おふくろの味、はじめました。

中編5
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おふくろの味、はじめました。

ミンミンゼミだか、クマゼミだか、とにもかくにも蝉が五月蝿い季節になった。

儚い命を燃やし、叫ぶ声はどこに居ても聞こえる錯覚さえする。

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「あっついなぁ……」

都会の真ん中で、太陽の熱波を一身に受けたアスファルトの上を歩く。

我は企業の働きアリ。いつでもどこでも外へと回り。書類という書類を渡し歩いて、良いことばかりの法螺を吹く。

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只今、昼時、御腹が減った。

その辺の定食屋で昼食でもと、きょろりきょろりと目ぼしい場を探す。

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不意に、見えた。

それは、古ぼけたようで、新しい。

日本家屋といった風体で、涼しげな青の幟に白く大きな字で描かれているのは、

『おふくろの味始めました』と、珍妙である。

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「人それぞれだろうに」

男が口を尖らせ非難する前に、身体は正直にも狼声を発する。

ぐー、きゅるきゅる。

早く早くと、栄養を求めて。

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文句を言う前に、腹を満たすのが先だ。

と、足は勝手に運ばれる。

店の名前は見ることもなく、急いで急いで。

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「いらっしゃいませ。お一人様ですね」

お店に入るや否や、若い女性がお決まりの言葉で男を出迎えた。

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お店の中は、ひんやりとしているが冷風が吹き荒ぶわけでもない。

木の長机が等間隔に並び、同じように丸い椅子が並ぶ。

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見事にがらんどう。

誰も居ないのは、むしろ好都合だと男は空いている席に座る。

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「お冷とお絞りです」

とても良く冷えた水とお絞りだ。

冷たくて気持ちが良い。

夏にはぴったりだと、男は満足する。

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「こちらがお品書きになります」

若い女性が小脇から取り出したのは黒いメニュー表。裏も表も黒く、黒い。

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開いてみれば、ずらりと並ぶ多くの文字。

眼を疑ってしまうほどに、端から端までびっしりと、普通ではない奇妙なお品書き。

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『××年 ○○月○○日、ご飯、お味噌汁、ハンバーグ、野菜サラダ、きんぴらごぼう 砂肝 』

『××年 ○○月○○日 カレー 福神漬け チーズじゃがいも からあげ』

等々。

男は、単純に疑問に思うことを口にする。

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「この年と日にちっていうのは何だ。それに続くものは料理みたいだが」  

「この年のその日に、食べたことがあるものが書かれています。全ての人のおふくろの味。それが当店のモットーなので」

男は法螺吹きであるが、店員の女性には負けると、心中で白旗を掲げた。

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ぱらりぱらりと、いくつものページを眺めても、やはり、年月日が書かれている。

随分な量で、全てを見る気は毛頭ない。

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なにやら妙だが、もはや腹と背中がくっつきそうである。このような空腹には勝てる道理もない。

「このカレーでいい」

お品書きを指差し、店員に示す。

店員はにこりと笑い、かしこまりましたとお品書きを受け取り、厨房に引き下がっていった。

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大体の定食屋のカレーは早くできるものだ。

御飯をよそい、予め用意してあるルーをかけるだけなのだから。

何やらサラダとみそ汁もついてくるようだったが、時間はかからないだろう。

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さて、料理を待つまで、暇を潰すのは如何するか。男が店内を見回してみると、定食屋らしからぬ点が多く見つかった。

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「テレビもないのか……」

今時の食事処というのは、テレビの一つは置いてあるだろうに。

本や雑誌の類もない。かといって、鞄の中身を広げて仕事を思い出すのは、ごめんである。

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箸置きや調味料の類さえ置いていない。

あるのは、テーブルとイス。

何やら、テーブルにはシミにような痕さえ多くある。衛生環境は大丈夫だろうか。

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お品書きすら、壁に貼っていない。これでは、もはや食事処というより休憩所だ。

これはもしかしなくも、外れを引いてしまったのだろうか。

今は昼時。食事処の書き入れ時であろうに。

閑古鳥が鳴くとはこのことだろうか。

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心中に不安を抱いていると、ふと今が何時かが気になった。

男は腕時計を見やる。

時計の針が止まっていた。

「あれ、壊れたか」

今年の夏も暑いとは思っていたが、時計の針をもおかしくするとは末恐ろしい。

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いやいや。長年使用しているので、電池でも止まったのだろう。

時計は、午前の12時10分で沈黙している。

次の休みにでも修理に出そう。

では、スマートフォンで時間を確認しようと思ったところで、店員がお膳を持ってやって来た。

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「××年 ○○月○○日 カレー他、お待たせしました。ソースはお好みでかけられますね。

では、ごゆっくりお過ごしくださいませ」

男の前には、お膳に乗せられた料理が並んだ。

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カレー、みそ汁、野菜サラダ、スプーン、箸、ソース。

ごくごく普通であるのに。

それはそれは、とても懐かしい。

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「これは……」

男は、店の奥へと消えようとしている店員を呼び止めようと声を出そうとする、

が、何故だか声が出なかった。

店員は、店の奥へと引っ込んでしまう。

残ったものは、見慣れた料理の数々だ。

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「こんな、嘘みたいな話があるのか」

思わず声が出てしまう。

カレー、みそ汁、野菜サラダ。

別段、普通の料理であるのに。

香る匂いは、今は亡き母の料理の匂いがする。

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スプーンと箸の形状は、忘れるはずもない。これを昔使っていたのだから。

ああ、ソースだ。このソースをかけて、カレーを食べていたのだ。

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とてもとても、不思議で不自然な事だ。

けれどけれども、本当に。

「いただきます」

男は、震える手でスプーンを持つ。御飯とカレーを一緒に食べる。

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「ああ、この味だ」

迷わずに、ソースを取ってルゥにかけた。そうして、先ほど同様に口へと運ぶ。運ぶ。運ぶ。

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母は、お世辞にも料理が上手だとは言えなかった。

カレーの味さえぼんやりしていて、いつもソースをかけて食べていた。

ソースを掛けすぎるな、と、叱られたなあ。

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みそ汁をすする。これは、とても味が濃い。

具材は、豆腐とわかめと玉ねぎだ。

煮詰めすぎて、いつも熱々で出てくるので、最初に飲むと舌を火傷する。

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サラダを箸でつまんだ。キュウリがしっかりと切れていなくて、旗のように連なっている。

もっとちゃんと切ってくれよ。

ああ、そうだ。

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ぽつぽつぽつと、涙が落ちた。

頬を伝って、机を濡らす。

この味を、二度と食べることはないだろう。

そう、思っていたのに。

それが叶っているのだから。

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小さい頃の食卓が、誰も居なかった店内に浮かんでいた。

兄も、姉も、母も、父も、机を囲んで、食事を共に食べていた。

文句を垂れて、叱られて。笑っていた。

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食器が全て空になる。からん、とスプーンが音を立てた。

男は、ごちそうさま、と声を出すことはなく。

ただ、最後に涙の一滴が机に落ちた。

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「毎度ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」

店員は、誰も居なくなった店内で頭を下げる。

食器を片付けて、店の奥へと引っ込んだ。

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ミンミンゼミだか、クマゼミだか、とにもかくにも蝉が五月蝿い季節になった。

儚い命を燃やした、蝉の死骸がアスファルトに横たわっている。

いいや、それよりも。さっきからやたらにサイレンの音が五月蠅い。

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「……あっついなぁ」

都会の真ん中で、太陽の熱波を一身にうけたアスファルトに横たわる。

我は企業の働きアリ。いつでもどこでも外回り。良いことばかりの法螺を吹く。

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今は、何時か、分からない。

ただただ、眠くて仕方がない。

Concrete
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