中編3
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手を振る

 七月のとある週末。

 僕と妻、それに二歳になる娘の三人は、神奈川県のとある海岸へやってきた。

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 妻と娘は、波打ち際できれいな貝殻を探している。

 僕はというと、浜辺にレジャーシートを広げ、海の家で借りたビーチパラソルのつくる日陰の下、ぼんやりとふたりの様子を眺めていた。

 けして家族サービスをさぼっているわけではない。荷物番はどうしたって必要なのだ。

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 今日も今日とて猛暑日で、屋外の気温は非常に高かった。

 しかし、海の近くというだけあって、時おり吹いてくる潮風が、汗のにじんだTシャツと肌の隙間を通り抜ける度、天然ならではの気持ちのよい涼しさを感じられた。

 波打ち際の歓声と、潮騒を遠くに聞くうちに、いつしか睡魔が襲ってきた。

 眠気を払うため、何の気なしに見渡した景色の中に、ソレはあった。日常の隅に潜む違和感。

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 なんだ、あれ?

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 はたしてその正体は、ここからずっと向こう、海に流れ込む細い河に架かった橋の上、そこにたたずむひとつの小さな人影であった。

 その、男か女かもわからない人影は、橋の欄干から大きく身を乗り出すようにしながら、こちらに向かって激しく手を振っていた。

 その動作の激しさが、どこか常軌を逸したように感じられ、僕をひどく不安にさせた。

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 酔っぱらいだろうか。

 それとも、テンションの上がった若者だろうか。

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 視線を巡らせてみるが、彼(彼女?)の手を振る先に、応えるものは誰もいないように思われた。

 じゃあ、いったい、誰に。

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「アナタ――」

 気がつけば、娘の手を引いた妻が、私のすぐそばに立っていた。

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「やあ、おかえり。貝殻探しはもういいのかい?」

 妻は、なぜか真冬のプールに入ったかのように青い顔をして、私の問いかけには答えず言った。

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「もう帰りましょう? ここにはいたくないわ」

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「海は、異界に通じる場所よ」

 

 助手席に座る妻がポツリとつぶやいた。彼女は、この手の話題には博識だ。

 帰り道。都心へと向かう道は渋滞していた。先ほどから娘は、後部座席で寝息を立てている。

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「『常世の国』。『ニライカナイ』。古来、海の向こうには、現世(うつしよ)とは異なる別の世界があると信じられたわ」

「その感覚は、なんとなくわかるよ」

 

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 海の持つ圧倒的は広さ、深さ。

 生物を育む母なる場所にして、命を奪う恐ろしい場所。

 海への畏れは、誰しもが持つ感覚だろう。

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「海に流れ込む、河もそう。その河に架かる、橋もそう。彼岸と此岸、ふたつを分ける境界線。異界へと通じる『境』となる場所――」

「さっきは、なにか『視えた』のかい?」

 不意に帰ると言い出した理由を、僕は彼女に問うた。彼女は黙ってうなずく。

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「それってもしかして、橋の上で激しく手を振る誰かのこと?」

 ぶんぶんぶん。

 先ほどの光景が脳裏に浮かび、背筋に冷たい汗が流れる。

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「いいえ。その人影は私も見たけど。でも、アナタにも見えたんなら、それは普通の光景ってことじゃない」

 言われてみれば、確かにそうだ。僕に特別なモノは視えないのだから。

 じゃああれは、現実の光景だったのか。

 あんなに異常な感じがしたのに。

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「私が視たのは、その人影が手を振っていた先よ。波打ち際にいた私たちの背後。海の沖合いに――」

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 腕が。

 腕が腕が腕が腕が腕が。

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「無数の白い長い腕が、打ち寄せる波の後ろに視えた。それがね、手を振ってるの。オーイ、オーイって。ゆらゆら、ぞろぞろ、手を振ってたの」

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 僕が見た、橋の上で手を振る人影。

 境界線上に立つ人物。

 あれは、海に魅入られた誰かの姿だったのか。

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「あら、いつの間に起きてたの? ――ちょっと、やめなさい」

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 妻が、後部座席を振り返る。そして、娘を不機嫌な声でたしなめた。

 僕も、バックミラー越しに娘を見た。

 娘は窓の外に見える海に向かって、笑いながらいつまでも手を振っていたのだった。

 

 

 

 

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