弟は三つの時、たまにいなくなった。
臆病者で一人では外で遊ぶ事が出来ないクセに、ふと目を離した隙にどこかへ行ってしまう事があった。
そういう時は決まって、裏山の一本松の下で見つかる。
探しに行くのはいつも私だった。
晩飯の前、黄昏時に坂道を登っていく。
さして大きくも美しくもない一本松が、上から段々と現れてきて、その根元に弟が立っているのを見つける。
そこは小高く、開けていて、その松の木以外は何もめぼしい物は無い。
そんな場所で、普段は臆病な弟が、泣きもせず、笑いもせず、たった一本立つ松を眺めるでもなく、あらぬ空中を見つめてただ立っているのを夕闇の薄暗さの中に見つけると、薄ら寒い気がしたものだった。
一体何をしていたのか、と詰ると、聞いているのかいないのか、
「おうちへ帰る」
とだけ答えた。
そんな事が何度か続いて、私は弟が段々と、何か気味悪いものの様に思えてきていた。
ある日学校から帰ると、弟が裏山へと歩いて行く所を見つけた。
今日こそ何をしているのか突き止め様と思い、玄関に鞄を放り投げ、後をつけた。
さして長くもない、雑木林の中を通る坂道を登って、一本松の開けた場所へと迷い様も無く弟が向かうのが見える。
気付かれない程度に距離を空け、後をつける。
坂を登りきった弟は見えなくなったが、一本松以外に行き場所など無いだろう。
やがていつもの様に、松が上から露わになってくる。
違和感を感じた。
幼い弟の頭が見えて来るより先に、もう一本黒い松の枝の様な物が見えて来る。
人の様な灌木の様な、陰の様な物体だった。
それが、風とは関係無く揺れていた。
弟とそれは、松の下で向かい合って立っている。
気味悪さを抑えながら、私は隠れて様子を窺う。
弟はいつもの様に、泣いても笑ってもいず、それが揺れるのを眺めていた。
ふと耳を澄ますと、何かボソボソと声が聞こえる。
「…おいしいか…うれしいか…」
口もどこにあるのか分からないが、黒いそれがしきりに何か言っている様だった。
「…うちのこに…なるか…」
そう聞こえたのを合図に、私は勇気を振り絞って走り出て、拾った石をそれに投げつける。当たった感触があった。
怯んだ様子に勢いづいた私は、突進する様にそれを蹴り飛ばした。
地面に転がった黒いそれは、明らかに弱りながらも、まだ
「…うちのこに…」
と、呟いている。
弟は、うずくまっている様子で蠢き呟くそれを確かに見ながら、泣きも笑いもせずこう言った。
「おうちへ帰る」
その言葉を聞いてか、黒いそれはズルズルと這いずりながら、雑木林へ消えて言った。
私は何故だかその化け物の後ろ姿が酷く哀れに思えた。
痛めつけてしまったせいもある。
だが去って行くその後ろ姿は、もっと本質的な悲しさを孕んでいる気がしたからだ。
感情の伺えない弟の目に何を見せ、何を聞かせていたのかは、私には分かり得ない。
だがきっとあの化け物は、弟がいなくなる度に現れて、そして毎度拒まれて去っていく。今までも何度となく繰り返して来たのだ。
後ろ姿が、何故かそう確信させた。
いつの間にか夕暮れが訪れているのに気付き、気味悪さより寂しさが勝っているのを感じた。
やがて弟は普通の子供に成長し、突然いなくなる様な事もなくなった。
怖い話投稿:ホラーテラー みさぐちさん
作者怖話