中編3
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祖父の亡くなる時の話

高校一年生の二学期のまだ恋に恋をしていた頃。

ある日祖父が胃癌で倒れた。

私の祖母は後妻で、叔父夫婦が同居した後に今私が相続して住んでいる家に追い出され、叔父夫婦と祖父は一緒に住み、隣に祖母が住むといった、はたからみても歪な住み方になった。

どうして、そういった住み方になったかは後日の話の中で語れる機会があれば語っていきたい。

祖父は第二次世界大戦の頃から、大工一筋の苦労人で祖父の祖父が作った借金を返し、先祖代々の土地を借金の担保で取られ、八十歳過ぎ頃まで働いて土地を買い戻した。

とても根性のある優しい祖父でした。

昔から、祖父は自転車に乗って食パンを買いに行く姿をよく見かけておりました。

記憶の1番古いなかでも小学生の頃くらいの時から、買っている姿を見かけておりました。

祖父が亡くなった後母の姉から、なんで胃癌になってしまったか、の話を聞くことができました。

直接の原因とかそういったものでは無いのですが、息子が連れてきた嫁に食事を作って貰っていなかったそうです。

ある日祖父の食事だけ、ご飯にお味噌汁をかけたいわゆる【ねこまんま】を出され、食べずに自室に戻った事があったそうで、その後から祖父の食事だけ作られなかったそうです、祖父が倒れるその日まで。

何十年間の話かとても怖くてその時はそこまで聞けませんでした。

祖父が倒れ、進行も末期だった事もあり、みるみる祖父の体調が悪くなっていきました。

ある日母とお見舞い行くといつも通りに

「じいちゃん、お見舞い来たよ!」

と話しかけると。

「誰だや?」

と祖父から本当に誰だか解らないように返事をされました。

母が

「お父さん、何か食べたいものない?」

と聞くと

「今はなぁんにも無いなぁ」

といつもと同じに会話をしていました。

祖父の頭の中から、私といった存在が綺麗に抜け落ちてしまった事にとても悲しく怖く感じました。

当時は認知症といった事もよく知らなかったので、なんで忘れられているのかわからず、混乱しておりました。

祖父に私が忘れられてしまってから、次の日の夜だったと記憶しております。

危篤の知らせを病院から受け、叔父夫婦以外の祖父の子と子の家族が病院に駆けつけました。

祖父は目もあけず、苦しそうに息をしておりました。

皆んなじっとそんな祖父を悲しそうに見つめておりました。

そんな中、じんわりと祖父の身体から黒いモヤが薄っすらと立ち昇っているのが、だんだんとはっきり見えてきました。

不思議と涙がとまらず、じいちゃん本当に死んでしまうんだなと、ぼんやり泣きながら考えていました。

突然、母と母の姉が私と1つ下母の姉の息子に病室から出ていなさいと追い出されました。

少しして、祖父が亡くなったと看護師の人から私達子供は教えて貰いました。

それからは記憶が混濁しておりよく覚えていません。

葬式の準備の為、祖父の部屋をみんなで片し布団を敷き、祖父を寝かせ、絶やしてはいけない線香と蝋燭を付けて、後は明日のお通夜と葬式との運びになりました。

夜子供達で交代で線香と蝋燭を交換していったのですが、私の番の時、大好きな祖父の顔を最後に忘れないようにしようと思い、白い布を取ると不思議な事に祖父の目が開いているんです、綺麗な青い瞳を見せていました。

何故生粋の日本人の祖父の瞳が青いのか不思議ではありましたが、自分の家に帰って来て嬉しかったので、ついつい目を開けたのかなと私は思っておりました。

他の人が交換に行った時は開いてはいなかったみたいです、そんな事があったらすぐに話題にする人達だったので・・・。

葬式とお通夜、初七日と49日を一緒にやった事で叔父夫婦と兄弟達が喧嘩しておりましたが、そこは割愛させて頂きます。

後日、夜になると叔父の叫び声がたびたび聞こえるようになりました。

2ヶ月程続いておりましたので、母に理由聞くと、夜になると叔父さんがトイレや風呂、自分の部屋などへ移動の時に、祖父が立っていると相談されたそうです。

部屋が明るかろうが、他に家族がいようが見えるそうです。

祖父は寡黙な人でしたが、人の悪口や文句を言う人ではなかったので、祖父なりに死後叔父に改めて欲しい事があり、姿を見せたのかな?と今でも思っております。

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