長文です。
すいません。
0
まるで油絵のような空だった。
灰色、鉛色、くすんだ世界。
未来が、見えない世界。
未来は、ありえない世界。
二週間ぶりに部屋から出た僕は、そんな空を見上げていた。
生きている意味が見出せない世界……それを覆う空に、僕は、何を見出せばいい……?
空を見る度に憂鬱になる。しかし、どうしても、外に出ると必ず空を見上げてしまう。そして、僕は、まるでそこに何かがあるかのように、空に向かって手を伸ばす。それは、もはや僕の個人的な儀式のようなものとなっていた。
「……っ?」
突然、足の裏に異物感を覚えた。
空を見上げながら歩いていた僕は、何かを踏んでしまったらしい。僕は、自分の足下に視線を落とした。
死体があった……幼い少女の……もの。
その少女の死体は、ひどく腐乱が進んでいたが、それでも生前は、美しい少女だったことがうかがえた。僕は、その少女に見覚えがあるような気がした……自分の頭の中にチカチカするものがある。それは、僕の意思とは関係なく、徐々に形を取り始めた。僕は気づいた。目の前に転がっている死体は、近くの図書館で何度か見かけたことのある少女だということに……。
この前、外へ出たときには、ここに死体なんか見かけなかったことからすると、この少女は、この二週間の内に死んでしまったのだろう。
ま、どうでもいい……。
死体なんか街中に溢れている……もう……珍しいものではない。
僕は、既に死体と死臭で満たされた世界に慣れていた。もう、当初感じていたような嫌悪感や嘔吐感はどこかへ消え去っている。
今あるこの非日常の世界が、僕の日常なのだ。
ちょうど半年前……あの日から……僕は、死に満ちた明日しか見えなくなってしまった。
1
『何が、人類を死滅させるのか?』
大学時代の友人に、こんなことばかり口にする男がいた。
その男の名前は……まぁ……どうでもいい……。
今さらその男の名前なんて思い出したところで何も変わらない。何も変えられない。
ただ、かつてあいつが主張していたことが、今のこの現状を的確に表していていることには驚かされる。
『人類は、ウイルスによって死滅する』
これがあいつの主張だった。
あいつが、こんな戯言を口走っているとき、僕は、ただただそれを聞き流していた。平和な時代に、『人類滅亡』について、本気で語るヤツにいちいち付き合っていたらきりがない。こっちまで危ない人間になってしまう。
しかし、今になって思えば、もう少し真面目にあいつの話を聞いてやれば良かったのかもしれない……ま、たとえ聞いていたとしても、何も変わらなかっただろうが。
大学を卒業した僕は、司法試験を受けるため就職もせず、自宅で法律書に噛りつく毎日を送り始めた。それが、二年前のことだ。そして、卒業した翌年に初めて受けた試験で上位十パーセント台にまで残ることができた。しかし、さすがに『司法試験の天王山』と呼ばれている論文試験には落ちてしまい、また一年、鬱々とした司法浪人生活が続くことが確定した。それが、昨年の十月の上旬のことだ。
しかし、今年僕は、司法試験を受けてはいない。正確に言えば受けることができなかった……試験自体が中止されてしまったからだ。中止の理由は、発表されてはいない。いや、もしかしたらどこかで発表されていて、僕が知らないだけなのかもしれないが……どちらにしろ中止の理由なんて明らかだった。
今、人類は、死滅しようとしているのだから……。
2
僕は、普段からあまりテレビを見ない上に、二年以上にも及ぶ司法浪人生活のせいで、新聞や雑誌さえも読んでいなかった。そんな僕の唯一の情報源は、インターネットだった。僕は、インターネットを常時接続状態にしており、メールも一分毎にチェックを入れるように設定していた。したがって、ほとんどひきこもり状態である僕にとっては、インターネットのみで他者とつながっていると言っても過言ではなかった。だから、そんな僕が、人類が死滅していることを本当の意味で実感することができたのは、電気が止まってインターネットが使えなくなった二か月前のことだ。
どうして、この世界に人類を死滅させるほど危険なウイルスが広まったのかについては、僕は何も知らない。ただ、『一見すれば“風邪のような症状”だが、一度発症すれば、その九割を、三週間以内に死亡させる威力を持つウイルスによって、人類が死滅しそうになる』といった内容のSF小説を昔読んだことがある。その小説は、偶然にも今のこの現状を的確に予言していたといえるだろう。もっとも、僕がそう思うだけで専門家に言わせれば、まったく別モノなのかもしれないが……。
一時期、その小説が何十年かぶりにベストセラー入りをしたということをニュースサイトで読んだことを覚えている。しかし、もうその作家が印税を手にすることはないだろう。そう考えると、ベストセラーといっても何だか虚しく思えてくる。
「おっと……」
今度は、足下に注意をしていたので、進行方向に転がっていた死体を飛び越えることができた。死体があるのには慣れたとはいえ、死体を踏むことにはまだ慣れてはいない。もっとも、そんなものに慣れたくはないが。
ま、どちらにせよ、慣れる前に死ぬからいいか……。
僕は、二週間前から『風邪のような症状』が続いていた。
3
僕のアパートから歩いて三分ぐらいのところに区立図書館の分館がある。そして、そこからもう二分ぐらい歩くと業界トップの店舗数を誇るコンビニがあった。今日、僕が外に出てきたのは、そのコンビニで生活物資を補給するためだ。昨日まではかなりの高熱でにうなされていたので身動きがとれなかったのだが、今日はかなり身体が楽だった。熱もあまりないみたいだ。
これは、ネット上で『最後の晩餐への招待状』と呼ばれていた小康状態である。発症後、二週間ぐらいで送られてくるこの招待状を受け取った者は、逆算的に一週間の内に死んでしまうことになる。そして、この招待状は、全ての人間に送られるわけではなかった。『最後の時間』は、運の良い者だけに与えられるのだ。一方、運の悪い者は、高熱にうなされたまま死んでしまう。道路に転がっている死体は、おそらく『最後の時間』を与えられた運の良い者達の方だろう。僕は、道路の上なんかで死にたくはないが、最後まで苦しんで死ぬのはもっと嫌だ。自分が運の良い人間であったことに感謝しなければならないだろう。
僕は、コンビニの入口に立つと、プラスチックの取っ手が付けられている元『自動ドア』を横に引いた。
「おーい、元気かい?」
僕は、店内に入るとそう呼びかけた。
しかし、全く反応がない。
二週間前に、この店に来たときには、まだアルバイト店長の大学生がいた。彼は、一見して「ヘビーメタルロックが大好きです!」と分かる格好をしていたが、話してみるとなかなか気さくないい奴だった。
彼が言うには、この辺りで生きている人間は、もうほとんどいないらしいということだった。どうして、そんなことを知っているかについて彼に尋ねてみると、彼は、近所の家を回って缶詰等の保存が効きそうな食料品や日用品を調達して、店の棚に並べているらしいことが分かった。
「それって、窃盗じゃないか?」と、僕が彼に言ったら「『無主物』を占有しただけっすから、窃盗罪の構成要件に該当しないっすよ」と彼は、スラスラと答えを返してきた。
……確かに、もっともだった。もう人が住んでいない、もしくは、死体があるだけの家の物なら、相続も観念できないこの状況の下では『無主物』と認定してもいいだろう。
僕は、彼の解釈を支持することにした。
それにしても、彼のようなスタイルの人間と法律の話ができるなんて思わなかった。おそらく、彼は、大学で法律を学んでいるのだろう、しかも、わりと真面目な学生のようだ。
その後、僕は、彼と取りとめもない話(それは、僕が最近読んだ本の話が中心だったが)を三十分ほどすると、買い物カゴに入れた商品をレジで清算してもらうことにした。
「お金なんかいらないっす。ここにあるものは全部タダっすから」
「本当に?」
「そっす。ここに物を集めてきて並べているのも、そうした方が便利と思っただけっすから。それに、今さらお金なんてあっても仕方がないでしょ?」
なるほど、彼は、”いいヤツ”だった。
しかし、今はその“いいヤツ”の彼の姿は、店内になかった。彼の指定席だったレジ前の椅子も、床に横倒しになっている。
「おーい」
僕は、もう一度呼びかけてみた。しかし、今度も全く反応がない。もしかしたら、彼は、商品を調達するために出掛けているのかもしれない。
ま、取り敢えずここにきた目的を果たすことにするか。
僕は、店内を回って缶詰や水、そして栄養ドリンク剤、チョコレート等を次々と買い物カゴの中へ入れていった。そして、それらで買い物カゴを一杯にしたとき、急に尿意をもよおしたので、買い物カゴを床に置き、店内にあるトイレを借りることにした。そのトイレは、もう水は流れないので、今ではトイレというより肥溜めに近い存在になっていると、彼が笑いながら言っていたことを、フト思い出した。
僕は、トイレの扉を開けた。
”いいヤツ”の彼が、便器に頭から突っ込んで死んでいた。
「……ううっ」
僕は、口に手をあてた。
久しぶりに死臭を感じたのだ。
直ぐに、扉を閉める。
そして、急いで買い物カゴから品物をコンビニのロゴが入った袋に移し変え、逃げるようにしてコンビニから立ち去った。
4
……気がついたら、区立図書館分館の前にいた。コンビニを出てからここまでの記憶が全くない。
真っ白だ。
頭の中に空白ができていた。
僕は、少し不安になった。
しかし、歩いて二分ぐらいの時間のことなので大して気にする必要はないだろう……気にしては駄目だ……絶対に。これは、僕が気にすることではないはずだ。
僕は、大きく深呼吸をする。
一回、
そして、二回。
すると、難なく落ち着きを取り戻すことができた。
たいしたことではない……本当にたいしたことではない……。
「本でも借りてみるか」
僕は、なんとなく……本当になんとなくそう呟くと、図書館の中へ足を向けた。
元々僕は、結構図書館を利用する人間だった。ほとんどひきこもり状態だったとはいえ、食料・日用品の買い出しのためのコンビニと本を借りるための図書館への外出には、躊躇することはなかった。ただ、本を借りたまま返さないことが度々あり、その都度、図書館の職員さんから返却の催促の電話を頂いた。『予約している方がいるので、早めに返却して下さい』というフレーズを聞いたのは、一度や二度のことではない。しばらくそんな電話にも居留守を使って出ないでいると、ついには、自宅にまで取りにこられたこともある。
僕は、そんなことを思い出しながら薄暗い図書館の中を歩いていた。結構、何も入っていない本棚があった。特に、医療関係の棚にはもうほとんど本が残っていない。おそらく不安を解消するために借りていったのだろう。なんとなく、笑ってしまった。
僕は、全ての棚を見終えると、目を付けていた本を一冊手にとって、入口近くの貸出カウンターへ向かった。
この図書館が閉鎖された(職員の人達がいなくなった)のは、三ヶ月ぐらい前のことだ。したがって、現在本の貸出の手続をしてくれる人はいない。しかし、いくら延滞常習犯の僕でも、図書館から黙って本を持ち出すのはさすがに気が引けた。
さて、どうしようかと考えていると、貸出カウンターの上に一枚のメモが置かれていることに気付いた。
「……なるほどね」
その丸っこい字で書かれているメモは、自作の『貸出手続』だった。おそらく小学生ぐらいの女の子が書いたものだろう。そのメモを参考にして、僕も『貸出手続』を済ませた。
僕は、図書館を出ると、また空を見上げ、そして、手を伸ばした……これは僕の儀式だ……止めるわけにはいかない。
空は、赤色を帯びつつあった。青色のキャンバスに灰色と赤色が混ざると、とても現実感が乏しい世界を現出させる。それは、今のこの状況に恐ろしいほどに合っていた。
僕は、歩き出す前に目線を下ろした。空を見上げたまま歩いていたら、また、さっきの少女を踏みつけてしまうかもしれない。
僕は、足下に注意しながら歩き続ける。すると、あの少女の死体の横を通りかかったとき、少女が何かを抱えてこんでいるのが見えた。僕は、何故か、少女が抱え込んでいるモノがひどく気になり、その腕の中からそれを取り出した。
本……だった。
しかも、見覚えがあった。
僕が三か月も延滞していた本だ。内容も、よく覚えている。『今日は~の日』というように、自分が過ごした一日に名前を付けることを楽しみにしている少女の日常を書いたものだった。必ず章の最後は、「あしたも、特別な一日になりますように」という主人公の少女の言葉で締められていた。
今になって思えば、どうしてその本を借りたのか、その理由はよく思い出せない。小さい頃に読んだことがあったので懐かしかったから借りたのだろうか? 思い出せないことからして大した理由はなかったのだろう。
ふと、僕の頭の中に、『予約している方がいるので、早めに返却して下さい』というフレーズがよぎった。
頭の中が、チカチカした。
僕は、慌てて首を左右に振る。
激しく振る。
頭がもげそうになるほど激しく振る。
チカチカしたモノが形にならないようにする。
しかし、チカチカしたモノは、僕の意思とは関係なく、形を取り始める。
さっきの『貸出手続』のメモに書いてあった本のタイトル……それは、この本と同じだ。この少女が……『予約している方』……すると、あのメモを書いたのは、この少女で……そして、この少女が、ここで死んでいるということは……
「……っ!」
僕は、少女が抱え込んでいた本を投げ出した。そして、後ろによろめいて尻餅をつく。突然、僕の中に『死体』が持つ非日常性が蘇ってきたのだ。死臭も纏わりついてくる。嘔吐感が胃をキリキリと苛む。涙が溢れ零れる。身体が震える。今まで切り離していたモノが全てつながり始めようとする……。
朝比奈彩夏。
それが、この少女の名前だった。
5
今まで日常と化していた非日常が、その本来の姿を取り戻した理由は、すぐに分かった。
つながってしまったのだ……。
都会で一人暮らしをしている人間にとって、自分の周囲に住んでいる人間の名前を知っている方が珍しい。そして、名前を知らない人間は、背景に埋没する。つまり、”つながっていない”。
僕が今まで見てきた死体には、名前なんてなかった。僕にとってそれらは背景にすぎず、どれも僕とは”つながっていない”ものだったのだ。だから、容易く、本当に安易に日常化させることができた……でも、僕は、この少女の名前を知ってしまった……僕と少女とつながってしまった……。
少女は、図書館の帰り道に死んだ。
少女は、僕が延滞したために、本を読むことができなかった。
少女は、僕のせいでここで腐り果てようとしている。
ひどく少女が惨めに思えた。そして、それ以上に自分自身が惨めに思えた。
何故、少女は『最後の時間』に、この本を読もうと思ったのだろう。そこまでして読みたいものだったのだろうか……。確かに、この本はもう既に絶版されていて、一般の書店では手に入らない。
僕の目に、少女が図書館の職員に、予約している本が届いているか尋ねている姿が浮かんだ。
僕と少女は、つながっていた。
そして、僕が、少女を、惨めにした。
少女の身体を、惨めに路上に晒させた。
本当なら、本の中の少女のようにベッドの中で『特別な一日』が来るの待ちながら眠りにつくこともできたかもしれないのに。
「……そうだ」
僕は、立ち上がる。
震える身体を叱咤する。
「彩夏ちゃんを家へ帰してあげよう……」
6
図書館に戻った僕は、あの貸出カウンターの上のメモを手に取ると、急いで彩夏ちゃんのもとに戻った。そのメモには、彼女の名前と本のタイトルの他に、住所と電話番号が書かれてあった。
彩夏ちゃんの家は、僕のアパートからそれほど離れておらず、すぐに見つけることができた。庭付き一戸建てという中流上の家庭生活を容易に想像できる家だった。
玄関の前に立っている僕の背中には、彩夏ちゃんがいる。彼女の身体は、腐乱がかなり進行しているので慎重に扱った。少しでも油断すると身体の一部がもげてしまいそうになるのだ。
幸運にも玄関の扉には、カギがかかっていなかった。
僕は、躊躇うことなく家の中へ入っていく。キュッキュッと床を鳴らしながら彩夏ちゃんの部屋を探す。忘れかけていた『他人の家の匂い』が、僕の胸を絞めつける。ここには、整然と秩序だった『他人の生活』がある。それは、当たり前のことであり、今まで僕が切り離していたことだ。そして、また、僕とつながってしまったことでもある。
彩夏ちゃんの部屋は、二階にあった。
僕は、この部屋を見たとき、あまり女の子らしくない部屋だと思った。立派な本棚が二つもあるからそう感じるのだろうか……いや、それだけではないような……ま、どちらにしろ、こんな僕の印象は、偏見に満ちたもので、彩夏ちゃん自身とは何の関わりもない。
僕は、彩夏ちゃんをベットの上に横たわらせると胸の上で手を組ませた。そして、彼女の顔の横に、あの本を置く。
そして、一呼吸を置いて、
「彩夏ちゃん……」
と、僕は、呼びかけた。
もちろん、応えはない。
「彩夏ちゃん……」
僕は、もう一度呼びかけた。
もちろん……応えはない。
「彩夏ちゃん……」
僕は、さらに呼びかけた。
もちろん…………応えはない。
罪悪感。
自意識。
自己欺瞞。
こんなことは、ただの自己満足だ。
こんなことをしても、何も変らない。
こんなことをしても、過去は変えられない。
こんなことをしても、未来も変えられない。
こんなことをしても……明日に意味を持たせることはできない。そんなことはわかっている……わかっているんだ。しかし、それでも僕には、まだやらなければならない『儀式』が残っている。
罪悪感。
自意識。
自己欺瞞。
僕は、彩夏ちゃんから離れると窓を開けた。
そして、空を見上げる。
「あしたも特別な一日になりますように」
僕は、願いの言葉を口にした。
怖い話投稿:ホラーテラー Fさん
作者怖話