朱色の炎が薄い衣のようにゆらゆらと揺れていた。
無造作に積まれた枝がちりちりと燃えて、やがてぐったりし始める。
火の粉が蛍のように空を舞った。
数人のホームレスたちが焚火の周りに集まり、暖をとっている。
寒そうに手と手を擦り合わせながら。それはまるで何かに祈るようだった。
火は乾いた枝を包み、少しだけ勢いを増した。
その光が、石田泰一の顔を煌々と照らす。
石田は小汚い身なりだったが、精悍な顔付きをしていた。
どこから拾ってきたのかわからないジャンパーからは、彼が会社員だったころのスーツがのぞいている。
石田の眼は、何かを悟ったような、あるいは諦めたようなものを感じさせた。
どこからともなく不明瞭な怒声が聞こえ、頬の筋肉が僅かに反応する。
「最近物騒だよな。この辺り。若い奴が夜中になるとうろうろしとる」
「その辺のホームレスにもちょっかい出し始めおって」
「若さをもてあましとるんかのう」
「時間もじゃ。それと自由」
「・・・・そろそろ火を消そう。起きとっても腹が減るだけじゃ」
ホームレスの一人がビニール袋の砂を火にかける。
あたりはとたんに静寂と闇に包まれた。
石田は廃材と段ボールで組まれた、犬小屋より粗末な家に戻った。
天井は立つこともままならないぐらい低いが、大の字になって寝られるぐらいの広さはあった。シートの上には割と真新しい布団が引かれている。
「寝るべ・・・・」
瞼を閉じると、まどろみに落ちた。
すこしすると石田は寝息を立て始めた。
漆黒の闇を、一筋の光が切り裂く。
光の残像はまるで帯のように、バイクの後ろをついて回った。
爆音とともに、バイクが車を追い越す。
バイクにまたがる二人の少年が、わけのわからないことを叫びながら笑っていた。
運転しているのは元江幸助。その後ろにいるのが赤城清治。
二人ともチンピラのようななりをしているが、実は地元でも有名なエリート校・徳政館高校の生徒だった。もともと二人は規則の厳しい中学に在学し、数ヶ月前徳政館に入学した。
突然手に入った時間と自由をもてあまし、二人はヤンキーのまねごとを始めるようになった。早生まれだった元江は十六歳になると早々に原付自動車の免許を取り、二人は表面上対等な付き合いをしていたが、赤城はひそかに畏敬の念を元江に寄せていた。真面目な生徒の多い徳政館では二人はやや浮いた存在だったが、それでも彼らを嫌う生徒はいなかった。むしろ二人は憧れの存在だった。
世界の何もかもが、自分たちを中心に回っているように思えた。
「おい、見ろよあれ。ホームレスじゃねぇ」
「あ、ホントだ。超ウケる。マジでいるんだな、ああいうの」
「ああはなりたくねえよな、人間」
「なりたくてもなれねえよ。俺らはエリートなんだぜ」
「ははは」
二人を乗せたバイクは、やがて夜の街に消えた。
「だから、あんたは異常なの」
そういって神埼京子が息子の大輔を叱りつけた。
「まぁまぁ、お母さん。この子の言い分も少しは・・・・」
そう言って口をはさんだのはカウンセラーの立花宏だった。
立花は児童相談局の職員を務める傍ら、子供たちのカウンセリングを行っていた。
「見て、この絵。クレヨンは十二色もあるのに、この子は黒だけしか使おうとしない。
これはきっとこの子の暗黒面を現わしているのよ。抑圧された残虐性がこの子を駆りたてているに違いないわ。そしてこの絵。私が『少しは別の色を使いなさい』って言ったら・・・・。この子赤一色で『お母さん』を書き始めたのよ。どう思う!?おかしいでしょ!?きっとこの子は無意識のうちに周囲の人間に殺意を抱いてるんだわ・・・・」
立花はしばらく返答に窮した。
それは大輔の心理状態について不安を抱いたからではなく、母親の狂気じみた持論に圧倒
されてしまったからだった。
少し前までは障害を持つ子供に対する無知が社会問題として騒がれていたが、最近では少
し様子が違ってきている。インターネットや書店で簡単に情報が手に入るようになり、過
剰反応を始める親が増え始めたのだ。現在、中学三年生までの子供を持つ親たちの平均
年齢は、四十五歳くらいだという。この世代はちょうど両親が戦争を体験し、マニュアル
至上主義の教育を受けている人が多い。その結果、彼ら自身も理論とデータに偏向した教
育を、自分の子供にもしてしまうのだ。
この母親の場合はさらに深刻だった。健常な大輔を障害児だと思い込み、自ら作り上げた悲劇の世界にのめり込んでしまっている。
「この子を救ってあげられるのは私だけ。世界が大輔を拒んでも、私は大輔の味方なの」
「お母さんが大輔君を思う気持ちは僕も分ります。この世界に貴方ほど大輔君のことを愛している人はいないでしょう。最近では児童虐待などが取り沙汰されていますが、そういう母親にも京子さんの姿をみならって欲しいですよね」
これは立花が独自に生み出したテクニックだった。ごく自然に、二人称をより親しいもの
に変えていく。こうすることによって、相手の警戒心を解くことができる。
「そうよ。貴方はよくわかってらっしゃるわ。児童虐待なんてする親の気が知れないわ」
「今回はすぐに専門的な調査を行いたいのですが、大輔君を少しの間お預かりしてもよろしいでしょうか?このテストは孤立した環境において自力で受けなければなりません。そこで京子さんにはしばらく席を外していただきたいのですが・・・・」
これもまた立花の策略だった。「孤立」という言葉と「母親の存在」を対義的に定義し、京
子の自尊心をくすぐるのだ。狙いは見事に的中した。
「分かったわ。そういうことなら仕方ありませんね。私は外で待っています」
京子は満足げな顔をして、部屋を出た。
立花は足音が聞こえなくなるのを確かめ、口を開いた。
「率直に言うよ。君にはなんにもおかしいところはない。おかしいのは君のお母さんなんだ」
「・・・・僕はダメな子じゃないの?」
「ああ。事前に受けたテストでも何の問題も見られなかった。むしろとびきり優秀だと言ってもいい。でも君のお母さんは君のことを心配しすぎて、ヒステリックになってるんだ」
「僕は・・・・どうすれば?」
「お母さんと、戦うんだ。このままでは君は本当におかしくなってしまう。君は何も悪くないのに。お母さんの言いなりになってはだめだ。君の人生は君自身の手で切り開いていくんだ」
「・・・・」
「大丈夫。僕も一緒についていってあげるから」
「ほんと・・・・?」
「ほんとさ。さあ、お母さんの所に行こう。そしてきちんとお話しするんだ・・・・」
校舎は職員や警備員が出払い、どの部屋も電気がついていなかった。
正門をよじ登り、高島由紀は転ぶように着地した。
ポケットに手を入れ、それの感触を確かめた。
昼間に盗み出した鍵が、体温で少し暖かくなっていた。
昇降口の前で立ち止まると、由紀は鍵穴にそれを差し込んだ。
僅かな手ごたえとともに、鍵が開く。
由紀は靴もはきかえず、校舎の中に入った。階段をしばらく登り、四階の職員室の中へ進
む。
職員室には、教師が使っているスチール製の机が幾つも置かれていた。
由紀はその内の一つに、白い封筒を置いた。
窓を開けると、夜風が吹きこんできた。書類のいくつかが吹き飛ばされたが、由紀は気に
も留めなかった。
由紀は左足を窓のサッシに掛けた。
不意に、体が後ろに揺られた。由紀は背中から地面に打ち付けられたが、後頭部は無事だ
った。
あたりが光に包まれ、大地が轟く。
一瞬にして地球が一周するような、そんな感覚を覚えた。
地面が波打ち、地獄の底から響いてくるような声がする。
大地に亀裂が入り、バランスを失った建造物が幾つも倒壊する。
無数の瓦礫が全てを飲み込んだ。
粉塵が舞い上がり、視界を覆い尽くす。
周りに建造物がない公園は、地震の被害を免れていた。
石田はあたりを見回した。仲間のホームレスたちの姿が見えない。
「みんな、どこに行ったんだ・・・・!?」
段ボールの家を見て回るが、どこにも仲間の姿はなかった。
「おーい、おーい!!みんなーっ!!」
どんなに呼びかけても、声は返ってこなかった。
「どうしちまったんだ・・・・?・・・・一体・・・・」
石田は掛け布団の代わりにしていたジャンパーに袖を通し、歩き始めた。
「すごい地震だったな・・・・。みんなどこ行ったんだ?」
石田は懐中電灯を取り出し、目の前を照らした。この懐中電灯は、石田が粗大ゴミとして
捨てられいたのを、修理したものだった。
目が慣れてくると、懐中電灯の明かりがなくてもあたりの様子が分かった。
民家が幾つも崩れ、一台の乗用車が倒れた電柱の下敷きになっていた。
車内には人影があった。
「あの・・・・。大丈夫ですか・・・・?」
応答はない。何気なく運転席のノブに手をかけると、手ごたえがした。
「・・・・!!」
ドアが開くとともに、運転席の男が地面に倒れ込んだ。
よく見ると男は、後頭部から大量に出血していた。
石田の足元に、赤黒い血がゆっくりと広がった。
「ひっ・・・・」
反射的に、石田はのけ反った。
懐中電灯で照らすと、血の気を失った顔が見えた。
石田は四本の指を、添わせるようにして男の頸にあてた。
血液の脈動は感じられなかった。
「・・・・し、死んだのか・・・・?」
もう一度男の顔を照らすと、瞳孔の開いた眼が見えた。
「あ・・・・、ああっ!!」
石田は逃げるように走り出した。途中で何度も転びそうになりながら、やがて交差点で足
を止めた。コンクリートで舗装された道路には亀裂が入り、乗用車が何台も追突した形跡
があった。乗用車はほとんどが炎上するなどして、原形を留めていない。
かつて幾つも店舗が並んでいた場所は、瓦礫の山と化している。
石田は車を見て回り、生存者を捜した。しかし、状況は凄惨なものだった。
「どこも死体だらけだ・・・・。みんな、死んじまったのかな・・・・」
石田は疲弊し切った様子で、地面にへたり込んだ。そこへ一匹の犬が駆け寄ってくる。
「・・・・!」
犬は舌を出し、尻尾を左右に振りながら石田を見上げている。
「何だ・・・・?・・・・お前」
犬は薄い舌で、石田の手を舐め始めた。
「・・・・お前も一緒に来るか・・・・?」
石田は立ち上がり、歩き始めた。その後ろを犬はついていく。
赤城は廃墟と化した街で眼を覚ました。何が起こったの変わらない。地震があったことは覚えているが、その直前の記憶が抜けている。
少し離れた所にバイクが転がっていた。だがその持ち主である元江の姿は見えなかった。
「元江・・・・?どこに行ったんだ・・・・?」
「おーい、赤城!!」
よく目を凝らすと、瓦礫の向こうから元江の姿が見えた。
「どこに行ってたんだ?元江」
「お前が目を覚まさないからどうしようかと思ったんだけど・・・・。病院を探そうとしたら、どこも滅茶苦茶だった」
「滅茶苦茶・・・・?」
「ああ。建物も・・・・人間も」
「・・・・」
しばしの間、沈黙が流れた。
「そうだ、赤城。どっか痛い所とかない?ずっと気絶してたけど」
「いや、なんともない・・・・」
「なら良いんだけど・・・・。とりあえずここを離れよう」
「離れる・・・・?」
「ああ。食糧とかを捜したり・・・・自衛隊が救助を出してるかもしれない。とにかく街
を散策してみよう」
「だな・・・・」
赤城は元江に改めて感心していた。元江はどんな状況でも、冷静に対処する。学業でも、悪行でも、元江は赤城より一枚上手だった。中学校のころから知り合いじゃなかったら、赤城は元江の舎弟になっていたかもしれない。
「なあ元江、バイクまだ動かせるかな?」
「さっき試してみたけどあちこちガタが来てる。どっかで修理しないと・・・・」
「あのさ、確かこの辺に『大島オート』ってバイク屋があっただろ?そこなら部品がいろいろあるかも・・・・」
「なるほどな。まずはそこを目指すか」
赤城は、元江が自分の意見に従ったということを、内心喜んだ。
元江は確かに才覚がある。だが、あくまでも赤城は、元江と対等な関係でいたかった。
元江はバイクを起こし、自転車でするように、ハンドルを横に持ってバイクを引いた。
二人はゆっくりと、導かれるように歩き始めた。
瓦礫の中で、京子は目を覚ました。
「!!・・・・大輔、大輔!!」
立ち上がろうとすると右足に激痛を覚えた。
膝から先が瓦礫の下敷きになっている。
「ぐぅう・・・・!!」
どうやら右足は出血しているらしい。冷たい感触が皮膚の上を伝わった。
「くそっ、くそっ、くそっ・・・・大輔を・・・・大輔を助けに行かなくちゃ・・・・!!」
しばらく離れた所で、人影が動いた。
「大輔!!」
大輔は京子に近づくと、母親が危機に立たされていることを知った。
「大輔、無事だったのね・・・・良かった。あのね、ママね、このままだとちょっと危ないの。分かる?だからね、助けを呼んできてほしいの。その位あなたにもできるでしょ?」
大輔は何も答えなかった。
「あのね、大輔。もう一度ちゃんと言うからよく―」
「もういいよ、ママ。ママはもう終わっている」
「!?」
京子は衝撃を受けた。それは大輔が自分を見捨てたからではなく、大輔が自分自身の意見
をはっきり言ったからだった。そんなことは今まで一度もなかった。京子は、大輔がまと
もに話せないと思い込んでいた。
「あなた、ちゃんと話せるの・・・・?」
「ママが聞こうとしないからだよ。ママが僕のことを駄目だ駄目だっていうから、何も喋れなかったんだ」
「そんな・・・・そんなはずない、あなたは・・・・」
「ママは僕を駄目にする。僕はママに殺される」
「違う、ママは・・・・」
「もうしゃべらなくていい。もうママのどんな言葉も聞きたくない」
大輔は京子に背を向け、歩きだした。
「大輔、ママを見捨てるの!?」
「・・・・立花さんと約束したんだ。ママと戦うんだって。じゃあね」
「大輔!!大輔!!大輔・・・・・」
やがて京子の声は聞こえなくなった。 (第二章へ続く)
怖い話投稿:ホラーテラー プロジェクト カオスさん
作者怖話