長編20
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桜花精の夜

 

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 俺は桜が咲き始める季節になると、恐ろしくて堪らない気分になる。

 満開の桜を想像しただけで背筋がゾッとするほどに怖い。

 ただ怖いのではない。心の全体が言いようのない不安感に支配されてしまうのだ。

 昭和の有名な某作家はある作品において、桜は恐ろしいものだと書いている。

 桜は美しいけれど、言いようのない不気味さがあるというのは理解できる。

 ただ、俺の場合はその作品を読んだ影響で恐怖を理解したのではない。実体験があるからなのだ。

 かつては自分も桜を恐れてはいなかった。

 どちらかと言えば、好きな方だったかもしれない。

 あの春の夜を迎えるまでは……。

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 あれは三年前のことだった。

 四月上旬。その年の春は例年よりも気温が高かったのを覚えている。

 ある日の夜、俺はベッドの中で目を覚ました。

 自分が横になっているベッドの左隣には簡易ベッドが置いてあり、そこでは夜勤のヘルパーがすやすやと寝息をたてながら眠り込んでいた。

 俺は全身の筋力が衰えていく進行性の難病を抱えている。二十四時間、人からの手助けが無ければ生活することはできない。動かせる場所と言えば、首と指先ぐらいなものである。

 もちろん、一人ではベッドから起き上がることができない。介護なしではトイレや風呂場にも、一人では行くことができないというありさまだ。

 とは言っても毎日、二十四時間ホームヘルパーを自宅に派遣してもらっているから生活に不自由はしていない。

 日中は電動車椅子に乗せてもらえれば、自力で移動することができる。電動車椅子というのは、電動モーターを原動力とする大小四個の車輪がついた車椅子のことだ。手元にあるジョイスティックと呼ばれるレバーで前後左右に方向転換させ、電動車椅子を動かすことが可能だ。

 だいぶ話が脱線してしまったが、とにかく自分はそんな状態の人間である。

 深夜に目が覚めてしまった後、どうしても寝付くことができなかった。仰向けの状態で寝ていた俺は天井を眺めながらぼんやりとしていた。

 ふと、生暖かい風が顔を撫でてきた。どこから吹いているのだろうかと辺りを見渡したところ、ベッドから見て右側の壁にある窓が少しだけ開いていた。その窓の隙間から穏やかな風と一緒に夜気が室内に入り込んでいたのだ。

「もう季節は春なのか」と当たり前のことを一人呟いた。

 ──そういえば……。

 俺は最近、近所に桜の綺麗な公園があるという話を耳にした。

 自分が住んでいるアパートは、川の土手沿いに位置している住宅街の一角に建っていた。駅から徒歩で二十分ぐらいの距離にあり、それほど交通に不便な場所ではない。

噂に聞いた公園は川沿いにあるらしい。その公園の敷地内には綺麗な桜がたくさん植えられており、たいして有名ではないものの春になると毎年、近所の住民達で賑わっているという。

 夜桜も風情があって、良いかも知れないな。

 俺はそんなことを思いついた。

 早速、ヘルパーを起こして外出の準備をすることにした。俺は一人で夜桜を観に行ってくると言ったが、目的地はすぐ近くの公園であるせいかとくに心配はされなかった。

 服を着替えさせてもらい、電動車椅子に乗せてもらった。

 俺は外出の準備が終わった後、ヘルパーに留守番を頼んで自分の部屋を後にした。

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俺が住んでいる町は川岸の近くに位置している。

 川には一本の橋がかかっていて、その橋を渡った先の対岸に目的の公園があった。

 そこまで行くのにたいした時間はかからない。車椅子でも五分程度といったところだろうか。

 近隣の家々のほとんどが寝静まり、アスファルトを走る電動車椅子の静かなモーター音だけが響いていた。

 深夜一時過ぎ。公園はすっかり静まり返っていた。

 沿道を行き交う自動車の数はまばらであり、自分以外には誰もいなかった。

 夜空には、満月がぼんやりと浮かんでいた。

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 しんしんと降り注ぐ月明かりに照らされた桜の花びらは綺麗だったが、連日の雨のせいでほとんどが散ってしまっていた。

 これでは風情も何もあったものではない。

 せっかく天気が良くなったから見に来たのに。残念だな。

 俺は無残にも地面に散ってしまった花びらを眺めながらため息をついた。

 ここは諦めておとなしく帰ろうと思い、公園を後にすることにした。

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 もと来た道を低速で走っていると、どこからともなく良い匂いが漂ってきた。それは果実にも似た甘い香りだった。

 俺はその香りにすっかり魅了されてしまった。何かに憑りつかれたかのように、その匂いを追いかけた。

 橋がある場所からはどんどん遠ざかっていく。

 香りに誘われるがまま移動し続けているちに見慣れた風景から離れていった。気が付いた時には見知らぬ場所に迷い込んでいた。

 そこには古い寺や神社が数多く点在していた。

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 こんな場所なんてあっただろうか?

 魅惑的な香りに魅了されていたとはいえ、見覚えのない場所に足を踏み入れてしまったことに多少の不安はあった。

 普段の自分だったらそこで引き返していたのかも知れない。

 だが、その時の俺の感情は不安よりも好奇心の方が勝っていた。

 こんなにもいい香りがどこから漂っているのか、気になって仕方がなかったのである。

 辺りには外灯が一つもないせいで暗かったが、月明かりのおかげで路上を走行することに問題はなさそうだった。

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 道を進むにつれて匂いは強くなっていった。

 やがて、雑木林にさしかかった時、匂いが一気に濃密なものへと変わった。俺が追いかけてきた香りはその奥から漂っているようだった。

 雑木林へと続いている道路は砂利道になっていたが、多少の振動を我慢すれば走れないほどではなかった。

 俺は勢いのままに先を行くことにした。

 深夜の真っ暗な雑木林の中を突き進んでいると、いきなり開けた場所に出た。

 そして、そこには一軒の古ぼけた民家が佇んでいた。この家以外に建物はなく、開けた場所の周辺にあるのは鬱蒼と生い茂った草木だけだった。

 屋根の瓦はほとんど崩れ落ちており、少し斜めに傾いたその家は今にも倒壊しそうな廃屋だった。

 

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小さな家ではあったが敷地だけはやけに広かった。

 どうやら濃密な香りはその敷地内から漂っているようだった。

 廃屋の周りには塀や門がなかったから、電動車椅子でも敷地に入ることは容易だった。

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 例の匂いを無我夢中で追いかけているうちに気付けば、廃屋の裏手側に辿りついていた。

 そして、辺りを見回した時、あるものが視界の中に飛び込んできた。

 ああ……美しい。

 そこにはピンク色の花弁が満開になった一本の桜の木があった。

 月光の下でひっそりと寂しげに佇んでいる桜の周りでは、夜風に吹き上げられた無数の花びらが空中に舞っていた。

 その情景はなんとも幻想的であり、恐ろしいほどに美しかった。

 まるで一枚の絵の中に閉じ込められてしまったような気分だった。

 もしかしたら、自分は夢を見ているのではないかと疑ったほどである。

 俺は吸い寄せられるように桜の木の方へと近づいていった。

 とても大きな古木だった。幹の太さは大人二人分ぐらいの幅があった。

 しばらくの間、あまりの美しさに息をのまれて茫然としていた。

 それから幾ばくかの時が流れた後に突然、自分の背後に何者かの気配が沸き起こったのである。驚いて電動車椅子を後ろに反転させてみると、そこには髪の長い女が一人で佇んでいた。

 

女は白い生地に花柄が描かれたワンピースを着ていた。

 「こんばんは。お久しぶりね」

 女はそう言うと、甘い匂いを全身に漂わせながらゆっくりとこちらへ近寄ってきた。

 俺は女の顔が目の前に現れた時、驚いて言葉を失った。

 絶句してしまった理由は、その顔に見覚えがあったからだ。

 女はこちらの顔を見ながら、からかうような口調で声をかけてきた。

 「あら、忘れちゃったの? ひどいなあ~」

 俺は適当な言葉が思い浮かばず、ただ一言だけ「覚えているよ」と言った。

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 その女は一年前に別れたばかりの元彼女だった。

 知り合ったきっかけはバイト先の先輩に連れられていったバーだった。

 お店の店員として働いていた彼女の顔を見た瞬間、俺は一目惚れしてしまった。

 美しい女だった。

 艶のある黒くて長い髪。切れ長の目。魅力的な瞳。

 透き通るような白い肌。高身長でスレンダーな体型。腰回りは引き締まり、しなやかな美脚をしていた。

 愛嬌のある笑顔が印象的であり、時おり見せる哀愁に満ちた表情にも色気があった。

 その日は帰り際にメールアドレスを交換して別れた。

 もちろん、最初はお客と店員という関係だった。

 だが、何度も店に通っているうちにお互いが惹かれ合うようになり、気が付いた時には個人的な交際に発展していた。

 お店で会うことは完全になくなっていたから、相手も本気だったのだと思う。

 しかし、そんな幸せな日々も長くは続かなかった。

 信じられないことに相手は既婚者だったのだ。

 俺がその事実を知ることになったきっかけは男の友人だった。彼には彼女のことを話してあったし、写真を見せたこともあった。

 その友人がある晩、電話をかけてきたのだ。

 「夜遅くに電話してごめんな。どうしてもお前に伝えたいことがあってさ」

 「それは別にいいけど、どうかしたの?」

 俺は言いようのない胸騒ぎを感じた。

 「あの……言いにくいんだけど」

 普段の友人は歯に衣着せぬ人間だった。だから、俺はなかなか話そうとしない相手の態度に違和感を抱いた。

 「何だよ、お前らしくないじゃん。ハッキリ言ってくれよ」

 「言っても怒るなよ?」

 友人は俺に催促されてようやく重い口を開く気になったらしい。

 息を深く吸い込んだ後、一気に吐き出すように言った。

 「お前の彼女、結婚してるぞ」

 「はっ? 何だよそれ! 彼女のことよく知らないくせに、冗談でも言っていいことと悪いことがあるぞ」

 「まあ、落ち着けよ。信じられない気持ちはわかるけど、まずネットで彼女の名前を検索してみなよ」

 友人に言われた通りに名前を検索エンジンに入力してみた。一番上に彼女のSNSのアドレスが載っている。クリックして、そこに写った写真の意味が最初よくわからなかった。白いドレスに身を包んだ彼女が俺の知らない男の脇で微笑んでいるのだ。……それは彼女の結婚式の記念写真だった。

 その時初めて知ったのだが、彼女は何年も前から夫婦生活の日記を投稿していたのである。

 彼女の幸せそうな笑顔が腹立たしかった。俺にいつまでもバレないとタカをくくっていたのだろうか。舐められたものだ!

 ──友人は以前から彼女に疑念を抱いていたと言った。

 女性に二股をかけられて裏切られた経験のある友人は直感的に「あの女は何かを隠しているのではないか?」と思い、彼女の名前を検索したら偶然にもSNSのページを発見したようだ。

 信じたくはなかったが写真に写っていたのは間違いなく彼女だった。

 後日、俺は彼女を呼び出してそのことを問いただした。

 最初、相手は事実を否定していたが最終的には全てを認めた。

 裏切られた気分だった。

 今までの日々はいったい何だったのか?

 人の心をもてあそんで楽しかったのか?

 ひたすら泣いて謝るばかりの彼女を責め立てた。

 目に涙をいっぱいためた相手の顔を見ても、卑しい女としか思えなかった。

 これで彼女との関係は終わりを迎えたのである。

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 もう二度と会うことはないと思っていた。

 ところが突然、桜の木の下で再会してしまったのである。

 どんな顔をして、何を話せば良いというのだろうか。

 会話に困るのも当然だった。

 ところが、彼女は何事もなかったかのような顔で再会を喜んでいる様子だった。

 正直、俺は相手を許すつもりはなかったし、そのまま無視してその場から立ち去ろうとさえ考えていた。

 だが、不思議なことに無視することはできなかった。彼女の笑顔を見ていたらそれ以上、憎むことができなかった。

 心の奥底では未練が残っていたのかも知れない。

 俺は桜の方に向きを変えると、その美しい情景を眺めながら「この場所はとても綺麗だね」と言った。

 彼女は俺のすぐ隣に歩み寄って「ええ、ほんとうに綺麗ね」と答えた。

 それから少し間が空いた。

 俺は彼女に自分がここまでやってきたいきさつを話した後「君はどうして、こんな時間に一人でいるんだい?」と訊ねた。

 すると、彼女は苦笑交じりに「旦那がね。毎晩、あたしの顔を殴るから」と言った。

 彼女は旦那との夫婦関係がうまくいっていなかったらしい。毎晩のように口論となり、ヒステリック気味の旦那は逆上して暴力を振るうのだという。

 「今日はとくに旦那の暴力がひどくてね」

 それで彼女は夫の暴力に耐え切れなくなって家を飛び出したらしく、町をぶらぶらと歩いているときにこの場所を見つけたのだと言った。

 「大変だね……」

 俺は彼女に同情した。たとえ、よりを戻せなくても力になりたいと思った。

 それで「話すだけでも良ければ、相談に乗ろうか?」と提案した。

 「ホントに! 嬉しい」

 彼女はにっこりと微笑んだ。

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 その夜からというもの毎晩、俺は桜の木の下で彼女と密会するようになった。

 二人で過ごす時間は楽しかった。

 だが、今になって思えば彼女には不思議な点が多かったような気がする。

 まず最初に思い出すのは、例の桜の木の下でしか会ってくれなかったことだ。その理由をどんなに訊いても答えてくれず、あまりしつこく続けると人が変わったようにヒステリックを起こして逆上したこともあった。

 それに彼女はメールや電話でのやり取りも嫌がり、不満があるのならもう会わないとまで言った。

 俺はそれでも彼女に会えることが嬉しかったし、一日たりとも会わずにはいられなかった。

 彼女と再会してから二週間後。

 花見シーズンが終わっても、密会場所にある大きな桜の古木だけは満開のままだった。

 その桜の花びらだけは散ることもなく、新緑の若葉が芽吹くこともなかった。

 まともな精神状態なら不気味だと感じるはずだが、あの時の自分には大した問題ではなかった。彼女に会うことだけが生き甲斐のように思っていたし、他のことなど考えられない有様だった。

 天気の状況も顧みず、風雨が激しい日にずぶ濡れになっても彼女と会うことはやめなかった。

 今振り返ってみると、俺の行動は奇行でしかなかったと思う。

 気心の知れたヘルパーの清水は深夜に出歩いていることを危惧して「もう、こんな時間に行くのはやめた方がいいのではないか」と忠告した。

 それに対して俺は「問題ない。大丈夫だ」というだけで取り合おうともしなかった。

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 そんなある日、叔父が久しぶりに遊びにきた。背中に箱笈(はこおい)を背負っていた。箱笈というのは修行僧や山伏が旅に出る際、仏具などの所持品などを運ぶための収納箱である。肩帯を取り付けてリュックのように背負う。

 叔父は俺が住んでいるアパートの近所の寺で住職をしている。住職とは言ってもほとんど仕事で遠くに出かけて留守にしている。だから、近所に住んでいると言っても頻繁に顔を合わせることはなかった。

 実を言うと叔父には住職の仕事とは別にもう一つ、裏の稼業があったのである。

 先祖代々、現在に至るまで受け継がれてきたもの……それは祓(はら)い屋。拝み屋とも呼ばれる職業だった。

 古来より祈祷師は諸々の厄災や祟りを祓い清め、人に憑いた悪霊を落とすことを生業としてきた。

 しかし、化学が進歩した近現代になってからはほとんど儀礼的なものになったのだが、現代でも悪霊や妖異と呼ばれるものが人間に襲いかかる事例はあるのだという。だが、表立って訴えても相手にされるはずがないので、常識では説明のつかない心霊的な問題を解決させるためには裏の業者に依頼するしかなかった。その業者こそが祓い屋という職業だった。

 叔父は生まれつき霊力が高いうえ、日本各地の山岳地帯で修行したことで強い法力を得たという。

祓い屋としての腕前は相当なものらしい。これまで数々の実績を評価されているとかで、そのために全国から仕事が殺到しているという。

 だが、俺は心霊や妖怪の類の話には懐疑的だった。それに自分にとって叔父は酒は飲むし、酔っぱらうとヤクザが相手でも容赦なく叩きのめすという破戒僧でしかなかった。身長が百八十センチもあり、体格は骨太で強靭な筋肉に覆われていた。いつも身につけている作務衣(さむえ)(黒い柔道着に酷似した寺の作業着)の上からでも筋肉がこぶのように盛り上がっているのが分かるほどだ。

風貌もなかなかに厳つかった。坊主頭で口やあごの周りには虎を思わせるようなひげを生やしている。風貌の影響からなのか四十過ぎで未だに独り身だという。

 叔父は俺の顔を見るなり「お前、顔色が悪いぞ」と目を見張った。

 「いきなり何だよ。別に風邪も引いてないしいつもと変わらないと思うけど」

 「いや、この前に会った時よりも生気を感じないな。嘘だと思うなら鏡で自分の顔を見てみろ」

 俺は言われた通りに部屋の立ち鏡まで車椅子で移動した。

 すると、そこには変わり果てた自分の顔があった。

 顔色は青白く、目元にはくっきりと隈ができていた。どこかゲッソリとやつれているような気がした。しかし生気がないとは思わなかった。夜ごとに彼女に会いに行くテンションはむしろ前よりも昂っていたからだ。

 「ちゃんと飯は食っているんだろうな?」

 「食事はちゃんとしてるつもりだけど」

 「そうか……ということはアレだな」

 叔父はしばらく考えた末、俺の顔を顔を覗き込みながらはっきりと言った。

 「お前の顔にはな、死相が出ているんだ」

 「冗談じゃない、俺はまだ死ぬつもりはさらさらないよ」

 叔父は俺が死んだほうがいいとでも言いたいのか?

 「最近、お前の身の回りで変わったことはなかったか?」

 「え……」

 俺は彼女との夜の逢瀬を思い浮かべたが、気恥ずかしくて言い出せなかった。

 「ああ。とにかく話してみろ」

 俺はあまりにしつこく聞いてくる叔父にあの夜のこと、桜の古木の下で彼女と毎晩のように会っていることを渋々話した。聞き終わると叔父の表情が怖いぐらいに険しくなった。

「悪いがその女と会うのはやめにしろ。桜の古木にも絶対に近づくな!」

「何だよそれ! 彼女と何の関係があるっていうんだ」

「いいから言う通りにしろ!」

「あんたには関係ないじゃないか」

「そうはいかん。今夜からお前を見張らせてもらう」

叔父は俺を監視するためにアパートに泊まると宣言した。叔父はどっかりと床に座り込み、太い腕を組んだまま睨みつけるようにこっちの動静を窺っていた。だが、叔父は酒を飲みだすと、顔を真っ赤にして酔いつぶれてそのまま眠り込んでしまった。見張ると言ったわりには情けない有様だった。

もっとも、自分にとっては都合が良かった。叔父の忠告を無視して、部屋を飛び出すことに決めた。

俺と叔父の会話を聞いていたヘルパーの坂口は外出を止めようとしたが「何が起こっても構わない。だから、好きにさせてくれ」と強引に外出の準備をさせた。

俺は大きなイビキをかいて寝ている叔父を尻目にその場を後にした。

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 その夜、空には彼女と再会した日と同じように月が出ていた。だが、月の色が赤みがかっているように見えた。

 密会場所である廃屋の敷地内の入り口で彼女は待っていた。

しかし、どこか様子がおかしかった。声をかけても微笑むだけだった。それに肌の白さが妙に際立っていた。顔色も死人のように蒼白だった。

こっちが不思議そうにしていると突然、彼女は桜の木を目指して走り出した。

俺はその後を追いかけた。

桜の近くまで来た時、彼女はいきなり立ち止まった。そして、今度はゆっくりと歩き出した。

俺はその場に留まったまま彼女の姿を眺めていた。

いったい、どうしてしまったのだろうかと思った。

やがて、彼女は桜の木の下で立ち止まると、俺の方に振り返ってにっこりと微笑んだ。

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そして、こっちにおいでと言わんばかりに手招きをした。

誘われるままに彼女の目の前まで移動した。

すると、彼女は白い歯をむき出して笑った。今まで見せたことがない下卑た笑みだった。

俺は相手の表情に不吉で不気味なものを感じた。

言いようのない恐怖に苛まれた。

全身に鳥肌が立っていた。

それから彼女は声をあげてゲラゲラと笑った後、その場で煙のように忽然と姿を消してしまった。

辺りに異変が起こったのはその直後だった。まず最初にどこからともなく生温かい風が吹いてきた。髪の毛を軽くなでる程度の風圧だったが肌にまとわりつくようで気持ち悪かった。

それに続いて起こった異変は桜の花びらの変化だった。

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今までピンク色だったはずの花びらがすべて、赤一色に染まってしまったのだ。血のように真っ赤だった。あまりの不気味さに視線をずらすように俯いた。その時になって初めて桜の木の根元周辺に白いものがいくつも落ちていることに気づいた。気になって目を凝らして見たところ、そこには人間の頭蓋骨が無数に転がっていた。

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それに何だか鼻につくような血生臭い匂いが辺りにたちこめていた。

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異臭に吐き気を催した瞬間、大勢の人間から見られているような感じがした。気になって面を上げてみると桜の木のいたる部分に無数の眼球がついており、鋭い眼光であたりを見まわしていた。どの目玉も獲物を狙っている野獣のように血走っていた。

俺があまりの恐怖に耐えかねて逃げ出そうとしたところ、多くの視線が一斉にこちらへ向けられた。

その無数の眼球に睨まれた影響なのかは不明だが、手先の部分が金縛りにかかっていた。首だけは動かせる状態ではあったものの、それだけでは電動車椅子のジョイスティックを動かせない。

こちらの身動きが封じられるのを待っていたかのように、木の根元の周囲の地面が盛り上がった。

と、その直後。地面から何かが飛び出してきた。黒々とした土を跳ね上げ、蛇のように鎌首をもたげたそれは、木の根だった。しかも数本だけにとどまらず、何十本も飛び出していた。

その何十本もある根っこは、人の瞼が瞬くのとほど同じ速度で襲いかかってきた。

まるで大蛇のように俺の首や胴体、それに車椅子の車輪にまで巻き付いてきた。そして、凄まじい力で締め上げてきた。

やがて、息が苦しくなってきた。全身の力が根っこに吸あげられているような気がした。

ああ。このまま死んでいくのだろうか?

と、俺が死を悟った瞬間、頭上をひとすじの光が背後から凄まじい勢いでかすめていった。その光は一直線に桜の木に突き刺さった。

それと同時に女の声と思われる悲鳴が上がった。そして、俺を締め上げていた根っこは瞬く間に枯れ始め、ついには朽ち果てて地面にボロボロと崩れ落ちてしまった。

光が突き刺さった場所に目を向けると、そこに一本の白い矢が突き立っていた。木の傷口からはどす黒い血のような液体が大量に噴き出していた。

俺は目の前の光景に茫然としていた。背後で声が上がった。

「おーい。大丈夫か?」

男の野太い声だった。

車椅子の向きを後ろに反転させてみると、そこには叔父が立っていた。その顔は部屋で泥酔していた時とは別人のようだった。

叔父は精悍な顔つきで片手に大きな弓を持ち、矢筒を背中に背負っていた。

「だから、俺の言う通りにしろと言ったんだ。まったく、お前は世話のかかる甥っ子だよ」

叔父は呆れたように笑って見せた。

俺は自分の身に何が起こったのかを知りたかった。

「叔父さん。今のはいったい何?」

「まあ、すぐに答えてやりたいところだが。その前に奴にとどめを刺さなきゃならん」

叔父はそういうと、俺の背後で弱っている化け物の方を指差した。

再び車椅子の向きを後方に戻してみると、桜の木の化け物は苦しむように枝を蠢(うごめ)かせていた。相当に弱っているせいなのか何もしてこなかった。

やがて、叔父が俺の目の前に立った。大きな背中だった。

叔父は矢筒から矢を一本取りだした。

最初の矢とは異なっていた。矢柄(矢の棒の部分)に護符のようなものが巻き付けてあるようだった。

叔父は取り出した矢を弓につがえ、木の化物に狙いを定めて構えた。そうして、一呼吸ついてから矢を放った。その放たれた矢が化物に突き刺さった瞬間、断末魔の叫び声が上がった。

その刹那、枝から木の根元にいたるすべての部分が激しい炎に包まれた。火の色は青かった。

 俺は叔父と二人でその炎を眺めていた。叔父はもう脅威が去ったことを告げた。

 「ありがとう」

 俺はうなだれてしまっていた。

 「気にするな」と言いながら、叔父は俺の肩に手を置いた。叔父は炎を見ながら淡々と話し始めた。

「お前を襲ったのは恐らく、桜の古木に悪霊が憑依したものだろう」

「人間の女にしか見えなかったけど、あれは桜の木だったっていうこと?」

「動揺するのも無理はない。だがな、時々そういうことがある。由来はよくわからんが、桜には霊を呼び寄せる性質があるようだ」

叔父の話によれば、悪霊に憑りつかれた桜の枯れ木は桜花精と呼ばれる妖魔になるという。そして、人間の生気や魂を喰らうという。

桜花精は古木本体が根ざしている場所でしか活動できない為、生気を吸うには自分のところまで獲物を誘導しなければならない。そのために幻覚作用のある甘い香りを広範囲に分泌することで獲物を呼び出し、その相手が会いたいと欲している異性の姿を具現化させることで心を惑わし、逃げられないようにするらしい。

惑わされた人間は毎晩のように呼び出されては生気を吸われてしまうらしく、最終的には衰弱して死に至るという。

ようするに、あの女は俺をおびき出すために桜花精が作り出した幻だったのだ。

桜花精に狙われてしまった者を助ける方法は一つしかない。それは悪霊が憑りついている桜の古木本体に破魔の矢を打ち込んで退治すること。さらに邪気祓いの護符を矢に巻き付けることで威力が上がり、相手を完全に消滅させることができると言われている。

ただし、破魔の矢というのは法力を備えた者にしか扱えない。その特殊な弓矢一式を所持している者自体がわずかであるというのだ。

ただ、幸いにも俺の叔父は強大な法力の持ち主であり、破魔の弓矢を所持している数少ない人間だった。つまり、それは叔父がいなければ自分は確実に死んでいたということである。

叔父は俺の『女が桜の木の下でしか会ってくれない』という話を聞いた時から桜花精の仕業だと感づいたらしい。ちなみに酔っぱらっていたのは演技だとも言った。

叔父は俺が部屋を出た辺りから、こちらに気づかれないように尾行していたそうだ。

俺が心のどこかで別れた女性に未練を抱いていた、その弱さを妖魔につけこまれたのだと、叔父は忠告してくれた。

それから二人で世間話をしながら、木が炎に侵されるのを眺め続けた。桜花精は黒い炭になって崩れ落ちる際に灰が飛び散り、一面が灰に覆われるのみとなった。空が白み始めていた。あと数時間で朝日が上がろうとしていた。

「さあ、そろそろ帰るとするか」

「そうだね。何だか眠くなってきたよ」

俺は叔父とその場を後にした。

さすがに明け方まで帰ってこない状況に坂口はだいぶ戸惑っていた。だから、叔父と二人で飲みに行っていたことにして安心させた。

翌日からあの事件が無かったかのように平静を取り戻したのだった。

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事件から二週間後。

ある日、ヘルパーの清水が妙なことを言い出した。

「この前、綺麗な女性を見かけたんですよ」

数日前、彼は駅前の街角で白生地の花柄ワンピースを着た女とすれ違ったのだと言った。

俺はあの事件で危険な状況に陥ったこともあり、その女の話を聞いて不安になった。

「どんな女性だった?」

「艶のある黒髪が印象的でしたね。肌も透き通るように白くて綺麗でしたよ。それに何だかとてもいい香りがしました」

「どんな匂いだった?」

「うーん。なんて言ったらいいのだろうな。例えるなら桜桃のような甘い匂いかな」

甘い匂いか……

 俺はその話を聞いた時、妙な胸騒ぎを感じた。確かにあの妖魔は叔父によって倒されたはずなのだが、なぜかその女のことが気になった。

 それから一週間後、清水が行方不明になってしまった。

 

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コメントありがとうございます。画像、最高ですね。
主人公が車椅子なのは‥‥知り合いに車椅子の男性がいて、彼をモデルにしているからです。習作として執筆しているので自分や身近なものをキャラに描きやすいかなとおもいました。

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@カイト さん、コメントありがとうございます。現在は4話目を執筆中です。今年は7話目まで完成させる予定です。少々遅い足並みですが徐々に伏線を回収していきたいと思います。

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