おばあちゃんね、六十歳の時にくも膜下出血で倒れたの。
おじちゃんが慌てて救急車呼んで病院に運ばれたけど、助かる見込みは半々です… 先生からそう言われたから、お母さんたちもあの時は覚悟したわよ。
結局ね、手術してから意識が戻るまで三日間かかったの。
あなたがまだ4年生くらいのころ、憶えてるよね?
おばあちゃんが目を覚まして、『ありがとう…』ってつぶやいた時、あの時ほどほっとして嬉しかったことってほかになかったわ。
おばあちゃんってね、趣味は読書だったでしょ。
あとね、田舎の近所の人たちと喫茶店で世間話することが日課みたいになってたのよ。
おかあさんもその喫茶店には何度か行ったことがあるけど、同じ年代のおじいさんやおばあさんが集まっててね、みんなほんとにやさしくていい方ばかりだった。
あれは、日課にもなるって思ったわよ。
あたながまだ大学生の時だから、十年以上前のことだけどね。
あなたは用事で行けなかったけど、おばあちゃんとお母さん、おばちゃん、おじちゃんの四人で箱根の温泉に一泊で行ったのよ。
あのときね、こんなことがあった…
おばあちゃん、くも膜下出血で倒れてからもうだいぶ経ってるのに、寝床でお母さんにこんな話しだしたの。
突然、しかもお母さんだけによ…おばちゃんもおじちゃんも横でスヤスヤ寝てたから…
「ミツコ…わたしにね、白いもんが飛んできたんよ。
」
「はぁ…!? 突然なに言いだすの?」
「フフフ…今やから笑い事ですまされるけど、私が倒れる前のことよ。
今から考えたら、あれ前兆やったわ…」
「あぁ…くも膜下出血のとき?」
「そうよ。
あの日の朝、五時くらいやったやろか… そろそろ起きよと思ったんやけど、なんか体が重うて… あれ?と思たら、部屋の中を白いもんが飛んでるの。
ヒュルヒュルヒュルヒュル… 上がり損ねた凧みたいに… とにかく、変わった飛び方やった。
そしたらそれがだんだん私に迫ってきてな… 人の顔ってことに気づいたんよ。
見たこともない女のひとやった… ジッと私を見んの。
ものすごい顔して… 怖かったわ… 」
「お母さん…! こんな時間にそんな話やめて… 」
「ご、ごめん…でもちょっと聞いて… 」
「う、うん… わかった… それで… どんな顔やったの?その女の人… 」
「もう…真っ白な顔して、眉がなくて、細い目を無理して必死で見開いてる感じ… それでね… とにかく怖い目が私ののど元のへんをジッと見つめて、口元は笑ってたんよ… それが目の前まで飛んできたの。
」
「ハハハ… それでどうなったの?」
「ミツコ… 笑いごとやなかったんよ… 私ね… 逃げようと思たんやけど、体がコチコチでなにもできないの。
息がハァハァ荒くなって、ドキドキするだけ。
そしたら、それがぶつかるわ!と思た瞬間よ… 私の鼻の穴に入ったの! 」
「へ、へえ… それが悪さしたのかなあ? 」
「う、うん… 私はそう思てる… その日ね、それから何ともなかったから、お茶しにいったんよ。
そんなこと忘れてたし… そしたら、ヒグチのおじさんから言われたの… 『あんた… 今日しんどいやろ? やつれて見える。
せやし、腫れたように耳が大きく見えるで。
』って… そしたら、みんなが笑ってね… 『ヒグチさん!ようそんなこと言うわ!耳が大きくなったって… 女性に向かって失礼やないの!』って。
あのヒグチさんって、元々ちょっと… ずれてる人やから、私、全然気にしなかったし、一緒になって笑ってたんよ… そしたら、家に帰ってトイレから出てきた時に頭が痛くなったんよ。
カナヅチでたたかれたみたいに痛かった… 先生からね… あんた、家の中で倒れたから助かったんやで… って、入院中何回も言われたわ。
」
「それで… なんでまた、なんの関係があって耳が大きくなんの!? ウフフ… それで、その白いやつはどうなったの?」
「それがわからへんの。
ただね… 退院してからずっと体が重かったのに、ある日突然軽くなったんよ。
そう… 変なもんが出て行ったみたいな感覚よ。
あんたに言ってもわからへんやろうけど… でも、その白いの見たのは最初の一回きりよ… 」
「ふうん… そうやったの… でも、なんでそんなこと今まで黙ってたの?なんで今頃そんなこと話したの? 」
「う、うん…………? ほな…おやすみ。
」
おばあちゃんね、そうおかあさんに言ったら背中向けて寝てしまったの。
お母さんその時、笑ってその話聞いてたけど、それから怖くて眠れなかったわ。
次の日ね、おばあちゃんにその話、もう一度確認してみたのね。
おばあちゃん、なんて言ったと思う…? 「そんなこと言った覚えないわ」って…でもね、おばあちゃんの顔色が一瞬だけど、青白く歪んだの。
あんなおばあちゃんの顔、見たこと亡かったわ。
その一ヶ月後よ…おばあちゃん亡くなったの。
それが、母が話した今は亡き祖母のエピソードだ。
祖母は八十歳でこの世を去った。
私はもう聞き始めの時点で、ドキッとしてしまった。
私の時は、タクシーの中で… 最初スーパーのビニール袋が飛んできたのかなと思った。
タクシーのフロントガラスに当たると思ったら、それをすり抜け、私の目の前まで飛んできた。
飛び方は祖母のそれと同じだ… 白い女性の顔も一致していた。
タクシーの運転手は全く素知らぬ顔をしていたから、私にだけ起こった現象だと思った。
ほどなく私にうつ症状が現れた。
さしたる要因もないのに… しかも突然… 漠然とした不安と倦怠感、そして死にたくなる気分が毎日のように私を襲った。
誰にも何もされていないのに、すべて誰かのせいにしたくなった。
誰彼かまわず悪態をつき陰口を叩いたから、そのうち友達も一気に離れて行った。
大学病院の精神科に通い入院した。
カウンセリングも受けた。
少しでもドクターと気がそぐわなければすぐに他をあたり、気がつけばメンタルクリニックを十数軒もハシゴしてしまっていた。
『負けてはいけない… こんな病気に殺されるわけにいかない… 』
焦れば焦るほど、症状はひどくなる一方… しかし、救いの手を差し伸べてくれたのが今は亡き祖母だった。
私と両親を見かねた祖母は私を引き取ると言いだし、私は祖母宅に移り住むことになった。
祖母はいやがる私を無理矢理朝早く起こし、朝の散歩に連れて行った。
雨の日も雪が降る日も、日本海沿岸の田舎道を毎日一時間、フラフラになりながらもそれを一年間続けた。
こんなつらそうな私を見ながらも、祖母はいつもニコニコしていた。
やがて症状は和らぎ、ある日を境に突然体が軽くなり、霧が晴れるように気分がよくなった。
何かが私から抜け去ったように…
そして女子大を五年かけて卒業し、就職、そして今の主人と知り合い結婚した。
その間、親、祖母にかかわらず、数えきれないほどの人たちに、数えきれないほどの迷惑をかけた。
そして、祖母とは数えきれないほど話したものだ。
そのころ祖母は、
「うちの家系はな… 女は要注意や。
みんな頭の病気になったり、頭を怪我したりするんや。
チアキ…おまえだけやない。
おばあちゃんだってそうやし、おばあちゃんのお母さんも脳溢血、その姉妹もあたまの癌とか頭を強く打ったりして亡くなったんや。
チアキ…おまえは若いうちにそうなったからまだよかった。
運が良かったと思わなあかんのやで。
」
といつもの笑顔と違い、少しこわばった表情をして言っていた。
母にはその白いものが現れることはなかったのだろう。
現れたなら、絶対に祖母の話を私に言うはずがないからだ。
当然のことだ。
母と私は血縁ではないのだから…
“白いもん”をみたことを私は言いたくなかった。
というよりも、言うことができないという表現の方がよいのかも知れない。
理由はわからない… 戦場に立った男たちが、戦友の死を語りたがらないのと同じか… いや違うような気がする。
とりわけ、親族には絶対に言うことができないのだ。
生みの母は私が物心ついたときには、すでに亡き人となっていた… 死因は脳幹梗塞。
救急車の中ですでに冷たくなっていたという。
今の母は父の再婚相手であり継母なのだ… 血のつながりはなくとも… 私は今のお母さんが大好き。
私のせいで、髪が真っ白になってしまったけれど。
お母さん… いつまでも元気で長生きしてほしい…
私は着慣れないスーツを着て、今朝はなぜかぼんやりそんなことを考えていた。
化粧をすませ髪型を整えていたとき、三面鏡に制服を着た娘が映った。
はやる気持ちを抑えきれないのだろう、娘はムッとした表情を私に向けている。
今日は娘の幼稚園の学芸会。
『ちいさなナースさん』という劇に娘が出ることになっている。
「お母さん、早く行こ!」娘は私の肩を揺すった。
ぼんやりしていた私は思わず娘を抱きしめた。
娘は鏡に映った私をきょとんとした表情で見つめている。
「お母さん… 」
「なあに… さ、行こうか。
」
「う、うん… お母さん… 」
「どうしたの?」
「お母さんの耳って、そんなに大きくとがってたっけ… ?」
私の心臓の音が聞こえ、化粧水が床に落ちた。
“白いもん”は私にも一回きりだ…
そして、アップしていた髪からブルブル震える手で思わずピンをはずした。
怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
作者怖話