さっきまでのあたしは、生きている人間にばかり注意をいき、死んでいる人間に気づかなかった。だから見えなかったのだ……男の人の背中の死体に。

 その男の人は、腐乱が進んでいる……女の子(?)……を背中に背負って歩いていた。

 それに気づいたあたしは、もちろん声をかけるのをためらった。あたりまえだ。死が日常化しているとはいえ、この男の人の行為は、明らかに異常だ。異常すぎる。今の状況に耐えることができなくなって頭がおかしくなった人かもしれない……後一週間ぐらいの命だとはいっても、あえて変態さんに近づきたいとは思わない。

 ここはスルーしよう。スルーだ、スルー。

 あたしは、男の人の姿が見えなくなるまで塀の影に隠れていた。

「よいしょっと……」

 出鼻を挫かれたとはいえ、制服を着て外に出るという久しぶりの『非日常』に、あたしの心は弾んでいた。このまま高校に行ったら、まるで何事もなかったかのようにあたしに接してくれる先生や友達の姿を見ることができるかもしれない……という妄想を抱くほど浮かれていた。だけど、妄想は、あくまで妄想だ。そこには、希望も期待もない。あるのは、ただの逃避だけ……。

「とりあえず、コンビニにでも行きますか……」

 自分の妄想に軽く嫌悪感を覚えたあたしは、あのメタルな店員さんがいるコンビニに足を向けることにした。

   5

 コンビニに入ると「こんにちわ」と元気よく挨拶してみる。だけど、それに応えてくれる声はない。

 あたしは、レジの方に目を向けた。

 あの店員さんの姿はない。

 商品調達にでも行っているのかな……?

 べつに、あたしは、店員さんに、自分の制服姿を見てもらいたかったわけではなかったけど、まったく誰にも見てもらえないというのは、少し寂しかった。だから、しばらく店内で店員さんが戻ってくるのを待ってみることにしてみた。

 誰もいないコンビニ……。

 二十四時間絶え間なく人がいる、それがコンビニだ。たぶん、今のような状況でない限り、たった一人でコンビニ内で佇むということはできなかったと思う。『終わる』ということを本当に実感できる場所というのは、こういう場所なのかもしれない。死ぬ前に貴重な体験ができて良かったと思うべきなのかな……と、またクダラナイことを考えてしまった。

 ……とにかく静かだった。

 小鳥の囀りも、車のエンジン音も……何も聞こえてこない。

 もし、今、時間が止まっていると言われたら、あたしは、疑いもせずに信じてしまうかもしれない。

「現実感がない『日常』か……」と、あたしは、意味のないことを口にしてみた。自分でも何を言っているのか、何を言いたいのかわからない。ただ、頭の中に浮かんだ言葉をそのまま口に出してみただけだ。

 もう……当たり前のようにあったあの『日常』は、もうどこにもない……ママがいて、パパがいて、弟がいて、そして、友達がいた……あの『日常』は、もうこの『世界』のどこにもないのだ。あたしは、そんな残酷な『世界』に、取り残されている……まるで現実感がなかった。

「もういいかな」

 店内に入ってから結構時間が経ったけど、まだ店員さんは、帰ってくる気配はなかった。

 あたしは、手近な缶詰と缶茶を手にとってコンビニを後にした。

 さて、どうしよう……?

 

 残り少ない時間をどのようにして過ごすかということは、かなり重要な問題だ。当たり前だ。だけど、”重要である”といっても、適当に過ごしたところで、何が変わるというわけでもない。あくまで自分の気持ちの問題である。つまり、たいした問題ではないのかもしれない。よくわからなくなってきた……ま、いいけど。

 あの本の唯一の手掛かりである男の人の行方は、全くわかっていなかった。そもそも顔も名前も知らないのに探し出せるはずがない。偶然道端で出会った人に尋ねてみるというのも、生きている人が少ないという今の状況なら有効かもしれない。だけど、そんな偶然を期待するには、その男の人に残された時間、そして、あたしに残された時間は少なすぎた。

 ま、家にじっとしているよりは、少しでもその偶然にすがった方がまだいいのはわかっているんだけど……。

 あたしは、なんとなく空を見上げてみた。

 コンビニに入るまでは、鉛色の雲に遮られていた空は、赤い光によって黒く書き換えられていっている。

 夕暮れ。

 『世界』がこんなことになる前には、夕暮れに特別な感情を抱くことはなかった。だけど、今は、それは、とてもひどいことのように思える。あたしが、何をしようが日は暮れていく。あたしには、それに抗う術はない。ただただ暮れゆく赤い光を見ていることしかできない。

 どうして、それほどまでに夕暮れに対して悪い印象を抱いてしまうのかについては、自分でも分かっている……

 死に、また一歩近づくからだ。

 死を望んでいるはずの自分の感情と矛盾していることは……もちろん自覚している。

   6

 あたしが、再び外に出られるようになってから一週間が過ぎた。

 でも、まだあたしは生きていて、夢中になって本を探していた。

 もう手段なんて選んでいられなかった。時間は、限られている。もうあたしには、圧倒的に時間が残されていない。もうすぐ『終わり』がやってくる。

「おじゃましまーす」

 あたしは、堂々と玄関から他人の家へ侵入する。そして、手当たりしだい本棚を漁っていく。自分の家にも図書館にもなければ、あと探すべきところは、他人の家の本棚ぐらいしか、あたしには思い浮かばなかったのだ。

 結局、今日だけで九軒目、計五十九軒目の『家捜し』も空振りに終わった。あたしは、一日十軒のノルマを自分に課していたから、今日は、残すところあと一軒だ。とにかく日が暮れるまでに済まさなければならない。電気が止まっているので、暗くなってからでは探すことはできない。使用可能な懐中電灯類は、もう一つもなかった。

 一応、本をしっかりと元通り本棚に戻すと、あたしは、外へ出た。

「……もう赤くなってる……」

 空は、容赦なく赤く染まっていた。

 非現実的な時間。

 死へ近づく時間。

 昔の人は、今の時間を『逢魔が時』と呼んでいたらしい。確かに、人外の者達が道端に立っていてもおかしくない感じはする。今は、死体が至る所で転がっているけど……。

 あたしは、足早に次の家へむかった。ここから三軒隣の家だ。あたしが探索場所を選ぶ家の基準として、”小さい子供がいるかどうか”を重視していた。探している本が、児童書だからだ。でも、考えてみれば、かなり昔の本だし、今ではどこの書店でも見かけなかったのだから適切な選択基準ではないかもしれない。

 ま、それでも”本が好きな子供の親も本が好き”という公式は、かなりの確率で成り立つはず……というか信じるしかない。

 あたしは、探索場所の家に到着した。その家は、この辺りでもかなり立派な方だった。白い壁に囲まれた広い庭もある。

「お邪魔しまーす」

 あたしは、いつものように軽く挨拶をして、家の中へ入っていった。

 人の気配はしない。だけど、完全に空気が止まってしまっているわけでもなかった。まだこの家は、”死んではいない”。もしかしたら、最近誰かの出入りがあったのかもしれない。

 靴を脱ぎ、廊下を歩くと、キュ、キュと足の裏が廊下に擦れて音が鳴った。あたしは、その音を聞いたとき、久しぶりに『生きている』という実感を持つことができた。どうして、そう感じたのかはよく分からない。ただ、その音があたしの存在を高めてくれているような気がした……ま、そんなことはどうでもいいけど。

 とにかく手近な部屋から入り、手当たり次第本棚を探索する。

 他人の家の本棚を探し始めてから、今日で一週間目だ。

 あたしは、焦っていた。

 一つ一つの作業が雑になっているのもわかっている。

 でも……もし、この家になかったら……もし、このまま明日を迎えてしまったら……そのときは、あたしは、死んでしまっているかもしれないのだ。

 死を迎えるいうことは、この残酷な『世界』から解放されることを意味する。それは、あたしが望んでいたことだ。自ら死を選ぶこともできず、ただただ立ち止まり続けていた日々にさよならを告げることができるのだ。もう、こんな先が見えない”本探し”なんて止めてもいいはずだ。今のあたしには、もう『特別な一日』なんて必要ない。あと生きれたとしても、一日か二日のことだ。あたしを埋葬してくれる人なんてもういない。だったら、このまま自分のベットの上で静かに終わりを迎えるのも良いかもしれない。もし、外を歩いているときに終わりがきてしまったら、あたしは、あの街に溢れている死体の一つとなってしまう。それだけはイヤだ。絶対にイヤだ。

 一階での探索は、三十分程で終了した。

 次は、二階だ。

 あたしは、階段を昇る。二階には、トイレを除いて五部屋あった。それらも一階と同じように物色していく。

 扉……開ける……探す……。

 扉……開ける……探す……。

 扉……開ける……探す……。

 扉……開ける……探す……。

 ここまでの収穫は、ゼロ。

 そして、私は、最後の扉の前に立った。

 

   7

 

 この部屋が最後だ……本当に『最後』になるかもしれない……。

 あたしは、ゆっくりとノブを回し、扉を開けた。

「うっ……何これ……?」

 私は、鼻を押さえた。

 ひどい臭い……あたしは、この臭いを知っている。これは、今やあたしの日常の一部……だけど、少し異常……きつ過ぎる。

 私の頭の中に一つの可能性がよぎった。

 

 ……もしかして……あるの……?

 

 私の身体が強張る。

 今更、どうしてこんなにも緊張しているのか自分でも分からない。

 見慣れているはずなのに……。

 見慣れていなけれならないのに……。

 私は、ゆっくりと部屋を見渡した。

 

 ベッドの上に、かなり腐乱が進んだ女の子の死体があった。

 

「……っ!」

 後ずさり、背中を扉にぶつけてしまった。

 死体。

 死体。

 死体。

 そんなものは、見慣れている。

 そんなものは、ありふれている。

 そんなものは、あたしにだってなれる《ルビ》。

 本当に今更何をこんなに動揺しているんだろう……バカみたい……。

 あたしは、この状況を笑い飛ばそうと試みたが、上手く笑うことができなかった。乾いた笑い、薄っぺらい笑いさえも上手く浮かべることができない。

 ほんと……バカみたい……。

 たとえ死臭がきつくてもがまんできないほどではない。

 今、あたしには、やらなければならないことがあるのだ。

 あたしは、その少女の死体をできるだけ視界にいれないようにして、本棚の前へ足を進めようとした。

 違和感。

 あたしは、違和感を感じた……全く面識のない他人の家のはずなのに、その少女のことを知っているような気がしたのだ。

「どうして……?」

 困惑。

 彼女生きている頃を知っていたわけではない。この死体に見覚えがあったのだ。

 いつ……?

 どこで……?

 あたしは、自分の記憶をたどっていく。

 自分の頭の中にチカチカするモノがある。それは、あたしの意思とは関係なく、徐々に形を取り始める。あたしは気づいた。目の前に転がっている死体は、一週間前、玄関先で男の人に背負われていた女の子だ……。

 

 どういうこと?

 

 あの男の人は、この女の子の身内だったの?

 次々と疑問が頭に浮かんでくる。だけど、誰もそんなあたしの問いに答えてくれるはずはなかった。今、あたしの目の前にあるのは……死体なのだから……。

 これまで五十九軒の家の中を探してきたが、家の中に死体があったのは、はじめてのことだった。改めて考えてみれば、死体に出会わなかったことの方が不思議なぐらいだ。おそらくこの街の人達は、早期感染者が多く、しっかりと埋葬してもらえたのだろう。どうせみんな死ぬことになるのなら、早く死んだ方が幸せだと思う。実際、近しい人達が死ぬを見るのはとても辛かった……。だけど、その辛さがママに与えられなくて良かったと思う。あの人は、このひどい現実に耐えられる人ではなかった。パパも、あたしや弟がいるから気丈に振舞っていたけど、もし、あたしみたいになっていたら、自ら命を絶っていたかもしれない。

 弟は、どうだろう? 

 アイツは……わからない……ただ、あたしよりも強かったような気がする。

「……はぁ……あたしってば、なに考えているんだろ……」

 深い溜息をついた。

 どうでもいいことなのに……。

 どうにもならないことなのに……。

 バカみたい……バカみたい……バカみたい……バカみたい……。

 自己嫌悪にもならない浅ましい嫌悪感。

 あたしは、頭を振るう。

 考えちゃダメだ。

 考えちゃダメだ。

 考えちゃダメだ。

 自分を言いきかしていく。

 自分を誤魔化していく。

 自分を……

 数分後……落ち着きを取り戻したあたしは、本来の目的を果たす為、あらめて女の子の部屋を見た。

 大きな本棚が二つもあり、その中には、かなりの量の本がある……もしかしたら、この中に私が探している本もあるかもしれないという淡い期待が、あたしの中で膨らんでいった。

   8

「あの……ごめんね……本棚、見せてもらってもいいかな?」

 あたしは、ベッドの上の女の子に向かってそう言った。たとえ、死体であっても部屋の持ち主が目の前にいるのだ。挨拶もしないで部屋の中を物色するのはやっぱり気がひけた。

「見せてもらうね」

 二つ並んでいる本棚を左端から順に見ていく。

 この部屋の女の子は、まだ小学校の低学年ぐらいに見えるのに、かなりの読書家であることは明らかだった。こういう本棚の持ち主なら、今のあたしと同じような行動を取ろうと考えたりするのかな? 

 ふと、あたしは、女の子に尋ねたくなり、ベッドの方へ目を向けた。

 

 女の子は、ベットの上で腐っていっている……答えることなんてできるはずがない。

 

 あたりまえだ……女の子は、死体だ。

 こんな余計なことを考えていても、しっかりとあたしの目と手は動いている。

 そして、左の本棚の探索完了。

 次に、右の本棚に手をつける。

 こっち本棚は、小説を中心に並べられているようだった。これは、かなり期待できるかもしれない。あたしは、焦る気持ちを抑えながら、さらに目と手を動かしていく。

 これじゃない……これでもない……これとも……違う……。

「……やっぱりダメか……」

 あたしは、その場にヘタリ込んだ。

 ペタンとお尻を絨毯につける。

 これで終わりだ……もう終わり……あの本は見つからなかった。

 あの本は、なかった。

 身体が重く感じる。

 もう終わりなんだ……。

 気つけば、部屋の中も赤い世界へと変わっていた。

 もうすぐ、日が暮れる。

 赤い部屋。

 女の子の死体と死臭。

「……帰ろう」

 あたしは、ベッドの上の女の子に別れの挨拶と本棚を見せてもらったお礼を言うために近づいていく。死体……たとえ、それが腐っていたとしても、『人』と認識できる限り、あたしにとっては、それは『人』だ。あたしとなんら変わりはない。

「本棚見せてくれてありがとうね……アハハ、そういえば、あたし、あなたの名前知らないや……なんか名前がわかるものってあるかな……ちょっと待ってね……あったあった……へぇー、朝比奈彩夏ちゃんっていうんだ……彩夏ちゃんって呼んでもいいかな? えーと、返事がないから、そう呼ばせてもらうね。……ねぇ、ここに彩夏ちゃんを連れてきてくれた人って、彩夏ちゃんのお兄さん? ……でもそうだったら、そのお兄さんの姿が見えないというのはおかしいよね……って……あはは……あたし、なに言っているんだろ……本当に……本当になに言ってるんだろ……ああ……とにかく、とにかく……あなたにお礼を言わなきゃ……本当に……本当にありが……んっ!?」

 自動的に言葉を零し続けていたあたしの口が止まった。

 口が動かせない。

 言葉が続かない。

 あたしの目は、少女の枕元にある本に釘付けになっていた。

 ……本だ……あの本だ……。

 あたしは、震える手でその本へ手を伸ばした。

「やっぱり……」

 空色の装丁。

 なつかしい感触。

 あたしは、見覚えのある表紙を、じっと見つめる。

 早くページをめくりたいという衝動があるのに、身体が動かない。少し手を動かせばいいだけなのに……それが、できない。 

「なにやってんだろ……あたしってば……やっと本を見つけることができたのに……バカみたい……本当にバカみたい……ねぇ、ねぇ、彩夏ちゃん……あなたも思うよね……?」

 意味のない会話。

 成立するはずのない会話。

 会話とは呼べない会話。 

「……バカみたい……本当に……バカみたい……」

 私の口からうめく様に言葉が零れ落ちた。

   9

 彩夏ちゃんの家から出ると、雲ひとつない空には大きな満月が出ていた。

 月の周期は、二十八日。

 もう、あたしは、次の満月を見ることはできない……おそらく……絶対に。

 あたしの手の中には、あの本があった。彩夏ちゃんの部屋から持ち出してきたのだ。彼女に黙って持ってきたことについては、気が咎めていたけど、この本には図書館のバーコードが付いていた。つまり、もともとは、あの図書館の蔵書なのだ。だから、『図書館に返してあげる』という理由をつけて持ち出してきた。

 ま……今更、図書館に返したとしても、もう読む人間がいないから意味がないんだけど……。

「さて、これからどうしますか……」

 あたしは、空を見上げた。

 大きな……本当に大きな丸いお月様が、あたしのことを……見下していた。

「早く……死にたい」

 終わりゆく『世界』に、あたしは、一人取り残されている。

 目的の喪失。

 もう歩けない。

 もうどこへも行けない。

 もうどこへも行く必要がない。

 本の中の少女は、空に向かって願う。

 毎日が『特別な一日』であることを願う。

 それは、とても幸せなことだと思っている。

 少女の世界は、希望で満ち溢れている。

 あたしの世界とは……違う。

 まったくちがう。

 ぜんぜんちがう。

 もうあたしには、『特別な一日』なんて必要ない。

 それはわかっている。

 ……だけど、

 …………それでも、

 これで最後なら……

 これで最後だから……

 せめてこれだけは言いたい……

「あしたも特別な一日になりますように」

 あたしは、空へ向かって願いの言葉を口にした。

第三章 『私』、あるいは、逃亡者

   

  1

 最近、私は、良い夢ばかりをみる。

 夢の中は、いつも夜で、空には大きな満月が浮かんでおり、祭の真っ最中だ。そして、必ず洪水が起きる。私は、水によって蹂躙された街を彷徨い歩く。その途上で様々な人達と出会う。ある人は、私に自分の子供を託し、ある人は、母親を捜してくれと頼む。私は、その全てを請け負い、そして、夢の終わりへと辿り着く。

 目覚めた後、私は、夢を忘れないように、その内容を文章として残す。改めて読み返してみると、全く『良い夢』とは、思えない内容なのだが、それでも、私は、それを『良い夢』と感じる。

 おそらく今の私は、どんな悪夢を見たとしても、なぜなら、それを『悪夢』だとは思わないだろう。それを『悪夢』と思うには、現実の方がよほどひどいものだったからだ。

 致死率90%以上のウイルスの蔓延。

 今、人間は、死滅しかかっている。 

   2

 五年ぶりに帰ってきた街は、私の記憶にある姿のままだった。

 変わらない景色。

 もう変えられない景色。

 それは、私を非常に安心させるものだったが、大きな欠落があった……人が、いないのだ。

 いや、そもそも血の通った生き物自体が存在していない。しかし、私は、その欠落に違和感を感じなかった。なぜなら、もう既に圧倒的な事実としてその欠落を認識していたからだ。そして、その欠落があるからこそ、私は、この街に帰ってくることができた。もしかしたら、私は、今の状況に対して感謝しなければならないのかもしれない。

 そもそも、私が、この街から去ったのは、ある事件が原因だった。

 

 私は、人を殺してしまったのだ。

 

 相手は、近所に住む大学生。

 その男は、私の娘を犯した。

 娘は、まだ小学校に入ったばかりだった。下校途中、男に無理やり部屋に連れ込まれ、そして、そこで……。

 翌日、娘は、私の家が利用するゴミ捨て場で発見された。発見者は、よりにもよって妻だった。自分の娘の変わり果てた姿を見た妻は、程なく心を病んで入院してしまった。私は、自分が作りあげ、守ってきたもを一瞬にして失ってしまったのだ。しかも、名前も知らなかった男が原因で……。

 行き当たりばったりの杜撰な犯行であったはずなのに、犯人はなかなか見つからなかった。しかし、そのような状況の中で、私は、偶然にも犯人を知った。

 まさに天恵だった。

 天が、私に復讐する機会を与えてくれたのだ。

 私は、空を仰ぎ見て言った。

「……ありがとうございます」と。

 あの時の自分の言葉を、私は、いまだ忘れることができない。

   3

 人を殺してしまった私は、五年の間、国内を転々としてきた。

 その逃亡生活は、私が思っていたよりも困難なものではなかった。もっとも、”他人とつながらないようにする”ことには細心の注意を払わなければならなかったが……。”他人とつながる”ということは、それだけ自らの存在を”確定させる”ということだ。つまり、逃亡者にとっては、最もやってはならないことである。逃げ続けなければならない逃亡者は、他人と交わり、つながればつながる程に、逃げ難くなってしまうのだ。

 私は、次々と移ろい歩き、最後には、本州の最果ての雪深い街に辿り着いた。そこで、私は、この今の『終わり』が始まったことを知ることになった。そのとき、私は、パチンコ店のホールで働いていた。パチンコ店は、仕事がキツイだけあってあまり経歴などは関係なく採用してくれる。実際、私のような逃亡者や家出人等も多いらしい。それまでは、工事現場のような肉体労働を中心にやっていたのだが、寮もあり離職率が高く人間関係が希薄なパチンコ店の仕事は、一番私に合っていた。だから、私は、このまま、しばらくその場所で暮らしていこうと考えていた。ようやく、少し落ち着けると思ったのだ。

 

 しかし、私を追いかけていた『世界』の方が終わり始めた。

 

 政府の緊急事態宣言発布後、数週間で、私が住んでいた最果ての街でも、日常的に死臭を感じるようになった。もちろん、私が働いていたパチンコ店も営業を辞めた。しかし、寮の方は、経営者の好意によりこの状況が落ち着くまで、そのまま生活することが許された。今、考えてみれば、もうこのときには、私の逃亡生活は終わっていたのだろう。もう、私を追う者はおらず、そして、追う必要性もなくなっていたのだから。

 そして、それから数ヶ月後には、寮に住んでいるのは、私一人だけになった。他の人間は、死んでしまうか他の場所へ流れて行った。

 私は、その頃になってようやく、もう自分は逃亡者ではなくなっていることを認識した。しかし、逃亡者であるということが自分の存在証明であったのに、それがなくなってしまった私は、正直言って途方に暮れてしまった。

 何をすればいい?

 何をすべきだ?

 何をしたい?

 もはや、なんの義務もない『世界』で、私は、当てのない思索を続けた。

 そして、思索を始めてから三日後の夜……私は、自分の家がある街へ帰ることを決めた。

 

   4

 

 これまで長い距離を歩いてきた。

 私の家がある……この街へ近づくにつれ、私の足取りは重くなっていた。もう追われることもないのに、自分の家へ近づくのに抵抗を感じていたのだ。

 本当に、もう私は、追われることはないのか?

 本当に、もう私は、逃げなくてもよいのか?

 そんな何度も繰り返した自分への問いかけが私の足を絡め取ろうとしてくる。

 結局、最後まで私は、自分からは足を止めることはしなかった。あの街まであと数キロというところで倒れ、高熱が二週間ぐらい続いても、熱がひくと私は、立ち上がり歩き続けた。

 今、私は、かつて私が作り上げ、そして守っていた場所にいる。

 私の目に映っているのは、見慣れた玄関の扉だ。

 少し古びたような気もするが、それも気のせいにすぎないようにも思える……それ程までに変化を感じなかった。白い壁に囲まれた庭の方に目を向けても、特に荒れている様子もない。

 私は、扉のノブに手をかけようとした……しかし、そこまでだった。それ以上、私は、自分の身体を動かすことはできなかった。

 

 私は……いったい何を恐れている?

 

 笑いが……笑いが込み上げてきた。

 自分でも何がそんなに可笑しいのか分からない。

 込み上げてくる笑いを止めることもできない。

 それは、次第に哄笑へと変じていく。

 哄笑。

 哄笑。

 笑いが止まらない、

 止められない。

 身体が震える。

 止められない。

 滲んでいく。

 目の前が滲んでいく。

 私は、泣いている?

 泣いている?

 

 ……泣いていた。

 

   5

 

 どのような状況でも人間の食欲はなくならない。確かに、ひどく悲惨な目に遭遇して”食べられなく”なった人達はいるだろう。しかし、その人達だって一生食べずにいられるわけではない。いつかは空腹に襲われる。だから、私が、食べる物を入手する為に、コンビニに立ち寄ったことはなんら可笑しいことではない。ただ、誰もいないと思っていたコンビニの中から「いらっしゃいませ」という元気な挨拶が聞こえてきたことが私にとってイレギュラーだっただけだ。

「……どうかしたんすか?」

 青年は、驚きのあまり身体を硬直させている私のことを心配そうに見ている。

「い、いや、大丈夫」

 私は、自分があまりにも可笑しい格好をしていることをに気づき、慌てて取り繕った。

「そうっすか。安心したっす。こんな状況だから、なんかあったら大変っすからね」

「確かに……そうだね」

 青年の『なんかあったら大変っすからね』という言葉が、私にはとても愉快に感じられた。彼は、真剣に私のことを心配してくれたのだろうが、思わず「これ以上、なにがあるのかね?」と言いそうになってしまった。彼の格好が、私の感性からすると少々奇抜すぎたことも一因であると思うが……。

「お客さんは、近所の人なんっすか?」

「ああ……そうなんだが……しばらく単身赴任をしていたんだ」

 私は、言葉を濁した。

「そうなんっすか? あちゃ……実は、ここにあるのって、ほとんど近くの人がいなくなった家から持ってきた物なんすよ。もしかして、お客さんの家からも持ってきちゃったかもしれないっす。ごめんなさいっす」と青年は、そのツンツン尖った頭を掻きながら言った。

「いや、べつにいいよ。それに、君は、ここで商売をしているわけではないんだろ?」

「そっす。よくわかりましたね」

「それはわかるよ。君の言葉を借りるわけではないが、こんな状況下で商売しても意味がないだろう? もうお金なんて必要ないのだから……無論、君が、ここに来る人間に対してお金とは別の見返りを求めているのなら、それは『商売』になるんだろうが」

「あはは、別に見返りなんて求めていないっすよ。オレは、ただここで『店長』をしているだけっすから。品物を仕入れてきて、棚に並べ、そして、お客さんの相手をする。それだけっす」

「どうして『店長』なんてしてるんだい?」

「え……?」

 青年は、私の質問を聞くと表情を変えた。とても驚いているようだった。

「そんなことを聞いてきたのは、お客さんがはじめてっすよ」

「別に無理に詮索するつもりはないよ。ただ、少し気になったんでね」

「いいっすよ。実を言うと、オレも自分がどうして『店長』なんてやっているのかよく分からないんっす。ただ、気軽な気持ちで『やってみよう』と思っただけっすから。それに、そもそもここのコンビニでバイトしていたわけでもないっすからね」

 そう言うと青年は、笑顔が浮かべた。とてもいい笑顔だった。

 だから、私は、なんだか嬉しくなってしまった。ただ、その笑顔は、同時に私をひどく不安にさせた。理由は、わからない。

 ただ、『笑顔』を見ると不安になった。

 

   6

 

 日が暮れると、空に大きな月が浮かび上がった。

 満月だった。

 私は、最近よく見る夢を思い出していた。

 二週間高熱でうなされ続けた間、見続けていた夢だ。

 夜。

 満月。

 祭。

 洪水。

 母親。

 子供。

 様々な夢の断片が浮かんでは消えていく。

 しかし、それは、まるで、今この時、この場所で起きていることのように感じられた。

 夢が現実を侵食し始めているのか?

 それはいいことなのかもしれない。

 あれほど『良い夢』なら、この『悪夢』のような現実を喰らいつくして、『世界』を書き換えてくれた方がいい。もしそうなれば、私は、安心して眠ることができるだろう。

 私は、さっきコンビニで入手した寝袋を広げた。

 これまで色々な場所で一夜を明かしてきたが、図書館で明かすのは初めてだった。当然だ。普通の状況ならまずはできないことだ。

 結局、自分の家の中に入ることができなかった私は、手近で夜を明かすことができる場所を探した。そして、何度か利用したことがある区立図書館分館を見つけたのだ。図書館の中は、それほど荒れてはなく、むしろ整然とした印象を受けた。しかも、現在も利用されているような雰囲気さえあった。

 コンビニの青年の話では、まだこの街には数人の生存者がいるらしい。しかし、一日中街を彷徨っても、私は、その生存者達に会うことができなかった。この五年間、人とのつながりを忌避してきた私が、今更人を求め歩くというのも笑える話だった。しかし、私は、自らの命が尽きようとしている今になって、無性に人と会いたくなった。

 

 本当にひどく笑える話だった。

   7

 また、夢を見た。

 しかし、今度は、『良い夢』ではなかった。

 では、『悪夢』か?

 それも違う……と思う。

 昔の夢だった。

 まだ、私がこの街に住んでいた頃の夢だ。

 妻がいて……娘がいる。

 しっかりとした仕事と家がある。

 幸せだった。

 とても幸せだった。

 私は、世に言う一流大学を出て最大手の都市銀行に入行した者にとっては、平均的かそれより少し上の生活だったと思う。銀行の創業者一族の係累である妻とは見合い結婚だったが、私は、妻のことを愛していたし、妻の方も私のことを愛してくれていた。

 仕事の方も同期の連中の中では最も期待されていたという自負がある。それを裏付けるだけの責任がある仕事を任されていたし、将来の頭取と半ば本気の冗談が言われることなんて日常だった。

 私の人生は、エリートという言葉がそのまま当てはまるようなものだった。

 しかし、私は、そこから転がり落ちた……見事に。

 そして、今の私がある。

 もう、妻は死んでしまったのだろうか……?

 家の中からは人がいる気配はしなかったが、現在も人が出入りしている痕跡はあった。あのコンビ二青年が『仕入れ』の為に家の中に入っただけかもしれない。しかし、私は、その痕跡を見つけただけで身体を動かせなくなってしまった。

 私は、恐怖したのだ。

 

 彼女からの侮蔑の言葉を……私を蔑む彼女の目を……そして、何より、

 

 彼女の笑顔を……。

 

 それらを想像しただけで、身体が動かなくなってしまった。

 だから、

 私は、

「……」

 ーーすまない。

 

   8

 夜が明けると、私は、図書館を出た。

 朝の冷たい空気があまりに心地よくて、今、私が歩いている世界が、ひどく残酷なものであることを忘れてしまう。これから、電車に乗って銀行へ出勤するような馬鹿げた妄想に取り付かれる程だ。

 かつては見慣れた街の風景が、私から現実感を奪っていく。

 妻がいて、娘がいた時間へ私を戻していく。

 この醜悪な感覚に身が震えた。

「お父さん、欲しい本があるの」

 はじめて娘が、自分から欲しいものを言ったのは、朝一緒に駅へ向かって歩いている……つまり、このような状況だった。

「どんな本が欲しいんだい?」

「題名は、知らないの……でも本の内容ならわかるよ。一日一日を大切に生きている女の子が主人公のお話……その女の子は、夜寝る前に、お空に向かって願い事をするんだよ」

「面白そうなお話だね。その主人公の女の子は、どんな願い事をするんだい?」

「『明日も特別な一日になりますように』って」

 そう言って微笑んだ娘の顔を、私は、忘れることができない。逃亡者となってからは、まるで私の罪の象徴であるかのように、その笑顔は私を苛んだ。

 

「お父さん、欲しい本があるの」

 結局、私は、その本を見つけることができなかった。様々な人達に尋ね、そして、自分が持っている全ての手段を使って探したのに、私は、その娘のささやかな願いをかなえてあげることができなかった。

 もっとも、現物が見つからなかっただけで、その本の題名や装丁は知ることができた。なかなか綺麗な空色の装丁で、青空をバックに小さな女の子が目を閉じて祈っている姿が描かれていた。そして、題名は……

 

 思い出せなかった。

 

 どうしてだ?

 確かに私は、その本の題名を知ることができたはずだ……それなのにすっかり忘れてしまっている。

 急に、私は、恐くなった。

 ぐらぐらする。

 足下がぐらぐらする。

 この街のように、私も何か欠落してしまっているのだろうか?

 かつて私を構成していたものが、今の私にはないとでもいうのだろうか?

 

「お父さん、欲しい本があるの」

 わからない……。

 全てが曖昧になっていく……いや、はっきりとしていく。

 わからない……。

 かつての私の姿を……今の私に欠けているものをはっきりとさせていく。

 わからない……。

 それは、なんだ?

 わからない……。

 それは、恐ろしいものか?

 わからない……。

 それは、まだ私を追ってくるのか?

 わからない……。

 

「お父さん、欲しい本があるの」

 ……わかった……ような気がした。

   9

 私は、自らの罪と向かい合う。

 かつて、私が作り上げ、そして守ってきた場所で……。

 そこには、なんら偽りはない。

 全てが真実だ。

 

 私は、自らの罪と向かい合う。

 かつて、私が作り上げ、そして守ってきた場所で……。

 そこには、なんら偽りはない。

 全てが真実だ……ただ、欠落があるにすぎない。

 

 私は、自らの罪と向かい合う。

 かつて、私が作り上げ、そして守り……そして、切り捨てた場所で……。

 そこには、なんら偽りはない。

 全てが真実で、欠落もない。

 

 私は、彼女を捨てた……。

 

 それこそが私の罪。

 そして、その罪の象徴である彼女が、今、私の目の前で横たわり……腐り果てようとしている。だから、私は、

 

「……彩夏」と、彼女……娘の名前を口にした。

 

 かつて私は、自分の人生は、なんの欠落もなく進んでいくものだと思っていた。

 責任のある仕事。

 それに見合う社会的地位。

 安定した家庭。

 それに必要な妻と子供。

 そう……私の人生にはなんら欠落はなかった……あの日……私の娘彩夏が、男に犯され、そして、ゴミ捨て場に放置された日までは。

 安定した家庭は、不安定なものになった。

 娘は、犯罪の被害者となり、妻は、狂った……そして、私の人生に欠落が生じた。

 私は、その欠落を許すことができなかった。

 だから、娘を犯した男を憎んだ……いや、それ以上に、なお私の人生の欠落として存在し続ける娘を疎ましく感じた。彩夏さえいなければ、私の人生は完璧だったのだ。妻が狂ってしまったのも、彩夏が犯罪の被害者になったからだ。

 全ては、彩夏が悪い。

 全ては、彩夏のせいだ。

 全ては……そう……私は、娘のことよりも自分の体面の方を心配していたのだ。

 傲慢。

 傲慢。

 傲慢。

 最低な父親。

 最低な夫。

 最低な男。

 私は、自分の欠落となった娘を自分の視界から消した。そして、全ての憎しみは、娘を犯した男へ向かった。私は、娘を汚された父親としてではなく、私の人生に欠落を生じさせた恨みとして男を殺したのだ。

「……彩夏、キミは、そんな父親のことをどう思っていたんだい?」

 私は、自分のベッドの上で静かに眠り、腐り果てていく娘に問い掛けた。

 あれから五年の月日が流れた。

 私が、逃亡者として流浪していた間も、彩夏は、逃げずにしっかりとこの街で生きていた。他人に貶められ、親に見捨てられても、彩夏は、しっかりと生きていた……私とは違う。まるで違う。

 

 私は、本来的に欠落していた人間だった……。

 

 しかも、人間としておそらく一番大切なものを……欠落している。その証拠に、娘と再会した今この時でさえも、私は、涙を出すことができない。それよりも、自分が娘にどう思われていたということを心配している。

 体面。

 体面。

 体面。

 なんという薄っぺらい人間。

 なんという醜悪な人間。

「ああ……ようやくわかったよ……私が何から逃げたかったのか……」

   10

 私は、図書館へ帰る為に歩いていた。

 自分の家を出て、図書館へ”帰る”というのは、ひどく滑稽なことをだと思う。しかし、あの家は、私がいて良い場所ではない。

 彩夏がいる。

 私がいるわけにはいかない。

 もうこの街で私のすることは一つもなかった。

 だから、無意味に時間を潰している。

 さっき帰りがけにあのコンビニに寄ってみたが、『店長』の青年の姿はなかった。

 彼は、どこかに行ってしまっていた。

 まあ、どうでもいいことだ……私には、何の関係もない。

 どうせ、みんな死ぬ。

 私も死ぬ。

 誰一人、この空の下にはいなくなる。

 誰一人として、この空を見上げることできなくなる。

 だから、そうなる前に、

 私は、空を見上げた。

 

 どこまでも赤く、赤く染まった空が広がっていた。

 

 私は、右手を空に向かって伸ばしてみた。

 意味はない。

 ただ伸ばしてみたかっただけだ。

 彩夏が言っていたあの本の主人公の少女は、毎晩空に向かって明日の『特別な一日』を願うらしい。それを彩夏から聞いたとき、私は、正直言ってなんとも思わなかった。しかし、今になって、それはとても素晴らしいことだというのがわかる。かけがえのない『特別な一日』……そんな日が、毎日続くことを願うのだ。こんな素晴らしいことが他にあるはずがない。

 

 だから、彩夏は、あんなにまっすぐな笑顔を私に向けることができたんだ。

 

 彩夏の笑顔。

 娘の笑顔。

 なんの欠落もないまっすぐな笑顔。

 私の欠けている部分を浮かびあがらせるような笑顔。

 その笑顔が、私を苛み続けてきた。

 自分が死ぬほどひどい目にあっても彩夏は、笑顔を失わなわなかった。

 本当に……本当に強い子だった。

 私なんて足下にも及ばないぐらい強い子だった。

 私は、娘が……彩夏が怖かった……恐ろしかった。

 

 だから……私は、彩夏の笑顔から逃げ出した……。

 

 そして、私は、最後まで逃げ続ける。

 『逃亡者』として死ぬ。

 そんな結末が、欠落した私にはふさわしい。

怖い話投稿:ホラーテラー Fさん  

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