木山さんの屋敷へあがったのは、去年の梅雨の頃だったように思う。
当時、私は大学で民俗学を専攻していたというのもあって、とある骨董店でアルバイトをしていた。名前を蔓庵といって、主に民具や農具などを研究者や蒐集家相手に販売していた。
私は卒業した先輩と入れ替わりでアルバイトに入ったのだが、骨董店でのバイトというのは意外にも力仕事が多い。とりわけウチは民具の扱いが多かったので、やれ石薄だの馬に引かせる農具だの大きなものが多かった。そのくせアルバイト代はそれほど高くないので、長続きする者は少ないらしい。私のように興味本位で続けているような若者は稀だ、と店主は笑った。
蔓庵の店主は腰の曲がった老人で、いつも帳場で頬づえをついて眠り被っている。起きている時は商品の埃を落としたり、常連客と長話をするような好々爺だった。苦学生の私によく眼をかけてくれて、給料日前になると夕飯を御馳走してくれる。若い人と晩酌できるのは楽しい、と笑うのだ。
私は店主に代わって商品を配送し、納品することが主だったので、自然とあちこちに知り合いが出来た。客の方からしても私のような学生がやってくるのは珍しいようで、よく菓子を御馳走になったりしていた。
ある日、いつものように講義を終え、研究室にレポート用の資料を借りにいってから蔓庵へ向かうと、常連客の福部さんが軒先に立っていた。恰幅の良い老人でいつも明るい人なのだが、今日はどういうわけか顔色が悪いように視えた。
福部さんは私に気づくと慌てて笑顔を浮かべ手を振った。
「やあ、御苦労さま。今から出勤かな?」
「はい。福部様こそどうされたんですか? 中へ入らないのですか?」
「いや、ちょっと困ったことになってね」
「はあ」
「知り合いからこんなものを貰ってしまってね。相談に来たんだが、どうにも気が乗らなくて」
福部さんはそういうと風呂敷から、平らな漆塗りの箱を取り出した。艶やかな黒漆に精緻な螺鈿細工が掘られている。それは実に精巧な一匹の金魚だった。
「値が張りそうなものですね」
「そうなんだが、これを蔓庵さんで買い取ってくれないものかと思ってね。しかし、どうにも気が乗らなくて」
「どうしてですか」
「以前にも一度、こういうものが私の手元に行きついたことがあってね。桐の箱に入った狐の面だったんだが、どうにも不気味でこちらで買い取ってもらおうと持って来たんだよ。そうしたら、随分と怒られてしまってね」
「怒られる? うちの店長にですか」
「そうさ。あの人は若い頃、それこそ戦後間もない頃から骨董品を蒐集していたんだ。それはもう長いことこの世界にいる。そうするとね、やはり曰くつきというものが巡ってくるのだそうだ」
「曰くつき、ですか?」
「物には念というものが宿るというからね。そうしたものの中には不吉なものや、持っていてはいけないものというものも出てくるのだそうだ。あの人も昔は相当怖い思いをしたのだろうね。だから、今はそういうものは扱わないのだそうだよ」
「これも、曰くつきなんでしょうか?」
「私にはわからない。ただ、これは私の手元にあってよいものではない気がするんだ」
家の中に置いておくと騒がしくていけない、と小声で囁くように溢した。
「以前の、その狐の面はどうしたんですか?」
「御主人が教えてくれた別の骨董店に売りに行ったんだ。そこはそういう曰くつきのものだけを扱う店というのでね」
「では、今回もそちらにお持ちした方がいいのではないでしょうか」
「そう思ったんだが、見つけられなかったのだよ。もう随分昔の話だから、移転してしまったのか、もう潰れてしまったのかも知れない」
「店長なら覚えているかも知れませんよ」
「そうだな。そうかも知れない。ひとりで悩んでいても仕方がないものな」
そうですね、と私は福部さんを連れて店の中へ入った。
店内には既に先客がいたらしく、帳場で主人と何か話しているようだった。着物を着流した背の高い初老の男性で、袖口から覗く手首が骸骨のように細かった。
いらっしゃいませ、と声をかけると男が振り向いた。痩せこけた頬、長く伸ばした白髪交じりの髪を頭の後ろで結わえ、唇は青白い。骸骨のような容姿のくせに、その双眸だけが生気に満ち充ちて炯々としている。
男は私の顔を見ると、口の端を引きつるように歪めた。
「はじめて見る顔だな」
「私の手助けをしてくれている。昼間は大学に通っているんだ」
光の加減のせいか、店長の顔色がやけに悪そうに見えた。こんな表情は見たことがなかった。
「すまないが、店先を掃いておいておくれ。今日は風が強いからね」
ここにいたら邪魔なのだろう、私はすぐに返事をして竹ぼうきを担いで店の外へ出た。落ち葉を掃きながらさりげなく店内を覗くと、福部さんと三人でなにやら話しているようだった。なにか揉めているようにも見える。
一瞬、あの着流しの男が振り返って私を視た。骸骨のように細く白い指が紫色の唇に触れ、しぃ、と顔を歪める。私は慌てて視線を逸らし、落ち葉を掃くことに専念した。
しばらくして、店内から福部さんだけが出てきた。手には風呂敷がない。店主が買い取ったのだろう。素人から見ても、あの商品は素晴らしいものだった。さぞ高価に違いない。
「いや、買い手がついてよかった」
「あの、福部様。一つ訊いてもいいでしょうか?」
なんだい、と福部さんはいつものように笑う。よほどあの箱が気がかりだったらしい。
「さっきの話、曰くつきの骨董品ばかりを蒐集する骨董店の名前を教えてもらえませんか?」
何故そんなことを聞いたのか。自分でもよく判らなかった。
「夜行堂だ。夜行堂という」
福部さんはそういうと、顔から一切の笑みを消して立ち去っていった。
○
大学から程近い場所にある小さなアパートに帰ると、妹が台所で夕飯を作っている最中だった。妹は高校生で、私と一緒に暮らしている。両親を早くに亡くした私たち兄弟は私が高校生まで伯父の家で育ったのだが、私が大学に進学するのを機に二人で家を出たのだった。家事は分担制にしているが、どうしても料理のできる妹の方が負担が大きい。
「おかえりなさい。今日は早いね」
「暇だったよ。ああ、それと店長から野菜のお裾わけ貰って来た」
「わあ。嬉しい。最近、野菜ってすごく高いからホント助かる」
「店長にもそう言っておくよ。また煮物とか持っていってもいいかな。こないだの南瓜の煮物、かなり気に入っていたみたいだから」
「うん。今日の筑前煮もおおめに作ってるから、明日持っていってね」
ああ、と返事をしてから部屋着に着替える。ついでにレポートを片付けてしまおう、と思って鞄を開けると、そこには見覚えのないものが入っていた。
「なんだ、これ」
それは小さな水晶だった。球体というよりは滴のような形をした透明な石。なんでこんなものが鞄の中にあるのか。
「なにそれ。私にも見せて」
妹は水晶を光に翳して、きれい、と息を呑んだ。
「ねぇ、中に青いのが見えるよ」
「どこ?」
「ほら、ちょうど真ん中あたりにまっすぐ」
確かによくよく見れば、水晶の中央あたりに奇妙な青い染みのようなものがある。複雑な模様のようにも見えた。
「すごく綺麗ね。お兄ちゃん、こういうの好きだったんだね。知らなかった。もしかして恋人でも出来た?」
「いや、こんなもの持ってないよ」
「?」
「でも、お兄ちゃんのなんでしょう?」
「鞄に入っていたんだ。俺のじゃない」
もしかしたら。
あの骨董店のものかも知れない。
―――夜行堂。
○
それは本当に偶然だった。
アルバイトを終えた私は本屋で参考書を買いに向かったのだが、臨時休業ということで開いていなかった。このまま帰るのもなにかと思い、裏道を適当に歩いていると、不意に一軒の骨董店の店の前に出た。
もしや、と思って看板を捜すと、擦りガラスに《夜行堂》と書きなぐってある。思わず息を呑んだ。
福部さんの話を思い出し、背筋が震えた。まさかこんな近くにあるだなんて。いや、そもそも裏路地にこんな店があっただろうか。
入るべきか、立ち去るべきか。
私はほんの少し迷ったが、結局入ってみることにした。どれだけ曰くつきの商品があろうとも、買わなければ問題ないだろう。見るだけ。本当に見るだけにしよう。そう決めて、私は店内へと脚を踏み入れた。
店内は薄暗く、冷たい土の匂いがした。陳列された商品は統一性が無く、一目見て判らないものの方が多い。おまけに値札が一つもなく、およそ商売をしているようには見えなかった。
「いらっしゃい」
店の奥、一番深い場所に帳場があり、そこで若い女性がこちらを見て手招きしていた。いや、女性か男性か区別がつかない。美青年と言われても通るだろう。
「こんにちは。あの、少し見て行ってもいいでしょうか」
「勿論。貴重なお客様だ。ゆっくりと見て回って」
私は商品を眺めながら、これらが曰くつきであるということが脳裏から離れなかった。どれを見ても妖しく思えてならない。
「なにかお捜しで?」
「いえ。特には。あの、何故値札が張られていないのですか?」
「値札を貼っておくと、嫌がるんですよ」
「嫌がる? 誰がですか?」
「ここに並んでいる、これらが。うちで取り扱っているものはどれも一癖も二癖もあるものばかり。人が物を選ぶのじゃない。物が自身に相応しい主を選ぶ。私はその橋渡しをしているだけ」
女主人はそういうと微笑んでみせた。冗談か本音なのか判らない。その笑みがなぜだか私には酷く恐ろしくて、私は叫びだしそうになった。まるで得体の知れない恐ろしいものと対峙している、そんな気持ちになったのだ。
「何か気に入るものがあった?」
「いえ。ありがとうございました」
私は踵を返してすぐに店を後にした。
店を出る間際、女主人が暗い店内の闇から私に何事か囁いた気がした。
またのお越しを、そう言ったような気がしたのだ。
○
翌日、私はあの水晶を返却に行く為に夜行堂へ向かった。だが、どういうわけかいくら捜しても見つけることが出来なかった。裏道を通り、同じように歩いたのに、どうしてもあの店に出くわさない。
正直、あの気味の悪い店には二度と行きたくはないが、このままでは私は窃盗をしたことになる。万が一、訴えられでもしたら私は有罪になるし、奨学金も打ち切られてしまう。そうなれば大学を退学しなければならなくなる。それだけはなんとしても避けたかった。
結局、夜行堂を見つけることが出来ないまま出勤の時間になり、私は気落ちしたまま蔓庵へと向かった。
夕方から降り始めた雨は、蔓庵に着く頃にはとうとう本降りになり、店先に看板を立てることもできないような有様になった。こういう日は来客はほとんど望めない。
しかし、今日は意外にも配達があった。
「こんな雨の中、済まないけど配達を御願い出来るかな」
そういった店長の顔はいつになく強張っていた。この程度の雨のなかでの配達は前にもあった。
「わかりました。どちらまででしょうか」
「屋敷町の外れだから少し遠くなる。住所は書いておいたから、これを参考に行って来ておくれ」
店長はそういって風呂敷を私に手渡した。昨日、福部さんが持ちこんだ漆塗りの箱だとすぐに気がついた。
「あの、これは福部様がお持ちになったものですか?」
一瞬、店長は動揺したように見えたが、すぐに温和な笑みを浮かべて首を縦に振った。
「そうだよ。これは少し曰くつきでね。あの人が持っておくのはよくないから、家で買い取ったんだ。けれど、すぐに買い手がついた」
君も昨日会ったろう、と店長は呟く。
「買い手は木山さんという。昨日、私と話していた御仁だよ。あの人は少し変わった趣味の持ち主でね。曰くつきの骨董品ばかりを蒐集している。こういう言い方は失礼だが、あまり関わり合いにはなりたくない人だよ」
ほんの少し背筋が震えた。
「いいかい。屋敷に着いたなら、なるべく早く品物を渡して品物を確認してもらいなさい。料金を貰ったらまっすぐにここへ帰ってくること。長居はしてはいけない」
それと、と店長は低い声音で続けた。その顔はどこか申し訳なさそうだった。
「彼とはどんな取引もしてはいけない」
「取引?」
「そうだ。彼が取引を持ち出してきても、決して首を縦に振ってはいけない。なにを言ってきても決して取引には応じるな。一度でも応じれば、いつまでも彼が欲しがるものを差し出さなければならなくなる」
本当にすまない、そう店長は申し訳なさそうに漏らした。
私にはまったく意味が判らなかった。
○
木山さんの屋敷は高級住宅地のさらに奥、山間の麓にひっそりと蹲るようにしてあった。私は配達用のトラックを駐車場に止め、竹林を傘をさして歩いた。
竹林に挟まれた小さな歩道は薄寒く、また気味が悪かった。風雨に煽られて竹が互いに揺れて奇妙な音を奏でる。薄暗い竹林の闇から、何かがこちらを見ているような気配がある。それらを無視して、私は歩き続けた。立ち止まってしまったら、もう前に進めないとわかっていた。
竹林の私道をしばらく歩くと、大きな門があった。表札には崩し字で木山と彫られていて、その下に呼び鈴がある。
「こんにちは。蔓庵の使いのものです。商品の御届けに参りました」
ややあって、どうぞ、とそっけない声が帰って来た。私は失礼します、と断ってから門を潜り、中庭を抜けて玄関に入った。
屋敷の中は薄暗く、酷く静かだった。一際昏い廊下の先に、ひょろっとした男が立っていてこちらを見ている。距離があるのと、薄寒いのとでまるで骸骨が立っているようにしか見えなくて酷く動揺した。
「あがりなさい」
そういって奥へと歩いていってしまう。仕方がないので私も靴を脱いで、その後に続くことにした。酷く嫌な予感がした。
屋敷の中は不気味なほど静かで耳に痛いほどだった。聞こえてくるのは雨の音と、すこし先を歩く男が廊下を踏む音ばかりで息が詰まる。
ややあって木山さんが障子を開いて、部屋の中へ入った。私もその後に続く。そこは十六畳ほどの和室で、座布団が二枚敷いてあるばかりで他には何もない。
「入りなさい」
彼はそういって上座に座り、私は失礼します、と断ってから下座に正座した。さっそく風呂敷を解こうとする私を、彼が制止した。
「まぁ、待ちなさい。そう急くものじゃない」
私は一刻でもここを立ち去りたくて仕方がなかったが、彼はそれを許さなかった。
「君は昨日、顔を合わせていたな。××大学の学生だろう」
「はい」
「大学生か。懐かしいな。私も同じ大学に通っていた。いわば私は君のOBというわけだ。尤も、私は途中で大学を辞めてしまったがね。何事も長続きしないのは私の悪い癖だよ」
「あの、商品を確認して頂けませんでしょうか」
「急くなよ。なんだい。君はそんなに早く帰りたいのか。それとも店主からなにか吹き込まれたのかね」
「いえ」
「なら、もう少し付き合い給えよ。君のような若者と話すような機会は珍しいんだ。なに、とって喰おうというわけじゃない。君も店で退屈な仕事をするよりもいいだろう。そうだ。こうしよう。君が私の話に付き合ってくれるのなら、謝礼を出そう。どうだね?」
「そういうわけにはいきません」
「頭の固い奴だな。こう見えて金なら茹だるほどあるんだ。気にすることはない」
「謝礼は必要ありません。それよりも、商品を確認してください」
「頑固な男だ。最近の若者らしくないな、君は。予想外だよ」
そういうと歪んだような笑みを浮かべ、くっくっ、と咽喉を鳴らして笑う。袂からキセルとマッチを取り出し、煙をぷかぷかと吸い始めた。やたら甘い匂いのする煙だった。
「いいだろう。商品を見せてくれ」
風呂敷を解き、私は黒漆の箱を木山氏の前へと差し出した。
「君、これが何かわかるかい」
「いえ」
「店主からは何も聞かされていないのか」
「はい」
「これは硯箱だよ。硯を納める為の化粧箱だ。作られたのは明治初期、腕の良い職人の手によるものだよ。見事だろう」
「ええ」
「特にこの金魚が良い。ようく見ていてごらん」
言われた通り、じぃ、と螺鈿細工の金魚を見ていると、不意に金魚がその身を大きく翻し、すぅ、と漆の上を泳いだ。
思わず息を呑んで飛び退いた私を見て、木山氏は咽喉を鳴らして嗤う。
「その螺鈿の金魚はね、この箱を手掛けた職人が、片恋した良家の御令嬢を閉じ込めたものなのだよ。今尚、その魂はこの箱から縛られている。この箱はね、人の魂を泳がせるための魚籠なんだ」
震える私を前に、木山氏は楽しそうに箱を持ちあげ、それを裏に返した。すると、そこにはもう一回り小さな金魚が躊躇いがちに泳いでいる。
「君の妹は実に愛らしいな。本当に美しい。そうでなければ、これほど見事に美しく泳ぎ回ることは出来はしない。兄想いの、実に健気な娘だ」
君の主から話を聞いて欲しくなったんだ、と木山氏は嗤う。
私は愕然とした。妹の名を溢すように呟くと、金魚がはっとしたように泳ぎ回る。ああ、なんてことだ。
「どうして、そんな」
「どうしてだろうね。本当に、どうしてだろう」
「妹を、返してください」
「僕はね、幼い頃から人の魂を視ることが出来た。美しい魂というものは宝石よりも遥かに美しい輝きを持っている。僕はその輝きを蒐集するのが生き甲斐なんだ。だから、今回のような買い物は本当に僥倖だった」
「お願いします。妹を返して下さい。たった一人の家族なんです」
木山氏は立ち上がって、身体を折るようにして、くっく、と嗤った。本当に楽しそうに、楽しくて仕方がないとでもいうように咽喉を鳴らして。
「君の主は私と取引をしたんだ。自分の延命の為に、その箱と君たち兄妹を私に売ったのだよ」
木山氏が部屋を出て行くのを呆然と見送りながら、私は硯箱の金魚を掬いあげようと手を伸ばしては失敗し、泣き声を噛み殺しながら懸命に妹の名を呼んだ。
不意に、背後で気配がした。何かがいる。
振り向くと、黒い腕の長い靄のような何かがたくさん立っていた。ああ、妹もこうして攫われたのか。
箱を抱いて立ち上がった瞬間、上着のポケットからあの水晶が零れ落ちて畳の上に転がった。すると、水晶が滲むように溶け、青い輝きが飛び出して靄の異形たちを引き裂いた。
――蓋を開け。
聞き覚えのない男の声に命じられるまま、私は硯箱の蓋に手をかけた。蓋は恐ろしいほど固く閉じられていたが、私は必死に蓋に爪を食いこませ、渾身の力で引き剥がした。
驚くべきことに蓋の中は恐ろしい程広く、底で立ちすくむ二人の女が見えた。私は妹の名を叫びながら妹の手を取り、引き上げた。入れ替わるように青い輝きが箱の中へ飛び込み、もう一人の女性を包み込むと、弾けるようにして外へ出た。
私はぐったりとしている妹の身体を抱き抱え、呆然と眼の前に浮かぶ青い光を見ていた。硯箱には金魚の姿はもう見当たらなかった。のっぺりとした艶のない漆黒が浮かんでいてとても触れる気にはなれなかった。
やがて、光は廊下へと飛び去り、次いで屋敷の何処かから凄まじい絶叫が聞こえた。それは木山氏の声によく似ていた。
私は妹を背負い、すぐに屋敷を離れた。傘もささずに竹林を走り抜け、車の助手席に妹を乗せ、一度も振り返らぬまま車を発進させた。
蔓庵には戻らなかった。
○
目を覚ました妹は何も覚えていなかった。
私は蔓庵へもう二度と行くことはなかった。ただ、骨董店で老人が心臓麻痺で死んでいるのを近所の住民が発見したと新聞で読み、同じ紙面に都市郊外の屋敷で男性が全身を八つ裂きにされて殺されたという事件が載っていた。犯人は見つかっていないのだという。
店長がなにを考えていたのか。私には判らない。判りたくもなかった。きっと店長にも事情があったのだろう。でも、今となってはもう知りようがない。
私はすぐに違うアルバイトを見つけ、働き始めた。以前のように好奇心で選んだのではなく、まっとうなアルバイトだ。
もう今ではあの出来ごとそのものが夢だったのじゃないか。悪い夢でも見ていたのではないか、そう思うようになった。
しかし、そんなある日、私は偶然あの骨董店に行きあたった。
夜行堂。
件の店主は私の顔を見るなり、御苦労さま、といってほくそ笑んだ。
「悪いことをしたね。でも、あれは仕方なかったんだ。私が入れたのじゃない。あれが自分から君についていったんだ」
私は店主にすべてを話した。信じてもらえる云々というよりも、きっと彼女はすべてを知っていると思ったからだ。もしも私の疑問に応えてくれるのなら、その答えが欲しかった。
案の定、店主は何もかも知っているらしかった。
「あの水晶の中に入っていたのは、件の御令嬢の許嫁。その魂なんだ。彼は無念の内に死んでしまったけれど、愛した彼女の魂を救う為にあの水晶の中で時を待っていた」
私は他にも聞きたかった。店長のこと、木山氏のこと。おそらくこの人なら知っているだろう。だが、それらについては何も語ってはくれなかった。
「君は運が悪かった。そういうことだよ。もうこの店にも来ない方がいい。まぁ、もう来ることはないと思うけれど」
店主は最後にいった。
「あんまり闇を覗き見ないことだ。深く覗きこむと、向こうから掴まってしまうから。忘れてしまいなさい」
それが最後だ。以来、いくら捜してもあの骨董店を見つけることは、どうしても出来なかった。
作者退会会員
五作品目になります。ご覧ください。
怖話に相応しい怖い話を書く予定だったのですが、少し違った怖さになってしまいました。
お詫び致します。
次回作も宜しくお願い致します。
コメントお待ちしております。