「これは――人面疽(じんめんそ)ですね」
白衣の女は静かな声で、しかしはっきりと言い切った。
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薄暗い部屋である。
消毒液の匂いが充満している。
女はカルテや医療器具が整然と並べられた机の前に、長くしなやかな足を組んで座っている。
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女の前には、服を脱ぎ、上半身をあらわにした若い男が座っていた。
女の言葉に、顔をこわばらせている。
その男の鎖骨と左胸の間には、もうひとつ別の顔が浮かび上がっていた。
若い――男の顔だった。
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「千里(せんり)君、写真を撮っておいて。
引きで、身体のどの位置にあったか、わかるように。
近付いて、顔の特徴と表情がわかるように」
僕は云われた通りに、男の身体に浮かび上がった顔を撮影する。
診療室の薄闇を、フラッシュの光が何度も切り裂く。
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「これ――やっぱり顔なんですか?
それらしく見えるってだけじゃ――ないんですね?」
江戸先生――と男が問いを発する。
白衣の女――江戸桐子(えどきりこ)女医は、小さくため息をついて応える。
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「シュミラクラ現象ではないかと?
確かに人間には、三つの点が集まっていれば、それを顔と認識する脳の働きがある。
ですが室井康雄(やすお)さん、貴方は初めから――私の診察を受ける前から、それが人面疽だと云う確信があったのではありませんか?
私の言葉に、貴方の顔には恐れと同時に納得の表情が浮かんでいましたよ」
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康雄は顔を伏せる。
桐子が言葉を続ける。
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「どこでお知りになったかは存じませんが、私は専門家です。
表向きはしがない町医者ですが、この世ならぬモノに通じ、障(さわ)りを除くことを裏の生業(なりわい)にしている。
そんな私だから云うのです。
憑依や呪いの類いと云うモノはーー」
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それを受ける側に、受け入れるだけの条件が整っていなければ成立しないのです――。
桐子は静かに、しかしはっきりと言い切った。
その時だった。
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sound:18
shake
――か、え、せ
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康雄の胸に生えた人面疽の口から、苦しげな、うめくような低い声が漏れた。
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――か、え、せ
――か、え、せ
皆が黙りこむ中、人面疽の声だけが薄暗い診療室に響く。
僕は思わずごくりと喉を鳴らす。
不意に、康雄が勢いよく立ち上がり、顔面に恐怖を貼り付かせ絶叫した。
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shake
「明人(あきと)やめろ、もう消えてくれ――」
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つぶやく声は、いつの間にか止んでいた。
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明人と俺は、同郷の幼馴染みでした。
小、中、高と地元の同じ学校に通い、二人とも東京の大学――学校は違いますが――に進学しました。
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俺は明人の通う大学の、彼の所属する山岳部に、他大生として参加していました。
そこで俺たちは、彼女――森野曜子と出逢ったんです。
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曜子は俺たちと同じ1年生でした。
他にも何人かいた同期の中でも、俺たちは何故だか気が合って、よく一緒につるんでいました。
サークルの活動以外でも、三人だけで山へ行ったりして。楽しかった。
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でも、つい先日――2年に進級する直前のことです。
俺たちの関係は変わったんです。
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明人が陽子に――告白したんです。
あの引っ込み思案で、餓鬼の頃から俺の後ろを付いてくるだけだったあいつが。
ずっと好きだったんです、曜子のこと。
一世一代の告白だったんです。
男見せたんです、あいつ。
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曜子はそれに応えました。
曜子と明人は結ばれた。
良かったですよ。良かった。俺たちの関係は確かに変わったけど、それでも良かったと思ってます。
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実を云うと――俺も陽子のこと、けっこう好きだったんです。
でも、あいつが好きって云うんなら、俺は身を引きますよ。
明人が男見せたんだから。
幼馴染の親友ならそうします。
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それで、まあ、色々じっくり話したくなって、明人と俺、二人だけで山に登ったんです。
山ってこう、下界から隔絶された場所ですからね。
腹を割って話すには、うってつけの場所なんですよね。
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俺も明人も、山にはだいぶ慣れていたから、多少天候は崩れてましたが、大丈夫かなって思って――。
そうしたら、まさか、あんな――。
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明人の奴、足を滑らせたんです。
俺、手を伸ばしたんですけど、間に合わなくて。
あいつの身体が、崖の下に堕ちていきました。
それが、いやにゆっくり思えたんです。
俺とあいつ、ずっと目があったままで。
え?なんで俺が?って顔してました。
堕ちていくのが信じられなくて。
声も上げられなかった。
そのまま、明人、昏い崖の下に――。
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あいつの身体、まだ見つかってません。
持ち物も、服とかも、崖下探したんですけど、まだ見つからないんです。
何日かして、身体に顔が浮かんできました。
あいつの顔です。
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かえせって云ってます。
きっとあいつ、俺が曜子のことをとるって考えてるんです。
曜子は明人が好きなのに。
俺が親友の彼女、とるわけないのに。
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お願いします。
こいつのこと、早く成仏させてやってください。
このままじゃこいつ、あまりに不憫すぎて。
親友のこんな姿、見てられないんです。
お願いします。お願いします。お願いします――。
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話を終えた康雄に、桐子はうなづいた。
「事情はわかりました。やはり、人面疽の生じる要因はあったわけですね。
それで、貴方のご希望は、お友達を成仏させて、その人面疽をなんとかしたい、と。
――いえ、方法はいくらもあります、ご安心を。
まずはこちらをお試しに――」
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彼女は机の引き出しから茶封筒を取り出すと、中身を拡げて見せた。
筆で文字の書かれた、細長い紙片だった。
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「これはある山の、徳を積んだ高僧が書いた力のある呪符です。
これを燃やし、その灰を一週間、飲み続けてください。
生けるものにはなんの害もありませんが、この世に肉を持たぬモノにとっては毒となり、結果、憑依は解けるでしょう」
康雄は少し戸惑った顔をした。
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「――あの、もっと早くに効果があるものはないんですか?
その、直接この顔の部分になにか塗るとか、切り取るとか――」
そう云った直後、康雄ははっとした顔になり、口をつむぐ。
桐子は穏やかな表情のまま云った。
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「いいのですよ。
ご自分の身体にそのようなモノができたとあっては――それがたとえ、親友の顔であったとしても――一刻も早くなんとかしたい思うのは無理からぬのこと。誰も貴方を責められません。
しかし室井さん、切った張ったは最後の手段。まずはこちらをお試しを。
少々コツがありますので、今、この場で一度お飲みください」
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なおも渋った表情の康雄に札の灰を飲ませ、一週間後の再受診を約束させ、診察は終了した。
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「――さて、千里君。少々お使いを頼もうかな」
康雄を帰した後、彼の健康保険証のコピーと初診記載用紙に目を通していた桐子だったが、顔を上げると薄い笑みを浮かべてそう云った。
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康雄の話に出てきた、二人の所属する山岳部に、森野曜子を訪ねろということだった。
「――なんでまた?」
僕はふたつの意味を持たせて言葉を吐いた。
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ひとつ目は、そんなことをして何の意味があるのか、という疑問。
薬――高僧の札――はすでに処方してある。
今更身辺調査のような真似をして、どうしようというのか。
ふたつ目は、どうして桐子本人が動かないのかという抗議である。
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「君の問いに答えよう。
ひとつ、行けばわかる。
ふたつ、私は忙しい――この絵を完成させてしまいたいからね」
あいかわらず勘の良い桐子はそう云ってから、背後の油絵を振り返った。
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夕暮れの情景だろうか。
空も、大地も緋に染まっている。
そんな中、男がひとり、立っている。
男の足元には長く影が伸びている。
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男の身体はなぜか輪郭があやふやで、夕焼けの緋に溶けていきそうである。
対して足元の影は妙に黒々と、存在感を感じさせていた。
どこかアンバランスで、胸の内から不安を湧きたたせる絵画――。
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「これ――いつもの夢の絵――ですか?」
そう問うと、桐子は首肯した。
桐子は趣味で油絵をたしなむ。
彼女の描いた絵は、この院内の壁に掛けて展示してある。個人医院ならではの勝手だ。
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絵のテーマになるのは、彼女が直前に夢に視た光景である。
精緻な人物画や風景画もあれば、抽象画もある。
しかし大抵が今度の絵のように、どこか不安を感じさせるもので、およそ患者が集まる町医者の待合室に飾るに、ふさわしいものとは云い難い。
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そして彼女の描く絵は――。
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僕が、康雄たちの所属する山岳部のある都内の大学に足を踏み入れたのは、診察の翌日のことであった。
確かに僕の方が、桐子よりも――年齢的に――大学という空間に馴染むし、適任ではあっただろう。
こんなことを云った日は、あの横暴な雇い主から折檻(せっかん)をされてしまうだろうが。
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学内の地図を見ながら、講義棟とは別の、サークル活動用の建物を探して、生徒を装い侵入する。
もっとも他大学の生徒も出入りしているため、大学の関係者も区別はつかないであろう。
3階の奥まった部室の扉に、「山岳部」のプレートを発見した。
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扉は半開きになっており、ひとりの女性がうつむいたまま座っているのが見えた。
僕は思い切って声をかけて入室する。
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僕の姿を認めて、女性が顔を上げる。
警戒の色が浮かぶ前に、名乗りを上げる。
「――突然すみません、目崎(めざき)千里と云います。
室井康雄君、星明人君の知り合いで――」
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「――康雄と、明人君の?」
果たしてその女性は森野陽子だった。
僕の言葉に警戒を解いた曜子は、僕に椅子を勧めた。
僕は――人面疽のことは云わぬまま――康雄が明人の転落に心を痛めて、友人である自分に相談してきた、と話を作って聞かせた。
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「――そっか。やっぱり、康雄もショックだったんだ。
そうだよね、兄弟みたいに育った幼馴染みだもんね。
私なんかより、よっぽど――」
曜子は肩を落とす。
そうは云っても、彼女だって交際相手を亡くしているのだ、気を落とさないはずがない。
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「――あの、明人君の身体は、まだ見つかっていないんですか?」
僕は申し訳ないと思いながら、問いを口にする。
だいたい、桐子は僕に何を調べろと明確に指示をしなかったので、どんなことを聞き出せば収穫があったと判断すればよいか、わからない。
とりあえず、最新の情報と康雄の言動の裏付けを目指すしかない。
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「ええ、そう聞いてます。
かわいそう明人君。早く見つかってほしいです」
曜子は表情を沈ませ、黙りこんでしまう。
無理に会話を続けるのもはばかられて、部室の中を見渡す。
棚には山岳関連の本や、登山の写真などが置いてある。
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その中に、去年の日付の写真を見つける。
10人ほどの集合写真だ。登山の記録だろう。曜子の笑顔が目についた。
その右横で微笑む康雄。登山帽を被っている。
そして、左横で笑う、タオルを頭に巻いている――人面疽の顔――明人。
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「――去年の5月に、皆で登った長野の山の写真です。
二人とはサークルに入った当所から仲良くて」
曜子がさびしげに微笑む。
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そういえば、康雄の姿はここにはない。まあ、あの身体でサークルにも来られまいが。
曜子によると、事故があってから一度だけ、憔悴しきった康雄に会ったが、以来半月ほど顔も見せず、連絡もつかずに心配しているそうだ。
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「――やっぱり、明人君の告白を私が断ってから、おかしくなっちゃったのかな。私たち」
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sound:18
――ん?
――明人の告白を、曜子が断った?
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『曜子と明人は結ばれたんですよ――』
『俺は身を引いて――』
『幼馴染みの親友なら――』
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――なぜ食い違う?
――明人は曜子と付き合っていなかったのか?
――なぜそんな認識を、自身も曜子に好意を持っていたという康雄が口にする?
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「――曜子さん、失礼を承知でお伺いします。
貴女の好きな方は、この写真に映る、どちらの男性ですか?」
登山の写真、曜子を挟んで右と左。
困惑した曜子が指を指す。
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「――もちろん、こっちのタオルを頭に巻いた――」
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――そうだったのか。
そして僕は、桐子の真意と事の真相を知る。
【続く】
作者綿貫一
こんな噺を。
タイトルの読み方は「穢土切子(えどきりこ)の心霊(しんりょう)カルテ」、でお願いします。
久々の続きものです。