「ここに、半ば秘術と化したノウハウによって、狂気と永遠を閉じ込める」
私はその日も学校に行かず、部屋の隅でうずくまっていた。
窓を閉め切っているせいで、淀んだ空気は生き場を失っている。
時折聞こえるママとパパの怒鳴り声に、私は体を震わせる。
蒸し暑いのにもかかわらず、毛布にくるまり、外界からの音を遮断する。
聞こえるのは自分の鼓動、息遣い。
大粒の汗が額を流れ、舌の上に落ちてくる。
僅かに塩分を含んだそれを飲み込み、瞼を閉じる。
こうして私はいつも、気絶するように眠りに着く。
目が覚めると、いつの間にか開いていた窓から冷たい空気が流れ込み、火照った頬をゆっくり撫でる。
汗で濡れた服を脱ぎ、掛けてあった服に着替える。
そして目に留まったのは、窓から見える小さな空き家だった。
窓を開ければすぐ、この空き家の壁が目の前に広がる。
しかし一度も、空き家のある裏通りに足を踏み入れたことはない。
その時ある考えがよぎった。
あの家に行ってみよう。
鬱屈した思い、繰り返す日常、絶え間ない喧騒。
そういう類のものから、あの空き家は断絶されている、そんな気がした。
普通に裏通りから行けば、ずいぶん遠まわりすることになるだろう。
だがこのまま窓から屋根伝いに行けば、数秒で辿りつける
靴もはかず、窓から飛び出す。まるで野生人だ。
そこで私は、その「野生」と言う二文字に魅力を感じた。
そう、私は野に放たれた命なのだ。
片足をサッシに掛け、重心を前に移動する。
私の家の屋根と、空き家の屋根には、僅かな隙間があった。
だけどそれは私の足で一歩分にも満たないほどのもので、私は跨ぐようにして空き家の屋根に乗り移る。
空き家の窓は数センチだけ開いていて、軽く押すと、中に入るのに十分な大きさになった。
私は躊躇うことなく、空き家の中に進んでいく。
空き家の床は、歩くたびに木々の擦れ合う音がした。
外観からもかなり古びた印象を受けたが、どうやら予想以上に老朽化が進んでいるらしい。
一階へ降りると、意外なものを目にした。
かつてそこに住人がいた時と同じように、家具が整然と並べられているのだ。
ふと脇にあった書棚を指でなでると、一つのホコリもついていなかった。
これはどういうことだろう。
この空き家に住んでいた人は、もう数年も前に引っ越していたはずだ。
なのにこの一階の部屋は、どこか人の気配のようなもの、誰かが生活していたような空気を感じさせる。
まるであと少ししたら、この家の主が帰ってくるような気がした。
だんだん私は怖くなって、ドアの方まで走り、ノブに手を掛ける。
体重を乗せるようにしてドアを開き、私は外へと出た。
そこで目に飛び込んできたのは、今まで見たこともないような色の空だった。
見渡す限り、黒塗りの家が並び、灰色がかった空を入り組んだ海岸線のように縁取っている。
見るものすべてが、形容しがたい邪悪さを発散していた。
不意に、後ろで金属質な音がした。ドアが閉まる音だ。
後ろを振り返ると、そこにはあの空き家の壁があった。
しかしその中心には、そこのあるべきはずのドアがなかった。
私は意味もなく焦りを覚え、踵を返す。
慌てて壁を調べるが、ドアがあった場所には黒い壁しかなかった。
そういえば、この空き家はこんな建物だっただろうか。
私は入った時には何の変哲もない家だったが、今はまるでペンキで塗ったように、窓も壁も全てが黒に包まれている。
焦燥感は、恐怖へと変わった。
誰に言われたわけでもないのに、今すぐ引き返さなくてはいけないような気がした。
早くしないと、取り返しのつかないことが起こる、そうに違いない。
頭の中を、幾つもの声が駆け巡る。
だが私の問いの答える声は一つとしてない。
作者怖話