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長編17
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ルンペン橋

題名のとおり、この話は差別的表現を含むため、読んでご不快に思われる方はご遠慮いただきたい。

DQN消防のころの話だ。

家の近くの寺に続く道沿いの川に、俺たち消防がルンペン橋と呼んでいる橋があった。

橋の下には一人のルンペンが住んでおり、その橋の名前の由来となっていた。

まだホームレスが物珍しかった当時、ルンペンは俺たち消防の格好の都市伝説のネタになっていた。

ルンペン橋を渡ることは一種の度胸試しであったし、高学年であった俺と悪友はそれが高じ、ルンペン橋からルンペンの持ち物を持ち帰ってステータスとしていた。

(よい子も悪い子もまねしない)

ルンペンは普段自転車に乗って空き缶や新聞紙を集めたりしていたが、いつの頃からかその姿を見かけなくなった。

「ルンペン橋のルンペンが死んだ」

そんな話がたまにクラスの中で話題になることがあったが、俺と悪友の安岡(仮名)は否定していた。

たまにルンペンがその辺をうろついてごみか何かをあさっているのを見かけたことがあるからだった。

ある日、その件でクラスの奴らと言い争いになり、ルンペン死亡派のクラスメイトの高橋(仮名)がルンペンの生死をかけて俺たちと賭けをすることになり、週末にみんなでルンペン橋を見に行くことになった。

ちょうどその話が出た日のことである。

俺と安岡が一緒に下校していると、当のルンペンが道に座り込んで行きかう自動車をぼーっと眺めているのに出くわした。

(勝った)

いきなり明日には勝利宣言だ。

俺たちがクスクス笑いながら通り過ぎようとしたとき、俺たちの声が聞こえたらしいルンペンが突然こちらのほうをぐるっとふり向いた。

そのとき初めて気がついたのだが、ルンペンは目に白い膜のようなものが張っていて、黒目がなかった。

その風貌と、見えないであろう目で完全にこちらをガン見しているルンペンに俺たちは内心ビビり、言葉少なにルンペンをやり過ごした。

道の角を曲がるとき、ちらりと後ろをみたら、ルンペンが立ち上がってこちらのほうを眺めているのが見えた。

翌日、登校した俺に、朝一で高橋が喰ってかかってきた。

かなり興奮していたのでわかりにくかったが、内容をまとめると、どうも昨日学校が終わった後、高橋は抜け駆けして一人でルンペン橋までいったらしい。

そして・・・見つけてしまった。

橋の下で、毛布に包まったルンペンの腐乱死体を。

それから親を呼ぶわ警察来るわ事情聴取受けるわで大変だった。それもこれもルンペンが生きているというデマを流した俺たちのせいだ、というのだ。

「嘘だよ、そんなん。俺昨日ルンペン会ったもん」

もちろん俺は否定した。なにせこちらは当の本人に昨日会っているのだ。

しかし高橋も譲らない。どうしようもないので安岡に

「なあ、昨日見たよなあ、俺たち」

話を振ってみたが、安岡は安岡で

「ああ、うん、まあ・・・・・・」

と話の切れが悪い。

結局、話がかみ合わないままチャイムが鳴って「朝の会」が始まり、そこで時間切れとなった。

「どうしたんだよ、安岡。なんか俺たちが悪いみたいになってんじゃん」

休み時間。俺は早速安岡に噛み付いた。

「なあ、晶(俺の仮名)、高橋って、あいつはもう死んでたっていってたよなあ」

「そうだよ、そんなわけねえじゃんっていうのに。お前何で一緒に否定してくれないんだよ」

「あいつ、昨日俺の家に来た」

安岡の顔は思いつめていた。

「は?」

言っている意味がよくわからない。

「だから来たんだ。昨日の夜、俺の家の庭に。間違いなくあいつだった」

「あいつ?高橋?」

「違う」

「…もしかして…ルンペン?」

「……そう」

「なにしに?」

「わからん。何かを探している風だったような気もするけど・・・」

「何を?」

「だからわからんって!」

安岡の声にクラスの数人の女子がちらっとこちらをみた。

「とにかくわからんけど、ひょっとして、高橋の言ってることが本当だったら・・・。

一昨日見たのも、もしかしたら・・・もうこの世のものじゃなかったかも」

「嘘だろう。そんなの」

いいながらも、俺もちょっぴり震えてきた。なによりもあの一昨日見たルンペンの表情・・・。

あれがもう実は生きているものではない、といわれても思わず納得してしまう迫力だったのだ。

「なあ、どうするよ、これから」

俺はビビッているのを悟られないようにちょっと大きめに声を出した。

「……そうだな。よし、除霊しよう。除霊」

「ジョレイって?」

「霊をとり除く、と書いて除霊。この世のものでないものを追い払う儀式をするんだ。

確か学研の『心霊のふしぎ』の、『もしもおばけにおそわれたら』ってとこに書いてあった」

そして俺たちは、安岡の記憶の中にある除霊の儀式を実行することにした。

家に帰り、食塩と仏壇の引き出しにあった般若心経と懐中電灯をもって駄菓子屋に集合。安岡は般若心経のかわりに家内安全のお守りを持ってきた。

二人して夕方のルンペン橋へ向かった。

俺は正直、あぶない刑事みたいにそこら中にテープが張り巡らされ、パトカーが当たり一面にとまり、赤色灯で周りが真っ赤になっているのを少し想像していたが、逆にルンペン橋はひっそりと静まり返り、道の上から見えるルンペンの荷物も撤去されるでもなく、ただ申し訳程度に黄色と黒のテープが張られているだけだった。

俺はちょっとだけ拍子抜けしながらもゆっくりと道路からガードレールを越え、草につかまりながら慎重に橋の下へと降りていった。

心臓の動きが早くなってくる。

そう、貧弱なテープとはいえそれが張られているということは、ここで確実になにか警察が来るようなことがあったのだ。

おそらく、今日高橋が言っていたことが・・・

ルンペン橋のすぐ手前まで来た。かつてこっそり忍び込んだときよりも、そこは少し小さく、だがその分影が濃く見えた。

あちこちに積まれているダンボール、錆付いてひっくり返ったままの自転車、使えるかどうかわからないカセットコンロ、そして・・・何枚かの毛布・・。

このうちの一枚に昨日までルンペンはくるまっていたのか、いや、それともとっくに警察が回収したのか・・・

その判断はつかなかったが、橋の下の中央辺りにある毛布が少し盛り上がっているところなど、いやに俺の気持ちを不吉な思いにさせた。

「どうする?入るのか?」

「入らにゃ除霊できんだろ。行くぞ」

どちらかというと自分に言い聞かせるようにして塩のパックを片手に安岡がテープをくぐる。俺も安岡の後に続いた。

そして、二人はルンペン橋の影に包まれた。

かび臭い、淀んだ空気が漂っている。

とにかく、除霊の儀式を終わらせてさっさとここを出よう。

まず、「もりしお」というのをやるのだそうだが、それがなにかわからないので橋の下に塩を撒くことにした。

多分相撲取りがやっているやり方が正しいんだということになり、俺は食塩を握って上に向かってあたり一面に放り投げた。

その間、安岡はもってきた短冊状の紙切れに、筆ペンで何事か書き付けていた。

なんでも天空戦記シュラトの登場人物が身につけているかなんかの印で、シンゴンとかいう魔除けらしい。

塩を撒き終わって魔除けの短冊をその辺に置くと、般若心経を読み上げる。

経文を取り出して、いざ、読み上げようとして…俺は重大な事態に気づいた。

字が難しくて読めない。

しょうがないので安岡にフッてみる。

安岡はしばらく経文をパラパラしていたが、なんとか日本語で書かれた部分を見つけ出した。

「なあーむあみいーだーぶー。げだつのこうりん きわーもーなしー。ひかりさわかぶるものはーみなー。

うむをはなるとーのべたまうー…」

ルンペン橋の下に安岡のお経が響き渡る。

どうでもいいけど…

(お経って、正直言ってダサいよな)

そんなことを思いながら、顔だけは神妙なふりをして俺はぼんやりと立っていた。

日が陰ってきて、少し風が吹いてきた。

日よけか雨よけのブルーシートがバタバタと音を立てる。

(これが終わったらジョレイも終わりだ。もうルンペンと会うこともないんだ)

どれぐらい時間がたっただろうか。辺りは少し夕焼けに照らされているぐらいで、影の色がより濃くなってきている。

ブルーシートと毛布が風でたなびいている・・・・・・。

(ん?)

違和感を感じた。

毛布って、風でこれだけ動くものだっけ?

もぞ、もぞ、もぞ……

毛布が動いている。波打つような動きから、徐々になにか立体的なものが下からせりあがってくるような動きに変わってきた。

もぞ、もこ、もこ、もこ…

やがてそれは自分からでも見上げるような大きさとなった。

それはまるで巨大な灰色のてるてる坊主のようだった。

「なあああーんむ、あーみーだーあーあーあー、ぶうーうーうー」

安岡は気づいていない。相変わらずお経を上げている。

俺は…固まったまま、声すらでなかった。

やがて毛布の端から、ふるふると震えながら1本、2本と、人の指が出てくるのが見えた。

フウウー、フウウウー、ゴフッ、ゴ、ゴフッ

獣のような息遣いが聞こえてくる。

指が毛布をぎりぎりと握り締めた。

俺は後ろに後ずさった。

その拍子に、安岡にどん、っとぶつかる。

「ん?」

安岡が振り返る。

「ん、あ、あ・・・あああ、な、なんなんなん・・・」

安岡の声がひどく遠くから聞こえるような気がした。

「うわあああああああああああ!」

「ウボアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

安岡の絶叫が響き渡るのと、指が毛布を引き剥がし、中から出てきたものが雄たけびを上げるのはほぼ同時だった。

それは、間違いなくあのルンペンだった。

「逃げろ!」

俺はやっとそれだけ言うと、ルンペン橋からテープをくぐって這い出した。

(どうして?ジョレイの儀式をやってるっていうのに!)

なんどもすべりながら川の土手を上って道路まで上がる。

途中、すべる足首をルンペンにつかまれる妄想に襲われる。

(どうしよう、どこに逃げよう)

と、

ボオオーン、という鐘の音が聞こえてきた。

奥の山にある寺だ。18:00になるといつも聞こえてくる鐘の音だった。

俺はほとんど無意識に寺のほうへと向かった。

心臓破りの坂を駆け上がる。

全身が心臓になったようだった。鼓動で耳が痛い。

やがて坂の上に山門が見えてきた

「すいません!」

境内にいる人影に俺は大声で呼びかけた。寺の住職だ。

「どうしたね?」

怪訝そうな住職に、俺はこれまでのいきさつをかいつまんで説明した。

「そうかね。ご不幸があったとは知っておったが、迷われておるとはなあ」

「毛布がてるてる坊主になったんです。中から突然がばあって・・・すごい顔だったんです。目なんて、白目むいてて、うばあーって叫んで、ぐおおってこっちに来たんです!」

我ながら、よくこんなパニクった子供の戯言を真剣に受け取ってくれたものだと思う。

住職は少し考え込んだ後、顔を上げた。

「ふうむ…なるほどなあ。

なあ、子供には少し難しいがな、人が亡くなってまだ迷われるとき、何かを引き換えにするものなんだよ。

多くの人は人としての心を捨ててしまうものだが、きっと仏さんは視力、を引き換えにしたんだろうなあ。

おそらく、迷われておる今でも目は見えておらんと思うよ。

これから私もお勤めをするから、お前さんも来なさい。

それが終わるまではあまり喋らんほうがいいな。お前さんの声を聞きつけちまうかも知れんからな。

…ところでお前さん、さっき一緒に橋に行ったというお友達も一緒のほうがいいと思うが、お友達はどこだね?」

そう言われて俺ははっとした。

なんてこった。安岡のことを完全に忘れていた。

あのとき、橋の下でルンペンに襲われて、それで、それで……

俺の表情から、住職は事態を悟ったらしい。

「どうも、警察のお力も借りたほうがよさそうだ。

ちょっと一緒に来なさい。向こうの建物に電話があるからな」

そういって住職が指差した先に、薄暗がりにたたずむ2階建ての公民館みたいな建物と……

こちらに向かって歩いてくる人影があった。

遠くて顔ははっきりしない。

だが、シルエットから、人が着るにはあまりにもぼろぼろになりすぎた布切れをまとっているのがわかる。

そしてあのふらふらとする不自然な足取り。

それに、それに……住職の、いや、ありとあらゆるものの影が消え行く夕日に長く伸びているというのに…

その人影には影がなかった。

まともなものじゃない。

いや、もうあれは、あれは恐らく先ほどの橋の下の……

「あ、あ、ああ・・・・・・」

「もう喋らんでいい」

住職はすたすたと歩き続ける。気づいてない?いや、見えていないのか?

俺は、動けなかった。

住職と、人影の距離が詰まっていく。

5メートル……3メートル…2メートル……

「おーい、なにやっとる。こっちにこんか」

住職がこちらを振り返って俺を呼んだ。

ふらふらしていた人影が一瞬動きを止める。そしてまっすぐに住職に向かって突き進んだ。

人影の腕が住職の首にかかる。

「む?ん、ぐう、ううううう」

住職の体が中に浮かぶ。

ばたばたと激しく足が空を掻く。

「わああああああああ!」

俺は思わず叫んだ。

人影がこちらを向いた気がした

あわてて口を押さえたが、もう遅い。

人影は住職の体を地面に投げつけると、こちらに向かってふらふらと、しかしまっすぐに向かってきた。

「んんんんんん!」

俺は押さえた口の中で絶叫すると、後ろを向いて駆け出した。

山門をくぐり、坂道を下る。

(だれか大人の人、大人の人助けて!)

逃げる当てなんてない。本能的に家に向かって走りながら、だれか大人の人がいたら声をかけようと、俺はひたすらに走る。

遠回りだがルンペン橋を避けて、1本隣の橋を渡ったところで、向こうの道路に見覚えのある背中が見えた。

「安岡!」

俺は安堵の叫び声をあげた。

そういえばこちらは安岡の家の方向だ。

あいつ、無事だったんだ。

「安岡、やばい、ルンペンが俺たちを狙ってる。声を出したらいかんらしいって、な、今から警察いこ。これぜったいやばいって」

安岡は歩くのをやめた。頼りない街頭の下、心なしかややうつむいている。

「な、しのごの言っとれんって。あんなんうちの親でもなんもできんって思う。俺も行きたくないけど、ここは…」

違和感を感じて俺は話すのをやめた。安岡の肩が、ぶるぶる震えている。

「……安岡?」

安岡がギュルンっとこちらを向いた。

その目には……瞳がなかった。

「…え?」

「ケエ セ ……ケエッ セ………ゲエエゼエエエエエ!」

安岡がほえた。その声はいつもの安岡と似ても似つかない。野良犬のうなり声のようだった。

「ヒ 」

喉の奥から妙な音がでた。

安岡じゃない!

俺は慌てて道路の違うほうへ駆け出した。

後ろを振り返る余裕もない。

(だれか、だれか助けて!)

道行く人にあったら誰でもいいから声をかけようとするが、なぜかこんなときに限って犬の散歩をしている人すら見当たらない。

そしてついに、俺は自分の家に到着した。

親はまだ帰宅していない。もどかしげに玄関先の鉢の下に隠してある鍵を取り出して玄関を開けると、俺は自分の部屋に飛び込んだ。

ベッドに飛び込んで汗びっしょりの体で布団を頭からかぶる。

 っかあー、ひいー、っか、ふ、ふ、ふひー、はあー

自分の限界まで乱れた呼吸音が布団の中に響く。

心臓はもう限界を超えている。今にも破裂しそうだ。

そうしてしばらくしていたが、俺はガバリと身を起こすと、扉の横にあった本棚、ステレオデッキ、そしてベッドでバリケードを作った。

そして部屋の隅にベッドの布団に包まって体育座りをしたときに……

玄関の鍵を閉め忘れたことに気がついた。

「うわっ」

思わず声を上げて、慌てて口をふさぐ。

(どうする。またバリケードを崩して、鍵を閉めてくるか?)

そんな時間あるのだろうか、いや、しかし玄関の鍵が開いているのはいかにも不安だ……・

いったいどれくらいの時間が経過したのか。俺に時間の感覚は失われていたが、やがて俺は決断した。

(親はいつ帰ってくるかわからん。閉めよう)

俺がバリケードを崩そうと腰を浮かしかけたとき

ガチャ、キイイイイ・・・

玄関ドアが開く音が聞こえた。

バタン

木造2階建ての家が軽くきしむ。

いつも聞きなれたこの音と振動が、今日はやけに不吉なもののように感じる。

(だれか入ってきた。誰だ?親か?それとも……)

ガラガラガラ

居間へと続く開き戸が開かれる音がする。

いつもの母親の行動パターンだ。

母親か?でも……

音の主が母親と決めるのは早い気がした。母親ならば、玄関を閉めたあと、鍵もかけるはずだ。

それに、普段仕事は車で出かけている。

いつも聞こえてくる、へたくそな車庫入れの音、さっきは聞こえていたか?

トン  

まとまらない思考にとらわれていた俺の耳に、階段を上る音が聞こえた。

トン  トン ギ  トン   トン ・・・

間違いない。誰かが階段を上ってきている。

ギ  ギ    ギ

階段を上りきり、やたらときしむ廊下を踏んで……

足跡は、俺の部屋の前まで来た。

カ チャ 

ゆっくりとドアのノブが回る

ドン

かすかにドアが動いて、バリケードの本棚にドアが当たる音がした。

ドン  ドンドン  ドン ドン ドン!

母親じゃない!

親だったら部屋があかなければ何か言うはずだ。

いくらなんでも俺の名前ぐらい呼んだっていい。それが無いということは……

ううううううう

うめき声とも、ため息ともつかない音が響いてきた。

俺は泣き叫びたかった。

とても人間の出す音だとは思えなかった。

奴が…ルンペンがドアの向こうに来たのだ。

(ここを開けられたら終りだ)

俺は布団ごとバリケードに近づくと、部屋うちからバリケードを支えた。

それはあまりにも絶望的な抵抗だった。

ドン ドンドン ガチャガチャ ドン!ドン!ドン!!

ドアを開けようとする力が強まる。俺はただ歯をくい縛ってバリケードをドアに押し付け続けた。

と、ふいにドアを開けようとする力が消えた。

……どうしたんだ?

どれぐらい時間がたったか、俺は恐る恐る顔を上げた。

(…帰った、のか?)

ドアの奥に何かいる気配はない。

親でも帰ってきたのか?それで逃げ出した?

俺は窓から外の様子を見ようと、後ろを振り返った。

と、部屋の中央付近に、人影が立っていた。

光は窓からの薄明かりのみだが、それが例のルンペンであることは瞬時に分かった。

俺は手で口をふさいで、かろうじて自分の悲鳴を飲み込んだ。

ルンペンは何かを探し回るように、部屋の中を歩き回っている。

やがて俺を見つけるであろうことは容易に想像できた。

ルンペンがこちらに向かってきた。

目の前、50センチぐらいの距離をルンペンが横切る。

俺は息を止めた。

ルンペンが前に伸ばした手をこちらに向かって回したら……それで終わりだ。

ひく、ひく…

ルンペンの鼻がわずかに動いた。

こちらに向かってゆっくりと振向くと、俺の隣にあるベッドを触る。

息が、苦しい

俺は耐え切れなくなり、手の隙間からすこし空気を噴出した。

ぴくり

ルンペンの動きが一瞬とまる。

そして俺の目の前に顔をヌウウーっと近づけた。

(ん、 ん、  んんん!) 

 フッ フッ  フッ

限界を超えた緊張から、心臓の鼓動に押し出されるように俺の息が口をふさいでいる指の隙間から漏れる。

ルンペンは怪訝な表情を浮かべていたが、やがてそれが徐々に険しくなっていき……

憤怒の形相になった

「ヴォアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

目の前でルンペンが雄たけびを上げる。

「わああああああああ!!!」

俺は転げるようにベッドを乗り越え、本棚をどけようと必死になった。

だが本棚はベッドとドアにはさまれてなかなか動かない。

ルンペンが俺に向かって飛び掛ってくる。

俺は慌てた拍子にベッドから滑り落ち、ルンペンはそのまま突進して本棚をつかむと、

「ガアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」

本棚をむちゃくちゃに振り回した。

中のものが飛び散り、ステレオデッキは倒れ、部屋の中に散乱する。

俺はドアを必死に開け、廊下に飛び出ようとし・・・・・・

ルンペンに足首をつかまれた。

「あああああああ!!」

部屋の中に引きずり込まれる。

「ケエセ ゲエセ ケエエエエセエエエ!!」

ルンペンは俺の足首をつかんだままドアと反対側の壁に俺を投げ飛ばした。

ドンっという鈍い音が背中から鳴り、衝撃が全身に広がる。

俺は半分意識が飛びながら床にたたきつけられた。

と、床に転がった俺に部屋の散乱したものの中から、あるものが目に入った。

かつて俺と安岡がステータスにとルンペン橋からくすねてきた、それは一枚の写真だった。

黄色く変色した中に、桜並木の下で微笑む、夫婦と女の子が写っていた。

(けえせ、けえせ…返せ?

・・・・・・ひょっとして、これか?)

俺は写真を拾い、かろうじて壁を伝って立ち上がると、

「こ、こ、これ。写真」

写真を掲げた。

暴れまわっていたルンペンの動きが止まる。

「か、か、か、かえ、返します。これ、橋の下から、と、と取ってきた、やつ・・・」

ルンペンはくんくん鼻を鳴らしながら俺の手に写顔を近づけ、震える手で写真を受け取ると

「お、おおおおおおおおおおおお!!おおおうぞ、おうぞっ、おうぞっ!」

突然両目から涙を流しだし、写真を胸に抱きかかえた。

「ご、ご、ごべんなざいいいいー」

へたへたと崩れ落ちながら、俺はこのとき自分の声で、初めて自分が大泣きしていることに気がついた。

ルンペンは大声を上げながら座り込んでいる。

俺はそれをしゃくりあげながらしばらく眺めていた。

どれぐらい時間がたったのだろうか。俺はルンペンの体が少しかすんでいるような気がした。

目をこすってみたが自分の涙のせいではない。

よくみるとルンペンの頭のほうから、霧の帯のようなものが少しずつ上に向かって伸びている。

ルンペンは白く輝く霧の塊のようになり、天に向かって登ろうとしていた。

あのいかつい顔が、幸福そうな笑顔に変わった、ような気がした。

「臨 兵 闘 者 皆 陣 列 在   前!!」

ふいに大きな声が部屋中に響き、ルンペンの顔が驚愕に見開かれた。

白く輝いていた体はどす黒い煙になり、あっという間にあたり一面に溶け込むと…それっきり、全ては消えて無くなった。

「大丈夫か!?怪我は無いか!?」

ドアの向こうに、指を複雑に絡めて険しい顔つきでたたずむ住職の姿があった。

「うう、あああ、うわあああああ、うわあああああああああああああああ!!」

俺は自分でこのときの自分の感情が何だったのか、正直わからない。

俺は首をゆるゆると、やがて激しく振りながら泣き喚いた。

住職はそれを安心ととったのだろう。

「もう大丈夫だからな」

優しい声で俺の背中を撫でさすった。

違う、違う違う違う違う違う!!!

俺の中で、その言葉だけが何度も何度も繰り返されていた。

夏が近づいてくると俺は今でも思い返す。

住職のやったことにはもちろん感謝こそすれ、非難されるいわれは無い。

だが…何かほかのやり方は無かったのだろうか。

ひょっとして、ルンペンはあの時、すでに成仏していたのではないだろうか。

俺たちがすべきことは、ただ成仏を願って手を合わせること、それだけでよかったのではないだろうか。

あれが本当に正しい異界のものに対する接し方だったのだろうか……。

年々増え続けるホームレス。経済的な理由による自殺。そんなニュースが流れるたびに、俺はなんとも言えないやるせなさにとらわれる。

あのあと、安岡は道で寝ているところを発見された。

数年の後、俺と安岡は一度だけ二人で橋の下を訪れ手を合わせたことがある。

すっかり整備され、桜並木が立ち並び、家族連れやカップルたちでにぎわう橋の一帯は……

あの写真のように切なく、美しかった。

ルンペン橋   了

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怖い場面もあったけど、感動だったね!

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