長編11
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お観音講 

『講』というのをご存知だろうか。

『講』とは、一定の目的を持って形成された地域の社会集団である。

その目的は、経済・宗教・相互扶助など多岐に渡り、

懇親だけのものやさらに複合的な意味合いを持つものもある。

 

その歴史は古く、宗教的なものでは山岳信仰や寺院を基にしたもの、 

経済的なものでは発展して銀行の基になった『無尽(むじん)』や

『頼母子(たのもし)』などがある。

都会でも『えびす講』などは有名だが、 

田舎には今もその他の社会的目的を持った講が各地に残っている。

俺の実家にも残っていて、『お観音講』と呼ばれている。

『お観音講』は文字通り観音様を中心に形成された講で、

実家を含め隣組十軒ほどが参加している。

観音様は高さ14~5センチで、観音開きになった高さ40センチほどの

祠(?)のようなものの中に置かれていて、持ち運びができるようになっている。

その観音様を、講に参加している家が持ち回りでお世話をする。

世話と言っても特別なことはなく、朝晩の食事を用意する際に

観音様の食事と水とお茶を供えるくらい。

一ヶ月お世話をすると翌月の『お観音講』の日に次の家へ

観音様をお連れする。

『お観音講』の日には、迎え入れる家が自宅で食事を用意し、

参加している家のそれぞれの家長が集まって用意された食事をとりながら

懇談するといったものである。

ウチが迎え入れる番になると前日から祖母と母が下ごしらえを始め、

当日はかなりのご馳走が作られていた。

俺はおせち料理なみのご馳走にワクワクしたものだが、

なぜかそのご馳走は『お観音講』が開かれている客間にしか出されず、

参加する祖母以外の家族は別室で普段どおりの食事をとり、

客間を覗く事もできなかった。

何度か祖母に『お観音講』のことや食事のことを聞いたが、

「大事な集まりやけん・・・。お前も大人になったらわかるようになる」と

詳しくは教えてくれなかったし、その後『お観音講』のことを

口に出したこと自体で父母に叱られた。

他の家で開かれる『お観音講』にも祖母が一人で参加していたが、

亡くなってからは父が参加するようになったので 

(祖父は俺が生まれる前に他界していた) 

代々家長が引き継いでいくのだと子どもながらに理解していた。

今年の正月は久しぶりに実家で過ごした。

転勤族の俺は、昨年は妻のつわりがひどかったため  

気を使わずゆっくりできるようにと妻の実家に行ったし  

一昨年は奮発して、妻と海外で過ごしたのだが   

今年は長女が生まれたこともあり、顔見せの意味もあって  

久しぶりに実家で正月を迎えた。  

(出産は妻の実家だったので父母と長女とは初顔合わせだった) 

おせち料理を一通り食べた後の、ゆったりした気分でくつろいでいるとき 

父が口を開いた。

「お前もそろそろ『お観音講』のことを知っとかないかん。

 ○○(妻)さんも、ウチの者になったとやけん、一緒に聞きなさい」

あらたまった感じだったので、妻が少し緊張したように俺の隣に座った。

ちょうど観音様をお世話する月に当たっていたようで、    

父は観音様を納めた祠を指し示しながら    

「これが『お観音講』で奉っとる観音様だ。    

 お前はどこまで知っとる?」 と俺に聞いてきた。    

大学入学を期に上京した後、そのまま就職した俺は  

『お観音講』のことなどすっかり忘れていたし、  

結婚して夫婦で帰省した時も、一度も話題にならなかったのだが。  

俺が思い出しながら説明すると、     

「まあ、そんなもんやろ。やが、どういう理由で始まったか、    

 なんで続いとるかは知らんやろ? それをキチンと話してやるけん、

 ちゃんと知っとけ」 と話し始めた。     

いつの間にか、母も父の斜め後ろに来て座っている。    

俺は    

「次はお前が引き継ぐんだ」という話に繋がるのかと     

沈んだ気持ちで聞いていた。     

以下は父から聞いた話。     

もともと、ウチは江戸中期からこの土地で農業を営んでいた小作農だった。 

地主から土地を借りて細々とやっていたが、よく聞く地主・小作間の

いさかい等もほとんどなく、いい関係だったようだ。   

まわりも小作農ばかりだったが小作人同士で隣組を作り、    

「今日は○○の田んぼ、今日は△△の畑」と協力して暮らしていた。

今ほど灌漑設備も整っておらず、農業技術も発達していなかったので 

収穫もかなり天候に左右される時代だった。    

不作の年でも地主と良好な関係だったので、ある程度は大丈夫だったようだが、

ある時、不作が何年か続いてどうしようもなくなった。 

ウチの隣組や村の中だけでなく、他の村でも同様だった。

食べる物は底をつき、残っているのは次の年に蒔く種籾や種芋などで  

これに手をつけると次の年の収穫がなくなる。 

どうにもこうにもならなくなった村人は、泣く泣く『間引き』した。 

かなりの数の幼い子供が手にかけられたそうだ。 

むかし歴史の授業で、「飢饉が続いた地方(特に東北地方)で  

食い扶持を減らすため行われた」と習った記憶があるが  

自分が生まれた土地でも悲しい過去があったと知って、

正直暗い気持ちになった。 

妻は隣で少しひきつった顔をして聞いていた。 

後で調べてわかったことだが、以前は『間引き』も含めて 

親による子殺しは罪ではなく、親の生活を守る権利として

認められていたようである。  

ほとんどは生後間もない乳児で、堕胎よりも母体に影響が少ないことや、

堕胎の技術自体が発達していないこともあったようだ。  

ただし、親殺しは死罪に値する大罪だったそうだ。  

それを知ったところで気持ちが安らぐわけではなかったが。 

 

父の話は続いた。 

皆引き裂かれるような思いで間引きしてまで残したわずかな種籾・種芋に 

できるだけ手をつけないようにと、隣組で一箇所に集めて管理していたそうだ。 

どうにか冬を越し、種まきの時期に集まった村人の目に映ったのは 

種籾等を保管しておいたはずの空っぽになった小屋だった。

動物が食い散らかした痕もなかったため、誰かが盗んだのはあきらかだった。 

犯人探しが始まったが、同じ村の他の組や隣の村でも同じように盗まれていて 

同じ村の人間や隣の村民ではなかった。  

そこで村人の間では 「あいつらしかおらん」 という結論に達した。

「あいつらっちゅうのは、いわゆる部落の人たちや。 

 『○た』とか『非△』とか・・・、    

 今じゃ使っちゃいかん言葉かもしれんが・・・」

父は話し辛そうに言葉を切りながら続け、   

「裏の道を登っていった先に川があるやろ?  

 その川を上った先の、右手の山に登った所にあったらしい。 

 今はもう無いが・・」   

と、今は福祉施設が建っている場所の裏手辺りを示した。  

集まった村人は大挙してその部落へ押しかけ、  

そこで食べ残した痕跡や残った種籾等を発見した。

幼い子供に手をかけてまで必死の思いで蓄えていた種籾等を盗まれ、  

さらに盗んだ犯人が、当時犬畜生並みに見下されていた部落の人たちだったため

怒りが爆発した村人は持っていた鍬や鎌で手当たり次第に殺していった。

女子供にいたるまで情け容赦なかったらしい。   

それでも怒りが治まらなかった村人は、   

死体を放置したまま火を放ったとのことだった。  

村に戻った人々はその年、種まきもろくにできず多数の餓死者を出したそうだ。

その後徐々に村の生活は回復していったが、それから奇妙なことが続いた。  

子供が次々に亡くなっていく。   

前の日まで元気に遊んでいた子供が、朝には床で冷たくなっているということが 

頻繁に起こるようになっていった。  

先月はどこそこの息子、今月はだれだれの娘というように。   

次の年も、また次の年も。   

隣の村でも起こっていたそうだ。   

大人が老衰や病死などで死ぬことはあったが、子供のような死に方は無く、

知識の乏しい村人にもさすがに異常だということがわかったようだ。  

当時、村には医者などはおらず、近隣で一番の知識人であった

○○寺の住職に相談して原因が推察された。    

死因は、『餓死』

            

ただ豊作の年にも子供の餓死が続いており、

「単なる食糧不足による餓死はおかしい」と

住職に問い詰められた村人が打ち明けたのが、部落の焼き討ちだった。   

当時一般の村といわゆる部落とは、目には見えないがはっきりした境界があり 

行き来もほとんど無かったため、独自の生活・風習があった。    

また神道や仏門にも入っていないため、独自の信仰も発達していたらしい。

もともと『○た・非△』の『☆人』は、雑能芸者や呪術者・物乞い等のことを言い  

時代や地域によっては一般の村とも交流があったようだが、

当時のこの地においては完全に隔離されていたそうだ。   

住職も部落内の信仰までは知らなかったが、呪術者もいたであろうし、

おそらく独自の信仰の呪詛のようなものが原因だろうと思われた。 

が、さすがに住職にも呪詛の返し方や祓い方はわからず、

とりあえず部落のあった地に碑を建てて供養するとともに 

観音様を祀って各々の隣組で慰霊をすることになったのだという。     

子供の変死も、以降治まったため 

以後『お観音講』という形で今に至っているとのことだった。   

「今も続いとる『お観音講』はそういう意味合いを持っとる。

 紙で残っとるわけじゃないし、代々言い伝えられてきたことやけん、

 多少誇張されたところもあるかもしれん。        

 そういう集まりやけん、家の代表だけが参加するし、

 他の者は覗いてもいかんし食事も食べさせられん」  

さらに続けて、      

「(焼き討ちに)参加したんはウチの組だけじゃないし、

 今じゃ同じ町内やが当時の隣村からも来たらしいけんな。 

 同じような講がそれぞれの隣組にあるはずやが、

 他の講には口出さんことになっとるし、  

 よその組のことはわからん。 

 ウチの講のこともよそには話さんしな」    

「よそから越してきた家の者には教えられん。忌まわしい過去やけんな。 

 集まりがあるのを知ったよそ者が親睦会と勘違いして 

 入れてくれっちゅうこともあったが、入れるわけにはいかんし、

 理由も教えられん。除け者にされたっちゅうて出て行った家もあるがな。 

 だけん、ウチの講に入っとるのは当時から続く家だけや」     

  

「そうやって代々引き継いできたんが『お観音講』や。 

 だけん、俺や母さんがおらんなったらお前が引き継がないかん」  

地元の単なる風習で、近所の親睦会くらいにしか思っていなかった俺には、

はっきり言って衝撃だった。  

妻は隣でショックを受けて泣いてるし。   

「二百年くらい前の話やろ?  いつまでせにゃいかんの?   

 もう、せんでもいいんやないん?」    

転勤族の俺が引き継ぐには会社を辞めて実家に戻らなければならないし、      

さすがに隣で泣いている妻に「一緒に引き継いでくれ」とも言えず抵抗した。    

「いつまでかは知らんし、誰にもわからん。 

 当時の住職も知らんかったらしいけん。

 今の住職も知らんやろ」    

父はあっさり言った。  

「やったら、いつまでなん? ずう~っと俺の子供も、

 孫も続けないかんのか?  俺が引き継ぐんやったら、

 会社辞めないかんし。  抜けるわけにはいかんの?  

 二百年も経っとるし、もう大丈夫やろ?」   

俺はさらに抵抗した。  

父はしばらく黙っていたが、やがて話し始めた。  

「西の○○さんとこの裏手が空き地になっとるやろ。 

 お前が子供ん時までは空き家が建っとったのは憶えとるか?」 

さだかではないが、建っていたような気もする。

「あの家も、もともとは隣組で『お観音講』に加わっとった・・・。  

 娘さんが一人おったけど、よそに嫁に行って・・・。 

 親御さんは説得したらしいが、娘さんの旦那さんが『迷信や』って 

 参加せんかった。都会のほうに住んどったしな。」  

しばらくは親御さんが参加していて、娘さんもたまに小さな子供をつれて  

帰省していたらしいが、まもなく親御さんが病死。  

その後娘さん家族の姿は見ていないが、隣組に親戚筋の家があって、  

その幼い子供が亡くなったことがわかった。

「あと東の△△さんとこの、もう一軒東側。 ○□さんや。  

 子供の頃、あそこの○○ちゃんに遊んでもらいよったろ?  

 あそこも一緒や。餓死かどうかはわからんが、子供や孫のことを  

 考えたら賭けみたいなことはできん。

 呪詛か何かしらんが、まだ残っとると皆んなが思っとる」   

「抜けるんは自由や。 隣組の皆んなも何も言わんやろ。  

 その家の子供が死ぬだけやけんな。それに皆んな本当はやめたがっとる。   

 ただ、一旦抜けたらもう『お観音講』には戻れんし、この土地にもおれん。 

 隣組を裏切るのと一緒やからな」   

「つまり抜ける時っちゅうのは子供が持っていかれるのを覚悟するか、

 子供が生まれんかった時だけや。大人には何もないけんな。

 でもお前は引き継がないかん」        

両親は俺に話すかどうか、ずっと悩んでいたらしい。  

そして、もし俺に子供ができなかったらこのまま話さず、 

自分たちの代で終わりにするつもりだったそうだ。  

だが、俺に長女が生まれた。     

俺の長女が成人するまでは、なんとか父と母で続けられる。  

しかし、長女が結婚して子供が生まれたら・・・。

俺が引き継ぐしかない。    

一旦『お観音講』を抜けたら戻れないとすると、   

間を空けることなく、父や母を継いで参加し続けるしかない。     

子供がいるにも関わらず抜けてしまえば子供が死んで、

やがてその家系は途絶える。    

子供が生まれなければ抜けれるが、同じく家系は途絶える。  

結局あの焼き討ちに関わった全ての血筋を絶やすまで続く

恐ろしいものなのだろう。

後で妻に聞いたことだが、あの時、俺と結婚したことを後悔したそうだ。  

ただ、子供の顔を見たら「この子だけは守らなければ」と  

覚悟を決めた、と。

願わくば、俺が定年退職するまでは両親にがんばってほしい、だそうだ。

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