実習の話 〈『話』シリーズ〉

長編19
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実習の話 〈『話』シリーズ〉

僕が通う大学の福祉学科は、「現場こそ最大の学び」がモットーだ。そのため、四年間のカリキュラムには毎年何らかの実習が組み込まれている。

学生の実習なんて、現場で実際に働いている方からすればお遊びのようなものだろうが、当人たちにとっては非常な緊張とストレスをもたらす行事だった。実習が好き、なんていう人は、僕の身近にはまずいない。

実習が大変なのは、指導担当の教授にとっても同じことだった。

なにしろ、学生の常識は社会の非常識。そのことを知らないひよっこたちに一から細かく指導して、実習先に失礼のないよう現場に送り出さなければならない。

学生たちが頭を黒く染め直し華美なパーマを結んだり切ったりするようになると、「もうすぐ実習が近いのだな」傍目からでもわかった。

・・・・・

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一年生の冬のことだ。

一年時の実習は毎年二月、長い春休みに入る前に行われる。初めての実習は現場の雰囲気を知ることが目的なので三日間しかないのだが、たかが三日、されど三日だ。

一年生なんてひよっこ中のひよっこなので、実習指導の教授は気合が入るのだろう。目立つ外見の学生は次々呼び出しをくらい、身だしなみをダメ出しされていた。

正直、服装も髪色も普通を通り越して地味に近い僕には、関係のない話だと思っていた。

しかし。

「あなたね、その前髪をなんとかしないと」

とある昼下がり、僕は実習指導教授の研究室に呼び出されていた。

「でもこれは…」

「あなたの左目の事情はわかっています。でもそれにしたって、その髪型は印象が悪すぎるわ」

中年の女性教授は、ビシッと僕の前髪を指差した。

僕はいつも、前髪を斜めに伸ばして左目を隠すという、非常に鬱陶しくかつ個性的な髪型をしている。確かに、これではビジュアル系バンドか某妖怪アニメのファンだと思われても仕方がない。別にそれらが悪いわけではないが、学びを請うための実習にふさわしくはないだろう。髪色ばかりに気を取られ、完全に盲点だった。

でも、この髪型にも一応理由はあるのだ。

「まず、あなたを傷つける意図はないと最初に言っておきますね」

教授は少し言いにくそうに口を開く。

「事故で左目がほとんど見えなくなってしまったということは、聞き及んでいます。ですが、それを前髪で隠す必要が必ずしもありますか? その髪型では、100パーセントあらぬ誤解をされます。三日間の実習ではそれを払拭することは不可能です」

教授の言うことは、よく理解できるのだけれど。

大学入学前の事故のせいで、僕の左目は明暗を分ける程度の視力しかない。この独特な前髪はそのためだと、僕は明言してはいないが周囲の人たちはそう思っている。

本当は別の理由があるのだが、それは言ってもおそらく理解されない類のもの、けれど僕にとっては重要な理由だった。

僕は頭をフル回転させ、なんとか言い訳を口にする。

「左目は、完全失明したわけではなくて、なんとなく明るさだけは感じ取れます。瞼を開けているとその微妙な視力がものを見るのを邪魔しますし、常に閉じているのは変かなと思って、前髪を伸ばして隠しているんです」

しどろもどろになりながらなんとかそう言うと、教授は仕方ないわねというようにため息をつき

「じゃあ、眼帯はどう? 以前していたことがありましたよね。そっちの方がまだマシです。そして、先方には理由をキッチリ伝えること」

と、なんとか妥協してくれた。

「実習直前にちょっと怪我して〜、とか、ごまかしたらダメですか?」

「あなたね、嘘はダメですよ。実習をどう捉えているかは知らないけど、将来就職でお世話になる可能性があるのに、そんなその場限りの嘘をついてどうするんです。それにその嘘は、自分が実習前に怪我をする粗忽者だということを晒し、実習を軽く見ていると宣言するようなもので失礼です。ありのまますべてを伝える必要はありませんが、嘘はいけません」

正論すぎて、ぐうの音も出ない。

僕は慌てて「失礼しました」と謝り、ほうほうの体で研究室を脱出した。

部屋を出る直前、「その前髪は必ず切ること!」と厳しい声が飛んできた。

・・・・・

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僕の左目は事故を原因にしてほとんど見えなくなってしまってしまったのだけれど、その代わりになぜか、今まで見えなかったものを映すようになってしまった。

それは妖怪とか幽霊とか思念とか呼ばれる、通常では見えないものたち。

それらのものは四六時中場所を問わず、僕の目の前に現れては消えまた現れるのだけれど、不思議なことに目を瞑ったり覆ったりするとピタリと見えなくなる。

僕が鬱陶しい髪型を維持しているのは、このためだ。

眼帯でも効果は変わらないのだが、目立つ上になんだか周囲の同情を買いそうで気が進まなかった。視力がほとんどなく奇妙なものが見える、ということを除けば、僕の左目はもう痛くもかゆくもなく、外見的にもいたって普通なのだ。前髪を伸ばして「鬱陶しい奴」と思われる方がまだマシだった。

だから今回の教授の指摘はショックだったのだけれど、かといって「なぜこの髪型なのか」を先方に納得させる自信は、僕にはなかった。

諦めて、実習の直前に自宅アパートで断髪式を行なった。

なんだか顔の左側がスースーして落ち着かない。そんなことを思いながらゆっくり瞼を開けると、僕の斜め後ろに立つ恨めしげな女の姿が、目の前の鏡に映った。

僕は喉まで出かかった悲鳴を必死で押し込み、眼帯を先につけなかったことを心の中で激しく後悔しながら、準備して置いた眼帯で左目を隠す。

女の姿も、僕の横で一緒に鏡を覗き込んでいた大きな魚も、あっという間に見えなくなった。

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実習先は、特別養護老人ホームだった。介護が必要な高齢者が入所する施設だ。

ちなみに、実習生は僕一人だ。複数人の実習生が一つの実習先にまとまって行くと、実習生同士が固まってしまい積極的に動かなくなるから、という理由で、どの実習先にも実習生は一人ずつ。憂鬱だ。

実習初日。会議室で簡単なオリエンテーションを受けた後、説明をしてくれた事務課長が、「もう、ユニットから担当者が迎えが来るはずなんだけど」と扉の方を振り返った。

その時、パタパタパタという忙しない足音が聞こえたかと思ったら、「失礼します」という声と同時に会議室の扉が開く。

「すみません、遅くなりました」

少し息を切らした女性が、慌てた様子で入ってきた。

「………」

「………」

「じゃあ主任、あとはよろしくお願いますね」

事務課長がそう言いながら会議室を後にする中、僕と入ってきたばかりの女性は無言で見つめあっていた。

別に、出会って一目で恋に落ちたわけではない。

どこかで見た顔だな、とお互い記憶の中を探していたからだ。

たっぷり五秒ほど見つめあった後、女性の方から口を開いた。

「あの、線路沿いのアパートに住んでたりします? AからF棟まである…」

「はい。そこの、A-202です」

「やっぱり! 私そこの」

「203号室ですよね?」

「そうそう!」

なんと、彼女はお隣さんだった。どうりで見たことあるはずだ。

「どこかで見たことあるとは思ったんだけど、いつもと髪型が違うからすぐにはわからなかったわ」

「あ、この眼帯は…」

「うん、実習生の片目失明のことは事前に聞いてはいたんだけど、君だったとはね。なるほど、それでいつもあの鬱陶しい髪型だったわけだ」

「……」

「で、学校から髪型ダメ出しされて、その眼帯してきたんでしょ?」

「…はい、そのとおりです」

お隣さんは、歯に絹着せぬ性格らしい。

それでも、サバサバした物言いからは意地悪や嫌味らしいものは感じられなかったので、僕はホッとした。

僕らは改めて自己紹介をし、「それじゃ、早速行こうか」と現場へ行くことになった。

先に立ったお隣さんの後ろ姿を見て、僕は彼女が少し変わった髪型をしているのに気がついた。

長い髪を後ろで一つにまとめておだんごにし、残りの髪はおだんごに巻きつけることなくそのまま後ろに垂らしている。後ろからだとまるで、黒いてるてる坊主のように見えた。

よし、彼女のことはテルテルさんと呼ぼう。

内心そう決めた時だった。

「そうそう」

キビキビと歩いていたテルテルさんが、急に立ち止まって振り返った。考えていたことがバレたのかと、僕は心臓が跳ね上がる。

テルテルさんは、少し言いにくそうに言った。

「ここ、ゴキブリが時々出るんだけど、大丈夫?」

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「ここの特養はユニット型といって、ワンフロアが二つのユニットに分けられているの。それぞれのユニットには、キッチンとリビング、お風呂と、利用者の居室が十部屋ずつあって、食事や入浴もそこで行います。なるべく、利用者が家庭で生活していたのと同じようにね」

テルテルさんは説明しながらサッサカ歩く。足が速いのでついていくのがやっとで、とてもメモを取る余裕はない。

「メモなんて取らなくていいよ。ユニット型の説明なんて、教科書に載ってるでしょう」

テルテルさんには、実習生の考えなんてお見通しなのだろう。そう言って、一つの扉の前で立ち止まった。

室内だが、扉はまるで玄関のような見た目で、『鳥』という表札が付いている。

「ここが、君が実習する鳥ユニットです。私はこの階全体の主任だからいつも一緒にはいられないけど、今日はこっちにいるから、わからないことはなんでも聞いてね。実習生は聞いてなんぼ」

「はい」

「緊張してる? 大丈夫よ。利用者は実習生に慣れてるから、フォローしてくれるわ。それに君のその眼帯、利用者とコミュニケーション取るには絶対有利よ。がんばれ」

テルテルさんはニコッと笑って、扉を開けた。

明るいリビングでは、三人のお年寄りが座っていた。

談笑でもしているのかと思ったが、違う。

一人は口を半開きにしてボーッと窓の外を眺め、一人は俯いてカーディガンの裾をずっと弄っている。車椅子に乗ったもう一人は誰かと会話しているのかと思いきや、誰もいない右側に延々と話しかけていた。

僕が唖然としていると、正面にある半分開いた扉から「おぉい」というか細い声が聞こえてきた。

僕は幽霊の類は見ることしかできないのだけれど、この時は声まで聞こえるようになったのかと戦慄した。それほど、その声はまるで井戸の底から響いているように不気味で恨めしげに聞こえた。

すぐに「はいはーい」と返事をしながら職員がその部屋に入っていったので、まさか幽霊の声ではないのだろうけど。

ーーこんな状況で、どうコミュニケーションを取れと?

思わずテルテルさんを振り返ると、彼女は笑顔のまま再度「がんばれ」と親指を立てた。

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実習二日目。

昨日感じた衝撃はまだ残っていたものの、僕がめげることなくこの日を迎えることができたのは、テルテルさんの言っていた通り利用者さんたちのフォローのおかげだった。

最初は、「こんな人たちになにができるのか」と愕然としたのだが、僕がリビングに入り自己紹介をすると、利用者さんたちの意識がこちらを向くのがすぐにわかった。

興味と親しみ、少しだけ警戒心。

「あんた、生まれはどこ?」

「その目はどうしたんだ」

「年はいくつ?」

「怪我したの、病院は行ったの?」

話ができる方もできない方も、僕へ惜しみなく質問と視線を送ってくれた。

人によっては不躾、不快とも感じる質問攻撃だったが、僕はあまり気にならなかった。というか、正直助かった。

テルテルさんの「利用者のフォロー」と「眼帯が役に立つ」という言葉が、これ以上ないほど理解できたのだった。

今回の実習は見学が主な目的のため、基本的に僕らは直接介護を行うことはできない。職員の介護を見て学び、利用者さんと話をし観察することで学ぶ。

最初は退屈そうに思えたが、これが意外と発見が多く楽しかった。

テルテルさんは今日は夜勤だということで日中いなかったけれど、他の職員の方も気さくな方が多く、そのおかげもあって実習はスムーズに進んでいた。

その日の昼食後。

一人の男性が車椅子を押されながらユニットにやってきた。言い方は悪いがヨボヨボのおじいさん、という印象だ。

職員たちは口々に「おかえりなさい」「もう大丈夫?」と声をかけるけれど、男性は聞いているのかいないのか、軽く目を閉じ首をゆっくり振るだけで返事はしない。

車椅子は、リビングで一番日当たりのいい場所に停められた。

「あの方はね、ここ最近体調が悪くて、医務室にプチ入院中だったの」

職員の一人がそう教えてくれる。

「プチ入院?」

「うちは看護師も二十四時間常駐してるから、ちょっとした体調不良なら医務室で見てもらえるの。大したことないみたいで良かったわ」

職員は僕を伴い、男性に近づいた。目の前に座り、男性の膝に手を置いてゆっくり語りかける。

「おかえりなさい。あのね、今、実習生さんが来てるんです。ご挨拶してもいいかしら」

そしてそっと僕に耳打ちをした。

「この方、目が不自由なの。だから肩や膝に触れて自分の存在をアピールしながら、声をかけてね」

僕は言われたとおり、職員の真似をしながら話しかけた。

「こんにちは。明日までですけど、お世話になります」

男性は先ほどと同じように、返事はせず目を閉じたままだ。

反応はないかな、と思った時だ。

突然、男性がスンスンと鼻を鳴らし始めた。犬が何かを探る時のように、大きく鼻を動かし匂いを嗅いでいる。

男性はぎこちなく、でも確実に車椅子から身を乗り出して、僕の肩のあたりをスンスンと嗅いだ。

そして

「おハルの、匂いがするなぁ」

震えて掠れがちな声でなんとかそれだけ言うと、またパタリと車椅子に身を預けた。

僕が呆気にとられていると、男性が車椅子から落ちないよう支えていた職員がフゥとため息をついた。

「幻臭って、わかる? 幻の臭いって書くんだけど、認知症の症状のひとつで、そういうのが現れることがあるの。この方の場合もそれでね。今みたいに時々、何も匂わないところをスンスン嗅いで、〇〇の匂いがするっていうことがあるのよ。気にしないでね」

声をひそめてそう教えてくれたが、僕は男性に言われたことが気になった。

『おハルの、匂いがするなぁ』

おハルとは、僕の人生の先生である占い師のハルさんのことではないだろうか。

そう思ったからだ。

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実習三日目。

ユニットで出勤の挨拶をしていると、夜勤明けのテルテルさんが近づいてきた。

「おはようございます」

「おはよう。私九時に上がるから、そのあと少し実習の振り返りをしましょう。会議室に来てね」

はい、と返事をしながら、僕はなんだかヘロヘロと歩くテルテルさんの後ろ姿を見送った。

一昨日は、あんなにキビキビと歩いていたのに。夜勤はやはり大変なんだろう。

言われたとおり九時に会議室へ向かうと、テルテルさんはなぜかそこでメロンパンをかじっていた。

「…お疲れさまです」

「お疲れさま。ごめんね、お行儀が悪くて。夜勤明けって妙にお腹が空くんだよね。もう退勤だし、勘弁してね」

テルテルさんは悪びれずそう言うと、僕に椅子を勧めた。

「今日で最後だけど、何か気になることはあった?」

促されて、僕は昨日の幻臭の件を話した。

あの後、何度か男性に話しかけたのだが、二度と匂いを嗅がれることも口を開いてくれることもなかった。何がどうとはうまく説明できないのだけれど、何かその男性のことが気になっていたのだ。

テルテルさんはフンフンと頷き、メロンパンをコーヒーで流し込んでから言った。

「幻臭とか幻視とか幻聴とか、まとめて幻覚っていうんだけど。それらは明らかにありえないものでも、利用者にとっては実際に感じているものなの。脳の認知の部分に障害が出る病気だからね、認知症って」

「はい」

「だから、そういった幻覚を頭ごなしに否定してはダメ。利用者の言っていることを受け止めながら、危険のないよう介護をしないとね」

「はぁ」

「実際にどんなふうに関わるかは、現場にどっぷり浸かってみなきゃわかんないよ。三日間じゃ無理無理。とにかく、幻覚を否定しない、ってことだけは覚えといて」

テルテルさんはそこまで言って、「でもねぇ」と少し難しい顔をする。

「…君は、認知症の種類について少しは勉強したのかな?」

「種類? アルツハイマー型とか、レビー小体型とかですか?」

「そうそう。幻覚っていうのはね、レビー小体型認知症でよく見られる症状なの。でも、あの方の診断名は、アルツハイマー型なのよねぇ」

コーヒーを一口含み、「こんなこと、言っていいのかわからないけどねぇ」と迷うように視線を泳がせながら、テルテルさんは口を開いた。

「君は、幽霊とかおばけと、信じる方?」

「は?」

突然のその質問に、僕は間抜けな声を出した。テルテルさんは「ごめんごめん、変なこと言って」慌てたように言う。

「す、すいません。変だとか思ってないです。僕は…幽霊とか、いるのかな、とは思います」

さすがに「見えます」とは言えず、僕は曖昧にそう答えた。

でも、テルテルさんの意図がわからない。

テルテルさんは、言おうかどうか迷うようにしばらく目を瞑り、やがてゆっくり話し始めた。

「私も、幽霊とか見たり聞いたり感じたりはできないんだけど。でも、ここで働きはじめてから、やっぱり君のようにそういう存在はいるのかなって思うようになったの。病院ほどじゃないにしろ、ここで最期を迎える方は何人もいるし、ここはある意味では病院以上に、死に近い場所だから。夜勤なんかしてると、それなりに不思議なこともあるのよ」

「はぁ」

ますます意図がわからない。テルテルさんは「変なこと言ってごめんね」とまた謝った。

「何が言いたいかっていうとさ。あの方の幻臭、本当に幻覚なのかなって思う時があるのよ。私たちが気づかないだけで、あの方は確かにあるなにかの匂いを嗅いでいるのかもしれない、ってね。……本当はこんなこと、言っちゃいけないんだけど」

テルテルさんはそこでぐっと声をひそめた。

「あの方は、人の死の匂いを嗅ぎ分けてる気がするわ。もうすぐ亡くなる方の匂いっていうのかな。それがわかってる気がする。具体的には言わないけどね」

「…僕、クンクンされちゃったんですけど」

昨日のことを思い出して僕はゾッとした。

僕自身も気がつかない死臭を、僕は放っているのだろうか。

僕は泣きそうな顔をしていたのかもしれない。テルテルさんは「大丈夫大丈夫」と笑った。

「私も嗅がれたことあるけど、ピンピンしてるもん。人の死ぬ前の匂いを嗅ぐ時はさ、特徴があるのよ。まぁ、私が思い込んでるだけかもしれないけどね」

その特徴とやらをぜひ確認したかったのだけれど、テルテルさんは言葉を濁して教えてくれなかった。

テルテルさんがチラリと壁の時計に目をやる。僕もつられて時計を見ると、九時半を指していた。

「ちょうどいいくらいの時間かな。ごめんね、変な話しちゃって。本当ならこんな話するべきではないんだろうけど…、後半のことは、日誌には書かないようお願いします」

少しおどけてそう言って、大きなあくびを一つする。そういえば夜勤明けだった。

「すいません、眠たいところありがとうございました」

僕は慌てて立ち上がってそう言った。今日は実習最終日、ということは、テルテルさんとはこれで最後なのだ。

まぁ、アパートに帰れば隣にいるのだけれど。

テルテルさんも同じことを思ったのだろう。

「そんなにかしこまらなくてもいいよ」

と笑った。

会議室を出る時、テルテルさんがふと言った。

「君さ、この仕事向いてると思うよ。ここの職場においでとは言わないけど、ぜひこの職についてほしいな。がんばれ」

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ユニットに戻ると、リビングがなにやらざわついていた。

「あ、実習生くんちょうどよかった! こっちの利用者さんたち頼むわ!」

男性職員が、棒立ちの僕に指示を出す。僕は慌てて「こっちの」と言われた方に駆け寄ると、そこには四人の利用者さんが縮こまるようにしてソファ周辺に集まっていた。

とりあえず、利用者さんたちの側に寄る。そしてリビングを振り返ると、異様な光景が目に入った。

男性利用者が一人、テーブルの縁をなぞるように歩き回っている。ふらつきよろけ、しきりに首を左右に振ってなにやらブツブツ呟きながら。先ほどの男性職員がその隣に立って、一緒に歩きながら利用者さんが転倒しないよう時折手を貸していた。

それは、先ほどテルテルさんとの話に出てきた、あの方だった。

よく見ると、ただ首を振っているのではない。肩のあたりや腕や手のひらに鼻を近づけ、匂いを嗅いでいるようだった。

「くさいくさいくさいくさいくさいくさいくさいくさい…」

ブツブツとそう呟いている。

僕が呆気にとられているうちに、隣のユニットから二人の職員が走ってきた。どうやら応援を呼んできたようだ。

職員二人が目配せをしあい、利用者さんの両脇に立つ。腕を一本ずつ掴んで、半ば引きずるようにして居室へ連れて行った。

「くさいくさいくさいくさいくさいくさい」

「うん、嫌な臭いがするんやな。嫌やなぁ」

「お部屋に行って、お香でもたきましょうかね」

「くさいくさいくさいくさいくさいくさいくさい…」

もう一人の職員は僕のところに来て、ニコリと笑顔を見せた。

「びっくりしたでしょう。少しお部屋で落ち着いてもらいましょうね」

その笑顔も言葉も、僕ではなく利用者さんに向けられたものだ。そう気づいた時は少し気まずかったが、照れる間もなく職員に指示され利用者さんのフォローに回った。

といっても、状況がまったくわかっていない僕に「大丈夫ですよ」と言われて、利用者さんが安心できたかどうかはわからない。

利用者さんたちが落ち着いた頃、残りの二人の職員も戻ってきた。応援に来てくれた隣のユニットの職員を送ってから、今度こそ僕に「びっくりしたでしょう」と声がかけられた。

「あの、なにがあったんですか?」

僕の質問に、二人の職員はちらりと顔を見合わせる。

「昨日、あの方の幻臭のこと話したでしょう? 今のもそれよ」

「でも、昨日とはだいぶ様子が違いましたね」

「時々、あんな風に不穏な状態になってしまうことがあるの。主任から聞いたと思うけど、ああいう時はとにかく、本人さんの言うことを受け入れながら、本人と周辺に危険がないようにね。場所を変えて刺激の少ないところで、さっきは落ち着いてもらったの」

職員は淀みなく答えてくれたけれど、どこか教科書を読んでいるようだった。

「あの… 『くさい』って、どんな臭いなんでしょう」

僕の質問に、職員たちはもう一度ちらりと目配せしあった。

「さぁ、俺らにはわからんけどな。で も、幻臭って大概、嫌な臭いがらしいで、なぜか」

その言葉に嘘はないのだろう。

でも、すべてが語られているようには思えなかった。

テルテルさんの言葉が頭をかすめる。

『あの方は、人の死の匂いを嗅ぎ分けてる気がする』

先ほどの光景が頭に浮かび、僕は二の腕が泡立つのを感じた。

もしテルテルさんの言うことが正しいのだとしたら、あの方は今日、誰のどんな『匂い』を嗅ぎ取ったのだろう。

・・・・・

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その日の帰り道、僕は家ではなく駅へと向かった。

ハルさんに会いにだ。

改札を出てすぐのパン屋の隣に店を出していたハルさんは、僕を見て少し驚いた顔をした。

「あれ。あんた、今日は来る日だったっけ?」

「いえ、そうじゃないんですけど…」

「だよね、あぁびっくりした。私がボケたのかと思ったよ。それにその眼帯、どうしたの」

ハルさんの隣に腰掛け、僕は実習があったこと、今日は最終日でその帰りだということを話した。

「それで、変わった方に会ったんです。ハルさんのことを知ってるみたいでした。こう、僕に鼻を近づけて…」

言いかけて、ハルさんに制止された。

「これこれ、守秘義務ってもんがあるんやろ?」

「あ、でも…」

「大丈夫。もう、誰のことかはわかってるよ」

「え?」

僕は慌てて、つけっぱなしにしてた眼帯を外した。

もしやハルさんの隣に、あの方の姿が見えるのかと思ったけれど、そんなことはない。いつも通りの駅の怪異が左目に映るだけだ。

「あの人はね、昔の同業者だったんよ。古い付き合いの人間のことは、知りたくなくてもわかっちまうんだよね、これが」

ハルさんが寂しそうに笑うので、それ以上僕はなにも聞けなかった。

・・・・・

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僕たちひよっこ一年生は、実習が終わるとそれですべてが終わりだと思ってたのだけれど、もちろんそんなことはない。レポートを提出し、教授たちを前に報告会をして、ようやく春休みだ。

終わった開放感からか、春休み初日は目覚めたらもう昼前だった。

小腹が空いたのでコンビニにでも行こうと家を出ると、

「あ」

「あ」

たった今帰ってきたと思しきテルテルさんと、廊下で鉢合わせた。

「お、お疲れさまです」

「おつかれ。もしかして、今起きたとこ?」

「うっ…はい…」

「はは。いいねぇ、大学生は」

テルテルさんは笑ったが、声に力はない。目の下に濃いクマがあり、憔悴した様子だった。

「大丈夫ですか? 夜勤明けですか?」

「うん」

「それにしても、遅いですね」

なにかあったのだろうか。

テルテルさんは少し迷うように視線を泳がせた後、ポツリと「亡くなったのよ」と呟いた。

「え?」

「あの方。昨夜ね、食事を詰まらせて。救急搬送したんだけど、間に合わなくて… 元々、延命処置はしないって言ってた方だったから、病院でそのまま」

「そう、だったんですか」

テルテルさんははっきりとは言わなかったけれど、僕にはそれが誰のことなのかすぐにわかった。驚きよりも、やはりという気持ちが胸を占める。実習最終日に見た、あの異様な姿が思い出された。

あの時嗅ぎ取った『匂い』があるとすれば、それは自分から立ち上っていたのだろうか。

「…ご愁傷さまです」

「うん。こればっかりはね、慣れないね、やっぱり」

テルテルさんは疲れた顔で、長いため息をついた。そして、僕の顔をはたと見て苦笑する。

「こら、君までそんな顔しないの。あの方を思うんなら、あとでゆっくり手を合わせてあげて。それで十分よ」

「あの、大丈夫ですか?」

「私? 私は大丈夫よ。もちろん辛いけど、しっかり反省して、手を合わせて、また次頑張らなきゃね。これが仕事だもの」

「強いですね」

「君も大丈夫よ。言ったでしょ、センスあるって」

お世辞なのか冗談なのか、テルテルさんはニコリと笑ってみせた。

それはとても男前でかっこよかった。怒られるかもしれないから、言わなかったけれど。

「よかったら、また来てね」テルテルさんはそう言って、大きなあくびをしながら部屋へと戻った。

あの方が、今までどのような人生を歩んできたのか、僕はまったくわからない。

でも、ほんの少しすれ違った程度でも関わりを持てたこと、あの方の物語の最後の一ページに髪の毛一本分でも混ざれたことは、とても光栄なことだと思った。

僕の初めての実習の話は、これにておしまい。

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