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長編15
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今日が何月何日何曜日か、今が何時ころなのか、おそらく妻・ヨーコはわかっていなかっただろう。いや、わかりたくなかったのだ… 

自宅にあるすべての時計、カレンダーを壁からはずし、お互いの携帯電話も段ボール箱に入れ布テープで封印、物入れの奥にしまい込んだ。物入れの鍵はヨーコが持った。雨戸も閉め切り、固定電話、テレビ、パソコン、インターホンの電源も切った。

私とヨーコは一日中陽を浴びることなく、外に一歩も出ず家に引きこもった。

悪霊が今そこにいる…

ヨーコは私と同じ高校の一年後輩にあたり、ともに演劇部に所属していた。今さら照れくさい話だが、私達3年生最後の文化祭で、「バック・ビート」という青春ラブストーリーの主役を後輩のヨーコが、私が相手役を務めたわけだ。

だが、私らはそれをきっかけに交際し、結婚までこぎ着けたわけではない。むしろ当時、ヨーコとは部活動だけの付き合いで、それ以外の交流はまったくなかったし、もちろん異性を感じることもなかった。

ヨーコの高校時代といったら、地味でもの静か、そして閉鎖的。いつも黒髪をポニーテールにして、銀縁の丸眼鏡、その奥の瞳には力が感じられなかった。

そう、とても閉鎖的だった。私はヨーコが誰かと一緒にいるところを見た記憶がなかった。時々、本を読みながら歩いているところを見かけたが、声なんかかけられなかった。当時のヨーコについた渾名は『たまちゃん』アニメ・ちびま○こちゃんに出てくるそれだ。後にわかったことだが、ヨーコは周りなど見ていなかった。唯一の友は小説だった。男子生徒などに全く興味はなかったどころか、同性にも心許せる相手はいなかったようだ。

しかし、そんなヨーコに芝居をさせたらそのイメージは一変した。どこで練習したのかと思えるような声の張り、豊かな表情、そして躍動感と存在感…

とても普段の様子からは想像すらできないほどだった。

当然顧問はヨーコを主役に抜擢した。まあ、高校生のやる演劇と言ってしまえばそれまでだが、主役が決まるとヨーコは他の誰よりもその役にのめり込んだ。

平気で黒髪をバッサリと切り、主役そっくりの超ショートヘアにした。文化祭では、ヨーコの高校生離れした物おじしない演技とその迫力に講堂内が一種異様な雰囲気に包まれたが、私たちは今まで経験したこともない喝采を頂戴した。

そして、主役がどのクラスの誰だったのか、最後まで気がつかなかった生徒が数多くいた。

一躍ヨーコは学園内で有名人になったが、文化祭終了後、ヨーコは何もなかったかのように、普段通り閉鎖的で地味な女子高生へと戻っていた。

そんなヨーコは私の中で一目置く存在になった。しかし、同時に異様なイメージを植え付けられたまま私は卒業した。

私はその後上京し、四年間の大学生活を経て上場企業に就職した。入社時は希望に胸を膨らませていたが、十年間でその膨らみは見事に萎んだ。

得意先の倒産による営業成績の低迷、交通事故による長期休暇、身に覚えのない同僚からの讒言、昇進の遅れ、恋人の裏切り… 数え上げれば両手で足りないほどの不運が私を襲った。

『不運の根源は自分自身にある… 』私は自分にそう言い聞かせながら、前向きに生きようと思った。そんな矢先、父親が急死した。父は私のことを誰よりも心配してくれていた。同じ社会人として親身になって助言してくれていた。いい年をして情けないことだが、父は私の精神的支えだった。

私はどうして生きて行けばよいのかわからなくなり、会社へ足が向かなくなった。やがて私はずる休みをするようになり、それが無断欠勤へと増長し、遂には会社を退職することになった。

『お前は負け犬だ。自業自得だ…』と、誰かの声が一日中耳鳴りのように聞こえ、食事も摂れず、夜も眠れなくなっていった。

ある日のこと、アパートのチャイムが鳴り続き、しまいには、ドンドン… と強くドアをたたかれた。重い体を起こしドアを開けると、母親と伯父が立っていた。

母は私の死人のような情けない表情を見て、オイオイ泣き出したかと思うと、

「なに!この部屋の臭いは!このダメ男!」

と、吐き捨てるように怒鳴ったと同時に、渾身の力を込めて私の頬を平手打ちした。

母は優かった父とは対極にいる人で、一人息子の私に対して手厳しく、私が幼少のころから、不条理なことが起こる度に容赦なく鉄拳を振るう。『男は早く自立しなさい』が、母の口癖だ。

私は業を煮やした母や親戚の勧めで地元に帰り、しばらく養生することになった。そんなとき、実家から一つ向こうの駅ビルに小さなカウンセリングルームがあることを知った。そこで臨床心理士として勤務していたのが、ヨーコだったのだ。

担当の心理士です、とヨーコが現れたとき私はしばらく気がつかなかった。それもそのはず、私はここに来るだけでも体の震えと息苦しさが治まらず、ほうほうの体でたどり着いていたからだ。

「トキワさんですよね? 私です… サイトウヨーコです… 」

ヨーコは大きく目を見開いて、ニッコリ微笑んで私の腕をつかんで揺すった。

『こんな情けない姿を後輩に見られてしまった… もっと遠い場所で診てもらえばよかった… 』

突然の出来事に私はしどろもどろになり、悪寒と震えが増悪した。

私はヨーコとの初めてのカウンセリングでうつむいたまま何も話すことができなかったが、これがヨーコとの運命的再会になろうとは知るはずもなかった。

私は二回目のカウンセリングに行くことがはばかられたが、息子を叱咤する母への恐怖心と、焦る自分自身から背中を押され、苦しみをおしてカウンセリングルームへと向かった。

カウンセリングルームでのヨーコは落ち着いていた。相変わらず黒髪を後ろに束ね、服装も地味で垢抜けた感はないが、薄化粧をして眼鏡をはずした顔、すらりとした細身の体型が清楚に映った。

そして何よりも、ヨーコの微笑みが私に安堵感を与えた。その笑顔は高校時代のヨーコの暗いイメージとはあまりにもかけ離れていた。

私はヨーコの指示通り、幼少期から現在までの自分を包み隠さず、すべてを話した。いや、ヨーコだから話すことができたといったほうが適切だろう。ヨーコはすべてを受け入れてくれたし、ニッコリ微笑んで励ましてくれた。

ヨーコとのカウンセリングを重ねるうちに半年が過ぎようとしていた。

私は徐々に本来の自分自身を取り戻すまでに回復していて、近所のスーパーでアルバイトしながら、職探しを始められるまでになった。すべてヨーコのお陰だった。

私はこのころからヨーコを一人の女性として意識するようになっていた。そして、一緒に食事やドライブを楽しむうちに、私たちは交際するようになった。

「トキワさんは大人になってもいい先輩ね。高校時代、私を変えてくれた… 」

「え!? 俺が?何で… ?」

「きっと、私のこと眼中になかったから憶えてないだけよ。先輩はね、私にね…」

「なに? 気になるな…」

「サイトウ!恐れるものなど何もない。お前が主役なんだ。観客はみなジャガイモだと思え!って。なんか、お父さんみたいだった… 」

「そ、そうだっけか… 」

「フフフ… やっぱり憶えてないのね。でも、先輩が元気になってほんとによかった。私も嬉しい…」

私はこの時のヨーコの、この言葉、この時の表情を見て、ヨーコを死ぬまで大切にする、守ってやると心に誓った。

私は運良く、中堅だが地元の企業に就職することができた。私は目の前の門が開き、進むべき道を照らす光を見たような気がした。

交際から半年で、私とヨーコは入籍した。結婚式は二人だけで挙げた。それがヨーコの希望だったからだ。

「あなたは友達とかいっぱい招待したいだろうけど、本当にごめんね。」

私はそんな地味で常に控えめなヨーコの性格に心底惚れ込んでいた。

新居はヨーコの勤め先の駅から歩いて15分程度の場所に一軒家を借りた。新居の斜め前にも同じ造りの空き家があった。

新婚生活から一週間も経たないある日のこと、私が自宅に帰るとヨーコは怪訝な表情を浮かべていた。ヨーコのそんな暗い表情を見たのは高校以来のことだ。

「お向かえの家って、空き家だったよね… ?」

「あぁ… そうだよ。なんで?」

「いつの間にか誰か入居してるみたい… 」

「え、ほんと…? いつの間に… 」

「わかんない… 今日かなぁ… ? 女の人がね… 窓側にたたずんでて、目が合ったから愛想良く頭下げたつもりなんだけど… 無視されちゃった… その後ろでね、子供が飛び跳ねてるように見えたよ。」

「え… !? じゃあ、入居したんじゃないか… ? 」

その夜、私らは向かえの家の様子を窓からうかがった。すでにすべての雨戸が閉まっていて、人の気配をうかがい知ることはできなかった。

次の日もまた次の日も、女性が現れてこちらをジッと見つめていると、ヨーコは私に話した。女性はヨーコが仕事から戻ってカーテンを閉めようとする夕刻、つまりいつも同じ時間帯にたたずんでいるという。そして、必ず後ろで子供が飛び跳ねているというのだ。

そして… 

その日は日曜日だった。朝起きてカーテンを開けると、向かえの家の窓が開けられていて、数名の男達の出入りが垣間見えた。

「………」

ヨーコは朝食の準備をしていた。私はさっき見た光景を怪訝に思いながらも、あまり気にしないように新聞を見ていた。

キンコーン… 玄関のインターホンが鳴った。

「おはようございます!向かえに越してきました、ヤマモトと申します。朝早くから恐縮ですが、ご挨拶にうかがいました!」

男性の声が聞こえ、モニターに若い男女が映っていた。私たちは目を見合わせ、ヨーコは慌てて玄関に出て行こうとしたが、私はそれを制し、代わりに玄関のドアを開けた。

「おはようございます!朝早くからうるさくしてスミマセン!向かえに越してきましたヤマモトと申します。私たち結婚したばかりで、未熟者同士です。ご迷惑おかけすることもあるかも知れませんが、トキワさん、今後ともどうぞよろしくお願いいたします!」

30歳くらいだろうか… 引っ越してきたヤマモトという男性はさわやかにあいさつした。赤いトレーナーとジーンズがよく似合っていた。控えめに後ろに立っていたのは奥さんであろう、ショートカットの女性がはにかみながら私にペコリと頭を下げた。

「ト、トキワです… ど、どうぞよろしく… 」

私はさわやかなあいさつを台無しにしてはいけないと思い、懸命に笑顔をつくったが、明らかに動揺していた。ヤマモト氏の手みやげを震える手で頂戴したが、動揺のあまりそれを落としそうになった。

ヨーコはキッチンで立ちすくんでいた。高校時代の暗い表情をまた見てしまった。そして、独り言のように呟いた。

「あの女の人じゃない… なんで… ? どういうこと… ?」

「ヨ、ヨーコ… 大丈夫… 」

私はそんなヨーコの表情を横目に、思わず不動産屋に電話をかけた。

不動産屋に何度も確認したが、答えは同じだった。今日ヤマモト氏が引っ越すまでの間、向かえの家は確実に空き家だった… 

その日以来、ヨーコは口数が少なく、食事にもほとんど手をつけなくなった。

ある日ヨーコは、寸分たりとも時間を感じたくないと言い出し、家中にあるカレンダー、時計、携帯電話すべてを取っ払うよう、私に哀願した。

そして異変は突然起こった。

ヨーコは、

「こないで、こないで、こないで、こないで、こないで!ギャー!」

と、髪の毛を振り乱し、狂ったように叫び始めたのだ。

着衣をすべて脱ぎ捨て、地団駄を踏んだかと思えば、失禁しながらドンドン… と、足底を床に叩き付けるように歩き回った。私が近づこうとすれば、ヨーコはカッと血走った目を見開き、

「来るな!てめぇ… 死ね! 」

と罵声を浴びせる。ヨーコの顔色がうす紫色に変化し、眉間に深いしわが現れ、眼球が真っ赤に充血し、その横顔に静脈が浮き出ているのを私は見た。私は恐怖のあまり思わず尻餅をついた。今一体何が起こっているのか、これは現実なのか、夢なのか…

私が慌てて汚れた床を拭いている時だった。頭に強い衝撃を覚えた。ヨーコが大皿で私を殴りつけたのだ。私はあまりの痛みに頭を押さえながら、のたうち回った。だが、私は心の中で決めていた。

『どんなことがあろうと、ヨーコは俺が守る。絶対に逃げてはいけない…』

ヨーコはそんな私に目もくれず、テーブルの上の花瓶、棚の中の食器をすべて床に叩き付けて割り始めた。床に落ちても割れなかった食器は私に投げつけた。

さすがに、このままだったら私が殺される… 私が殺されたら、ヨーコを守れない… 私は思わず匍匐前進しながら玄関に置いてあった野球用のヘルメットを被った。そして、押し入れからマットを取り出し、ヨーコの狂乱に備えた。

少し静まったかと思いきや、ヨーコは、いつの間にかシクシクと泣いていた。

「私、どうしたの? なにやってんの… アーッ…! 」

ヨーコは真夏にもかかわらず毛布を被り、今度は大声をあげて泣き出した。私は震える声を押し殺し、

「ヨーコ… そっちに行ってもいいかな?」

と訊きながら、激しく痛む頭を押さえて立ち上がった。

「うん… お願い!私を助けて… 」

ヨーコの顔に徐々に赤みがさしだした。

「今何をしてほしい?俺に何ができる?何か欲しい物あるか?」

「何もいらないよ。近くにいてくれたらそれでいい…」

「疲れただろ… 少し眠りなよ。」

「ありがとう… 」

私は静かになったヨーコを抱きかかえ、二階の寝室に連れて行った。

ヨーコはさっきの狂乱が嘘のように、寝息を立てて眠り始めた。

私は保冷剤で頭を冷やしながら、ヨーコに添い寝した。おそらく、このままでは済まされない、このまま終わらないと感じながら…

案の定、ヨーコの狂乱と静寂はその後交互に現れた。ヨーコは形ある物はすべて破壊しようとした。閉め切った部屋には悪臭が漂っていた。私の忍耐も限界に達していたが、冷静になることしか考えていなかった。そもそもなぜこのようなことが起こったのか… ?

まず、向かえの家にさまよう女性の霊がヨーコに憑依し、苦しめていることが考えられる。だが、それだけだろうか… なぜヨーコに憑依したのか?憑依される原因が何かあったのではないだろうか?ヨーコの遠い過去に何かがあったのか?私はカウンセリングで、過去の苦しみや悲しみをヨーコに暴露することで救われたと思う。

私はカウンセラーでも何でもないが、ヨーコに同じことをしてやることが必要ではないのか…

私はまず父を祀る小さな仏壇に線香を焚いた。そして塩を家中にまき、水をいれたグラスをすべての部屋に置いた。

部屋中にお香の匂いが漂って、落ち着いた気分になった。私は父の遺影に向かって合掌した。

そして、眠るヨーコのそばに行こうと振り向き、立ち上がろうとした時だった。

そこには黒髪をだらりとたらし、口を半開きにしたヨーコが立っていたのだ。金属バットを持って… 

間一髪だった。ヨーコは渾身の力を込めて、私の頭部めがけバットを振り下ろした。私はそれよりも一瞬早く仏壇の灰をヨーコの顔めがけて投げつけていた。バットはわずかに私の肩をかすめ、仏壇を直撃した。父の遺影のカバーガラスが砕け散り、フレームごと畳の上に落ちた。

ヨーコはゴホゴホと激しく咳き込み、喉元を掻きむしってギャーと叫んで苦しがった。そして、丸太のように仰向けのまま倒れた。

私はしばらく立ちすくんでいたが、父の遺影を無惨に壊れたフレームから取り出し、胸ポケットにしまった。そして、ヨーコに毛布を掛けた。

ヨーコは気を失っていたが、

「お父さん…お父さん…お父さん…  痛いよう…痛いよう…痛いよう… 」

と幼女のようなうわ言を口から漏らしていた。

その時を境にヨーコは落ち着きを見せ始めた。

ヨーコは少しずつだが、食事がとれるようになった。

(あなたへ)

漆が丘公園は私の憩いの場。家では今日も意地悪なお母さんが子供達に勉強を教える。理不尽な母… 父の浮気の腹いせを私にぶつける。怒鳴られて… 叩かれて… そして絞められる… あぁ… 思い出しただけで息ができなくなる… 苦しい… 私が何をしたっていうの… ? 

『ヨーコ、勉強なさい。勉強していい学校に入って、先生になりなさい。医者、薬剤師、教師、学者、弁護士… 何でもいいの。立派な先生になるの… それがあなたの進む道。お母さんのお願いを叶えてね… 』

お母さんの台詞はそればっかり… でも、逆らえない… 恐いお母さん…

でもこうして今日もここへ来ることができた。 鬱蒼とした木々の中、真っ赤な山つつじが私を歓迎する。私はここで、誰もいないここで、私の心に立ちこもった悪鬼の息を吐き出すの…

「ああ!お前はその口に口づけさせてくれなかったね、ヨ○カーン。さあ!今こそ、その口づけを。この歯で噛んでやる、熟れた木の実を噛むように。そうするとも、あたしはお前の口に口づけするよ、ヨ○カーン」(ワイルド 福田恒存訳『サロメ』)

私はサロメになりきる。至福の時が訪れる… 毛穴が開き、髪が一斉に起き上がる… 首から上が仄かにしびれる… 体の力が抜ける… 水の中のように視野がぼやけ、唇がわずかに開き、呼吸が整う… 

その場にへたり込みそうになるほどの快感が私を包んだ時、強い力が私にかかった。生臭い息を感じると同時に唇と鼻を、滑った分厚い手が塞いだ…

気がつけば家路に向かってひた走っていた。いったいどこに、いったい私のどこにこんな力が宿っていたのかと思う。男は私に何をしたの… 私は男に何をしたの… 数少ない街灯が灯り、民家から炊飯の匂いが漂っていた…

                             (ヨーコより)

メラメラと煙が立ち上り、炎は一瞬にして手記を灰にした。私の頭の中をヨーコの悲痛に歪む顔が現れては消える…

女子中学生のころに遭ったレイプ、そして堕児… 私は感電したようなショックを受けたが、ヨーコの前では平静を装ったつもりだ。ヨーコには私しかいないのだから… 

ヨーコは号泣していた。話せないことを知っていたから、すべてを手記にして私に打ち明けた。

ヨーコの母が唯一そのことを知っていたが、警察に届けることをかたくなに拒んだ。世間にばれることを恐れたからだ。

女子中学生のころからヨーコはそのトラウマと闘ってきた。それを支えたのが小説であり、戯曲だったそうだ。

エゴの固まりのような母親とも闘ったそうだ。自分のレイプ事件を世間に告白すると言えば、母親は幼児のように押し黙ったという。

 

向かえの家にたたずんでいた女は、きっと自分自身だとヨーコは言った。そして飛び跳ねていた子供は、ヨーコの中からこの世に出たかった… 飛び跳ねることで欲求を表現していたのだと…

私とヨーコは家の窓をすべて開け放ち、久々に太陽の光を浴びた。そして散歩に出かけた。サルスベリの紅の濃淡が美しかった。

猛暑だったが、ヨーコは何もなかったように穏やかな表情をしていた。たぶんすべてが一つになったのだろう。理由はわからない… 過保護だった私の父が救ってくれたのだ… 私はあえてそう思うことにした。

一週間後のこと。

私は幼なじみのマツキチと馴染みの居酒屋で飲んでいた。テレビがある男性の冤罪を大々的に伝えていた。マツキチが赤い顔をして、不用意に言い放った。

「あの漆が丘公園であった事件からもう20年か… 」

私は一瞬固まって、マツキチの顔を凝視した。

「タクシー運転手が殺されただろ。お前憶えてないのか?」

「………」

「まあ… 昔のことだからな。下半身丸裸で、頭を鈍器のような物で殴られてたんだよ。脳みそが飛び散るくらい殴られてた… たぶん女の犯行だろうけど、結局は迷宮入り… 時効だよ。」

「………」

「な、何だよぉ… 俺の顔さっきからジッと見て、何だよぉ… 言っとくけど、俺犯人じゃないぜ!」

私はマツキチと別れて、どうやって家に帰ったのか覚えていない。決して酔っぱらっていたわけではない。

気がつけば家のリビングにたたずんでいた。炊事をしていたヨーコが振り向いて、おかえりなさいと言った。

私は呆然と、隣の部屋にある父の遺影を見つめていた。

カタカタ… 軽い振動がした。

誰もいるはずないのに、二階の寝室のベッドが軋み、揺れているようだ。

ヨーコは鼻歌を歌いながら、食器を片付けている…

私は仏壇の灰と父の遺影を持って、寝室への階段をゆっくりと登った。

怖い話投稿:ホラーテラー トキワ荘さん  

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