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中編6
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お人形さん

ここに、ひとつの人形があります。

可愛らしい顔をした、着せ替え人形です。

一度壊れてしまったので、頭と首をガムテープで固定されています。

黒い髪はまばらで、人形の大きさに対して異様な量と長さです。

きっと一目見た感想は、気味の悪い人形、となるでしょう。

しかし、これは母から誕生日に貰った、大切な人形なのです。

母子家庭であった私の家は、裕福とは言えませんでした。

それでも母は優しく、出来る限りの事をしてくれました。

髪の綺麗な、明るい母でした。

私は幼いなりに母の愛情を感じていました。

ただ、母の方は随分悩んでいたのだと思います。

ある日、私は友達の家に遊びに行きました。

その頃は皆が着せ替え人形を持っていて、友達の中で持っていないのは私くらいでした。

誕生日を前にして、私は母に人形をねだりました。

「お母さん、私も人形が欲しい」

しかし、たかが着せ替え人形といってもそれなりの値段はします。

その頃はちょうど物入りの時期で、母は言い聞かせるように言いました。

「ごめんなさい、今は買ってあげられないの」

私は、幼いなりに母の苦労を分かっているつもりでした。

だから、それ以上ワガママも言えず、おとなしく聞き分けたのです。

しかしそんな私の態度が、余計に母の負担になったのかもしれません。

一週間ほどして、私の誕生日になりました。

「ほら、誕生日プレゼントよ」

「え、これって……」

母から渡されたのは、私がせがんだ人形でした。

綺麗な包装紙から出てきた新品の人形と目が合ったとき、飛び上がるほど嬉しかったのを憶えています。

「でも、どうして?」

「あなたがいつもいい子だったからよ」

私はウキウキしながら、人形の髪を撫でました。

「お母さん、ありがとう」

「どういたしまして。……そうだ、櫛で髪をといてあげなさい。お人形さんも喜ぶわ」

そう言うと、母は櫛を持ってきて私に渡してくれました。

私は壊れ物を触るように優しく、人形の髪をときました。

「……? お母さん、どうしたの?」

その時私は、不意に母の目に浮かぶ涙に気付きました。

「いえ、なんでもないのよ。さて、晩御飯の支度しなくちゃ」

気丈な微笑み。

私はそれ以上、母に声をかけられませんでした。

私は人形を大事にしました。

それこそ肌身離さずといったように、常に一緒にいました。

私は、人形の髪をとくのが好きでした。

櫛を通すだけで、なんだか髪が綺麗になっていくような気がしたのです。

母はそんな私の様子を見て、いつも微笑んでくれました。

そして、優しく私の髪を撫でるのです。

ありがとう、と。

ある日、母はひどくやつれた様子で家に帰ってきました。

いつも綺麗だった母の髪は、乱れていました。

とにかく何かがあったことは明らかで、私は母に寄り添いました。

「どうしたの、お母さん」

母は、私の目を見つめると、震える手で私を抱きしめました。

そして、嗚咽混じりの声で何度も、何度も「ごめんなさい」と、繰り返しました。

私は、理解しました。

きっと、もう駄目なんだと。

その日から、母は脱け殻のようになりました。

お仕事はどうしたの、なんて、私には聞けません。

私はなるべく母の側にいるようにしました。

目を離すと、母は何処かへ行ってしまうと、そう思ったからです。

母は、私が人形の髪をとく姿を見るのが、好きなようでした。

その時だけ、母の顔には笑みが浮かぶのです。

私は、母の側で人形の髪をとくようになりました。

しかし、同時に気付いてもいました。

人形の髪が、だんだん増えていくことに。

そして、綺麗だった母の髪が、だんだんズタズタになっていくことに。

ある晩、私は不意に目を覚ましました。

見ると、隣で寝ていた筈の母がいません。

代わりに襖の隙間から居間の電灯が射し込んでいて、何やら物音が聞こえます。

「お母さん……?」

私は、そっと襖を開けて居間をうかがいました。

「え……?」

――母は、自分の髪の毛を抜いて、人形に縫い付けていました。

私が否定したかった悪い想像は、そのまま現実だったのです。

「やめて……やめて、お母さん!」

私は居間に飛び出し、母の手を抑えて叫びました。

母は、いつも通りの穏やかな声を、私にかけました。

「あら、起きてきたの。ちょっと待っててね、もう出来るから」

そして母は、私の言葉などまるで耳に入っていないように、おぞましい作業を続けます。

「もういい、もういいから、お母さん、やめて……」

どうしようもなくなった私の目からは、涙が溢れました。

私は、母の優しい言葉を期待していました。

しかし、

「どうして邪魔するの?」

母は、今まで見たことのない冷たい目で、私を見ていました。

「どうして邪魔するの?」

母は、全く同じ言葉を繰り返しました。

「お母……さん」

「どうして邪魔するのっ!」

母は、人形を床に叩きつけ、金切り声を上げて泣き出しました。

「どうしてぇ、どうして邪魔するのぉ」

母は、頭をかきむしり、何度も何度も人形を、床に打ち付けました。

「お母さん……」

私にはもう、母の姿を見ることは、出来ませんでした。

私に出来たのは、母の声が聞こえないように耳を塞ぎ、母の姿が見えないように目をつぶり、うつ向くことだけでした。

ふと、何かがしゃがみこんだ私の膝に当たりました。

そっと目を開けると、叩きつけられ、もげて転がった人形の首が、私を見つめていました。

気付くと、私は母と引き離されていました。

尋常ではない声を聞き付けた大家さんが、警察に通報したのです。

優しい顔をしたお巡りさんが、私の肩を抱いてくれました。

「もう大丈夫だからね」

母の姿は、見当たりませんでした。

「お母さんは……?」

私は、母を呼びました。

「お母さん、お母さん!」

母がどうなったのか、誰も私に教えてくれませんでした。

その後、私は施設に引き渡され、そのまま里親に養子として引き取られました。

人形は、私の手元に戻ってきませんでした。

母の姿を見たショックを思い出させてしまうだろう、という配慮だったのか、それとも何か他に理由があったのかは、分かりません。

そして、私がそれ以来母と会うことは、ありませんでした。

成人を迎える頃、私は義母に呼ばれました。

義母は、真剣な顔をして、母の話を始めました。

「連絡があったの。……亡くなったそうよ、あなたの実のお母さん」

「え……?」

私は、あの時以来会うことも出来なかった母の姿を思い浮かべました。

同時に、手元に戻らなかった人形のことも、思い浮かびました。

「これ、今朝届いたの。亡くなる前に、あなたにって」

義母は、側にあったダンボール箱を私に差し出しました。

すでに中を見たようで、その表情は沈んでいます。

「出来ればこのまま捨ててちょうだい。……あなたの境遇も分かってるけど、でも」

私は義母の言葉を聞き終える前に、箱を開けました。

「これは……」

箱の中にいた、古ぼけた人形と目が合いました。

それは紛れもなく、あの人形でした。

私が夢中になって櫛でといた髪は、もはや原型を留めていませんでした。

「毎日のように、自分の髪を縫い付けていたそうよ……」

私の目から、静かに涙が流れました。

「お母さん……」

ここに、ひとつの人形があります。

母から貰った、大切な人形です。

私は、今でもこの人形の髪を、櫛でといてあげます。

恐らく母は、今もこの人形に髪を縫い付けているのです。

伸びた髪は、かつての綺麗な髪でした。

怖い話投稿:ホラーテラー かるねさん  

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