『襖は最後まできちんと閉めんさい。
「悪いもの」を見るけえね』
幼い頃、祖母は私によくそう言った。
『隙間の「間」は「魔」に通ずる。
だから隙も魔も作っちゃいけん』
信心深い祖母はだらしの無い私を、
そのような言葉達で戒めた。
私は祖母の言いつけ通り、
部屋を出る時には必ず、
ドアや襖は最後まで閉めるよう努めた。
しかし何度かは、
閉め忘れてしまうことがあった。
その度に私は、
「悪いもの」を見てきた。
最初は幼稚園くらいの時だった。
トイレから戻って来てみると、
仏間の襖が少し開いている。
さっき閉め忘れたと気づき、
祖母に見つかる前に慌てて閉めようと、
襖に手をかけた所で、
仏間の中に佇む人影が、
隙間から見えた。
灰色の和服を着た、
見たことの無い老人が、
布団から半身を起こしている。
白い、皺だらけの顔は骨ばっており、
その中心にある濁った目は、
射るようにこちらを見つめている。
不機嫌そうにへの字に曲げられた唇が、
ゆっくりと開いた。
わあ、と叫んで、
祖母のいる台所へ急いだ。
祖母は、廊下を走ってくる私を怒り、
私の話を聞いて、更に怒った。
祖母と共に仏間に戻ってみると、
老人どころか布団さえも無かった。
『あんたが見たのはこの人じゃろう』
祖母の示した仏壇の二段目に鎮座する遺影は、
確かにさっき私が見た老人だった。
老人は祖父の父、すなわち曽祖父であり、
この部屋で亡くなったという。
私がさっき見たのは、
亡くなる直前の祖父の姿だったらしい。
その後も私は、
襖やドアの隙間から、
「悪いもの」を時々見た。
ある時は自室のドアを閉める直前に、
戦争で若くして亡くなった大叔父を見た。
またある時は会社の会議室の中に、
病死したかつての同僚を見た。
それらはいずれも、
その部屋と私自身に縁のある人物達で、
亡くなる少し前の姿で現れた。
しかし、こんなこともあった。
出張先のホテルで夕食に出かけようと、
ノブに手をかけた。
が、財布を忘れたことに気づき、
部屋に戻ろうとした時、
開きかけたドアから「隙魔」が見えた。
茶色の長髪を振り乱した女が立っていた。
下げられた左手は、
血に塗れた包丁を握っており、
体にも血が飛び散っていた。
女の目がクワッと見開かれ、包丁が振り上げられた。
思わず私はドアを閉めていた。
ガチャリと存外大きな音がしたが、
それ以降は全くの無音だった。
そろそろとドアを開けてみると、
部屋の外にはホテルの長い廊下が広がるばかりで、
その妙な明るさがむしろ不気味だった。
包丁から滴っていた血の跡も、
絨毯には認められなかった。
こんなことは初めてだった。
女は私の知っている人物ではなかったし、
なによりも部屋の「外」に隙魔を見たのは初めてだった。
更に包丁から滴るものが血であると分かったのは、
それが赤い色をしていたからだ。
私が今まで見てきた隙魔は、
一様に灰色で、
基本的に静かに座っていた。
あの女のように、
色も動きもまるで生きている隙魔など、
初めてだった。
私は早々に部屋をチェックアウトし(部屋を出る時が一番怖かった)、
別のホテルに急遽泊まった。
その後、あのホテルで殺人事件が起こったことを、
新聞の記事で知った。
事件が起こったのは、
私が隙魔を見た2日後。
ホテルで待ち合わせた不倫のカップルを、
妻が包丁で殺害したらしい。
妻は最初に別の部屋で待っていた浮気相手を刺殺し、
そのまま夫の部屋へ向かった。
夫の部屋は、私が隙魔を見た部屋と同じだった。
掲載されている妻の面影には、見覚えがあった。
私は「未来の隙魔」を見たのだと思う。
部屋の中に見る灰色の隙魔を、
「過去の隙魔」とするのなら、
部屋の外に見る鮮やかな隙魔は、
「未来の隙魔」だろう。
「未来の隙魔」が鮮やかなのは、
それがまだ生きている人間だからだ。
しかし隙魔として、
「悪いもの」として出現する以上、
それは死と同様の、恐ろしい運命を辿るのだろう。
あれから私は、
「未来の隙魔」は見ていない。
しかし今、悩んでいる。
もしまたそれを見る時があったとしたら。
そしてそれが、私と縁の深い人物の、
恐ろしい未来であったとしたら。
私は、どうすればいいのだろう。
怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
作者怖話