長編15
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弾指

4階建て、総数8部屋のマンションの一室、301号室が俺の部屋だ。

友達と大学構内にある図書館で2,3時間勉強する予定だったが、結局談笑して終了となるのが目に見えていたので中止となった。

普段ならそんなことあり得ないが、そのときは期末テスト期間中だったので皆必死だった。

俺の部屋の間取りを説明する。

入口の扉を開ける。玄関に入りすぐ右手にトイレがある。

左手に進んでいく。すぐ左に洗濯機、正面に洗面所、右手に風呂。

ここでもう一度玄関に戻り、真っすぐ進むと、キッチンと比較的広いスペース。ここにテーブルと1脚の椅子。

さらに進むと3枚のスライドドアに仕切られ、リビング。こちらはキッチンのあった場所とほぼ同じ広さ。

なお進むと最終地点ベランダに到着する。

だいたいこんな感じだ。

友達と別れ、マンションの部屋に戻ったときには、ベランダから見える空はもう薄暗くなっていた。

8月上旬だったから、午後7時を回った頃だと思う。

リビングとキッチンにある窓を全開にし、空気を対流させる。

冷蔵庫から、あらかじめ近くのローソンで買いだめしておいたカフェ・ラテ(テスト期間を乗り切るために必須)を取り出しリビングへ。

ベルトを外しながらリュックを下ろす。最近買ったトリックスターの『Newton』、お気に入りのリュックである。

リビングの中心にあるこたつ机は高さが絶妙で、実家からわざわざ持ってきたものだ。

ベランダを背にするように座り、リュックから筆箱、ノート、参考書を取り出す。

この瞬間が好きだ。

学問に触れ始めた瞬間、煩悩は消え去る。

こういう一人の時間をなによりも大切にしたい。

カフェ・ラテを口に含み、極限まで改造、軽量化したシャーペンをノートの上で走らせる。

紙と黒鉛の摩擦音がBGMとなり、集中力が高まっていく。

気付いたら9時過ぎだった。

正直、2時間足らずで集中力が途切れたことに違和感を抱いた。

…見られている。

視線と呼べるかどうかも疑わしい、ごく弱いものだが、確かに感じる。

肩甲骨辺りがチリチリとする。不快だ。決して好ましくないものだ。

静かに後ろを振り返る。

当然だが、異常は無い。ベランダがあるだけだ。改めて、なんの色気もない。

あの一件以来すこし敏感になりすぎているようだ、と簡単に片付けることはできなかった。

どう考えても、前方、つまり玄関の方から視線を感じる。

扉の向こうからか。

もちろん室内から発せられている可能性も無くはない。

しかし、それは同時に視線の持ち主が人間で無いことを肯定するに等しかった。

隠れる場所は無いし、一瞬監視カメラなどの存在も疑ったが、すぐにバカバカしいと思い直した。

むしろそっちの方がまだマシだ。

玄関の扉をじっと見つめる。

時計の秒針の音が妙な緊迫感をあおる。

このマンションの住人だろうか。

そもそもこのマンションは鍵が無ければ建物内に侵入することすら不可能だ。

隣人か。いや、隣は空き部屋だ。

鍵は閉めたっけ。うん、閉めた。しっかり2重にロックしてチェーンまでかけた。

いや待て。このマンションは建物の入口から入るには鍵が必要だが、階段の部分はふきぬけになっている。よじ登ろうと思えばできなくもない。

嫌な焦りが、ジワッと湧いた。

変質者か。そうだとしたら室内に入っては来れない。

それ依然にこれはただの気のせいかもしれない。変に勘ぐるのは止めよう。

…まだいる。

かれこれもう30分だぞ。いくらなんでも長すぎる。

いい知れない恐怖を感じ、テレビのリモコンに手を伸ばす。すると腕にノートの紙がくっついてきた。

汗で紙が湿って波打っている。

夏なんだ、汗ぐらいいつでもかく。

それよりも、30分もの間そのままの姿勢で硬直していたことに不安を覚える。

身体は嘘をつかない。

頭の中で不吉な考えがぐるぐる巡っている。

それらを無理やり振り払い、リモコンを掴む。

とにかく賑やかな音が欲しくて、電源ボタンに指を伸ばした瞬間だった。

玄関のランプが点灯した。

そのまま硬直する。玄関を凝視する。

俺の住むマンションは、玄関のランプは「感知式」だ。

つまり、近距離で人の動く気配があると、点灯する。

そして5,6秒で消える。ただし、近くでずっと動いていると点灯し続ける。

無論、玄関から「なにか」が入ってくれば、そのときも点灯する。

しかし、玄関に目に見える変化はない。ランプだけが、煌煌と光っている。

背筋に電流が走り、ゾワッと総毛立つ。丹田のあたりが、きゅっと収縮した感じがした。

同時に、嫌な匂いのする汗が全身から吹き出る。

よく見ると、ランプで照らされている部分が、埃が舞っているようにモヤがかっている。

それが実際に埃が舞っていることに依るものか、「別の」原因に依るものかは分からなかった。

金縛りにあったように微動だにできない。視線も外せない。

直後ランプが消える。

前方3メートル先から向こうが、リビングから漏れた光で照らされ、暗く浮かび上がる。

完全な静寂。

物音ひとつ、しない。

この時、依然俺はリモコンをテレビに向けた姿勢のまま固まっていた。

すると再びランプが点灯する。

…まだいる。

再び点灯するとはどういうことか。

部屋から出たか、部屋に入って来たということだ。

それらの動作の初動にランプが反応した。

つまり、そいつは玄関に入り、そこでじっと静止して、動き出した。

おそらく、前か、後ろに。

1回目の点灯の時既に部屋に侵入していたかも知れないが、気配からして明らかにそいつは一度玄関に留まっている。

その考えに至った直後だった。

キッチンとリビングを仕切る3枚のスライドドアの内、2枚を左に、残りを右に寄せ、真ん中だけ開けていたのだが、そのドア1枚分の空間に、突然そいつが現れた。

現れたという表現は正しくないが、何も見えないという表現も正しくない。

真夏のアスファルトの路面に立ち昇る『カゲロウ』、あんな感じだ。

ひとつだけ、下から上へという流れではなく、外側から中心に向かってゆらゆらと空間が対流している、という点で異なっている。

そいつは、俺が勉強道具を広げている机の手前まで来ると、机の縁をなでるように移動し、すぐ、本当にすぐ隣を通過した。

しかも、そいつの発する視線は俺を捉え続けている。

その一連の動きを、顔の向きは変えず目だけで追うと、あろうことか、真後ろの大窓にかかるカーテンが、ベランダ側にふくらんだのが視界の端に映った。

風の影響では起こりえないことだった。

つまり、

そいつは今、ベランダにいる。

そして、そこからこっちを見てる。

背中に視線が突き刺さる。

極限の緊張と恐怖で吐き気を催してきた。

しばらくすると、「モヤ」は元来た道を全く同じように引き返してゆく。

無論視線はこちらに向け続けている。

玄関のランプが点灯する。

そこで動きが止まった。こっちを見たまま静止する。

ランプが光を失う。

しばらくして、もう一度ランプが点灯し、モヤは扉の向こうに消えた。しかし姿が見えなくなっただけで、まだ存在を感じる。

こっちを見てる。

そのままさらに30分近く経ち、ここで初めて、ようやく、視線が消えた。

その瞬間俺はどっと息を吐き出し、そのまま机に突っ伏した。

気付いたら朝を迎えていた。

これがそいつとの初めての遭遇である。

正直テストどころではなかった。

そいつは毎晩俺の部屋にやってきた。

異変に気付いたのは、遭遇から2日後だった。

最初は見間違いかとも思ったが、3回目の出現でそれは確信に変わった。

頭頂部が姿を現し始めている。

2回目の出現の時には、モヤのてっぺん辺りに黒い点が付いているように見えたが、3回目の時は、地肌とか、ゴワゴワした髪の毛の一部がはっきり認識できた。

果てしなく恐かった。

この先どうなっていくかということが明らかだったからだ。

家に帰らないで友達の家に泊まろうかとも思ったが、テスト期間中で迷惑をかけるし、モヤが俺の部屋ではなく俺自身に執着しているのだとしたら全く無意味だ。

3枚のスライドドアを閉め切ろうかとも思ったが、どうせモヤにとっては関係ないだろうし、いきなり現れられたら肝を冷やすどころではない。

手だてもなく、というかもともと俺は「そういうモノ」とは無縁だったから、どう対処したらよいか分からない。

このまま放置していたら多分そいつの全身を拝むことになる。

死んでも御免だ。

4日目。

この日もあいつはやって来る。

挙動の一部始終は1日目と全く同じで、違うのは見た目だった。

額の上部が現れた。

早い。まだ頭頂部しか見えていないはずなのに、額が現れるのが早すぎる。

ということはこれは額ではなく、地肌の一部か。

その部分の髪の毛が無い、ということか。

それにしても奇妙な見た目だ。

普通の人間だったら、この時点で見えるのは髪の毛のみだと思う。

そいつの風貌は、まるで額から上の部分の髪の毛を意図して剃ったみたいな感じだった。

その上、額らしき部分は常に俺のほうを向いて移動していた。

真横を通り過ぎる時も、引き返すときも。

6日目。

女だ。こいつは女だ。

この時眉毛まで見えていたが、これも剃っているのかほとんど毛が無かった。

何故女だと判別がついたかというと、まず髪型。

明らかに短髪ではなかった。眉から上の部分の髪の毛を見ると、こいつはセミロングかロングのどちらかだ。毛は不気味に波打っていた。

次に、眉の部分を見ると、骨が出っ張っていない。男性だったらもっと凹凸がある。そいつは女性特有の「のっぺら」とした平らな顔面を有していた。

もちろん断言はできないが、十中八九女だ。

で、思った通り、こいつは額から上の部分の髪を剃っている。頭頂部近くまで。

不気味、としか言いようがない。

もう精神的に参っていた。

1時間以上もそいつの狂ったような執念深い視線に耐え続けた。

限界だった。

頼れる友達に連絡を取る。

崎谷司(サキヤ ツカサ、仮名。以後人名は全て仮名)には、1年前の大事件以来、異変があったらすぐに連絡しろ、と指示を受けていた。

コールが鳴るが、出ない。

すぐに留守番電話に切り換わる。

今までに体験したことを、可能な限り詳細に伝える。

ケータイをたたんだ時には、時刻は既に夜中12時を回っていた。

電話するにはおそすぎる時間帯だったか。申し訳ない気持ちもした。

疲弊しきっていたので、歯磨きをしに洗面所に行こう、そう思った直後だった。

今夜2度目の到来だった。

特有の粘りつくような視線がそいつの存在を知らしめていた。

信じられないのと、未曾有の恐怖で動悸が激しくなる。

やばい、というのが率直な感想だった。

どこまで姿が現れているのか、想像しただけで寒気がした。

逃げようかと本気で思った。もちろんできるはずもない。

扉の向こうで例の通り律義にも30分留まり続けると、とうとう玄関に姿を現した。

ランプに照らされ一瞬見えたのは、「眼」だった。ついにそこまで姿が明らかになった。

まさに般若、だった。

瞳が異様に小さい。点と言ってもいいくらいだ。

三日月形に眼が歪んでいる。笑ってる。

鼻、口はまだ見えていないが、その眼と、頬の膨らみを見て分かった。

音もなくすぅーっと机の前まで来て、同じように隣を通り過ぎベランダへ。

顔の上半分だけが、何も言わず俺を見据え続けている。そしてその下部分は、カゲロウで覆われている。こんな時にあり得ないことだが、その風貌に、なにか神々しいものを感じた。

ベランダから引き返す時も、こちらを睨んだまま(もちろん眼は笑っている)後退していった。

その後もう30分かけて、扉の向こうで般若の視線は消えた。

その直後だった。

視界が突然白く曇った。眼球が半透明の薄膜に包まれたような感じだ。

そこで初めて自分自身に実害が及んだ。どこになにがあるか、かろうじて分かるぐらいに視界が阻害されている。

あまりに突然で理不尽な事態に慌てふためく。頭の中が不可解という洪水で溢れ、なにも行動がとれない。

洪水が治まったのは、ケータイの着信音が鳴った時だった。

音と確信ランプを頼りに探るようにしてケータイを引っ掴み出てみると、崎谷からだった。

 崎谷「よかった!今なにしてる?」

 那波「もう何が何だか分からない。…留守電を残した後すぐにあいつが現れた。1日に2度現れたのは初めてだ。奴が消えた途端、眼が見えなくなった」

 崎谷「はっ!?…なんですぐに連絡しなかったんだ!!ちょっと待ってろ切るなよ!」

崎谷が怒りに震える声でそう言うと、なにやら電話のむこうでくぐもった音が聞こえ始める。風だ。おそらく崎谷が走ることで起こる風が電話口に当たる音。

しばらくすると話し声が聞こえ始まる。かなり大きい声だ。相手は男らしい。

耳を澄ましていると崎谷がいきなりしゃべり始めた。

 崎谷「いまから代わる人は信頼できるすごい人だ。申し訳ないが、俺じゃ何もできない。質問されたことにできるだけ正確に答えろ。じゃ代わるぞ」

崎谷は俺が何もしゃべることができないほど間髪入れずにそう言い放つと、今度は違う声の人が電話に出た。崎谷よりずっと太く低い声だ。

 久留宮「私は久留宮 操(クルミヤ ミサオ)という者だ。司から話は聞いている。君が今厄介になっている霊はどんな風貌をしているか、詳しく聞かせてくれ」

 那波「…般若のような眼をしていました。あと、額の上の髪と眉は剃っていました。…笑っているような感じもしました」

そこまで言うと、電話の向こうで溜息が聞こえた。不吉な溜息だった。

 久留宮「その霊の名は『弾指』というんだ。有名な憑き神だよ。『弾指』はもともと極微の数を表す単位だが、我々の間ではそう呼ばれている。これからの指示を与えるから、一言も漏らさぬようよく聞くんだ。

憑き神は憑き神同士でコミュニケーションを取ることができると言われる。君は一度憑き神に触れられたことがあると司から聞いた。この『弾指』は自由に移動できる高等な神だが、おそらく君の住む土地に縛られている地神を通して、君の存在を知ったんだろう。

一度神と関係を持つと神の中でそのことは広まる。今回『弾指』に憑かれたのはそれが原因だ。

今から君が実行しなければならないことは1つだけだ。口を開かないこと。一瞬たりともだ。具体的には、歯を見せるな。「口封じ」を怠ったら、君はもうこちら側の人間ではなくなる。

…恐がらせてしまったかな。しかしこれは事実だ。短い間絶食することになるが、明日には私が駆け付ける。それまでの間どんなことが起ころうと、私がいいというまで口は絶対に開くな。

…司という友を持てて君は本当に運がいい。そのことをちゃんと神に感謝するんだよ。

いまならまだかろうじて間に合う。いいね、言ったことをしっかり守るんだ。じゃあ、司に代わるよ」

 崎谷「とんでもないことになったな那波。だが心配いらない。久留宮さんが絶対なんとかしてくれる。言いつけをしっかり守れよ。

……事態が治まったらまた連絡くれ。頑張れよ那波!!」

崎谷は力強くそう言って電話を切った。

その瞬間、息を呑む。

机の上に、いる。

目の前の机の上に、そいつの不気味な顔の輪郭が確認できた。

しかしその顔は、鼻の付け根あたりまでで、カゲロウは消えていた。

悲鳴をあげそうになるが必死でこらえた。

一瞬久留宮さんの言いつけなど頭から消え去っていたが、崎谷の激励の言葉がすぐに脳裏をよぎり、なんとか口を開かずにすんだ。

超至近距離でそいつと眼があった気がした。

反射的に眼を閉じる。しかしそれでもこちらをじっと見ていることは手に取るようにわかる。

拳を握りしめ必死に耐えた。

明らかに『弾指』の纏っている雰囲気が禍々しく、攻撃的なものに変っていた。

1時間か、2時間か。

もうどれだけ時間が経ったかもわからないが、まだいる。

本当に狂ってしまいそうだった。家族や、親友の顔を思い浮かべ死にものぐるいで正気を保つ。

蝉の鳴き声が聞こえ始める。

朝が来た。

いくらか安堵するも、『弾指』はたち去る気配を見せない。

唖然とする執念深さだが、何もしてこないのが唯一の救いだった。

ただじっと見つめるだけだ。

さらに途方もない時間が経つ。

なにか聞こえる。重い硬質な音だ。何度も聞こえる。

ノックの音だ。誰かが俺の部屋をノックしている。

久留宮さんが来た、ということにやっと気付いた。一種の感覚遮断状態だった。

それと同時に『弾指』の視線が消えた。

口を開かないように注意して、身体をあちこちにぶつけながら玄関まで行き、扉を開ける。

 久留宮「よく頑張った。……すごい力だ。このマンション全体が深い森の中にあるようだ。

まだ口を開くなよ。近くに気配を感じる。

よそものの存在に怒っているようだ。さっさと済ませよう」

そう言うと俺は久留宮さんに連れられ机の前に正座させられた。そして、布のようなものを被せられた。

 久留宮「暑いだろうが我慢してくれ。

『弾指』の君への関心をなくす。口を開かずそのまま動くなよ」

その後、なにかを机の上に置く音がして、マッチで火をつける音がした。

変な匂いが鼻をつく。線香の香に似ているが、それとは明らかに違う匂いだ。

久留宮さんはなにも喋らなかった。念仏とかも一切聞こえない。ただ、細かく息が漏れる音は聞こえたから、声を出さず口だけ動かしているようだ。

しばらくして、今度は水の音が聞こえてくる。

チャポン、チャポンと、水たまりに水滴が落ちるような音だ。

エコーがかかっているように脳内で反響している。

すると、誰かの、久留宮さんではない、息遣いが聞こえる。

静かな、深呼吸のような音だ。

そして最後に、ハァーと深い溜息が1つ聞こえると、もう音はなくなった。

 久留宮「大丈夫そうだ。なにか聞こえたか?」

俺は布の中で何度も頷いた。

 久留宮「その音は焚き火をしているような音だったか?」

首を横に何度も振る。

 久留宮「よかった。怒りは鎮まったようだ。もう大丈夫だよ。布を取ってごらん。口を開いても大丈夫だ」

眼を開けると、視界は澄んでいた。

久留宮さんが優しく微笑んでいた。

 那波「俺は……助かったんですか?」

 久留宮「ああ。予想以上にあっさり諦めてくれたよ。どんな音が聞こえたんだ?」

 那波「水の音です。チャポン、チャポンて。あと、誰かの息遣いと、最後に溜息が聞こえました」

 久留宮「非常に興味深いな。水の音は恐らく君の祖先の音だ。護ってくれたんだろう。最後の溜息は『弾指』の出す音だ。だがその息遣いというのは分からない。悪いものではないだろう。

とにかく、よく頑張ってくれた。これで君は安全だ」

 那波「もしあのまま放置していたら…どうなっていたんですか?」

 久留宮「不愉快な話になるがいいか?」

はい、と一言で答えた。

 久留宮「『弾指』の恐ろしい部分は、静かに人の命を奪っていくことだ。頭頂部から徐々に姿を現していくのが特徴だが、それは憑いた者から奪ったものと対応している。つまり、眼まで姿を現したら、それは『弾指』に眼を奪われたということだ。あのまま口まで奪われたら、君は喋れなくなる。助けを呼べなくなる。そしてその時点で君の「精神」の部分は完全に乗っ取られる。つまり死ぬ、ということだ。そこからは早い。命を奪うまでがあっという間だから、弾指と呼ばれるんだ。

腕、脚と身体全体を奪ったら、強制的に命を奪わせる。自分の手で自分の首を絞めさせたり、首を吊らせたり、または車に突っ込んだり。やり方に際限はないが、それによって事実上完全な死となる。

最も救いがないのは、そうやって命を奪われた者は、『弾指』の一部になってしまうことだ。取り込まれてしまう。仏に成ることができないんだ。

生まれ変わることもできず、未来永劫『弾指』の中で生き続けることになる。君はその一歩手前まで来ていたんだ。本当にギリギリだった。

そうやって命を失うものは後を絶たない。私がいままで救えたのは君を含めてたったの8人だ。それ以外は、依頼を受けた時には既に抜け殻になっていたり、『弾指』の怒りを買ったりして救うことができなかった。

家族に何て言えばいいのか。

墓の前で祈っても、供養しても、魂はそこには無いんだ。だが、真実を伝えることは私にはできない。

その苦しみ、君にも分かってもらえると思う。

今でも毎夜その人々全員に懺悔しているよ」

そう言う久留宮さんはとても悲しい顔をしていた。

自然と涙が溢れていた。

その時ほど生に感謝したときは無かった。

同時に、普通に死んで仏になれることも、幸せなことなんだと知った。

その後崎谷に無事生還できたことを伝えたら、彼も豪快に泣いて喜んでくれた。

俺も救われた、そう言ってくれた。

怖い話投稿:ホラーテラー 1100さん  

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