ケータイ忘れただけなのに。

中編7
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ケータイ忘れただけなのに。

『あ、しまった! ケータイ忘れた!』

発車間際の電車に飛び乗り、ほっと一息ついたのも束の間、私は恐ろしい事実に気が付いて戦慄した。

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カバンの中も、ポケットの中も、探したけれど見つからない。

それもそのはず、記憶の中には、部屋の充電器に繋げっぱなしになっているケータイの姿が浮かんでいる。

 

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ケータイくんが突然自我に目覚めて、私の気が付かないうちに、気を効かせて、ひとりでにカバンに入っていてくれた――なんて、奇跡でも起きない限り、彼は今も部屋でひとり、お留守番をしていることだろう。

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なんでよりによって、デートの待ち合わせに向かうって時に、ケータイを忘れてきてしまうんだろう。私のバカ、バカ、バカ!

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原因はわかっている、慌てていたからだ。

昨夜、テンションが上がって、夜更かししたのが良くなかった。

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寝坊して飛び起きて、大急ぎでシャワーを浴びて、ロングヘアにドライヤーを当てて無理やり乾かして。

高速で化粧して、着替えて、トイレに行って。

カバンをつかんで、部屋を飛び出して、駅まで全速力でダッシュして――

ほら、ケータイ忘れてる!

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とりあえず、遅れそうなことを彼に連絡しなくっちゃ……って、そうだ! ケータイないんだった!

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肌身離さず持ち歩くのが当たり前になっているから、こういう時に軽く混乱してしまう。

私は今、ケータイを持っていない。

だから、彼に連絡ができない。

――OK?

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仕方ない、まずは目的の駅までスムーズに移動することに集中しよう。

今のうちに乗り換えを調べておこう……って、だから、ケータイがないから調べられないんだって!

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自分の行動とケータイとが、あまりにも自然に結びついていて、恐ろしくなってしまう。

ふだん、どれだけケータイに頼りきった生活をしているか、ということだ。

今も、気持ちを落ち着けるために音楽でも聞こうと、無意識に手がケータイを探していた。

本当に恐ろしい……。

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憔悴する私の耳に、車内アナウンスが聞こえてきた。

「ただいま、××駅で発生した人身事故の影響で、ダイヤに乱れが発生しております。

お客様には大変ご迷惑をおかけ致しますが――」

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『ああもう! こんな時に限って!』

私は心の中で毒づいた。

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結局、目的の駅に着いたのは、予定時間を30分ほど過ぎた頃だった。

いっこうに前に進まない電車の中で、気持ちばかりがジリジリと焦って、何度も彼に連絡を取りたくなった。その度に『そうだ、ケータイ忘れたんだった』と思い出して、の繰り返し。

ようやく駅に着いた時には、私はすっかりヘトヘトになっていた。

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ターミナルであるその駅は、休日も混み合っていた。

私はヨロヨロと改札を出て、待ち合わせ場所の、駅前ロータリーにある時計台を目指す。

と、まさにその時計台の足元に、人だかりができていた。

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なんだろう? 有名人でも来ているのかな? 

テレビの取材? 凄腕の路上パフォーマーとか?

いやしかし、それにしては人々の表情が暗い。

人垣の隙間から、ちらりと覗いた警察官の姿。

遠くから聞こえてくる、救急車のサイレン音。

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心がざわめく。

不安が、墨汁のように胸の中を黒く染めていく。

確かめたくないが、確かめずにはいられない。

私は、おそるおそる人だかりに近付くと、適当な背中に声をかけた。

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「あの……何があったんですか?」

振り返った年配の女性が、ひきつった顔で応える。

「事故ですって。車が、すごいスピードで歩道に突っ込んできて……。

その場にいた何人かが巻き込まれたみたい。ほら、車もグシャグシャで――」

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彼女の顔の奥、歩道に乗り上げ、時計台に衝突したまま止まっている、白い軽自動車が見えた。

車の前方はひしゃげ、フロントガラスは割れて、破片がアスファルトに散らばっている。

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路上に残された、真新しい血だまり。

地面に寝そべったまま、虚ろな目で空を見上げている、人気アニメのキャラクターのぬいぐるみ。

そして、見覚えのある黒ぶち眼鏡――。

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まさか。 

まさかまさかまさか。

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不意に、小学生の頃、全校集会で立ったまま校長先生の長話を聞いていて、貧血を起こした時の感覚がよみがえった。

視界がキラキラまぶしくなって、眩暈と吐き気で立っていられなくなる。

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とにかく彼に連絡を、

ああそうだ。ケータイ、ないんだった。

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ぼんやりする私の耳が、周囲の雑音の中から、その警官の声にだけピントをあわせた。

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「えー、事故発生、事故発生。

11時20分頃、⚫⚫駅前西口ロータリーにて、白い軽自動車が歩道に乗り上げ、時計台に衝突して大破。その際、複数の通行人が巻き込まれています。

えー、目撃者の話では、運転手は3、40代の女。

事故後に自力で車外に脱出し、現場から逃走した模様――」

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「えー、現場の遺留品から被害者のうち、ひとりの氏名を確認。

涼宮――はい、『涼しい』にお宮の『宮』で、涼宮――」

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私が待ち合わせていた男性の名前は、涼宮圭一だった。

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それから、どうやってマンションまで帰ってきたのか、記憶がない。

気付けば一人暮らしの自分の部屋で、ぼんやりと立ち尽くしていた。

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デスクの上には、充電器に刺さったままのケータイ。

液晶画面には、メッセージと着信の履歴を伝える表示が浮かんでいた。

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ついさっきまで、欠けた自分の身体の一部のように、切望していたケータイ。

だが今は、それを手に取ることが恐ろしかった。

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確認すれば。

観測すれば。

不確かな状態が「確定」してしまう。

「事実」になってしまう。

それが恐ろしかった。

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だけど。

確かめたくないが、確かめずにはいられない。

私は、おそるおそるケータイを手に伸ばすと、メッセージを確認した。

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『今、待ち合わせ場所に着いたよ。 10:45』

『なんか遅れてる? 11:05』

(着信あり 11:06)

『オーイ、起きてるか~? 11:08』

(着信あり 11:10)

『返事しろー 11:12』

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『寝てんの? 11:13』

(着信あり 11:15)

『もしかして、ケータイ忘れてる? 11:18』

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私は最後に、留守電のメッセージを確認した。

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『あー、連絡つかないんで、とりあえず、この待ち合わせ場所が見える喫茶店にでも移動して待っときます。

もし寝坊してて、このメッセージに気づいたら電話ください。1時くらいまでは待ってやるから。その代わり、ホテル直行な?

もし、ケータイ忘れてたら――ああ、それじゃこのメッセージも聞けないからダメか。

――ん? 危ねぇな、なんだあの車……。

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おい、あれ、うちの車――なんでアイツが……、

うわ! マジか! 

ちょっと、やめ――!

(大音響)

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ガンガンガン!

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不意に背後で、玄関のドアを激しく叩く音がした。

驚いて、ケータイを床に落としてしまう。

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静寂。

しかし、ドアの向こうに誰かの気配が残っていた。

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いる。

何か、恐ろしいものがいる。

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確かめたくないが、確かめずにはいられない。

私は、足音がしないように、ソロソロと玄関に向かい、おそるおそるドアスコープを覗いた。

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魚眼レンズで歪んだ視界の中、女が立っていた。

ソバージュの髪を顔の前に垂らして、黙ってたたずんでいる。

地味な色の服は、腹の辺りが染みで黒く汚れていた。

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(ピンポーン)

玄関チャイムが鳴る。

目の前の女が鳴らしたのだ。

インターホンに向かって話すには大き過ぎる声で、女が言う。

その声が、ドア越しに聞こえてくる。

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「ねぇ~? いるんでしょ~?

涼宮の妻です~。

貴女がうちの人と会ってたの、知ってるんですよ~、興信所で調べたから。

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アンタのせいで、うち、今まで大変だったんですよ~。

うちの双子、まだ小さいのに、あの人、ふだんは『仕事だ』『付き合いだ』とか言って夜遅いし、休みの日は『接待ゴルフだ』とか言って出掛けて行くし。

その間、私はずーっとひとりで子供の面倒見てるの。わかります? ひとりになれる時間なんてないの。朝から夜まで、ずーっと。

トイレだって、ドア開けたまましてるんですよ? 私の姿が見えなくなると、子供泣くから。

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で、あの人、何やってるかと思ったら、アンタと遊んでわけでしょ、実際は。

ふざけんなって思うでしょ? 私は、自由になる時間なんて、なかったっていうのに。

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だから、もう、いいかなって。

あんなヤツ、もう、いいかなって。

今、生きてるか死んでるかわかんないけど、あの時のアイツの顔見たら、アハッ、ちょっとだけスッとしたし。

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だから、ねぇ、出てきてくださいよ~。

あとはアンタだけなのぉ。

早く帰って、買い物行って、子供にご飯作らなきゃいけないんで、

早く終わらせたいんで、

トットトデテコイヨ!!!!!!!!!!!!」

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『警察……』

そう思ったけれど、私の手には今、ケータイは握られていなかった。

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