俺は大学を卒業すると、ある商社に勤める事になった。
両親は俺が8歳の時に親父は心筋梗塞、12歳の時に母親は癌で亡くなった。
大学を卒業するまで隣に住む祖父母の家に住まわせてもらっていた。
しかしいざ就職となると、この不景気で県内の企業はどこも雇ってくれず、必然的に県外にある企業に勤める事になってしまった。
さすがにもう二十歳になるし、祖父母の世話にはなれないと思い、卒業すると祖父母に最後の挨拶をして家を飛び出した。
マンションも当然自分で決めた。
不動産屋が紹介してくれたアパートの中で、一番格安の物件にする事にした。
相場で言えば月に10万は硬い物件なのに、1万円で借りさせてくれるのだという。
俺が即決すると、不動産屋は「本当にいいんですね?」と何度も聞いてきた。
「いや良いですが、何でそんなに念を押すんですか?」
とあまりに不動産屋がしつこいので聞いてみた。
「ちょっと前に住んでいたOLの方が男に殺されたんだよね、この部屋。」
と不動産屋は言った。
しかし、俺は昔からそういう霊的な事に関して信じない方だったため、安けりゃその分贅沢できるから別に良いかと思い借りる事にした。
今思えば、その時になんで止めておかなかったのかと、激しく後悔している。
1ヶ月ほどは何事もなく過ぎた。
ところが2ヶ月目に入った頃、会社から帰ると家具の位置が明らかにずれていたり、誰もいない部屋から歩く音やドアが閉まる音が聞こえだした。
一度、会社帰りに昔の友人に会い、ほろ酔い気分で帰宅した時の事だった。
時刻は深夜1時を回っていた。
玄関で靴を脱いでいると
「遅かったのね。」
と誰もいないはずの真っ暗な奥から声がした。
ゾッとした。
この時ばかりは鳥肌がたった。
それからはさすがに意識するようになってしまった。
テレビを見ているとトイレの水を流す音がする。
深夜、シャワーの音がする。
電気の点滅。
誰もいない部屋からの咳払い。
俺はそう言う類のものはもっと積極的にドカンとくるのかと思っていたのだが、日常の些細なことを積み重ねても来る事も知った。
友人に相談して、一度、霊能者にきて貰ったことがあった。
俺は霊的なことは信じない方だったのだが、さすがにここまでくると信じざるを得ない。
しかし、その人は部屋に入るのを寸前の所で拒んだ。
五十代くらいのその女性は俺に真っ直ぐに視線を向けると、もう見ましたか?と強張った表情で答えた。
「いや、まだ見たことは無いんですよ、声と気配だけですね。」
と俺が言うと、
「なるほどね。見たら、もう居られないですよ。」
と霊能者は答えた。
その人はそう言うと何もしないで帰った。
私は手に負えないと言う。
霊能者は帰る前にまた一言付け加えた。
「この部屋の死霊ね、君を気に入ってるみたいよ。」
こんな事を聞かされるくらいなら最初から霊能者なんか呼ぶんじゃなかったと後悔した。
その日の夜、事件は起きた。
部屋で小説を読んでいる時につい寝てしまった。
夜中になって寒くなり目が覚めた。
風邪を引いては明日の仕事に差し支えると思い、暖かくしようとハンガーにかけてある黒い上着を着ようと手を伸ばした。
ぶくっ、と上着が膨らんだ。
ビックリして後ろに一歩後退りした瞬間、真っ赤な薔薇のようにぐしゃぐしゃに潰れた頭が襟の穴から覗いた。
「げぇ」
ハンガー事床に落ちる時、それは一度だけそう鳴いた。
勿論、床には中身のない上着だけが残されていた。
俺につきまとっているのはあんなものだったのか…。
薔薇のように崩れ、ぐしゃぐしゃになった頭部の下には一体何が待ち受けているのか…。
そんなものが出し抜けに目の前に現れたら、俺は狂うかもしれない。
突然、今までに感じたことのない恐怖がこみ上げてきた。
部屋を変えてもらおうか…?
いやいや、こんなに安いマンションは滅多にない。
やはりもうすこし様子を見ようか…?
俺は自問自答していた。
自問自答しているうちに寝てしまったのか、朝になっていた。
体が重い。
喉も痛い。
吐き気と頭痛もする。
どうやら本気で風邪を引いてしまったようだ。
熱を測ると38℃を超えていた。
頭がぼーっとする。
あまりのダルさに昨日のことなど頭に無かった。
ただ横になりたかった。
仕方なく会社に連絡し休む事にした。
解熱剤と風邪薬を飲むと、すぐに睡魔がきて泥のように眠ってしまった。
すると、夢を見た。
嫌な夢だった。
暗い廃墟の様な家の奥で、頭の割れた髪の長い女が顔を忙しそうに掻き毟っていた。
ごしごし…ごしごし…ごしごし…
指ではなく手にした針で、顔の皮がめちゃくちゃになっているにも関わらず擦り続けている。
「ひいいぃぃぃ」
顔を針で引っ掻く度に女は悲鳴を上げる。
そしてまた顔面を針で毟る。
溢れる血が服を腰まで赤黒く汚していた。
女は泣き続ける…。
俺は目覚めた。
冷や汗をびっしょりかいていた。
時計を見る。
午後9時。
朝8時に眠ったはずがもうこんな時間になっていた。
喉が乾ききっていた。
体は朝よりは楽になっていた。
とにかく水が欲しかった。
俺がベッドから降り、台所へ向かおうとした時、ふと部屋に一つだけある窓を見た。
するとそこに腕をついて顔をガラスに張り付けた女がいた。
顔のいろいろな部位が全て原型をとどめないほどにぐしゃぐしゃだった。
「ひゃっひゃっひゃっ」
女は崩れた口元をいっぱいに開けながら笑い出した。
夢で見たあの顔だった。
俺はその日のうちに荷物をまとめると、朝まで外で過ごし、マンションごと別の場所へ移った。
会社へはだいぶ遠くなったが、あれに比べれば何でもない。
いまは格安物件ではなく普通のマンションに住んでいる。
もうあのマンションには近づいていない。
しかしもう見ることはなくなったが、未だに家の家具の位置が微妙にずれていることがある。
怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
作者怖話