長編8
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カエル

今から15年ほど前の話である。

当時小学生だった私は田舎に住んでいる母方の祖父母の家に頻繁に遊びに行っていた。

自分の家から自転車で数分の距離にあったので、高学年にもなると放課後にひとりで遊びに行ったりもした。

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祖母はお喋りな物知りで、いろんなことを教えてくれた。

好奇心旺盛な私はそれが楽しくて、時間も忘れて何時間も話したことも少なくなかった。

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対照的に祖父は寡黙な人だった。

もしかしたら声を聞いたことがないかもしれなかった。

それくらいに祖父と話した記憶がなかった。

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あるとき、私は二泊三日の計画を立てて祖父母の家に足を運んだ。

午後から母と一緒に祖父母の家に行き、祖母と母、私の3人でプールに行って遊んだ。

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学校の授業で入るプールは好きではなかったが、祖母と一緒だと楽しかった。

あっという間に日が暮れた。

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母と別れて家に帰ると、出掛けていたらしい祖父が玄関の前に立っていた。

「何しとるんかね」

祖母が尋ねても、祖父は答えない。

「鍵忘れて家の中に入れないんじゃない?」

私が祖母にそう言うと、祖父は軽く首を縦に振った。

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「最近よく鍵を忘れるんじゃよ、この人は」

よくあることだと笑って祖母は家の中に入っていった。私も慌てて後についていく。

祖父の目が私を舐めるように見ている気がして、気持ちが悪かった。

祖父はもしかしたら本当に喋ることができないのではないか。

そのときから祖父に対しては恐怖のようなものを感じて、避けるようになった。

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夕飯の準備をする祖母にべったりくっつき、私たちはプールでの話をした。

私は授業でクロールを教えてもらったのでそれを披露した。

祖母と母は顔を水につけたくないからといって、平泳ぎばかりをしていた。

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私は2人の平泳ぎの格好が妙に面白くて、何度も笑ってしまった。

夕飯を食べるときも、一緒にお風呂に入るときも、思い出し笑いが止まらなかった。

そして、いよいよ就寝時間になった。

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祖父母の家は昔ながらの一軒家で、居間と寝室である和室は長い廊下で結ばれていた。

廊下の窓にはカーテンがなく、夜になると外の闇が丸出しで、それだけでなく、その闇の黒に自分の全身が反射して映り、それがいっそうに怖かった。

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プールでの疲れがあったものの、せっかくの泊まりで興奮していたこともあって、しばらくは話に花を咲かせていた。

しかし、年というものには勝てないのだろう。

祖母はいつの間にか眠ってしまった。

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妙に静けさが沁みた。

田んぼで響くカエルの鳴き声がよく聞こえる。

それがとても寂しかった。

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しばらくカエルの合唱を聞いていると、ふと、カエルの声がとんでもなく近くで聞こえるような錯覚に陥った。

一匹のカエルが自分の腹の中で精一杯に鳴いているような、そのくらいに近いところで鳴いている感覚が拭えなかった。

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もしかしたら、夕飯にカエルが混ざっていたのかもしれないとか、寝転んでいる間に口の中にいつの間にか入ってきたとか、そんな馬鹿な考えが脳裏をよぎった。

不意に私は泣きそうになった。

小学生高学年とはいえまだまだ子どもだ。

私は捉えようのない不安を感じながらいつの間にか眠りに落ちていった。

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窓のがたがたと鳴る音で目を覚ますと、隣に祖母の姿はなかった。

廊下の窓から見える景色は昨日とは違ってどんよりしていて、いつ雨が降ってもおかしくないような曇り空だ。

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「こりゃ、嵐がくるねえ」

居間で朝食の準備をしていた祖母は私の姿を見つけるなりそう言った。

おそらく私が不安そうな顔をしていたためであろう。

しかし、私の頭の中は別な疑問で満たされていた。

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「おばあちゃん」

「なんだい?」

こちらを覗く祖母の顔を見る。不思議なことに、これから投げかける疑問が急に馬鹿らしく思えた。

それで、咄嗟に「今日の朝ご飯はなに?」

「見りゃわかるとおり、塩鮭と味噌汁じゃよ」

いかにも田舎らしい和風の朝食を前に、妙にほっとした気持ちになった。

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せっかくの祖母との時間を楽しもう。

そう胸に誓い、食卓に着いた。

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夜になると、風はいっそう強くなった。

午後から降り出した雨は風に煽られ礫となって窓ガラスを叩いている。

こんな天気なために、今日は一日中家の中で過ごした。

折り紙やお絵かきなどをして遊んだ。本当は外で思いっきり遊びたかったけど、これはこれで楽しかった。

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祖父はいつの間にか外出していたらしく、夕飯の時間になっても戻ってこなかった。

誰かが家にいるときは鍵は開けてあるので、中に入ってこれないはずはなかった。

正直、気味の悪い祖父には帰ってきてほしくないと思っていた。

しかし、心配そうな様子の祖母を見ると、なぜ早く帰ってこないのかと苛立ちもした。

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就寝の時間になっても祖父は帰って来ない。

携帯電話を持っているのか祖母に尋ねる。何度も電話したけど出てくれないらしい。

そりゃそうだろう。祖父は喋れないんだから。

私の中では祖父は完全に喋れない人になっていた。

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祖母はもう少し待って帰ってこなかったら警察に連絡するからと、私にさきに寝るように言った。

私も一緒に待っていたかったが、祖母の顔つきがいつもよりも怖くて、そして寂しそうで、私はしぶしぶと寝室に向かった。

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窓外の暗闇も気にならなかった。私は悔しかった。

祖父に私の楽しい時間を台無しにされたような気がした。

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床につくと、風の音が床を伝う振動となって聞こえてきた。

昨日のようにカエルの鳴き声は聞こえない。

さすがにこの嵐では呑気に鳴いてもいられないのだろう。

居間の明かりで廊下の方がぼんやりと滲んでいた。

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その明かりの中で祖父の帰りを待っている祖母の様子を思い浮かべた。

明日はもっと楽しんでやる。心の中で何度も繰り返した。

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どしんという音で目が覚めた。いつの間にか寝ていた私は、開かない目をこすりながら、隣の布団に視線をやった。

暗闇の中で何度も目をこらしたが、祖母の姿は確認できなかった。

私はおかしなことに気づいた。

暗闇が怖い私は、寝るときはいつも豆電球を点けていた。このように真っ暗になることはあり得なかった。

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そしてもうひとつ、居間の明かりも消えている。

真っ黒な廊下からは吹き叫ぶすきま風と激しく揺れる窓の音が絶え間なく聞こえてくる。

停電なのかもしれない。私は祖母の枕元に置いてある懐中電灯を手探りで探し、明かりを灯す。

祖母はやはり寝室にはいなかった。

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祖母はどこにいるのだろう。祖父は帰ってきたのだろうか。

もしかしたら、祖父を探しに行ったのではないだろうか。

心細くて、泣きたくなった。

昨日もそんな感情になったことを思い出した。確かあれは・・・・・・

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カエルの声。私は腹の中から聞こえるカエルの声で泣きそうになったのだ。

そのとき、

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げこげこげこげこげこげこ

嵐の合間を縫うように、居間の方から声がした。

私は硬直して動けなかった。

自分の影が懐中電灯の明かりによって天井に映し出された。その影も動けないでいる。

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げこげこげこげこげこげこ

その声はか細く、それでいてはっきりと私の耳に届いた。

私のおばあちゃんはどうなってしまったんだろう。

昨日の夜もおばあちゃんの仕業だったのだろうか。

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いくら考えても埒があかない。その間もずっと居間の方から声が聞こえる。

ついに私は居間の方へ行ってみる決意をした。

その声が段々と苦しそうになっていくのに耐えられなかった。

もしこれが祖母の声なら、自分が助けなければという責任感が芽生えた。

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しかし、自分はカエルになった祖母をこれまでと同じように愛せるだろうか。

そんな疑問も浮かんだ。

懐中電灯を持っておそるおそる廊下を進んでいく。

相変わらず外は大雨で、家の中からは声が聞こえてくる。

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げこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこげこ

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近づくにつれ声も大きくなった。

居間の前まで来たときには大量のカエルが一斉に鳴いているような大音量が耳に飛び込んできた。

廊下の距離からしてここまで大きい音が、寝室であれほどか細く聞こえるはずがなかった。

ということは、私が居間に近づくにつれて声も大きくなったに違いなかった。

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居間の中に意を決して懐中電灯を向ける。

そこにはちょうど犬がお座りをしたような格好の祖母が、机のそばで背を向けて佇んでいた。

祖母の格好は異様に不気味だった。

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私は思わず後ずさりをし、その拍子に懐中電灯を落としてしまった。

恐怖に震えながら懐中電灯を拾おうとしたとき、ばんという音のあと、何かが目の前に跳んできた。

転がる懐中電灯がそれの足下を照らした。

人間の足に吸盤がついた指。

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私はもう耐えられなかった。

私は咄嗟に立ち上がった。

逃げようとしたのだ。

それが間違いだった。

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祖母の形をしたそれは顔を上げた。その顔と目が合った。

空っぽの眼孔と口の中で大量のカエルが犇めいていた。

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私は気を失った。

それからのことはあまり鮮明には覚えていない。

再び目を覚ますとそこは寝室で、隣ではいびきをかきながら祖母が寝ていた。

ぐーぐーという規則正しい寝息は、決してカエルの鳴き声ではなかった。

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あれは夢だったのか。

窓外に目をやると、昨日の嵐が嘘のようにからっと晴れ上がっていた。

まるで昨晩の嵐も、祖父がいなくなったことも、プールに行ったことも、すべてが夢の中の出来事のように思えた。

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しかし、あれから祖父は本当に帰ってこなかった。

いつ家を出たのかも、何が目的でそうしたのかも、なにひとつわからなかった。

私はいまでも祖母の家に遊びに行くことがあるが、あれから祖母の家に泊まることはなかった。

祖母は相変わらずお喋りだが、祖父のことについて話したことは一度もない。

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そろそろこの話も終わりにしようと思う。私はこれから早急に荷物をまとめなければならない。

蒸し暑い部屋で長時間パソコンに向き合って、さすがに疲労した。三階の部屋から駐車場までの階段ですら億劫だった。でも、この部屋から出なければならない。

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蝉の声よりもうるさい、カエルの鳴き声が聞こえる。それがいっそう暑さを助長しているように思えた。

ついこの前会社の同僚と花見に行ったばかりだというのに、年をとると時間の流れが早くなるというのは本当のようだ。

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本当に急がないと。

私はそうつぶやくとデスクから立ち上がった。

まるで何ごともないように振る舞った。そうしないと、自分がおかしくなってしまいそうだったから。

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深い溜息をつくと、荷物の準備に取りかかろうとした。

それでも、心の中で呟かざるをえなかった。

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あの窓にへばりついている、人の形をした影はなんだ?

Concrete
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