長編15
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――(空白)

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 いつからだろう。私の筆には、色彩が乗らなくなった。

 筆が進まない事を比喩しているのでは無い。不思議な事に、私がなぞる筆から発する色が、全て透明になってしまうのだ。

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 パレットに絵の具をひり出した瞬間も、それが筆先に触れた瞬間も、私の染料は色彩を保っているというのに、それが空白のキャンバスに触れた瞬間、鮮やかだった筈の色彩を失ってしまう。

 赤の絵の具も、青の絵の具も、黄色の絵の具も、黒や白の絵の具でさえも、目の前のキャンバスに触れた瞬間、色を失い、筆先に伝わるねっとりとした重みと濡れた紙の跡だけが残る。

 それも、筆をキャンバスから離した時に、或いはインクが乾いた時に、空白の一部となってしまう。

 困った事に、ツラい事に、私の筆は、色彩も、輪郭も、影も、光も、感情ひとつ、描けない。

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誰も居ない美術室。私は椅子に腰掛け、書き途中の絵画に筆を走らせる。

空白のキャンバスの上には、全く同じ空白が塗り重ねられた。いや、重なったのかどうかも、私には分からない。

絵の具の柔らかい感触もある。筆とキャンバスが摩擦する音もする。なのに、私からすればパントマイムと変わらない。

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 私が色盲になった訳では無い。

 移ろい行く紅葉も、高く青い秋空も、私の瞳には全て鮮明に写っている。

 他のヒトが描いた絵だって、羨ましい程色鮮やかだ。

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 嫌味なように、今日も世界は美しい。

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 ……私だけを、除け者にして。

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手が震え、 クシャリと筆先が潰れた。いつもはあんなにも柔らかい紙なのに、今の私では、どれだけ力ずくでも傷や汚れひとつ付けられない。

 それが、ひどく惨めだった。

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 医者の先生は、ストレスによるものだと言っていた。

 ある種の、自己防衛なのだろうと。

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 きっとそうなのだろう。心当たりもあった。

 理解はしている。けれど、納得なんて、していない。

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 だって、そうでしょう?

 どうして私の絵だけ、どうして私の色彩だけ、そう思ってしまって、仕方がない。

 あのヒトも、あのヒトも、あのヒトだって、当然のように色彩を描く、感情を描く。

 私が1番、好きだったのに。私が1番、心の支えにしていたものなのに。なのに……

 色が無いのは私だけ、キャンバスひとつ埋められないのは私だけ、苦しんでいるのは私だけ、空白なのは、私だけ。

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 埋まらない。埋まらない。目の前も、胸の内も。

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 苦しいのだ。感情が吐き出せ無いのは。

 ツラいのだ。何も生み出せ無いのは。

 まるで、真っ白な壁に取り込まれたまま生き埋めにされたみたいだった。

 動けないまま、喋れないまま、変わらないまま、うまらないまま。

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 私は焦る。このままじゃいけない。このままいたら、空白の世界に囚われたままおかしくなってしまう。

ここで動けなくなってしまえば、本当に壁になる。道端の石ころと変わらない。無機質な背景と変わらなくなる。

 そう思うと、どうしようもなく、怖い。

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私は椅子に深く座り直し、もう一度だけ筆を振るう。

 もしかしたら今日は、色彩があるかも知れないから。さっきの一筆はたまたまで、青の絵の具じゃなく、赤の絵の具なら描けるかもしれないから。そんな、微かな願望を抱きながら。

 だけど、やっぱりそんな事なんて無くて、白紙は白紙のままで、虚しくて……、これじゃあまるで、死んでいるのと変わらない。

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 繰り返し、私は苦しむ。

 色を失った、私の絵画に。重ねても重ねても、透明なままの、私の空白に。

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腕を下ろす。溜息を吐く。力が抜けて筆が落ちるが、床は汚れない。何だか、どうでもよくなってしまいそうだ。このまま横になって芋虫になってしまいたい。

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……今日も、今日も駄目だった。

 昨日が過ぎだのに、カレンダーだって捲ったのに、今日も既に正午を過ぎだのに。いつまで経っても空白は変わらない。

 空っぽの砂時計をひっくり返したみたいだ。見かけは何も変わらないのに、砂が流れ落ちる音だけが聞こえてくる砂時計。時間だけ過ぎるのは確かなのに、まるで実感が持てない。

頭がおかしくなりそうだ。

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真っ白に混濁した頭に、お腹が空いたと、腹の虫が告げる。

そう、こういうこと。何もしていないのに、白紙は白紙のままなのに、勝手に時間は経って、勝手にお腹が空く。

空腹になる資格すら、今の私にはある筈も無いと言うのに。

 医者の先生の言葉を思い出す。

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「君の症状はストレスによるものだ。だから筆を握れば余計に治らない、苦しむだけだ」

分かってる。だけど、だからといってどうすればいいか分からなくて、反抗している。

先生という生き物は元来嘘つきなのだ。そして、無責任なのだ。

 医者の先生も、政治家の先生も、文豪の先生も、学校の先生も……

だから……、反抗している。

医者の先生に反抗したって、意味なんか無いって分かっているけれど、だけど素直になんてなれなかった。

こういう時こそバランスの取れた食事をと言われても、好き勝手に食べているし、眠れないならと渡された睡眠薬だって、ちっとも飲んでない。当然筆だって握るし、怒られたって、知らん顔だ。

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……そして、“空白”が増えた。

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ああ、もう止めだ。止めにしよう。考えるのは、この部屋で苦しむのは。

外に出よう。もう昼過ぎだから、何か食べるのだ。

そうだ、そうしよう。空腹が満たされれば、きっとネガティブな思考も端へ追いやられる。

甘いものを食べよう。うんと甘い、ケーキがいい。出来れば秋らしい、そんなケーキ。

 モンブランなんてどうだろう。確か駅前に、新作のモンブランが売り出されていた筈だ。うん、そうしよう。そうと決まれば買いに行こう。せめて空腹くらいは埋めてあげないと。

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私は立ち上がり、鞄を抱えた。

 そして床に落ちたままの筆さえそのままに、美術室を出て、街へと歩いた。

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彩り豊かな、秋の街中に、教室に――を、置き去りにして。

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separator

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 外を歩くのは、億劫(おっくう)だけれど気持ちがいい。

 ストレートに伸ばした髪が、小さくふわりと揺れる。膝丈のスカートと白いハイソックスの間を秋風が通り、そろそろ薄手のタイツでもおろそうかと考える。

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 部屋に閉じこもってばかりの私にとって、空気が流れる外の世界は、皮膚や鼻腔(びくう)に新鮮な刺激を与えてくれる。

 特に、秋の景色は好きだった。秋は毎日変化があるから。

 風の冷たさ、陽気の温度、靴裏の感覚、木枯らしの音、虫の音、落ち葉の匂い、夕陽の濃さ、紅葉、街行くヒトの服装、店先ののぼり……

 完成されたジグソーパズルのピースがポロポロと剥がれて、その下からまた新しい絵が出てくるみたいな。毎日、そんなモザイクみたいにランダムな変化がある。

 小さな変化を見つけると、思わずスキップしてしまいたくなる。片手に持つ、モンブランの入った紙袋のせいかもしれない。形を崩しちゃいけないから、スキップなんて出来ないけれど。

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 甘い甘いケーキ、手に持つだけでも心躍る。

 これはいったい、どこで食べようか。折角だから、外がいい。

 枯葉舞う遊歩道を歩く。コンクリートの硬い地面を踏んでいると、柔らかい土の感触が恋しくなる。

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 そうだ、すぐそこの公園で食べよう。色づいた樹木の下で、木製のベンチに腰掛けて食べるのだ。ちょうど都合のいいことに、あの公園の入り口には自販機が置いてある。そこで暖かいカフェオレでも買って、膝の間に置いて温まるのだ。

 そう思い頬が緩むと、またスキップしたくなってしまう。

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 いけないいけない、私は自制する。一時の感情に流されて行動したって、良いことなんて起こらないんだから。

 そんな事を考えている間に、私は缶のカフェオレを買って公園へと侵入した。公園には遊具で遊ぶ幼稚園児くらいの子ども達と、その母親だと思われる人達がいた。

 母親達は薄手のカーディガンを羽織っているが、走り回る子ども達はもう少しだけ軽装をしている。ぽよんぽよんのボールを追いかける男の子に至っては、未だ元気に半袖シャツだ。

 子どもがはしゃぐのを見るのは好きだ。予想だにしない事をしたりするから面白い。こうやって賑やかなのも、たまにはいい。

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 ゴツゴツの木の下にあるベンチへ座る。お尻のところに枯葉が積もっていて服が汚れてしまうから、あの母親達は座ろうとしない。だから遠慮なく一人で陣取った。傍らに紙袋を置いて、私は落ち葉もお構いなしに腰掛ける。少しだけクシャリと音が鳴った。

 紙袋の口を開いて、四角い透明容器に収まる手毬のようなモンブランを取り出した。丸い頂上に、雪のような粉砂糖がまぶしてある奴だ。

 缶コーヒーのタブを起こして、小膝で挟んで固定する。公園の時計を見ると、午後2時半を過ぎたくらいだった。医者の先生には悪いけれど、今日はこれが、ちょっと遅めのお昼ごはんだ。

 プラスチックのパッケージを外し、膝の上に置こうして、既に挟んでいた缶のカフェオレが邪魔になった。しょうがないから、カフェオレはバランスの悪い木目の上に追いやった。暖かい感触が離れて、ちょっと寂しい。

 同封されていたプラスチックの小さいフォークを取り出す。もう、食べる準備は万全だ。むき出しのフォークを持ったまま小さく手を合わせ、声に出さずにいただきますをした。

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 さぁ、食べよう。

 埋めるのだ。空腹を。甘いケーキと、カフェオレで。

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 けれど、その瞬間。

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shake

――グシャ…ッ――

 

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 私の目の前で、モンブランが潰れた。膝の上で、ゴムの様な柔らかい衝撃と共に。

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(どう、して……?)

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 小さくパニックに陥るが、柔らかい衝撃の正体はすぐ分かった。衝撃の犯人は、青色のボールだった。

 半袖の男の子が遊んでいた、ぽよんぽよんのボール。それが、何かの弾みでこちらに飛んで来たのだ。

 驚き、固まって、落ち込んだ。

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(そっか、私にはケーキを食べる資格も無いんだ……)

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 手毬のようだったモンブランは、すっかり潰れて凹んでしまった。マロンクリームの層が破れて、中から白いホイップが溢れ出ている。

 そんな残骸を見て、悲しくなって、空(むな)しくなった。膝も汚れて、ベタベタと気持ち悪かった。

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 ドタバタと足音がして、逃げ出したそうな顔の男の子と、その腕を引っ張る慌てた顔の女性が駆け寄って来た。幼い犯人と、その母親のようだ。

 「ごめんなさい、大丈夫ですか」と言われて、大丈夫なわけ無いじゃない…と思う。けれどそれ以上に呆然としてしまって、口が動かなかった。右手に握ったままだったプラスチックのフォークは、淋しそうに俯いた体勢で宙を引っ掻いている。

 男の子も母親に促されて、バツの悪そうな顔で「ごめんなさい……」と小さな声で謝った。

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 下手(したて)に出られると、私は弱い。それ以上責められなくなってしまう。、そんな表情なんてされて仕舞えば、いつも私は怒れない……

 ……悪気が無かった事くらい、こっちだって分かってる。きっと、わざわざボールが飛んで来そうな場所で、わざわざケーキなんて食べようとした自分が悪い。そんな考えが浮かんでしまう。きっとそうなのだ。悪いのはいつだって、私なのだ……

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 そう、自己責任で、私が悪いのだ……

 膝元も手元も寂しいまま、しょうがないから、言いたいことは全部隠して、私は不器用に「あはは…」と笑ってみせる。

 だけど、「大丈夫だから……」と、余裕なフリをしようとして、片手を挙げて見せようとして、コンッと指先にカフェオレの缶がぶつかってしまった。

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 あっ…、と私は焦った。

 細い円柱形の缶はボールの衝撃で少し位置がズレていたのか、元々不安定なベンチの木目でグラリと大きく揺れると、前のめりに倒れた。

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――パタン、ビチャッ――

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 男の子がビックリして飛び上がって、今度は私が慌てた顔になる番だった。

 幸い、カフェオレは親子の方までは飛び散ってなくて、濡れたのは私の足だけのようだった。

 「すみません、すみませんっ」と私は謝り、そそっかしく足元の缶に手を伸ばす。

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 そして……気が付いてしまう。

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(あ…あああ…)

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 屈んだまま、私は止まる。

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(……あ、ああぁぁああぁぁあ)

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 空白だ。

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(ああああああああああ)

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 空白が、目の前にある。

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(ああああああああああああああああ)

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 目を逸らした筈なのに、今は絵筆も握っていないのに、“普通”を過ごしていた筈なのに。

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(ああああああああああああぁぁああぁぁあ)

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 きっと、指先が招いた結果ならそうなってしまうのだろう。

 頭がおかしくなりそうだ。

 苦しくて、空(むな)しくて、身体が震えて止まらない。

 色彩が、失われている。私の、色彩が……

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(ああああああああああああああああああああああぁぁああぁぁあああああああああああぁぁああぁぁあ)

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 白いのだ。

 私の……両足が、確かに濡れた筈のハイソックスが。

 

 カフェオレみたいな、茶色じゃないといけない筈なのに。

 染まらないのだ。

 自販機で買ったばかりでまだ暖かい。砂糖が入っていてベタベタする。そんな感覚は分かるのに、彩りだけが空白だった。

 たとえ不意の汚れであっても駄目なのだ。

 異常なまでに、透明なのだ。

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(ああああああああああああぁぁああぁぁあああああああああああああぁぁああぁぁあああああああああああああぁぁああぁぁあああああああああああああぁぁああぁぁあああああああああああああぁぁああぁぁあああああああああああああぁぁああぁぁあ)

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 缶に手を伸ばしたまま震え出した私に、目の前の親子がどうしたんだろうと困惑している。

 きっと、私はひどい顔をしているのだろう。呼吸が荒くて、ガクガクと首を振るように痙攣して、目元には涙が滲んでいる。そんな普通じゃない様子に母親の方が心配そうに声を掛けてくる。

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 違うのだ。ケーキが台無しになったから悲しんでいるんじゃない。服が汚れたから惨めなんじゃない。見当違いも甚だしい。

 悟ってしまったのだ。絶望しているのだ。逃れられない苦しみに、あんまり過ぎる理不尽に。

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 公園にいた他の親子も、あの子はどうしたんだろうと集まってきた。

 やめて、やめて、見ないで、来ないで、話しかけないで、ただただ惨めになるだけだから……

 

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 堪らずベンチから離れる。

 無言のまま、目も口も庇うように顔を隠して、ヨタヨタと公園の外へと転がり逃げた。

 私は走る。服はベタベタで、顔はぐちゃぐちゃで、秋の空気が素肌に冷たい。

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 どこか遠くで、私を責めるような赤ちゃんの泣き声が聞こえた気がする。

 その声から逃れるように、私は走る。

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 走る。走る。

 結局、医者の先生も嘘つきだった。

「筆を握らなければ苦しまない」なんて、大嘘も大概だ。

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 筆じゃなくたって、色彩は透明になる。

 スプレーでも、ブラシでも、クレヨンでも、版画でも、それ以外でも、全部駄目だった。

 何もかも、透明になる。

 赤も、青も、黄色も、白も、黒だって、透明になる。

 当然黒板やノート文字だって透明になってしまうから、まともに授業も受けられない。さっきだって、公園の土の地面には、私の足跡だけが残っていなかった。

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 普通の生活なんて、無理なのだ。

 ふとした瞬間、苦しむのだ。

 露結した窓に指を這わせた時、コーヒーにミルクを入れた時、変わる筈の色彩が無い事が、どれだけ苦しいのか誰も分からない。

 ストレスだ。ストレスだ。積み重なって、息苦しい。なのにまだまだ積み重なって、この病気はきっと、治らない。

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 走る。走る。息があがる。

 逃げだしたい。ストレスになるものは何も、見たくない。

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 そして、苦しみから逃れようとして、見えないふりの、“空白”が増えた。

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 四角い部屋に飾られた――、街中でぐずる――の声、――との恋愛映画の広告、台所に置かれた――、――の秋だなんて文言も、見たくないのに、空白なのに、そこにある。

 部屋に閉じこもっても、外へ出かけても、どれだけ目を逸らしたって、主張してくる。

 逃げられない、そこに居るから、どこにでもあるから。

 なのに、走って、逃げて、結局また…この四角い部屋の扉を開く。

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 誰もいない美術室。

 床には筆が、転がったまま。

 浅く肩で息をして、よたよたと歩いて、べたべたの靴下を脱いで、部屋の隅っこで膝を抱えた。

 外で聞こえていた赤子の声は、もう聞こえない。この部屋へ来ると、セーブポイントまで巻き戻ったような、リセットされた気分になる。

 もちろん、本当に巻き戻る事は、無いのだけれど。

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 斜めの陽光が、四角く地面に映る。

 日陰の場所は冷たくて、でも、それが今の私に合っていた。

 はーっと息を吐いて、一瞬透明な吐息に膝頭が温かくなる。

 そんな刹那の温もりを感じて、ふと思う。

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(透明になるのなら、暖かくなるのなら、吐息もコーヒーも変わらない…。だったら、――でも同じなのかな)

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 それが、今の私の思考だった。

 中途半端だから、苦しいのかな。もっとはっきりと狂ってしまえば、苦しくないのかな……

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 スマホを取り出し、電話をかけた。

 助けを、求めたかった。

 分からなくなって、雁字搦(がんじがら)めになってしまっていた。

 来てくれるかは分からなかった。けれど、きっと来てくれる。

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 私の絵を好きだと言ってくれた、――なら。

 繰り返し繰り返し褒めてくれた、――なら。

 子どもだった私を大人にした、――なら。

 私のお腹の中を空っぽにさせた、――なら。

 嘘つきのくせに、無責任のくせに、表向きはケーキのように甘くて優しい、そんなずるい――なら。きっと……

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 準備をしないと。椅子を用意して、画材をまとめて、珈琲をふたつ淹れるのだ。ミルクを入れても、何を入れても、ビターな色の珈琲を。

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 後はそう、空白に身を委ねるのだ。

 苦しまないよう、いっそ空白と交わるのだ。

 眠るように、夢見るように。空白は空腹と同じだから、苦しいのならば、埋めればいい。

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 私は、深く深く目をつむる。

 もうじき日差しは茜に染まる。温かな温度も、冷たく冷める。

 

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 そして、夢の中で、

 私は空白と…同じになった。

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 まどろみが透明に溶ける。

 秋の夕暮れ。四角い部屋の中で、影がたつ。

 腕が疲れた。

 風の音が、ひゅーひゅーとうるさい。

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 私は――てしまった。

 ――を、――てしまった。

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 手に持っていたのは、パレットナイフ。

 元より何かを切るのが目的では無い、刃も付いていない、アルミ製の脆いナイフ。

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 だけど、画材だ。

 だから、何度も何度も突き立てた。

 上手く刺さらず、何本も折り曲げながら、それでも一生懸命突き立てた。

 ――に対して、――ながら。

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shake

 何度も。

shake

 何度も。

shake

 何度も。

shake

 何度も。

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 ――は起きない。医者の先生のくれた睡眠薬も、たまにはこうして、役に立つ。

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 もう一度パレットナイフを突き立てる。

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shake

 グチュ、グチョ、グチャグチャッ、ズチャ……ッ

 今なら何度でも刺し放題だ。

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 だって…、

 画材を使えば、これは絵だ。

 だから、色は無い。

 何も、流れない。

 ――さえも、決して流れない。

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 透明なまま、致命傷にもならない穴が出来るだけ。――は、――のまま、空白なまま、ただ、それだけだ。

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 私は、思うのだ。

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 あぁ。どうしようもなく空白だと。空腹なのだと。空虚なのだと。

 空っぽなんだ、空(す)いたまま、空(あ)いたまま、埋まらない。私のお腹は、空いたまま……

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 私の純白は無くなって、でもそれでも良かったと思っていた。なのに運命の糸のように赤い線を見た途端、――は嘘つきになった。無責任になった。

 私は全てを失った。失って、戻りたくて、けど純白に戻れない私は、頭の中が文字通り真っ白になった。

 ただ、戻ろうとして、リセットしようとして、思い出の絵画が、全て空白になった。ーーが褒めてくれた、私の絵画が……

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 だからやっぱり、きっと悪いのは全部私なのだ。

 自己責任で、私が悪い。

 結果。私がひとりで、苦しいだけだ。

 もう、何をどうしても私は苦しむのだろう。

 失おうとしても、埋めようとしても……

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 いい加減腕が疲れた。透明な液体なら、サラサラさっさと流れて欲しい。疲れていても、憑かれたように、腕は止まらない。

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 こんなにも力いっぱい、一生懸命でも、ひとつ空ければ心の中でどこかが空いて……、これじゃあまるで呪いだった。

 だけど、その通りだ。いくつもある私の空白は、きっとそうやって現れた。

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 ――は私だ。――は空白だ。空白は空腹だ。だから、全部同じ。私は、――だ。

 飢えて、渇いて、ひもじくて、空いている。

 ああ、満たされないな。埋まらないな。産まらないな。

 何も、かも。

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 ――は動かない。動かなくなった。私も、虚なまま動かない。

 指先がぬるぬるする。眼球が熱い。秋風がうるさい。

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 ぱたん、と私はうつ伏せに倒れ込む。まだ暖かかったが、床は冷たかった。

 溢れる液体はやはり透明で、そして、ミネラルたっぷりな味や匂いがする。

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 相変わらず私は空っぽだ。足跡の無い、おばけと同じ。

 空虚なままで、空腹で、苦しくて、惨めだった。

 だけど、ひとつだけ空白が埋まった気がする。

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 目を開く。目覚めがいい。

 きっと声色も透明な私は、最後に零す。

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「……さようなら。先生」

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 夕焼けが、鬼灯(ほおずき)みたいに赤かった。

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