もう何時間経つ?
彼女がバスルームから一向に出てこない。
シャワーの音はするが…
まさか浴槽で寝てしまったのだろうか。
声を掛けてみたが返事はなく、さすがに心配になった僕は恐る恐るバスルームへと向かった。
僕と彼女が出会ったのはもう4年半前だ。
僕のくだらない冗談にいちいちオーバーリアクションで柔らかく笑う彼女が大好きだった。
だがそれも最初の頃の話。
今や彼女と合間見えたところで一言二言の言葉を交わすのみで、すぐに会話は途切れてしまう。
が、倦怠期と言うには少し違う。
慣れからくる安心感と言うとしっくりくるだろうか。
別れという漠然たる恐怖が完全に取り払われた状態。
彼女は僕の彼女として、居て当たり前な存在なのだ。
だからこそ、万が一彼女が居なくなってしまった時の悲しみは尋常なものではないだろう。
彼女にとっての僕も、きっとそうなんだと思う。
バスルームに入ると僕は驚愕して言葉を失った。
彼女が浴槽で気を失っていたのだ。
瞬時に僕が「気を失った」と判断したのは、彼女の手首に刃物による無数の生々しい傷と、そこから滴る彼女の血を見たからだ。
何故…?
いや、そんな疑問は後だ。
僕は彼女に駆け寄り彼女の耳元で叫んだ。
「大丈夫か!?おい!」
彼女の顔は蒼白していた。
僕は不謹慎にも昨年亡くなったじいちゃんを思い出した。
しかし、彼女は確かに息をしている。
生きている。
だがこのままでは危ないというのはまず間違いないだろう。
僕がバスルームに入ったとき、リストカットした彼女の腕には、シャワーでぬるま湯が当てられ続けていた。
あれだけシャワールームに居たのだ。
既にかなりの量の血が流れているはずだ。
僕は一心不乱に叫び続けた。
「大丈夫か!?起きろ!」
その叫びが功を奏したのか、彼女の目が微かに開いた。
そしてゆっくりと、弱々しく身体を起こし、辺りを見回す。
彼女がボソリと僕の名前を口にした。
僕は安堵と焦燥の混ざった声色でそれに答える。
「おう、僕だよ。大丈夫か?なんでこんなこと…。と、とりあえず服着て…あ、救急車だ!救急車呼ぼう?な?」
彼女はそれを聞いて一筋の涙を流し、コクリと頷いた。
かと思うと無言でバスルームを出て行った。
僕も慌ててそれに付いて行く。
彼女は傷付いた自分の手首をタオルで縛り、大きめのパーカー(僕のだが)を羽織った。
そしてそのまま自分の携帯から119に電話をした。
「もしもし。救急車を一台お願いします。はい…いえ、私です。本人です。刃物で怪我をしました。思ったより深くて…はい、血はまだ止まってません。住所はー」
彼女は淡々と喋り続けた。
パニック状態で彼氏として何と声をかけたら良いのかさえわからない僕に比べ、彼女は恐ろしい程冷静だ。
電話から数分で救急車が僕たちの同棲しているマンションの前に止まった。
救急隊員がマンションの中に来る前に、彼女は自分の足で救急車へと向かった。
僕もそれに同行する。
救急車内の簡易ベッドの上で、彼女は酸素マスクを口に当てられ救急隊員に色々な質問を受けていた。
「意識がはっきりしていて答えられるようなら答えてください。無理なら無視して結構です。ではえーと、あなたの名前は?」
彼女は自分の名前を答える。
「あなたの性別は?」
女です。彼女は小さく言った。
「ご家族は?」
彼女はゆっくりと、しかしはっきりと質問に答えていく。
「今は一人暮らしですか?」
「はい。」
え?いや、まあ確かに彼女名義で部屋を借りてはいるが…。
僕は怪訝な顔で彼女を見る。
が、彼女はそれを無視して喋り続けた。
「彼氏と同棲していたんですが、彼氏、交通事故で死んじゃったんです。」
「いつ頃?」
「先月です。バイト帰りにバイクで事故って…。」
「それは気の毒に…。で、傷心してリストカットか…。自殺をするつもりで切ったの?」
「はい。」
「あんたね、そんなことして天国の彼氏が喜ぶと思ってんの?自分で救急車呼ぶくらいだから少しはわかってるんでしょ?自殺なんてしても何にもならないことくらい。」
「いえ…。あの、実は…リスカしたあと意識が遠くなって…気絶してたんです、私。あ、私本当に死ぬんだあって思ってました。そしたら、彼氏の大丈夫か?って叫んでる声が聞こえた気がしたんです。…いや、確かに聞こえました。」
「…そうか。まあ…それが本物であれなんであれ、あんた彼氏に助けられたね。そのままずっと気絶してて、血いっぱい無くなってたらあんた確実に死んでるよ。事実それが本当なら、もう少し遅かったらショック死の可能性だってあったんだ。…その助けてくれた彼氏の気持ち、無駄にしないようこれからも精一杯生きなさい。生きてりゃ良い事あるんだから。」
「はい…。」
そして彼女は静かに泣き出した。
沈黙した車内に、酸素マスクを付けているせいでこもった彼女の泣き声が小さく響く。
…。
僕は黙って話を聞いていた。
そうだ。
そうだった。
全部思い出したよ。
それで君は…。
そうだよ。
だったら、彼女の手首の傷も僕が付けたようなものじゃないか。
彼氏として最低だ。
僕のせいで…本当にごめん。
でも、君が助かって本当に良かった。
今はそれが一番だ。
そして僕も、救急車内の端っこで泣き声を出来るだけ殺して泣いた。
泣き声だけは、絶対に彼女に届かないで欲しい。
そう願いながら。
怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
作者怖話