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中編7
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上弦の月 

僕の実家は床屋だった。僕はそこの長男として四十数年前に生まれた。

あるときを境に、親父の跡を継いで床屋になりたくない、そんな意識が芽生えだした。いつからなのかはっきりしない。

勉強して大学に入って、いい会社に就職して、安定した幸せな人生を送りたい。僕はそんな漠然とした将来を思い描くようになっていた。

今から考えると、プッと吹き出してしまいそうになる。所詮、床屋の子だからたかがしれていた。学校では僕の頭脳はいつも空回りしていて、気がつけば、高校を卒業して大工になっていた。

不思議なことに、親父は長男である僕に俺の跡を継げとは一言も言わなかった。

お前には向いてない −−−−−−

親父が僕に言ったのはその一言だ。

そして、親父の跡は弟が継いだ。

今日も仕事の帰り、コンビニに寄っておつりを募金し、手を合わせる。

被災した人たちは今ごろ何を思っているだろう。今年の新年を迎えた時、数ヶ月後の今を想像していただろうか?

がんばれ日本。

僕にはそんなこと言える勇気も資格もない。

薄暗い家路への道すがら、自分の無力感、存在感の軽さを嘆きたくなって、全身の血が寒天のように固まりそうな意識の中、突然呼吸が苦しくなった。

僕も被災者の子孫だからかも知れない。

つらくなって、苦しくなって思わず立ち止まる。

近所の床屋から明かりが漏れているのに、サインボールは止まっていた。サインボールは回っていないのだ。

止まったままのサインボールに僕は目を凝らした。遠い昔の出来事がよみがえる。

いつも学校から帰ると、店のサインボールは表情も変えずにクルクルと回っていた。それを見る度に僕はひどく疲れて、不機嫌になった。

店では親父が瞬きもせずお客さんの髪に櫛を当てて、計ったようなリズムで鋏を動かしていた。そして決して家では見せない笑顔を浮かべながら、お袋はお客さんの世間話のお相手をしていた。

僕は自分だけに聞こえるように舌打ちし、アンドロイドみたいだと呟いた。

ただいまも言わず奥の部屋に入って、冷蔵庫からコーラを取り出し、一気飲みする。程よい甘みと刺激、少し大人びた香りが鼻から抜けて、僕の中にたまった灰色の空気も一緒に抜くことができた。

背中を小突かれ、思わず振り向くとお袋が僕をキッと睨みつけ、また店へと戻って行く。

唯一の楽しみと言えば、友達が店によくきてくれたこと。僕は友達の散髪が終わるのを待つと、逃げるようにつるんでゲームセンターへと足早に出かける。

お袋はすべて見通していたから、その度に僕をキッと睨みつけた。そして、散髪を終えた友達に向かって、陽を浴びた真夏の向日葵のような笑顔で、いつもありがとうねと言った。

そんな思春期のひねくれた、極々ありふれた毎日だった。このころはまだ、僕の脳みそのほんの一部分で、来る日も来る日も他人の髪を触る親父の姿と、未来の自分を重ね合わせていたように思う。

床屋にはなりたくない。決定打が生まれたのはいつのことだったか。

僕は年の離れた弟を、まるで生まれたての子猫のように可愛がった。弟はいつも髪を丸坊主にしていた。親父がバリカンの電源を入れると、いつも嫌だと言って泣きじゃくった。

金切り声で泣く弟はうるさかったが、僕はいつも弟をあやして慰めた。

弟は夜中に一人でトイレに行けなかった。いつも僕が起こされ、弟に付き添った。

トイレは階段を下ってすぐ右手に、カーテンを隔てたすぐ横には店があった。

そして、そんなある日、真夜中のことだった。

いつものように弟の用足しに付き添った。階段の窓から三日月が鋭く光っていた。

その夜に限って明かりも着いていないのに、なぜか店に誰かがいる気配がした。

僕は弟が用を足している間、カーテンの隙間から店をのぞいた。

店には入り口のカーテンの隙間から街灯の明かりがわずかに差し込んでいたが、すべての道具、調度品がどす黒い影にしか見えなかった。三脚の黒い理容椅子が暗闇を一層濃くしていた。もちろん誰もいるはずなかった。カツカツ…… と柱時計の音だけが聞こえていた。

トイレから出てきた弟は、僕の顔を見るなり安心したのか、ニッコリ笑って先に二階の部屋へと上がって行った。

そして弟と入れ替わって僕が用を足し、トイレから出てきたときだった。

やはり誰かの気配が店から感じられるのだ。

僕は恐る恐るカーテンを少し開け、その隙間からもう一度店を覗いた。

 店の中はさっきとは明らかに雰囲気が違っていた。薄闇の中、三脚の理容椅子の周りを無数の虫が飛び交っていた。僕は思わず細い目を凝らした。その光景があまりにも唐突だったからだ。

無数のうす青い光を帯びた虫達は、不規則な弧を描きながら飛んでいるのもあれば、理容椅子のネッククッションや肘掛けに止まるもの、床を這うように蠢くものもあった。

それらは三脚の理容椅子のある空間を自由に支配しているように見て取れた。

そのうす青い光が虫のどの部分から発せられているのかわからないが、濃い光を放つもの、息絶えるように弱々しい光しか発せないものもあった。

蛍?僕は一瞬そう思ったが、いくら知識のない僕でも、こんなところに蛍がいるわけないことくらいはわかっていた。

僕は得体の知れないものの不気味さに思わず息をのみ、全身に鳥肌が立っていることにこの時気づいた。

虫達の光が少し弱まったように思えば、それらは徐々に緩やかに、まるでそれぞれの持ち場に散って行くハタラキバチのように、手前側の二脚の理容椅子に集まりだした。

集合体の光の明滅が、蜜を貪るミツバチのように小刻みに震えていたかと思うと、突然虫達は消え失せた。まるで車のヘッドライトのように。

僕は乾いていく瞳を閉じることはできなかった。虫達が消えた光の残像が、三つの人の形を形成していたからだ。

それらは正面の鏡にも映っていて、目を凝らせば凝らすほど実体のあるものに近づいていった。

真ん中の理容椅子には男の子供らしいものが俯いて座っていた。手前の理容椅子には初老の男らしきものが座っていて、後ろで男が手を動かしているように見えた。

シャキシャキシャキ……

髪を切る音をかすかな耳鳴りのように感じた。

気がつけば、入り口のカーテンの隙間からクルクルと回るサインポールのぼんやりした光が店の中をフラフラと照らしていた。

理容師の男は俯いて手を動かしていたが、そのうち両手で初老の男のこめかみに手を添え、初老の男と同時に正面の鏡を見た。

二人とも無言だったが、笑っていた。屈託のない、親しきもの達だけに表われる笑顔だった。

隣の男の子は、じれたように身を翻すと、椅子から飛び降りるように離れ、僕の方に向かって歩いてきた。

気がつけば、さっきの虫達が十匹程度子供の周りを囲むように飛んでいた。そのうす青い光はぼんやりと男の子の表情を浮かばせていた。

男の子の青光りした表情が近づくにつれて、僕の意識が遠のいていくように思えた。子供の目がはっきりと僕の目を捕らえたからだ。

男の子の表情は明らかに曇っていた。

『おまえ、何見てんだよ?』そう言いたげに見て取れた。

そんなことまったく気にも留めないようにサインポールの柔な光は部屋をうっすらと照らしていた。

僕は咄嗟にカーテンを閉じた。

振り向けば、弟が立っていた。僕はこの不可思議な状況が飲み込めず、地面にヒラヒラとひれ伏す紙のように、床にへたり込んだ。

弟はお地蔵さんのような表情を浮かべていて、左右の足を交互に浮かせながら身を揺らしていた。

そしてうっすらと瞳を開くと、

「みたの?」と言った。それは今まで聞いたことのない弟の低く暗い声だった。

弟もその場にへたり込み、床に倒れ込んだかと思いきや、寝息を立てて眠り込んでしまった。寝間着と腹巻きがずれて、へそがのぞいていた。

僕は小刻みに震える両手で弟を抱きかかえ、二階の部屋への階段を上った。

この出来事があった翌朝、僕は自分の泣き声で目が覚めた。目を開くと弟が傍らにいて、お兄ちゃんどうしたの?と言った。

実家の床屋は、大正時代に曾祖父の兄(長男)がこの地に開業し、その後間もなく関東大震災が起こった。

突然の大地震に床屋は積み木のように崩れ、火災に見舞われた。中から曾祖父の兄と当時まだ幼かった大伯父、そして近所のお客さん、計三体の遺体が見つかった。

その後、床屋は次男である曾祖父が継承した。焼け野原となった同じ地に、曾祖父はバラック小屋を建て、兄に代わって床屋を再開したそうだ。

その後、東京大空襲で再び全焼したが、曾祖父や祖父達は、多くの人たちが隅田川方面に逃げていくのと逆方向に逃げ、家族全員が命拾いした。

その頃、親父はまだ小学生だったらしい。

親父は僕ら兄弟にそういった家族の歴史みたいなことを度々話した。

僕は少年時代に起きた真夜中の出来事を誰にも話していないが、

僕が床屋になるのを本当にいやだと思ったのは、あの出来事があって以来かも知れない。はっきりとはわからない。

幼なくして世を去った大伯父からの、『床屋にはなるな』というメッセージだったのかも知れない。

あの出来事があって数日後に親父は僕に言った。

お前には向いてない−−−−

よくよく考えると、床屋を継いでいるのが、創始者以外はすべて長男以外の者が受け継いでいるってことだ。

それはたまたまなのか、家系の決めごとなのか僕にはわからないし、別に知ろうとも思わない。今は弟が数名の理容師を使って、店を切り盛りしているからそれでよいことなのだ。床屋イコール弟の人生だ。

僕の人生も約半分くらいは終わってしまったのかなと思うと、少し寂しくなった。いつのまにか、呼吸の苦しみは和らいでいた。

サインポールを見つめている僕に気づいて、店の店主が「あのう…… 今日は終わりです。すみません」と言った。

僕は作り笑いを浮かべると、夜空を見上げた。

東の空にボールを上からかぶせたような月が浮かんでいたが、妙に明るく感じた。

半分は真っ暗だ。たぶん誰にも見えない。

(終)

怖い話投稿:ホラーテラー 工務員さん  

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