目覚ましが鳴り夢の世界から現実に引き戻される。
二度寝の誘惑に耐え、重すぎる瞼と戦う。
私のいつもの日常。
最近はこれに憂鬱さが足された。
原因は仕事。
私の仕事は家庭教師。
最近割り当てられた生徒が憂鬱の元凶だった。
その生徒は精神に問題を抱えており、学校には通わずに私のような家庭教師から学び、身の回りの事は介護師がやっていた。
母親は何もしない。
ただイライラしながら煙草を吹かしたり、携帯を弄りながら酒を煽っている。
契約の時も、早くこの馬鹿が一人でやって行けるように教えてやってと、酒を片手に言っていた。
自分の子供に無関心で、人を見下すような目付の母親が嫌だったが仕事だからと、自分に言い聞かせた。
勉強を教えて驚いた。
とても家庭教師が必要とは思えない程に学力は高かった。
どんな心の悩みを抱えてるかは母親は言わなかった。ただ、殆ど口を開かなかった。
たまに口を開いたと思えば、暗く沈んだ声で一つ二つ単語を並べるだけ。
わかった
ここ くわしく
つぎ なに
正直言ってやりづらかった。
ちゃんと教えられているか疑問を持ちながら2ヶ月が過ぎた。
この頃から少し変化があった。
急に私の髪を触り……
かみ きれい
吃驚して手を振り払った。
しまったと思って、顔を見る。
目を細めて唇を噛んでいた。
ごめんねと言っても反応が無く、その日は口を開かなかった。
いくら吃驚したとはいえ、軽率だったと反省した。
ただ、その時にはっきりと言っておけば良かったと後悔した。
それからは毎回、私の髪を触り同じ言葉を呟くようになった。
嫌悪感までは感じないが、さすがに毎回となると鬱陶しく感じる。
触られぬように教える時は髪を縛った。
それに気付いたのか、髪を触られる事は無くなった。
その代わりに、距離を詰められた。
今まではテーブルを挟んで教えてたが横に来るようになった。
失敗したかなと思った。
予想通り失敗だった。
その日からは、細めた眼で私だけを見る様になった。
何を言っても私から視線を外さない。
これでは勉強にならない。我慢の限界が近付いて行く。
そして止めの出来事が起こった。
凄い勢いで私の顔に限界まで鼻を近付け匂いを嗅ぎ……
ひふ いいにおい
嫌悪感と寒気が一気に襲って来た。
我慢なんて出来なかった。
顔を押し退け部屋を出る。
母親に相談する為にリビングに向かう。
母親は相変わらず酒を飲んでいた。
今までの事を話す。
全く取り合ってくれない処か、呂律の回らない口で罵詈雑言を吐く。
そんなのも料金の内だ。
あんたの代わりなんていくらでも居る。
あんたは黙ってあの馬鹿に勉強だけ教えればいい。
嫌なら辞めろ。
悔しかった。
何故こんな事を言われなければいけない。
もう聞いてられないと踵を返し、少し乱暴にドアを開け驚いた。
限界まで眼を見開いた彼が立っていた。
母親の冷たい声が刺さる。
あら居たの。
この人もう来ないかもね。
根性無しが多くてイライラするわ。
そんな所に突っ立ってたら邪魔でしょ。
部屋に戻んな。
呆気に取られ動けない私を横目に、彼は唇を噛みながら部屋に戻って行った。
私も足早に家を出た。
普段は飲まないお酒を買って帰路に着く。
ビール片手に考える。
ここで辞めたら私の敗けだ。
酔いの勢いに任せ前向きになって行く。
敗けるもんかと決意しベッドに潜り込んだ。
目覚ましが鳴り響く。
寝る前の勢いは影を潜めている。
いつもの憂鬱な目覚め。
今日も帰りにお酒買おうかなと苦笑いしながらベッドから体を起こした。
重い足を動かし家の前まで着いた。
深呼吸を一つしてインターホンを押す。
暫く待ってみたが、反応は何も無かった。
いつもなら、不機嫌そうな母親の声で入れと返ってくる。
もう一度、押してみる。
返って来るのは沈黙だけだった。
酔っ払って寝てるのかなと思い、どうするか考えた時にインターホンが答えをくれた。
あいてる
彼の声だった。
少しの違和感を感じたが、ドアを開けた。
開けた瞬間に、変な匂いが鼻を衝いた。
玄関には彼が立っていた。
挨拶をして、今日はお母さんはどうしたんですかと聞いて彼は笑顔を見せた。
笑ってるのを初めて見た気がする。
凄く爽やかな感じがして、私も口元が緩んだ。
今日は母親が居ないから機嫌が良いのかなと思った。
靴を脱ぎ入ろうとすると彼の言葉に動けなくなった。
けっこん したい
え?
結婚……?
固まってしまう私。
なんとなく彼の行動から気持ちには気付いていた。
だから今日は、その事をちゃんと言おうと考えていた。
もっと早くに諦めさせるべきだった。
溜め息を吐きながら、覚悟を決めた。
今日はその事で話があるからと告げ家に入ろうとするが、彼が動かず入れてくれない。
けっこん したい
だからね、お話をしようねと言っても彼は動かない。困った私は母親に何とかしてもらう為に母親の携帯に電話を掛けた。
リビングの方から音が鳴った。
携帯を片手に彼に聞いてみる。
お母さん居るのかな。
寝てるのかな。
彼からの答えは……
けっこん したい
もう埒が開かないと意を決し、彼を少し押し退けて母親が寝てると思われるリビングに向かいドアを開けた。
開けた瞬間に、鼻には異臭が眼には赤黒い色が飛び込んで来た。
息が止まる。
リビングの真ん中には、血まみれの母親が仰向けに倒れていた。
怖い。
初めて見た光景に歯がカチカチと音を立て膝が震えた。
恐怖に震えながら、ある事に気が付いた。
彼がさっき言っていたのは……血痕……死体……
振り返る。
彼が不気味な笑みを浮かべながら近付いてきた……
了
怖い話投稿:ホラーテラー 月凪さん
作者怖話