長編8
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トレーニングの代償

これは僕、有馬澄斗(ありま・すみと)の体験した話。

不本意な渾名(あだな)を付けられる体験をした人も、中には居るだろう。僕が正にそれで、アリスと望まない名前で呼ばれて、女の子みたいな顔付きでもある為、女装させられたりもした。

「嫌なら拒否したって良いんだから。男の子だから、腕力を鍛えて、仕掛けて来た相手をねじ伏せるってのも有りよ」

たまに僕を女装させる当事者が姉で、彼女は彼女でガタイの良い自身にコンプレックスを抱いているらしく、「ゴリラ」とからかう同級生を、男女問わず投げ飛ばして、顔を腫らした彼等彼女等が土下座しているのを見た事が有る。

男だと自分から手を上げるのは駄目だし、やり返されての反撃しか許されないと言うのが暗黙の了解であるが、腕力に自信の無い僕は、鍛えねば鍛えねばと、小さめのサンドバッグを買って貰ったり、腹筋や腕立て伏せを細身の身体で、懸命にやり込んでいる。

そんな折、姉の怒号が響く。

「何してくれてんだァっ!!使えなくなっただろうが!」

「びぃえぇぇぇぇぇ──────────っ!!」

妹のけたたましい泣き声と、母親の声が聞こえて、僕はもうすぐ終わる草取りの手を止めた。

「使い方が分からないから仕方無いじゃない!」

「前も説明したよ!このハサミで紙を切るなって!お前、母さんの気を引こうとして、悪戯してんの知ってんだかんな!何で私の目を見ないんだよ!後ろめたいのか!」

「びゃああぁぁぁぁぁぁぁ!」

「夏音(かのん)!泣かせたら駄目じゃないのよ!」

グラグラ煮込まれたスープを、いや沸騰した熱湯を頭から浴びせられた様な絶叫にも似た妹の泣き声もサイレンみたいになってしまい、姉の怒りのゴ………いや、般若の様な表情に、母もああ言うのが精一杯なのだろう。

────そう、御察しの方も居ようが妹が誤って使ってしまっただろう道具が、裁ち鋏(たちばさみ)。

御存知の様に、裁ち鋏で紙を切ったりしたら布が切れなくなるから、やってはならないと念を押されてもいたし、ましてや僕をたまに女装させる姉の事、布を切ったりする際の御供(おとも)でもある裁ち鋏は、或る意味命とも言える道具なのだ。

年端も行かぬ妹に大人気無(おとなげな)く雷を落とすのは、トラウマを植え付けるも同然の行為なのだが、姉に取っては商売道具を壊されたも同然なのだから、怒りとしては妹には悪いが正当と言えば正当でもある。

通常のハサミ代わりに使ってしまっては、裁ち鋏としては致命傷であるから………

*********************

宿題を片付けてボンヤリしていると、自室に妹が入って来る。

「からかいにでも来たか」と踏んで、グイと椅子から降りて振り向いた僕の前で、拳を握り締めた妹が居た。

「兄ちゃん………」

「どうした」

見下ろしてしまう格好にならない様に、妹の視点に立てる形で少し腰を下ろす。

「鍛えさせてくれないかな」

母親の後ろに隠れながら、こっちにアカンベーをしたり、あーだこーだとマイペースに話したがる、おしゃまで生意気な感じの普段の表情とは違う、瞳の奥が燃えている様な、決意に満ちた表情が有る。

「良いけどやり方も教え方も自己流だよ」

「御願いっ」

幸い、姉の知り合いのボクシングジムの大人達と言った面々が、ジュニアボクシングの名目で鍛え方を指南してくれると話して見るが、姉の繋がりとの理由で嫌だと言う。

その日から、妹のペースに合わせつつ小さなサンドバッグに拳を叩き込んだり、腹筋や腕立て伏せにランニング、加えて背筋(はいきん)も鍛え始め、やるだけで無く教える立場になってしまった僕は、勉学も含めて頭がグルグルになるケースも出て来た。

或る意味手加減してのレクチャーをすれば良かったのだろうが、僕も後(のち)に起きる騒ぎを想定してはいなかったのだ。

********************

サンドバッグに喰い込む妹のパンチが、目に見えて素早い動きで、尚且つパワーを伴って来た矢先に、騒ぎが起きた。

僕が高校で授業を受けている際、たまたま行事の振り替え休日だった妹と、講義が休講になっていた姉が鉢合わせして、言い合いになってしまい………

パートに出ようとしていた母親が慌てて僕のスマートフォンに掛けて来た為、たまたま授業こそ全部受けられたが、理由を話して部活には出ずに、帰宅する。

居間にグッタリとした母と僕と同じく連絡を貰ったのだろう、母に寄り添いながら目を赤くした父、そして頭を抱えてガタガタ震えている妹が居た。

「澄斗………お前何をコイツに教えたんだっ!!言えっ!!」

「やめてよっ!!兄ちゃんは何も悪くないっ!!」

「紗矢(さや)っ!!」

僕に掴み掛かろうとする父の怒号と、制止しようとする妹に、更に妹を制止しようとする母が、或る意味三つ巴状態になっている。

「紗矢が鍛えてくれって言うから………だから、僕の所為だ」

「兄ちゃん!」

「そうか………どうやら澄斗は何も知らなかったみたいだな」

穏やかに見えつつ、どう聞いても怒気を含んだ声の父が、何が起きたかを話し始めた。

「買い出しをしようとして、冷蔵庫の中身を確かめたらプリンが無いって話で、御姉ちゃんが喰ったって分かってな………それで、財布から金銭を出したんだが値段が違うって言い合いになって、いつもの軽い、はたき合いになったんだが………」

*********************

『150円位するプリンって、言ったじゃん!』

『足りないんなら差額は自分の小遣いから出しな。そんなに喰われたくないなら〝喰うな〟ってメモでも貼り付けときゃ良かったのよ』

『 兄ちゃんは気を使ってくれて、食べないでてくれるのに!前だって、無くなったプリンに気付いて買って来てくれたんだよ!』

『澄(すみ)君は澄君、私は私でしょうが。気が利かなくて御免なさいねェ、全くね。あー疲れる』

『ぬぅぁぁぁぁぁっ!!』

『ほらほら、いつもの………ぐっ』

通常なら、パチンと妹の拳をはたき落とす筈が、下腹部にパンチがクリーンヒットし、鈍い「ドス」っと言う音が静かな空間に響き渡る………

『ぁっがぁぁ………げぇぇぇ………』

『えっ!!ねェ、御姉ちゃん!御姉ちゃん!』

嘔吐して、暫くして姉はうずくまったまま動かなくなる。

『何してんのあんた達っ!!』

*********************

僕は冷や汗が止まらないのに気付く。

「で、姉さんは」

「救急車で運ばれたよ」

「救急車で搬送………って、何で誰も付き添わないのさ!」

「!!」

救急隊員に付き添いを頼まれても上の空だったらしく、今更両親は気付いて青ざめる。妹は憔悴しきっているのと、パンチを当ててしまった張本人故に、行くとなれば僕が止めたろうけども。

僕は何だか悲しいやら腹立たしいやらで、勢い良く家を飛び出し、自転車を走らせて救急外来に急ぐ。

*********************

「御家族の方ですか」

「申し訳有りません、弟です。急いで参りました」

事情を説明した僕に、少々安堵の色を浮かべた看護師が、集中治療室に案内してくれる。

「姉さん………っ」

酸素吸入の口当てが、呼吸している為に時折白くなり、心拍数もパワフルな姉らしからぬ低調な数値と不安を煽る様な、低めの電子音を響かせる。

(僕が、紗矢を鍛えさせていなければ、こんな事には、ならなかったかも知れない)

弟である自分を使い走りにする事も無く、たまに女装させる事を除けば、本当に自分を甘やかしてくれた。手を先に出したら負け、相手が殴って来たり蹴飛ばして来た時に、初めて手を挙げる事と、異性に手を上げない様にと父と同じ教えを反芻(はんすう)していた姉の手を握り、僕はジリジリと頭が熱くなる位に祈る。

(悪いのは僕だ、奪うなら僕の命だ。姉に付き添わなかった親は腹立たしいけど、妹が大切なのは変わらないから………)

『トンダシスコン(シスターコンプレックス)ダガ、ソノココロイキ、カッタ!キサマノアネヲ、ツレテユコウトシタガ、カンガエガカワッタ』

(誰だ?)

顔を上げると、ベッドを挟んだ向こうに顔を腫らした男の姿が有った。

(誰だ?あんた)

『コエヲダサナイデクレテ、カンシャダヨ。シンジラレナイダロウガ、ワタシハ、シニガミデアル。ダガ、アネヲツレテコウトシテ、キサマノパンチヲ、クラッタ。ジョウシニモ、〝テキニマワストメンドウダ。コンカイハ、ヤメテオケ〟ト、イワレタヨ。ダカラ、キサマノネガイ、ウケタマワッタ。ソノイノチ、ダイジニスルベシ。キサマナラ、ダイジョウブダロウケド』

頭が熱くなる位に祈っていたが、本当に頭が熱くなって来て、耐え切れずに僕はベッド脇に突っ伏してしまう。

*********************

誰かの声が聞こえる。段々増えて来る。泣き声とも祈りとも願いとも呼び掛けとも受け取れる声が………

「澄君!」「兄ちゃん!」「澄斗!」「澄斗ちゃん!」

姉さん、妹に、父親に………母親の声。

浅く呼吸して、ボンヤリしていた僕の意識が戻って来る。

「ぁ、はァー………」

「澄君っ!!わああああああ─────────っ!!」

ガバっと姉が抱き付いて来る。ガッシリとした身体が、いつもは苦しかったのに、今は懐かしいとさえ感じる。

「あっ、行けませんよ!目が覚めたばかりです!」

看護師が、姉を慌てて引き剥がそうとする………昨夜の看護師さんの声なのが分かる。

「ああ………皆、無事だったんだね………」

「………兄ちゃん?」

怪訝(けげん)な顔をする妹に、涙目ながら妹を睨む姉、ポカンとしている両親に、「笑わないで聞いて」と念押しして、死神と称する男の話はおくびにも出さずに、話して見る。

「そうだったんだ………あのね、あの時澄君が………澄君がね………紗矢と私の喧嘩を制止しようとして、二人のパンチをまともに浴びちゃったのよ」

「兄ちゃん、御免なさい!御免なさい!鍛えてくれたのに………あんな酷い事して………」

ハっとして謝りながら泣き始める妹に、「良い良い」と、僕は辛うじて動かせる、右手で制する。

どうやら、姉と妹がプリンの話で喧嘩して、殴り合いになり掛けたの迄は本当で、部活が休みになった為に帰宅した僕が、止めに入って二人のパンチを顔と腹に受けて、搬送されたのが真相みたいだ。

いや、これは────

死神と言う男が、僕の懇願と言う念のパンチを喰らって姉の命を奪わなかった代わりに、命を落とさない程度の怪我を負ったと言う、行動の改竄(かいざん)をしたのだろう。

僕は良いけど、大泣きする家族には申し訳無いな………とだけ感じる。

姉の原動力にもなっている女の子の衣装着付けにももう少し付き合おうと思うし、妹が願えば又トレーニング………あく迄もあっち次第だけど、程々にレクチャーしようかなと、軽く決意した。

然し、中々効いたな………なんて、僕は記憶の上書きをしながら、病室の窓から見える曇り空から、光が差し込むのをボンヤリ見つめていた。

Concrete
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