馴染みの蕎麦屋の主人から誘われてゴルフコンペに参加した帰り道、ひどい渋滞に巻き込まれた。
紅葉狩りの客達とかち合ってしまったから、東北道のインターまで数珠つなぎだった。
その間、ハンドルを握る俺はすでに眠気を感じていて、前を走る車のブレーキランプがぼんやりにじんで見えていた。
助手席ではコンペの表彰式で飲んだくれていた幼なじみの敬三が、「今年もやるから頼むぜ」と、あくび混じりの声で言うと、俺の股間にポンとガムを放り投げた。
俺はオッケーと軽く返事をすると、思わずそのガムを何枚も口に入れて噛んだ。苦味が全身を刺激して、しばらくすると脳に血が巡りはじめた。次第に瞼も軽くなってきた。
さっき敬三が言ったのは、毎年末恒例の『榎先生を囲む会』のことを指していた。
榎先生は俺達が高三の時の物理担当兼クラス担任だった。進路指導で俺に工務店への就職を斡旋してくれたのは先生だったし、先生から公務員試験を薦められた敬三は区役所の職員になった。
敬三は、自分が今日あるのは先生のお蔭だと、今もことある毎に口にする。
俺は後に工務店を辞めてしまったから、先生に向ける顔などなかったが、先生は、
「そんなこと気にしなさんな。自分の人生は自分で切り開くもんですよ」と言って、ハッハッハッ……と高笑いした。
俺もそんな先生が好きだったし、先生への気持ちは敬三と同じだった。
『囲む会』は今でも先生を敬慕する者達が集う会で、高校卒業後、世話好きの敬三の計らいで年末恒例の行事となっていた。
助手席を横目で見ると、敬三は腕組みして船を漕ぎはじめていた。
俺はお調子者で要領のいいこの男を見ていると、なんだが不思議な気分になってきた。
こいつとは簡単には引き抜くことができない根の深い雑草と土のような関係かもしれない。
俺と敬三は物心ついた頃から、高校を卒業するまでずっと一緒だった。通学の行き帰り、部活動、遊び…… お互いの欠点をほじくり合いながら、喧嘩しつつもお互い一緒でなきゃ、なんだか落ち着かなかったものだ。
そして、そんな関係は紆余曲折がありながらも、四十路を過ぎた今もこうして続き、お互い独り身生活も続いている。だが、敬三はもうすぐ独り身生活に終止符を打ちそうだった。
敬三には今バツイチの彼女がいて、すでに婚約していた。名前は綾子さんといい、小柄だがあいつには勿体無いくらい美人で気立てのいい、しかも一回りも若い女性だ。
彼女もいない俺は本来なら嫉妬に狂うところだが、なんだか心境は複雑だった。
敬三には重い過去があったからだ。
敬三は高二くらいの頃から、潤子という最愛の彼女と長く付き合っていた。しかし、不慮の事故で突然亡くしてしまったのだ。潤子は同じ高校のクラスメートで、囲む会のメンバーの一人でもあり、敬三とともに幹事をしていた。
俺は二人の仲が恋人同士というより、空気や水みたいな関係のように感じていた。潤子はしょっちゅう敬三宅に来ていて、敬三の両親からも実の娘のように可愛がられていた。
潤子は敬三のお袋さんの家事の手伝いをよくやっていて、敬三は用事がある度に二階の部屋から「おーい!じゅんこ」と呼び、潤子は甲高く少しかすれた声で「なあーに」と返事をしていた。
潤子が亡くなった時、敬三はショックのあまり区役所を一週間も休んだ。敬三のお袋さんが言うには、敬三はまるで幼稚園児のように大きな声でまるまる一週間泣き通しだったとか。敬三の両親はおかしくなったのではと思い、病院に連れて行くことを真面目に考えたという。
かくいう俺もその当時のショックは大きかった。なぜなら、事故に遭う前日に彼女から馴染みの喫茶店に呼び出され、とても重い相談を受けていたからだ。
それは、二人は相思相愛だけど、結婚は絶対にできない。将来敬三とどう向き合っていけばいいかわからない、彼にいつどうやって打ち明ければいいの?恐くて切り出すことすらできないということだった。
彼女は、結婚できない理由は自分の国籍が皆と違う。私は日本人じゃないの……
と言って、目を潤ませた。彼女にとっては、覚悟を決めた告白だったに違いない。
さらに、男手一つで育ててくれた父親が絶対に許してはくれないし、敬三の両親もそれは同じよ。と言った。
そんな事情を知らなかった俺は動揺しつつ、懸命に平静を装った。
「親が結婚するわけじゃないだろ?そんなこと気にするな。国籍なんて関係ねえよ」
「説明したら長くなるからしないけど、結婚は絶対にできないし、お父さんを裏切ることも絶対にできない」
「あのさ……世の中には、入籍しなくてもパートナーとして一緒にいる男女もいるんだよ。結婚だけが二人の道じゃないよ」
「じゃあ…… 子供ができたらどうすればいいの?」
「産めばいいだろ?その時は親父さんも許してくれるよ。きっと……」
「…………」
俺と潤子の間にそんなやり取りがあった。
彼女は黙って俯いたまま時間だけが流れた。西日が差し、潤子の頬が赤く染まっていた。俺はそれ以上何を話していいか、どんな表情をしていいかわからず、ただ、懸命に潤子の沈黙の深さを推し測ろうとしていた。
「敬三ってね、この店でモンブランケーキを食べるのがすきなのよ……」
潤子はようやく沈黙を破ったかと思えば、バッグと伝票を持って立ち上がっていた。そして、
ありがとう。じゃあ、さよなら。
とだけ言い放ち、小走りで店を出て行ってしまった。
さよなら?
俺は潤子の唇から放たれた聞き慣れない言葉に違和感を覚えた。体が蝋のように固まって、潤子の後姿を目で追うしかできなかった。
あとに残ったのは、潤子の赤く染まった頬と、潤んだ瞳の幻影、仄かな髪の匂い、そして自分自身の無力感だ。
潤子は翌日、結婚祝いのため友人宅を訪れ、その帰り道で事故に遭った。交差点で大型トラックに跳ねられ、すぐ病院に運ばれたがほとんど即死の状態だったそうだ。
運転手は業務上過失致死容疑で逮捕されたが、後の裁判で潤子の突然の飛び出しと信号無視を強く訴えた。現在のように交差点にビデオカメラがある時代でもなかったし、目撃者の証言も乏しかったので、たしか運転手は交通刑務所で二年間服役した。
俺はそんな事情を知っていたから、嫉妬どころか、綾子さんとの結婚が間近い敬三に心から幸せになってほしいと思った。潤子もあの世で喜んでくれると願いながら。
囲む会のメンバーは、先生を含めて六人だった。
潤子がそうなって以来五人になってしまったが、席はいつも六人で予約した。
乾杯の時には、敬三はいつもビールが注がれた自分と潤子のグラスを両手に掲げ、グラスを鳴らした。
榎先生は七十をとうに過ぎていたが、病気一つせずいつも元気で、頭も明晰だった。
釣りが趣味で、囲む会ではいつも釣った魚を三枚におろして店に差し入れた。自宅では五、六人の小学生を集めて、今も物理を教えているのだという。
囲む会はいつも中学の先輩・岸部さんの居酒屋でやっている。去年、その席で自称・霊感男の岸部さんが俺にこう漏らした。
「潤ちゃんがさ、敬三の横にいつもいるんだけど、寂しくてつらそうだよ。敬三のヤツ、最近あんまり供養が足りてねえな……」
「敬三に彼女ができたからですかね?」
「ああ…… それだよ、きっと。墓参りが足りてねえし、何よりも日頃から潤ちゃんへの思いが足りてねえ。そりゃ、敬三にとってみりゃ、潤ちゃんのことはけじめを付けてえだろうけど、忘れっぱなしじゃあ、潤ちゃん可愛そうだろ。お前からもちゃんと言っとけよ」
岸部さんの霊感とやらは、外れることもあるのだが、その時はなんだか説得力があった。岸部さんは敬三に彼女ができたことなど知らないはずだからだ。
俺はすぐさま岸部さんの助言を敬三に伝えた。敬三は顔色一つ変えず、がってんだと言うと、潤子のグラスを飲み干して、再びグラスにビールを注ぎ、潤ちゃんごめんねと言って、肩を抱くふりをした。
そんなことをぼんやり思い返していると、車は首都高の向島線に入っていた。渋滞はしているが、流れは悪くなかった。もうすぐ敬三宅に到着するだろう。
「あのさ…… 最近あんまり眠れてなかったんだけどさ、お蔭でよく眠らせてもらったよ」
気だるそうな寝起きの声で敬三が横で言った。
「ああ、それはよかった。でも何で眠れなかったんだよ?」
「潤子だよ。潤子が突然夢に出てきてさ…… 涙目浮べるのさ。家で留守番させられる子供みたいな目つきでさ。夢の中で潤子って呼んだら、背中向けてとぼとぼ歩いて行っちゃうわけさ。ちょっと待てって、追いかけようとしたらいつも目が覚める。そんな感じかな…… 」
「お前さ…… ちゃんと潤子の墓参り行ってんのか?婚約もしたんだから、ちゃんと報告してやれよ。潤子、きっとわかってくれるよ」
「あぁ…… そうだな。ちゃんと報告しねえとな」
「そうだよ!潤子にはお前しかいなかったんだからよ」
俺はこの男の少し鈍感なところが好きだったが、このときは少しイライラした。車内の空気を重く感じた。
家に着くと、敬三はその空気を引きずるように、重そうにドアを開け、よいしょと言ってゴルフバッグを取り出した。
敬三は別れ際に「今年もやるから頼むぜ」と、また言った。
バックミラーを覗くと、敬三は見えなくなるまで俺を見送った。
敬三が降りた後、車の中で仄かな髪の匂いがした。潤子が最後に残していったあの匂いに似ていた。
そして、事件が起こった。
その日もう寝ようかと思った矢先のことだ。俺は敬三のお袋さんからの電話で、敬三が帰って来ないけど、一緒じゃなかった?と訊かれた。
お袋さんの話では、車の音がしたから息子がコンペから帰ってきたものと思い、表に出てみたら敬三のゴルフバッグとショルダーバッグが路上に放り出されていて、バッグの中には免許証や財布も入っていたということだった。携帯もまったくつながらないらしい。
俺にはお袋さんの言う意味がとっさに飲み込めず、何度も確認してようやく敬三が突然いなくなったことを理解した。
敬三は自宅前で俺の車から降りたきり、自宅に入らずにどこかへ行ってしまったようだ。
誰かに連れ去られたのか?まさか……
これは大変なことになったと思い、真夜中だったが俺は知りえる限り、かまわず友人達に電話をかけた。
榎先生の自宅にも電話をした。いずれも答えは来ていない、だった。
そうこうするうちに、俺達と幼なじみの徹が家に来てくれた。徹は今から二人で探しに行こうと言ってくれた。
俺は弟に連絡を入れ、事情を説明してアパートに来てもらった。俺が留守の間、敬三がいつ現われるか知れないからだ。
徹は結婚していたから、嫁さんに後を託していた。徹の嫁さんも中学の同級生だったから、敬三のことはよく知っていた。
俺達は二手に分かれて、敬三が立ち寄りそうな場所を隈なく探したが、敬三の姿はどこにも見当たらない。
潤子の実家跡にも立ち寄った。潤子の親父さんは近所で焼き肉店をやっていたが、数年前に店をたたんで今は千葉にいるとのことだった。
実家跡はシャッターを閉ざし、赤い郵便受けが錆びついていた。二階を見上げるとすりガラスの真っ暗な窓が見えた。かつて潤子がここで暮らしていたのかと思うと、悲しくなった。
今にも潤子が窓を開けて、どうしたの?と言って出てきそうな気がした。遠くでか細い野良猫の鳴き声だけが聞こえたが、空き家は古井戸のように静かだった。
俺は空き家の裏辺りも探してみたが、敬三は見つからなかった。時計を見たら午前二時を回っていた。俺は疲れ果てて途方に暮れ、思わず地面に腰を下ろした。その時、携帯が鳴った。
敬三のお袋さんからだった。今さっき千葉のある寺の住職から電話が入り、敬三らしき男を保護しているとのことだった。
思わずピンときて俺は叫んだ。
墓地にいたんだ!潤子の墓だ!
俺は敬三のお袋さん、婚約者の綾子さんとともに徹の車に乗り込み、千葉のとある寺に急行した。
車中、俺はさっき敬三に言ったことを後悔していた。まさか、こんなことになるとはつゆほども思わなかった。
敬三…… どうしちまったんだ。
俺は心の中、渦巻く灰色の空気を背景に、さっきの敬三との会話をぼんやりと回想した。徹は助手席の俺の表情をみて、お前も大丈夫か?と言った。
寺に着いて、俺はすぐさま住居のインターホンを押した。どうぞお入りくださいという男性の声が聞こえ、玄関の明かりが灯った。
扉を開けたら、すでに住居の奥から住職に連れられて敬三がとぼとぼ歩いてきた。敬三は目が髑髏のように落ち窪んでいたが、なんと笑っていたのだ。そして、「みんな、すまねえ……」とボソッと言って、俺達に向かって頭を下げた。
お袋さんはそんな敬三を見るなり、「この恥さらし!」と大喝して、敬三の頬を張り飛ばした。住職がまあまあと言った。
綾子さんは敬三の背中にすがって、オイオイと泣いた。
話によると、住職は午後十時半頃、手洗いに向かう廊下を歩いていたところ、墓地のほうから女性の声を聞いた。
不審に思い、懐中電灯片手に慌てて墓地を見回った。
そして、墓石に覆いかぶさってしくしく泣いている男を発見した。
住職は、あんた何やってんだ?と言ったら、男はスミマセン……と呟いた。住職は、あんた一人か?と訊いたら、今さっき一人になりました。と言ったらしい。
さらにどこの誰だと訊いたところ、男は素直に洗いざらい答え、男が敬三であることが判明した。
住職は敬三が不審者や浮浪者ではないと思い、あまりに体が冷え切っていたため、敬三を住居に上げ、風呂に入れた。
そして、落ち着いたところを見計らってことの経緯を訊いた。
敬三はニタニタしながら、潤子という昔の彼女と話してました。なぜそうなったのか、ワカリマセン、スミマセンを繰り返したそうだ。
俺はとっさに綾子さんを見たが、ずっと敬三にすがって泣いていた。綾子さんは本当にいい人だとこのとき思った。
俺と徹は腑に落ちなかったから、住職が聞いた女性の言葉について尋ねてみた。
「なあーに」
という声が聞こえたと住職は言った。
住職は、何があったんや知らんけど、彼だいぶ迷いがありますな。ときたまうちに来たらよろし。と関西訛りで言った。
翌日の夜、俺と徹は敬三宅に呼ばれた。お袋さんは何であんな時間に誰にも何も言わず潤子の墓に行ったのか?と、みんなの前で敬三を問い詰めた。
敬三はここでもニタニタするだけで、覚えてねえんだ、わからねえ、みんなすまないを繰り返した。
ふだん温厚な徹から、今にも敬三に殴りかかりそうな空気を感じた。
お袋さんは最近敬三が夜中に目を覚まして、何やら独り言を呟いていることが気がかりでしかたないと俺達にもらした。
数ヵ月後、年末恒例の『榎先生を囲む会』があった。敬三は何もなかったように会を取り仕切った。五名、いや六名が集まり皆の近況報告、そして敬三は綾子さんとの婚約を公表した。
俺達は何もかも忘れて、大いに盛り上がった。俺は酒に弱いが、飲んで笑って騒いだ。敬三はいつもどおりグラスを二個持って、何度も潤子と乾杯していた。
店長の岸部さんを見たら、親指を立てて笑っていた。俺はホッとした。あれきり、あの夜のことを敬三は何も言わないが、たぶん真夜中に潤子へ婚約の報告をしたのだろう。それがよかったのかなと思った。
先生は今年も釣り上げたスミイカの刺身を差し入れし、最近趣味で始めたらしい短歌を披露した。
『学び舎の 巣から飛び立つ燕らの 行く空見上げ 翁微笑む』
俺には何だかよくわからないが、先生は教え子の育っていく過程をいつまでも見守っているよ、という意をこめて詠んだのかなと思った。
そして先生は、会の終わりに重いことを言った。
「潤ちゃんもあの世に逝って、十五年が経つでしょう。あのね、お墓とかお仏壇にお参りする時はね、こうなりますように、ああなりますようにって、願っちゃだめですよ。まず自分が生かされていることを故人やご先祖に深く、深く感謝するんです。それからね、自分を写すんですよ。あれは鏡でもあるから、手を合わせながらね、今まで私はこのように生きてきたけど、これでよかったのか?もっとこうすりゃよかったのか?とね」
若い頃は生きてることが当たり前だと思っていたが、この年になってようやく先生の言葉が身にしみてわかるようになった。
数日後、なぜかお前らに会いたいと、敬三の突然の呼び出しがあって、俺と徹は馴染みの喫茶店に行った。
すでに敬三は店に来ていて、俺達に向かって手を上げた。俺と徹はお疲れと言って、敬三の正面に座って煙草に火をつけ、珈琲を注文した。
ウェイトレスが敬三の前にモンブランケーキと珈琲を運んできた。敬三はニッコリ笑って俺達を上目遣いで見ると、お先に悪いねと言いながら、珈琲をすすった。そして、モンブランケーキをジッと見つめていたかと思えば、てっぺんの栗をフォークですくって一口で食べた。
「俺さ、昔からここのモンブランが好きなんだよ。昔よくここで潤子と会ってたよ。ヘッヘッヘッ……… 」
俺は子供を観察するように敬三をみつめていた。昔潤子が最後に言ったことを思い出した。潤子と最後に会った日のことを俺はひた隠ししてきた。
もうあれから、十五年以上経ってしまった。今さら昔ここでこんなことがあったなんて、誰にもいえない……
徹は敬三に向かって、突然どうしたんだい?と訊いた。
敬三は、いやさぁ…… 実はさぁ…… こんな感じかなぁ?と独り言のように呟きながらモンブランをフォークで十字に切り始めた。
敬三はさらにフォークの角度を変えて十字に切ろうとするのだが、フォークにマロンクリームと生クリームがまとわりついて上手く切れない。そのうち、一部のスポンジ生地とタルト生地の土台が崩れてしまった。
「実はさ…… 潤子が事故に遭った時、俺現場付近にいたんだよ。潤子を迎えに行く約束してたからさ…… あれはやっぱ事故だよ。自殺なんかじゃねえ。」
敬三はヘラヘラ笑いながら、モンブランをお構いなしに潰し始めた。
「こんなだったよ…… 潤子の頭。後輪に巻き込まれちゃってさ…… 」
見かねた徹が、敬三やめねえか!と言ってフォークを取り上げようとした。俺は慌てて徹を制した。
敬三は婚約はしたものの、潤子への思いが断ち切れないのだ。本当は絶えられない悲しみと苦しみのどん底に未だにあえいでいるのだ。
俺と敬三のように、敬三と潤子の間にも根の深い雑草と土のような関係だったろう。
抜けども抜けども抜け切れない。俺には何となくわかるような気がした。
敬三はモンブランをむさぼるように食った。そして食い意地の張った猿のように、銀紙に引っ付いたマロンクリームや生クリームをすべてなめ尽くした。
徹は俺の表情を窺っていたが、俺は無視してひたすら敬三を見つめた。
「俺、夜中に潤子の墓参り行っただろ?あれから一切潤子が姿を見せねえんだ。俺が呼んでも、大声で呼んでも、あいつ返事がないんだ。返事がないんだよ……」
敬三は苦笑いしながらそう言った。
「…………」
俺と徹の後ろを誰かの気配が流れた。振り向けば誰もいなかった。
仄かな髪の匂いがした。
気がつけば、敬三が伝票を持って立ち上がっていた。
返事がないんだ。
返事がないんだ……
そう呟きながら敬三はレジに向かってトボトボ歩いて行った。
「あいつ、潤子に取り憑かれてるみてえだな」徹が言った。
「うん?あいつが潤子に取り憑いてるようにみえるよ」俺は言った。
西日が射している。
ほこりがメラメラと光の帯に浮いていた。
薄っぺらな潤子の幻影がその帯にぼんやりと浮かび、
少しかすれた声で、
「さよなら」
と言った。
敬三……
潤子から、これからも返事はないよ。
(ノー・リプライ 終)
怖い話投稿:ホラーテラー 工務員さん
作者怖話