カーテンの隙間から光が漏れて、小鳥のさえずりがかすかに聞こえた。
今朝に限って目覚まし時計は不要だった。緊張と不安が体を固くして、深い眠りを妨げたようだ。カチカチ… 夜中ずっと秒針を刻む音が聞こえていた。
起き上がって首を左右に振ると、関節がポキポキと音を立てた。
カーテンを開ける。外は明るいし、いい天気だ…
いよいよやってきた…
大事な一日が始まった。
今日は朝から大口取引先でのプレゼンテーション。
だけど僕の心は曇り空… 自信がないからだ。
トイレに行き、洗面台で鏡を見ながら歯を磨く…
髪が逆立って寝癖がついていた。髪の手入れに時間がかかりそうだ…
そして僕はギョッとなった。
眉間にうっすらと黒いしわが浮かんでいた…
しかめ面をすると、黒い線が鮮明になった。指でこすってみた。やっぱり消えない… 思わず首を傾げた。
こんなのあったかな… ?
シャワーを浴びてもう一度鏡を見る。消えない黒い線…
ぼんやりとワイシャツに腕を通しながら時計を見た。やばい遅刻だ!
上着を取って、コートをつかむ。
マンション前の下り坂を転がるように走る。コートのポケットに手を突っ込むと、飴玉が手に取れた。
僕は思わずそれを口に入れた…
仄かな甘味を口の中で感じる。ローズマリーのような強い匂いが僕を刺激した…
昨日会社の帰り、地下鉄の中で少女に座席を譲った。
「ありがとう。あたしラッキーちゃん。おにいちゃんにあげる… 」
少女はそう言うと、白色の飴玉を僕にさしだした。
ラッキーちゃん… 変わった名前だ… 噛みつき猿みたい…
と思いながら、僕はありがとうと微笑んで飴玉を受け取った。彼女も微笑んだが、口元から黒っぽい八重歯が覗いていた。
少女はどこか悪いのだろう。欧米系のような目鼻立ちをしいたものの、顔色がさえず、黄ばんで見えた。ペイズリー模様のワンピースに赤いビーズの首飾りが印象的だった…
そんなことを思い返しながら、僕は足を緩めた。
バス停に近づき、交差点で立ち止まる。
ハァ、ハァ… 荒い呼吸が止まらない。陽がマンションの窓に反射して、とてもまぶしい…
そして、突然何かが僕の背中を強く押した…
ドンと、背中を押され、部屋に入ると僕はプレゼンテーションを始めていた。
頭が高速エンジンのように回転し、信じられないほど言葉がつながった…
プレゼンは完璧だったみたいだ…
気がつけば、取引先の重役や会社の上役どもがパチパチと手を叩いて僕を賞賛していた。
僕はすっかり気分が良くなり、優越感に浸りきっていたその時、誰かに手をつかまれ、部屋から出された。
目の前にはラッキーちゃんがいた。ラッキーちゃんは僕とここで縄跳びをしたいと言う。
「ダメだよ… こんなとこでできないよ。」
「おにいちゃん、だいじょうぶ、だいじょうぶ…」
ラッキーちゃんはすでに縄を回していて、僕は彼女と向き合いながらその輪の中で飛んでいた。
ラッキーちゃんはゆっくり縄を回していたが、僕らは徐々に空中に舞い上がっていた。
高層ビルの窓は開くはずないのに、僕らはその窓から外へ飛び出していた。
さっきいたビルの屋上を見下ろすと、上役どもが口をアングリ開けてこっちを見上げていた。そのバカ面をみていたら、とても愉快になった。
「おにいちゃん… たのしいでしょ?」
「うん… 最高の気分だよ。ラッキーちゃんありがとう。」
いつのまにか、ラッキーちゃんの瞳が万華鏡になっていて、僕の顔がいくつも映っていた。
ラッキーちゃんが二重跳びをすると、僕たちはますます舞い上がった。
上空では巨大なチョウチンアンコウやキンメダイなどの深海魚が心地良さそうに泳いでいた。潜水艦がそいつらを追いかけていたが、ラッキーちゃんを見つけると追いかけるのをやめた。窓から眼球のない男たちがラッキーちゃんに向かって敬礼した。
ラッキーちゃんはそれを無視して、なわとびやーめた、と僕に言うと、さよならと言って僕に手を振った。僕は真っ逆さまに落下していく…
もうダメだと思い手足をバタバタ動かしたが、もうどうにもならない…
僕は高速でグルグルと回る色とりどりの激流の中を落ちて行った。ワーッと叫ぶと、突然曲がり角が現れ、そっちに向かって落ちる…
どうもこのド派手な激流は、DNAのように螺旋状の形をしているらしい。体は絞った雑巾のようにねじれていた。
落下中いつの間にか意識を失っていたのだろう。気がつけば干し草の上に落下していた。僕はキョロキョロと辺りを見回し、おもむろに立ち上がった。
僕が歩くと同時に、干し草のような地面もわずかに動く…
どうも巨大な牧草ロールの上にいるようだ。僕は歩く方向を九十度変えてみた。しばらく歩くと、牧草ロールの切れ目に突き当たった。
周りは大木が何本も立っているが、それらすべてがグニャリと歪んで見えた。そして、足が生えたように大木たちが動いているのだ…
牧草ロールの上から見下ろすと、おびただしい数の老若男女たちが手を伸ばしながら蠢いている。なんと全員に眼球がなく、口をアングリと開けたまま上空を見上げているのだ…
彼らは無表情だが、視界が歪んでいるので、彼らの表情が歪んで見えた。僕は恐怖のあまり後ろにのけぞった。何となく、僕には彼らが何かを強く求めているように見えた…
そして彼らの“視線”につられて上空を見上げた時だった。
ヒャヒャヒャ…
笑い声が聞こえたかと思いきや、曼荼羅模様の空にラッキーちゃんが現れた。彼女は耳を覆いたくなるほどの高周波音で笑いながら、人々に向かって何かをばらまき始めた。
人々は競ってそれを手にしようと、大混乱をきたしていた。男女の悲鳴と叫び声が地響きを立てたかと思えば、吹き出る血潮、跳ね上がる首や手足がはっきりと見えた。阿鼻叫喚とはこのことだと思った…
いったい何を求めて争っているのか…
僕は目を凝らした。そしてハッとなった…
「飴玉だ!ラッキーちゃんの飴玉… !」
僕が叫んだその時、後ろから声がした。
「飴玉じゃない… あれはドラッグだよ!」
僕が振り返ると、どこかで見たような少年が立っていた。
少年は白い狩衣と袴、黒い烏帽子姿でニッコリと笑いながらくぐもった声で言った。
「ケイちゃん、久しぶりだな… 」
僕は目を凝らした…
歪んだ視野はそのままだが、すぐに見当がついた。右頬のほくろが見えたからだ。頬に大きなほくろがあるヤツなんてそうはいない…
「タカちゃんかい… ?」
「そうだよ… 気づいてくれてうれしい。」
「タカちゃん… いったいどうなっているんだ? 君は死んだはずだろ… 」
「そう。ケイちゃん、もうすぐ君もそうなるけど… 」
それを聞いたとたん、目の前をパッと稲妻が走った。そして、僕は慌てた。慌てて、全身がガクガク震えた。そして止めどもなく涙があふれて、オイオイと赤ん坊のように泣きじゃくった。
「ケイちゃん… 大丈夫だよ。心配するな… ここからは僕に任せろ。」
「何でだよ!そんなことありえるか… どうして俺が… 」
「うん… じゃ今から見せるよ。」
タカちゃんはそう言うと、僕に手を差しだした。
僕はタカちゃんの手を取ると、歪んだ空間を飛んだ。涙が吹き飛んで行くのを感じた。
そして、曼荼羅模様の空間を飛びながら、僕は震えながらタカちゃんに聞いた。
「ラッキーちゃんって、いったい何者なの? 」
「うーん… 魔女かな。いや… 死神か。 いや… 女神かな… 」
「… 僕は地下鉄の中で彼女と出会い、その… 薬をわたされた。」
「あ… 全部知ってる。彼女のお眼鏡にかかってしまった… 」
「………」
僕らは雲の間を飛びながら、下界を見下ろしていた。相変わらずドラッグを奪い取るために、人々が殺し合っている…
「ケイちゃんあれはね、人々の業だよ… 金、モノ、出世、恋愛、セックス… 自分自身、そして自分たちの子孫が幸せになるためには他人を蹴落とすことくらい平気なんだ。だから殺し合ってる… 業はケイちゃんや僕も元々持ってた物だよ… あの建物がね、ドラッグの工場だ。」
「………」
タカちゃんの指差す方向を見たら、何だか化学構造式のような建物が現れた。いくつかの六角形が部分的に、そして立体的に重なり、ところどころにO、N、H等の文字が見えた。
僕たちはさらにグイッと上昇すると、青空が現れた。そしてまた下降する…
いったいどうなっているのか、この世界は…
高速道路が網の目のように張り巡らされ、新聞紙やクッキーの生地でできた車が数多く走っていた。足のはえた電柱がドスン、ドスン…と地響きを立てて歩き回り、高層ビルが高速で捩じれては元に戻る… その度にビルにいる人々を吐き出していた。
僕たちは空泳ぐ金目鯛に衝突しそうになったが、ある高層ビルの一室にたどり着いた。
「ケイちゃん… 君がプレゼンテーションする予定だった会議、今やってるよ。」
そこにはやはり僕はいなかった。僕の代役であろう、先輩がタジタジになりながら、プレゼンをしていた。上役どもは苦虫を噛み潰したような顔をしている…
僕たちはもう一度飛び立つと、あっという間に家の近所の交差点に立っていた。野次馬たちが群れをなして、多くの警察官や救急隊が誰かを取り囲んでいた…
僕がうつぶせたまま倒れていて、頭からほとばしる大量の血液が下り坂にそって流れていた。後ろにはトラックが止まっていて、運転手が呆然と立ちすくんでいた…
「ケイちゃん… これでわかっただろ? もう元には戻れない… 」
「……… オッケーだ。そう… もう元には戻れない… 」
僕はもう泣かなかった。すべては過ぎ去ったことだ…
「タカちゃん… 僕これからどうなるの? 」
「あ、僕に任せといて。心配しないで… 僕たちこれからずっと一緒だよ。」
「……… ありがとう。タカちゃん…」
病室では真っ白な顔をした僕を家族がとり囲んでいた。両親と弟ががっくりと肩を落としてすすり泣いている…
心電図がフラットになった… 医者が腕時計を見た。
「ケイちゃん、行くよ… 」
「そうだね… お母さん、お父さん、弟… ごめんね。」
これから行くのは僕だけではなかった。高齢の男女や若い人たちが白装束を着た人に手を取られ、旅立とうとしている… そして、全員の眉間に黒い線が浮き出ていた。
「おっと、ケイちゃん… 忘れ物だ。」
「あっ! そうか… 」
僕は息を吹きかけ、か細く消え入りそうな灯火をボッと消した。
ロウソクが消え部屋が真っ暗になると、慌てて家政婦が明かりをつけた。
語り終えたミズタニ氏は正座したままマダムに一礼し、集会に集まった一同にも深々と頭を下げた。主催者のマダムが落ち着き払った声で、
「ミズタニ様ありがとうございました。どうでしょう皆様… ご感想は… 」
すると私の隣にいたカガミ氏が、
「ミズタニ様、この話は実話ですか? 」
ミズタニ氏は首を傾げながら、
「ウーン… 兄が事故で亡くなったことは周知の通りです。兄が意識不明の間、『痛いよ… 痛いよ… 』と呻いていたので、その度に医者が兄に注射しました。痛み止めの麻薬をです。 ただ… 」
「ただ… ?」カガミ氏は、訝しげな表情でミズタニ氏を見つめ、一同の表情を窺った。
「結局のところ、この話が実話かどうか、皆様のご想像にお任せするしかありません… 」
カガミ氏をはじめ、マダムや私たちは顔を見合わせた。
ミズタニ氏の話では、お兄さんの四十九日法要の日、深夜十二時前頃、突然携帯電話が鳴った。着信表示が何も出なかったため、ミズタニ氏は首を傾げながら電話に出てみたそうだ。すると、
「ケイタだ。今から俺の言うことをよく聞け… 」
と、くぐもったお兄さんらしき声は一方的にさっきの話を語り始めたという。それはあたかも自分の手記を朗読しているようだった…
そして、その声に混じって、時折『あたしラッキーちゃん… 』という金切り声が聞こえていたのだそうだ。
私はそのことを聞いた瞬間、スーッと背筋の冷え込んでいく感覚に襲われた。
それとともに不気味だったのは、語っていた間ずっと向けられていた、ミズタニ氏の私への視線…
ひとまわり以上年下の男性から向けられる、私の全身を舐めるような視線…
私は動揺し、手のひらが汗ばみ、握ったハンカチを湿らせた。
自意識過剰だろうか… ?
マダムがニッコリと微笑み、
「それでは皆様… 第九十八話はこれでおしまいです。次はいよいよ九十九話目ですわ… お気をつけてお帰りくださいまし。」
そう、次回九十九話目は私の番… 私はこの夜会に来るのがとっくに嫌になっていた。でも、もう後戻りできない…
私は憂鬱な気分のまま、マダム邸を後にした。黒い雲が月を覆い、ギャー、ギャー… と、野良猫たちのもの恋しげな鳴き声が夜の闇に溶け込んでいく…
私はコートの襟を立て、マフラーに首をすくめた。
タクシーを拾おうと、広い通りに出たとたん、後ろから軽く肩を叩かれた。
「ユカさん… 一緒にタクシー相乗りしませんか? 」
声の主はミズタニ氏だった。私は全身に鳥肌が立つのを覚えた… 何で私の名前を知っているのか?夜会では苗字しか知らせていない。どうしてか… ?
「いえ… 一人で帰りますから。ありがとう、さようなら… 」
私はきっぱり言ったが、声は震えていた。
ミズタニ氏は、
「そうですか… では次回楽しみにしてますよ… 」
私は作り笑いを浮かべると、足早に横断歩道を渡った。
タクシーを待つ間、ミズタニ氏は一人タクシーに手を挙げていた。タクシーがミズタニ氏の前に止まり、左後ろのドアが開いた。
そして、一瞬のことだった…
ミズタニ氏の後に一人の少女らしき者が確かに乗り込んだ。
少女は黒っぽいワンピースにビーズの首飾りをしていた。そして、ニタッと笑う顔を私ははっきりと見た。
ミズタニ氏を乗せたタクシーはUターンし、私の目の前に近づいてきた… ミズタニ氏は私を見つけると、ニッコリ微笑んで手を振って、タクシーは夜の闇に消えて行った。ミズタニ氏の隣に少女の姿はなかった。
私の見間違えだろうか? いや、確かに彼女はタクシーに乗った…
私は再び全身の震えを感じたが、ちょうど来た黒いタクシーに乗り込み、運転手に言った。
「運転手さん… しばらく経ってから、出発して下さい… 」
私は停車中のタクシーの中でぼんやりと考えた。たしかミズタニ氏は双子の兄弟だったはず…
双子の弟であるミズタニ氏も、あの少女、確かにこの目で目撃したあの少女の…
お眼鏡にかなったのだろうか… ?
私の憂鬱は深まった… 九十九話目はどうしよう。
怖い話投稿:ホラーテラー Y2さん
作者怖話