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箱の中の狂乱と少年と仮面

長編8
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箱の中の狂乱と少年と仮面

***

中学校からの帰り、僕は殺人者になってしまった。

罪は罪だ。刑罰は受ける気でいる。

でも、ほんとうにひどい奴等だったんだ。

***

 夏休みの少し前、一汗かいて僕は自宅のマンションへ帰ってきた。うだるように暑い、早く冷房の効いた部屋に戻りたい。僕の家は八階にあって、窓を開けておけば心地良い風が入ってきてはくれるけど、こんな日は文明の利器の方がありがたい。

 見慣れたエントランスを抜けて、他のマンションよりはやや大型の、うちのエレベーターを待つ。疲れているので階数ランプを見上げずにうつむいていたら、チン、と音がして一階に箱が着いた。さっさと中に入る。

箱の中には人がいた。僕が入ってきたのに驚いたのか、びくりと足をすくめるのが分かった。

顔を上げる気はしないので『彼』の顔は見えないまま。相手の足は硬直したきり、降りる様子がない。

エレベーターを待ち受けていた僕の存在が『彼』を軽く驚かせたのかと、悪いとは思ったけど、他人に気を回す余裕なんてないほどに今日は暑いし、疲れてる。

そのまま八階のボタンを押すとドアが閉じてきた。僕が八階で降りたあとで、もう一度一階に戻ってくれ。あなたが失った、降りるタイミングを取り戻す手伝いは、今日はごめんだ。

 箱が上昇を始めた途端。

 『彼』がするりと僕とボタンパネルの間に滑り込んだ。いきなりどうしたんだろう、とやや後ずさりしてその時初めて『彼』の全身を目に入れる。この暑いのに、大きな帽子とマスク。ジャケット姿。

右手には、包丁―――――真っ赤に染まっていた。長袖のたっぷりした服をこんな日に着ていて、妙だなと目を凝らせば襟元から覗くアンダーシャツには赤い液体が付着している。べったりと。つまりは、それを隠す為のジャケットだ。

 こいつは、たった今、誰かを刺してきた・・・!

「ついてないね」

『彼』がつぶやく。僕は動けない。

「ついてない。俺も君も。見られた方も、見た方も」

 ボタンパネルを背にして『彼』が迫る。

冗談じゃない!

早くこの箱を止めて逃げなくては。八階まではきっと僕の命はもたない。

ポケットから携帯電話を

取り出すがプッシュしている時間はない。パネルに向かって投げる。ボタンに当たれ!

二階のボタンに命中してオレンジの明かりがともる。ああでも二階はたった今通り過ぎた!

乾いた音を立てて落ちた電話に『彼』は包丁の柄を振り下ろす。破壊音を上げてパールピンクのかけらが舞う。

そのピンク色といい、僕の手にはやや小さかったサイズといい、もともと女性用に開発されたもの

だった。だからというわけではないだろうが、か弱く破損した。あのピンクは気に入っていたのに。

『彼』は今度は僕に向かって包丁を振り下ろす。僕は学校指定の安物のスポーツバッグで閃く白刃をはたく。こっちの得物のメリットは体積だけだ。それなりに重量があるから防御には充分か?

けれど、相手の武器は攻撃に充分すぎる。くそ!

 

3階通過。

 まっとうに出口からは出られそうにない。いつまでもよけられそうにもない。なら。

わずかな間隙をついて、スポーツバッグを上に振り上げた。天井にぶつかると天板がずれて外れる。

そうだ。上しかない!

『彼』は、あッ、て顔で僕を見て――――その顔はすぐに緩んだ。

そんなに簡単にボックスの上によじ登れるはずがない。普通は。何の足がかりもなければ。

 バリアフリー、という言葉が世間に浸透して久しい。ここの管理人だか責任者だかが熱心なおかげで、うちのマンションのエレベーターには腰ほどの高さに手すりが三方の壁を伝っている。

壁に寄りかかる時に邪魔だな、という程度に認識していた銀色の横棒が命の恩人に化けそうだ。

一息に手すりに足をかけ体を跳ね上げる。上へ!

右の二の腕まで天板の上に出た。

ひじから指先までをボックスの屋根にぴたりと置き、体を引き上げようとする。右足を振り上げて天板の上に出し、これで右半身は脱出した。

バッグを握った左手を体に引き寄せようとして、がくりと止まる。

―――――――――五階通過。

『彼』の左手がバッグの端を握り締めていた。僕が天井に逃れてしまえば、『彼』は目撃者を始末するのが難しくなる。『彼』がここへあがってこようとしても、よじ登ろうとすればその時に隙ができる、僕が包丁を奪い取ることも可能だろう。

『彼』が今僕の手を切りつければ、僕は得物を手放して上へ引っ込んで、住民の誰かが異常に気付くまでやり過ごすことになる、だから彼が僕の左手に白刃を及ばせることはできない。

けれど僕は僕でこの唯一の得物であるバッグを離したくない。つまり引っ張り合いが起こる。渾身の力をこめた。額に血管が浮いた。お互いに。

そして響いた。びぎ、びりっ、という音。

彼の包丁を防いでいた時、刃にバッグが触れて入ってしまった切れ込みが今、必死の綱引きに耐え切れず大きく口を開けていく。

まずい。武器も防具も、ある程度の重さがあってこそ十全に機能する。このまま中身が零れ落ちてしまえば後にはぺらぺらの安っぽい合成繊維の布が残るだけだ。

『彼』が上へ上ってくれば、相対しても対応する手段がない。とにかくバッグの崩壊はなんとしても防がなければ。どの意味でも人生の終わりにそのままつながってしまいかねない。

筋力を総動員して必死に引っ張る。爪がはがれそうになっても緩めずに。逆効果だ、と気付いたのは

びぎぃーッ!とひときわ大きい音がしてバッグの中身が

ゴトッ、ゴト。

と音を立ててエレベーターの床に転がり落ちてからだった。僕のバッグは重さと機能を同時に失った。

『彼』の唇が横に大きく伸びた。

 

六階通過。

 

 ゴトッ、ゴト。

音は二つ。

『彼』の唇が横に大きく伸びた。悲鳴の形に。つまり、

ひ。

の形に。マスクの上からでもはっきり分かる。

『彼』の視線は床に転がったものに注がれている。

バッグの崩壊はどの意味でも人生の終わりにそのままつながってしまいかねない。

命を守る手段を失って『彼』の凶刃に犯されるか。

もしくは、僕は社会的に終わる。今度は『彼』が目撃者だ。

バッグから落ちた血まみれの肉厚な包丁と生首―――首はピンクの携帯電話の持ち主だった少女のそれだ。

見られてしまった。

『彼』が生首に視線を奪われた間隙に僕はエレベーターの床に着地する。

『彼』が僕の着地に気付いた瞬間に僕は生首を手に取る。

『彼』が怪訝な表情をする間も無く僕は接敵して。

生首を『彼』の顔面に押し付けた―――二人の顔面が、がつ、と音を立てて衝突する。

あごが外れそうなくらい口を開いて今度こそ『彼』は悲鳴を上げた。その混乱に乗じて、やっとふんだくることができた。『彼』の生んだ隙と、『彼』の凶器とを。

七階通過。

あとはただ『彼』をめった刺しにするだけだった。僕の手の中の包丁は空気中と『彼』の肉の中を激しく往復して、極端な速度で『彼』をこの世から追い出していく。刃を引き抜くたびに彼の魂まで引きずり出すような感覚。

その感覚だけが連続する。

 

八階到着。

 

 エレベーターのドアが開くと幸い誰もいなかった。『彼』の体は、勝手に箱が降り始めないよう、ドアが閉まらない具合に箱からはみ出させてドアストッパーにした。僕は少女の生首と僕の包丁をつかむと―――『彼』の包丁は『彼』の肋骨の隙間に、水平になって行儀よく収まっている―――、手の血をぬぐってから迅速に自宅の部屋へ戻って、どこにも指紋をつけないよう気をつけながら机の引き出しの中に『彼女』を入れて鍵をかけた。包丁はビニールに包んで同じ所にしまう。

そして急いでほうきとちりとりを持ってエレベーターに戻って、携帯電話の破片を部屋のごみ箱へと処理した。もう一度エレベーターへ戻り『彼女』の痕跡を残していないことを確認していると、誰かが一階で箱を呼ぶボタンを押したらしく、一階のボタンランプが点灯した。僕は『彼』の体を箱の内に引きずり、エレベーターは下降を始める。

 一階に着いて扉が開く。買い物袋を下げた主婦は最初きょとんとして、『彼』の凄惨な死体にすぐに悲鳴を上げてあとずさった。僕も息も絶え絶えに泣きそうな目で悲鳴じみた声を上げる。

「け、警察を呼んでください!急いで!この人、死んじゃってるんです!急いで!」

 大筋はそのまま警察に話した。僕の第一の殺人のことだけは隠して。

 

 『彼』はうちのマンションに住む恋人だか愛人だかを逆恨みで刺殺して帰ろうとして僕と鉢合わせたそうで、お互いについてなかった。

そんな奴に、会ってしまったからってだけで殺されちゃたまらない。死んで当然のひどい奴だ。

 

僕が『彼』を殺す直線に殺した、少女の件について。

 『彼女』から告白されて僕らは交際を始めた。けれど僕は『彼女』のことをよく知らなかったし、冷やかされるのも嫌だったので、学校の外でだけ触れ合うようにして努めて無関係に見せかけ、『彼女』もそれを面白がっていた。

それが幸いして僕らの関係に気付く人はいなかった。

次第に関係が軋んできて別れたくなったけど、『彼女』は食い下がってきて、うっかり明かしてしまった僕の一般的でない趣味の諸々を広められてもいいのか、と脅迫してきた。死んで当然のひどい女だ。

 通学路の林の中、首のない『彼女』の体はまだ発見されずに眠っている。

僕との交際を知る人間はほとんどいないはずだから、僕を狙って捜査の手が伸びてはこないかもしれない―――そうだといいけど。 

もう捜索願は出されたのだろうか?

僕との通話やメールの履歴を消去するのが面倒で持ち去ってしまったピンクの携帯電話は、次の燃えないごみの日に屑のまま出される。

 今、僕の机の上にはうるさくものを言わなくなった『彼女』がすまし顔で乗っている。

美しい顔立ちだったけど、この口が開くたびにうんざりしたものだ。

こうしてしゃべらない『彼女』と向き合って静かにすごしてみたかった。

沈黙したままの『彼女』は何て素敵なんだろう。いつまでも眺めていたいけど、まもなく今日の事情聴取の時間だ。

…。

 

 

中学校からの帰り、僕は殺人者になってしまった。

罪は罪だ。刑罰は受ける気でいる。

でも、ほんとうにひどい奴等だったんだ。

二人とも。

 

…。

 

『彼女』、少し、におってきたかな?

この二人の時間は『彼女』が腐敗してくずれてしまうまでの限られたものなのに、警察はうるさく僕を呼んで邪魔をする。

『彼』は自分の勝手で人を殺し、僕を殺そうとし、『彼女』は発見されでもしたら死んでからも僕を困らせる。

誰もが僕を困らせている。なぜだ?

それは、みんな、自分のことしか考えていないからだ。

自分の都合のいい生き方にしか目がいかないからだ。

みんなろくでなしだ。

このことに気づいている、僕だけがまっとうだ。

いやな世間だ。

誰もがもう少しだけ、他人に優しくなれたらいいのに。

…。

 

ああ、もう。

怖い話投稿:ホラーテラー クナリさん  

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