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長編11
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魍魎坩堝

今よりも大分昔、山あいのとある村の話。

星の明かりも乏しい曇天の深夜、村外れの粗末な堂の中、若い男と歳かさの神主が祓いの香を焚いていた。

若者の方は何かに酷く脅えている。

老人の方は、幾らか霊媒の真似事が出来、憑き物をのかす事が出来る程度だったので、神主というのは仇名に近かった。

若者が頼れるのは今はこの老人だけであり、わざわざ峠を二つ隔てた村から足を運んでもらっていた。

「神主さん、じき、現れると思います。どうかあれを退治してください」

「お前、十蔵と言ったか、わしは退治術が使えるんじゃない。

かしこみ拝み、現世からのいてもらうだけだ」

「何でもいいです、あの女を成仏させてください」

こいつあまりよく分かってないなと思いながら、それでも神主は気を締めた。

先頃死んだ筈の女が一人、亡鬼となって甦り、夜な夜な十蔵を害すべく村を彷徨っていると言う。

聞けば女はユキという名で、十蔵と生前恋仲だったが、一方的に振られて、一人、世をはかなんだらしい。

男女のもつれは世の中で懲りることがない。

その時、堂の扉が開いた。

十蔵が悲鳴を上げる。

ユキだ。

亡者は足を引きずりながら堂に上がる。

神主も思わず声を上げた。

稲光が照らしたユキの体が、異様だった。

生前は愛嬌のある顔立ちだった様だが。

生者では有り得ない、青黒く膨れ上がった肌。

灰黄色に淀んだ目。

まばらな頭髪。

頭から爪先、巻き付いた着物までずぶ濡れている。

そして汚泥の様な耐えがたい腐臭。

首と額に、自殺した時のものか、鋭く削り取られた様にえぐれた致命的な傷がある。

凄惨な亡骸だった。

そして、その手には凶々しいまでに眩く、銀色に輝く鎌がある。

人外と化したユキが二人の方へ歩み寄る。

十蔵はもう正気を無くしかけていた。

神主はいくつかの呪具を既に堂の床に配置しており、それらに沿って理の道を示すようにして、ユキに諭した。

「辛い目に遭った様だね。

だが、もうここにはお前さんの安住は無い。

行くべき所があるのだ、そこからはもうおのきなさい」

言い終わると、今度は呪言を呟く様に唱えだした。

十蔵も語りかける。

「ゆ、ユキ、お、俺は妹の為にも死ぬわけにはいかない。お前はもう死んだんだ、一人で成仏してくれ」

するとユキの動きが止まった。

やがて、体から白いモヤの様なものが分離し、呪具に沿って漂い、やがて消えるのが十蔵にも見えた。

続けてユキの亡骸がくずおれ、びしゃりと水音を立てながら床に倒れた。

腐臭が改めて鼻を突く。

「よし、魂が彼岸へ向かった様だ。ところで、あの体の様子からするとこの娘の亡骸は水に浸かった様だが、もしやケガヌマか」

「そうです、あの沼で、ユキは死んだ様です」

「あそこは亡者の怨念の坩堝(るつぼ)だ。ゆめ近づくな」

◆◆◆◆◆ 

山の中腹、ある急流の東西に村があった。

川に渡された橋で行き来が出来る。

山を少々開いて作られた田畑で食い扶持を稼ぐ小さな二つの村。

東を滝村、西を小沢村と言った。

徳川の治世も盛りを過ぎ、年貢の取立ては年々厳しくなっていったが、二つの村は餓えることがなかった。

川の上流に肥沃な土があり、これを水に混ぜて田に撒くと、実によく稲が実る。

それだけにこの土のことは門外不出、二村だけの秘密だった。

両村で土の取り合いになる事が過去に何度もあり、村同士の仲は悪く、今では年に一度の村長同士の話し合いによって、互いに決められた量を村に持ち帰った。

土は、それぞれの村に土小屋と呼ばれる小屋を一つづつ建ててそこへ保管され、使い切るまでは盗難防止の為、村人が交代で夜の番をした。

この滝村に十蔵が、小沢村にユキが住んでいた。

二人は反目し合う村人達の目を盗み、示し合わせて土小屋の当番の日を一致させ、逢引していた。

十蔵には親がいなかったが、年端も行かない妹がおり、ユキにも会わせた。妹は彼女を姉の様に慕い、ユキも喜んでいた。

但し、男女二人の愛情は対等ではなく、ユキの方がより十蔵に熱を上げていた。

ユキは天涯孤独の身である。それだけに、平凡でも暖かな家庭を持つ事に憧れていた。

今はまだ絶望的だが、いずれ二村の関係が良くなれば、自分達も堂々と夫婦となれる。そうしたらこんな家庭を築いてみたい、と十蔵に夢物語を繰り返して呆れさせる事も度々あった。

ある年。

大変な冷夏で、二村を含む一帯は未曾有の凶作に怯えていた。

あの土の滋養を持ってしても、今回ばかりは飢饉は免れまい。

通常の年の倍ほどの量を採取して来れば乗り切れるかもしれないが、そんな事をすれば貴重な土が枯渇して絶えてしまう。

このままでは何十人が飢え死にするだろうか。

二村は歯噛みしていた。

そんな年の、ある夜の逢引。

この日は普段と勝手が違った。

大抵十蔵が小沢村の土小屋まで忍んで来るのだが、つい足を怪我してしまい、ユキが滝村へ来ることになった。

いつもの様に睦み合い、落ち着いてから、ユキは滝村を後にした。

掛け替えの無い時間を過ごした後は、いつも満ち足りた気分になる。

早く、こんな夜を毎夜迎えたい。

しかし…今日に限り、何故か妙な胸騒ぎがした。

ユキは帰路の中途で、小沢村の土小屋へ向かった。

かび臭い扉を開け、月明かりで中を伺う。

小走りだった為にうっすらとかいていた汗が、

一瞬で凍った。

日暮れまではたっぷりと収められていた土が、

入れ物にしていた幾つもの巨大な樽桶だけを

残して、忽然と消えていた。

目の前の光景が信じられず、放心し、愕然として立ち尽くす。

そこを、目が冴えて夜の散歩を楽しんでいた小沢村の老人に見咎められた。

翌日、ユキは小沢村の全員の前で引き出され、杖で打たれ、足蹴にされた。

男と乳繰り合っていたせいで、村の生命線が何者かに奪われたのだ。

女の身一つでは償いようも無い。

犯人の見当はつく。

滝村の連中に決まっている。

だが、おいそれと尻尾など出すまい。

枯れ行く小沢村の稲を尻目に、やあ大変だな、こちらの方が日当たりが良かった様だ、とうそぶくのが目に見えている。

どう手を打つか、明日村で寄り合いを開くことに決まった。

全身に打ち身を刻まれたユキは、もうここにいれば命が危ないと、日付が変わる前に村を脱走し、川に沿って山を下った。

ユキには身寄りが無いのが、この時には幸いに身を軽くした。

幸いな事に満月が煌々と出ていた。

体に走る激痛に耐え、下り続けると、川が注ぐ沼に着いた。

村の者達はここをケガヌマと呼んでいた。

「汚沼」と書く。

とにかく年中ひどく淀んでおり、悪臭が立ち込め、魚も住まない。

魍魎の類をここで見たという話も聞いた。

ふと足元を見ると、いつの誰の物か、鎌が落ちていた。

錆に覆われ、ひどく腐食している。その有様はユキの人生の終局を皮肉っている様だった。

ユキは一人ごちる。

もう自分の人生には何の展望も無い。

この後見知らぬ土地に辿り着く事が出来たとして、この一帯の閉鎖的な土地柄、自分の様な素性の怪しい者がまともに暮らしてなど行けるだろうか。

知らずユキは泣いていた。

鎌をそっと手に取ると、自分の首に錆びた刃を当てた。

もう、楽になってしまいたい。

両手に力を込めた。

血を流すユキの亡骸は、岸から沼に向かって倒れこむ形でそこにあった。

胸から上が水に浸かっている。

大量の血液が沼のほとりを赤く染めた。

月明かりの中、緑と形容するのがはばかられる程の禍々(まがまが)しい濁り水に、鮮やかな紅が広がる。鬱蒼と奇形植物が覆う、この周囲で唯一の鮮色だった。

ずるり。

と、亡骸が動いた。

そのまま沼の中へ引きずり込まれて行く。

沼に魚はいない。波も無い。重力の仕業とも違う。

とうとう全身が水に浸かった。

更に流れ出す血の変わりに、

沼の汚泥と濁り水が首の傷から

ユキの体に生き物のごとく

ずぶずぶと入り込んで行った。

やがて、ユキの全身の血液が、沼の水にとって変わった。

宵闇の中で、ユキのまぶたが開いた。

白目から生気が失せ、汚泥の色で濁っている。瞳はもう焦点を結ぶことは無い。

亡骸が動き出した。

四つん這いになって沼から這い出す。

体内を汚水で満たされ、水死体のような有様で。

求める男の匂いに引きずられる様にして。

その手には、錆など一点も浮かんでいない、鋭く光を放つ新品同然の鎌があった。

◆◆◆◆◆

堂の中で、動かなくなったユキの遺体を前に神主が十蔵を諭している。

「どんな思いがあろうが、自殺者が生者を害そうなどというのは、逆恨みに過ぎん。何があったかは知らんが、気に病むなよ」

「はい」

「ここは特別な土地だ。ケガヌマがある限り、魍魎騒ぎは続くだろう。あの土とも縁を切ることを考えるんだな」

「土の事をご存知なのですか。縁を切るとは?」

「あらましを知らんのか。

あの土が取れる場所では、昔、藩主の命で、大量の人柱が埋められたのよ。雨乞いの為にな。

人柱の悲鳴と怒号は三里先まで届いたそうだ。どれだけ無念だったことか。

人の死骸は時に、土に又と無い滋養となる。花は乱れ咲き、果実は鈴なりに生る。稲を盛らせているのはそれよ。

肉の養分は土に、魂の残滓は水に溶ける」

「魂が、水に…」

「それが川に集い、あの沼に流れ込む。怨念の釜よ。これでは魚など住めやせん。

言ったろう、怨念の坩堝だと」

*****

ユキが刃を自分の首に当て、鎌を握る両手に力を込めた時。

自殺に走るその寸前。

ケガヌマのほとりで、ユキは、いやいや落ち着け、と呟いた。

この鎌の刃はえらく錆びている。

こんな物で人間に首が刈れるものか。大怪我をして苦しむだけだ。

死ぬとしたって、他の方法が良い。

後から追いかけてくる者がいることに気付いたのは、この時だった。

「ユキ、ユキ」

「十蔵さん…」

今会いたい顔ではなかった。

「十蔵さん、あなたが手引きしたのね。私を滝村へ誘っておいて、その隙に滝村の村人達が小沢村の土を奪い取ったのね」

「心当たりが無いな。盗賊か何かの仕業じゃないのか」

「十蔵さん、あなた…。足だって健常の様じゃないの。

お願い、言って。なぜこんなことをしたの。私が疎ましかったの?」

言う内に、ユキのまなじりからまた雫かこぼれた。愛しさを裏切られたからではなく、ただただ惨めだったからだ。

「…ユキ、俺には妹しか家族がいない。村の人たちにあれこれ助けてもらって、ようやく暮らしていけるんだ。だから…村長の命令には逆らえない」

白状してくれた。求めに応じてくれた、それは少し嬉しかった。

しかしそれが何を意味するのかには、ユキは気付かない。

「ユキ。お前がこのまま山を降りて人里に着けば、あの土の事や俺たちのした事まで人々に伝えるだろう。それはいけない」

十蔵の後ろ手には、眩く光る新品同然の鎌がある。

「女の代わりはいる。でも、家族の代わりはいない。すまない、ユキ」

十蔵の鎌が真一文字にユキの眉間を打った。鮮血が飛び散る。

ユキの手から錆びた鎌が落ちた。空いた掌で眉間を覆うと、たちまち朱に染まった。

油断し切っていたユキが、現状を把握するのには、数瞬が必要だった。

「十蔵さん、十蔵さん、あなた…」

痛い、痛い、痛い。

逃げたい。怖い。怖い。

だが、激痛と恐怖で力が入らない。

どうすれば良い、自分は今何をしたら良いのだ。

生存本能が思考を巡らせるのも空しく、十蔵の渾身の刃がユキの柔らかい首の肉を思い切りえぐり、勢い余って鎌が十蔵の手を抜け、沼の中心辺りまで飛んで行った。

ユキの体も沼に向かって倒れ込み、水しぶきが上がった。

「俺には、遊びだったんだ。小沢村の女なんかと、真剣になれるものか」

肩で息をしながら吐き捨てて、十蔵はその場を去った。

ユキの魂は激痛の中で急速に終息した己の生を感じながら、更に恐怖していた。

体が沼に引きずり込まれ、何か、得体の知れないモノ達が、沼の中から、私に向かってくる。

もうこの体は死んでいるというのに。

水と泥と共に、私の中に入ってくる。凄まじい量の、雑多で粗暴な、想いの束。

自分もそれに取り込まれて行く。

どうした具合で水が運んだのか、十蔵の鎌がユキの亡骸の手に握らされた。

◆◆◆◆◆

ユキの亡骸が倒れた堂の中。

唐突に神主が黙った。堂に静寂が訪れる。

「どうしました?」

十蔵が尋ねるが早いか、神主の体が前のめりに倒れた。

向き合って座っていた十蔵には、その為、彼の背面が見えた。

神主の延髄に光る鎌が突き立っている。

そう深く刺さっているようには見えない。まだ息があるかも知れない。

だが。

その後ろには、再び起き上がり、膝立ちになったユキがいた。

焦点の合わない目で十蔵を睨んでいる。

もう生きた心地がしなかった。

何故だ。

ユキはあの世に行ったんじゃないのか。

十蔵には分からないことだが、確かにユキはもう彼岸へ旅立っていた。

十蔵への恨みはあったが、罪の無い彼の妹のことを思うと、ユキはいたずらにこの男の命を奪うわけには行かなかった。

無念を飲み込んで彼女が現世を離れた以上、その体にはもう、ユキの意志は残っていない。

亡骸に宿っているのは、沼の水と共にユキの体に入り込んだ、生への怨念をたぎらせる凶悪な死霊達だった。

沼を出て地を往く魍魎の坩堝。

ユキがいない今、この体を留める者はもう無い。

一歩、又一歩と、亡者は生者に近づく。

手を伸ばせば届く位置まで来た。

青黒く膨れた手の指先が、震えて身動きの取れない十蔵の口にねじ込まれた。

腐臭に息が詰まる。

死霊がどうした。

殴り倒すんだ。

そして逃げる。

所詮は女の肉体だ。

こいつには、鎌が無い今、俺を殺す武器はもう無い。

決心しかけた十蔵の口中で、ユキの亡骸の指先が裂けた。

爪と指の間から汚泥がほとばしる。

たちまち口中が汚泥で満たされ、鼻と口から溢れた。

そのまま十蔵は意識を失った。

ユキの体は、まだ生の残り香のある十蔵と神主の異体を掴むと、地獄のような、しかし住み慣れた、汚れた沼へと引き返して行った。

こいつらで、まだ遊べる。

それから少し経った深夜。

滝村の外れを、真夜中だというのに、少女が歩き回っていた。

深夜になっても帰ってこない兄を探している。

兄が今晩篭るといっていたお堂を探し当て、中に入ってみた。

床が水浸しだ。

それに、ひどく臭い。

よく見てみると、水の跡は何かを引きずる様に、お堂の外へ続いていた。

それを追って行くと、村を更に外れて山中へ、下る様に伸びている。

夜の山は怖いが、兄を探す為には仕方ない。

山へ分け入りしばらく行った所で、誰かの声がした。

『そっちへ行ってはいけない』

男とも女ともつかない声。

兄の声か、姉のように慕っていたあの女の人の声か、どちらかのような気がする。

しかし周りには誰もいない。

不思議に思ったが、危険なのは確かだからと聞き入れる事にした。

無理をすれば兄が戻って来た時に叱られる。

少女は引き返し、村の中で夜通し兄を探し続けた。

おわり

怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん  

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