ここに、ひとつの人形があります。
可愛らしい顔をした、着せ替え人形です。
一度壊れてしまったので、頭と首をガムテープで固定されています。
黒い髪はまばらで、人形の大きさに対して異様な量と長さです。
きっと一目見た感想は、気味の悪い人形、となるでしょう。
しかし、これは母から誕生日に貰った、大切な人形なのです。
◇
母子家庭であった私の家は、裕福とは言えませんでした。
それでも母は優しく、出来る限りの事をしてくれました。
髪の綺麗な、明るい母でした。
私は幼いなりに母の愛情を感じていました。
ただ、母の方は随分悩んでいたのだと思います。
*
ある日、私は友達の家に遊びに行きました。
その頃は皆が着せ替え人形を持っていて、友達の中で持っていないのは私くらいでした。
誕生日を前にして、私は母に人形をねだりました。
「お母さん、私も人形が欲しい」
しかし、たかが着せ替え人形といってもそれなりの値段はします。
その頃はちょうど物入りの時期で、母は言い聞かせるように言いました。
「ごめんなさい、今は買ってあげられないの」
私は、幼いなりに母の苦労を分かっているつもりでした。
だから、それ以上ワガママも言えず、おとなしく聞き分けたのです。
しかしそんな私の態度が、余計に母の負担になったのかもしれません。
*
一週間ほどして、私の誕生日になりました。
「ほら、誕生日プレゼントよ」
「え、これって……」
母から渡されたのは、私がせがんだ人形でした。
綺麗な包装紙から出てきた新品の人形と目が合ったとき、飛び上がるほど嬉しかったのを憶えています。
「でも、どうして?」
「あなたがいつもいい子だったからよ」
私はウキウキしながら、人形の髪を撫でました。
「お母さん、ありがとう」
「どういたしまして。……そうだ、櫛で髪をといてあげなさい。お人形さんも喜ぶわ」
そう言うと、母は櫛を持ってきて私に渡してくれました。
私は壊れ物を触るように優しく、人形の髪をときました。
「……? お母さん、どうしたの?」
その時私は、不意に母の目に浮かぶ涙に気付きました。
「いえ、なんでもないのよ。さて、晩御飯の支度しなくちゃ」
気丈な微笑み。
私はそれ以上、母に声をかけられませんでした。
*
私は人形を大事にしました。
それこそ肌身離さずといったように、常に一緒にいました。
私は、人形の髪をとくのが好きでした。
櫛を通すだけで、なんだか髪が綺麗になっていくような気がしたのです。
母はそんな私の様子を見て、いつも微笑んでくれました。
そして、優しく私の髪を撫でるのです。
ありがとう、と。
*
ある日、母はひどくやつれた様子で家に帰ってきました。
いつも綺麗だった母の髪は、乱れていました。
とにかく何かがあったことは明らかで、私は母に寄り添いました。
「どうしたの、お母さん」
母は、私の目を見つめると、震える手で私を抱きしめました。
そして、嗚咽混じりの声で何度も、何度も「ごめんなさい」と、繰り返しました。
私は、理解しました。
きっと、もう駄目なんだと。
*
その日から、母は脱け殻のようになりました。
お仕事はどうしたの、なんて、私には聞けません。
私はなるべく母の側にいるようにしました。
目を離すと、母は何処かへ行ってしまうと、そう思ったからです。
*
母は、私が人形の髪をとく姿を見るのが、好きなようでした。
その時だけ、母の顔には笑みが浮かぶのです。
私は、母の側で人形の髪をとくようになりました。
しかし、同時に気付いてもいました。
人形の髪が、だんだん増えていくことに。
そして、綺麗だった母の髪が、だんだんズタズタになっていくことに。
*
ある晩、私は不意に目を覚ましました。
見ると、隣で寝ていた筈の母がいません。
代わりに襖の隙間から居間の電灯が射し込んでいて、何やら物音が聞こえます。
「お母さん……?」
私は、そっと襖を開けて居間をうかがいました。
「え……?」
――母は、自分の髪の毛を抜いて、人形に縫い付けていました。
私が否定したかった悪い想像は、そのまま現実だったのです。
「やめて……やめて、お母さん!」
私は居間に飛び出し、母の手を抑えて叫びました。
母は、いつも通りの穏やかな声を、私にかけました。
「あら、起きてきたの。ちょっと待っててね、もう出来るから」
そして母は、私の言葉などまるで耳に入っていないように、おぞましい作業を続けます。
「もういい、もういいから、お母さん、やめて……」
どうしようもなくなった私の目からは、涙が溢れました。
私は、母の優しい言葉を期待していました。
しかし、
「どうして邪魔するの?」
母は、今まで見たことのない冷たい目で、私を見ていました。
「どうして邪魔するの?」
母は、全く同じ言葉を繰り返しました。
「お母……さん」
「どうして邪魔するのっ!」
母は、人形を床に叩きつけ、金切り声を上げて泣き出しました。
「どうしてぇ、どうして邪魔するのぉ」
母は、頭をかきむしり、何度も何度も人形を、床に打ち付けました。
「お母さん……」
私にはもう、母の姿を見ることは、出来ませんでした。
私に出来たのは、母の声が聞こえないように耳を塞ぎ、母の姿が見えないように目をつぶり、うつ向くことだけでした。
ふと、何かがしゃがみこんだ私の膝に当たりました。
そっと目を開けると、叩きつけられ、もげて転がった人形の首が、私を見つめていました。
*
気付くと、私は母と引き離されていました。
尋常ではない声を聞き付けた大家さんが、警察に通報したのです。
優しい顔をしたお巡りさんが、私の肩を抱いてくれました。
「もう大丈夫だからね」
母の姿は、見当たりませんでした。
「お母さんは……?」
私は、母を呼びました。
「お母さん、お母さん!」
母がどうなったのか、誰も私に教えてくれませんでした。
*
その後、私は施設に引き渡され、そのまま里親に養子として引き取られました。
人形は、私の手元に戻ってきませんでした。
母の姿を見たショックを思い出させてしまうだろう、という配慮だったのか、それとも何か他に理由があったのかは、分かりません。
そして、私がそれ以来母と会うことは、ありませんでした。
*
成人を迎える頃、私は義母に呼ばれました。
義母は、真剣な顔をして、母の話を始めました。
「連絡があったの。……亡くなったそうよ、あなたの実のお母さん」
「え……?」
私は、あの時以来会うことも出来なかった母の姿を思い浮かべました。
同時に、手元に戻らなかった人形のことも、思い浮かびました。
「これ、今朝届いたの。亡くなる前に、あなたにって」
義母は、側にあったダンボール箱を私に差し出しました。
すでに中を見たようで、その表情は沈んでいます。
「出来ればこのまま捨ててちょうだい。……あなたの境遇も分かってるけど、でも」
私は義母の言葉を聞き終える前に、箱を開けました。
「これは……」
箱の中にいた、古ぼけた人形と目が合いました。
それは紛れもなく、あの人形でした。
私が夢中になって櫛でといた髪は、もはや原型を留めていませんでした。
「毎日のように、自分の髪を縫い付けていたそうよ……」
私の目から、静かに涙が流れました。
「お母さん……」
◇
ここに、ひとつの人形があります。
母から貰った、大切な人形です。
私は、今でもこの人形の髪を、櫛でといてあげます。
恐らく母は、今もこの人形に髪を縫い付けているのです。
伸びた髪は、かつての綺麗な髪でした。
怖い話投稿:ホラーテラー かるねさん
作者怖話