私の実家の近くには『鳥居が丘』という名の土地がある。
とても古い石鳥居が、住宅地の中にポツリと立っているという、おかしな土地だ。
そこは『神社が丘』でも『稲荷が丘』でもなく、『“鳥居”が丘』なのだ。
つまり、少なくともその名が付けられた昔には、既に鳥居だけがそこに立っていたと言うことだろう。
無論現在も、その形の悪い石鳥居に対応する社などは、存在しない。
私は高校の頃、よく晩に居辛い家を抜け出して、その鳥居の辺り迄散歩する事があった。
そこは住宅地の直中だと言うのに、妙に静かだった。
孤独に浸る事を邪魔するものが、そこにはまるで無い。
思えばその頃は、不思議なモノをよく見た気がする。
青春時代の孤独とか言うやつはもしかしたら、心も体もあの世側に近付けていくのではないだろうか。
そんな事を考える。
そんな日々の、ある夜の事だ。
その夜は、酷く雪深く感じられた。
何せ、いつも通る抜け道が除雪でよけられた雪に塞がれていたのだ。
だからその日は、仕方なく違う道を選んだ。
農協の建物に付いている時計を見ると、丁度午前零時だった。
寒いのは当たり前だ。
部屋着に、とりあえずコートだけを羽織って着たのだから。
小さな墓地が見え、確かその角を曲がれば例の鳥居の筈だった。
…ふと、妙な事に気付く。
その小さな墓地に似合わない、妙に大きな墓が有るのだ。
いや、大きいと言うよりは、高いと言った方がいい。優に3mはあろうか。
妙に細長い形の墓石の影だった。 その細長さは、どこか女性を連想させる。
珍しい墓石だな、こんなの今まで気付かなかった。
そう思い、携帯で写メでも撮ろうと照明を点ける。
すると、陰になっていたその墓石の先端が、カクリ、と曲がった。
そこから、バラバラバラ、と簾の様な物が垂れる。
何だろう。
その先端に、照明を合わせていく。
画面に映ったのは、大きな目が一つと、フグの様な小さな口、びっしり生えた歯の隙間からだらりと垂れ出た、襞だらけの長い舌の、顔とも言えぬ様な顔だった。簾の様な物は髪の毛としか言い様がなかった。
私は恐怖に声も出せずにいると、カクリ、もう一段階折れ曲がって、その後ズルズル…と、形容し難く、どういう原理かなど見当もつかないが、普通の生き物には到底有り得ない進み方で、にじり寄って来ている。
「お…お…」
歯だらけでバランスと言うものがまるで無い、深海魚の様な口から、怖気を催させる声が漏れた。
その声は驚くべき事に、一声毎に周囲の闇を濃くさせていく。
それは錯覚などというレベルではなかった。
雪が黒く染まっているのだ。
雪国の夜は、淡い光が下から沸き立つ様に薄明るく見えるものだが、その反射光すらも黒く染まっていくのが分かる。
黒い光に脚が蝕まれていく。
その中で、何か酷く湿った物が蠢いている。
これは、指、だろうか?
弾かれた様に、本能的に、明るい方へと向かう。足がもつれ、這う様な形になる。
周りは人が居る筈の住居に囲まれているというのに、恐怖に喉が引きつり、叫び声一つ出てこない。
まるで、あの髪の毛が喉に絡みついている様だ。
その住宅の窓どれも、時間のせいか、まるで生きている者が中にいる気がしない暗さをしている。
これでは呼び鈴を鳴らし住人を待つ間に、あの怪物に追いつかれてしまう。
明るい方へ、とにかく明かりの点いている人家へ。
曲がり角から、微かに光が漏れているのを見つける。
黒い雪の上を、泳ぐ様に走り、曲がる。
すると、住宅の明かりかと思ったそれは、驚いた事に例の石鳥居が発していたものなのだった。
いや、鳥居そのものが光っているというよりは、鳥居に囲われた内側の空間から光が溢れている、という具合に見えた。
突拍子もない事が連続し、もう訳が分からないが、後ろからはあの怪物が迫っている。
人家は、と思うが、不運な事にそこは、四方、皆背を向けて建っていた。
もう何でもいい。縋る様に、鳥居に這い寄る。
鳥居の発する光の中で後ろを振り向くと、怪物は光の及ぶ範囲には近寄れないのか、大分離れた薄闇の中でうずくまっている。
うずくまっている、という言い方が正しいのかは分からないが、とりあえず背丈は半分程に縮み、一塊に縮まっているように見えた。
ナメクジの様だ、と思ったのを覚えている。
すると突然轟音が響き出した。
すぐ後ろ、石鳥居から発せられている。
その轟音に見合う突風が吹き寄せる。
振り返り鳥居を見たが、その轟音の中、一体何が起こっているのか分からず、混乱は飽和し、今にも心臓そのものが割れて叫びを上げそうに思われた。
その鳥居の間を、何も見えないのに、何かが、それも大きさの計り知れぬものが、今通り続けているのが分かるのだ。
あるのは風だけだというのに。
あれを何と形容すればよいのか。
鳥居が発している光そのものすらも、風に押し流されて、一方向に吸い込まれていく様だった。
光が風に運ばれるなどということが、有り得るだろうか?
しかし、そうとしか言い様が無い光景だった。
突風の混乱の中、もう私自身の恐怖すらもその風に押し流されていく心持ちだった。
ふと先の怪物の方を見ると、「ヒイー、ヒイー」と言う情けない声を上げながら、墓地の方へと引き上げて行こうとしている。
しかし、その動きは鈍く、進む度に体が小さくなっていっている様に見えた。
それを見ながらも、高まっていく轟音と光に、私は段々と気が遠くなっていった。
目が覚めると、自室の布団の上だった。
時刻は、ちょうど午前零時。携帯の時計で確認しても、零時ちょうどだ。
先程、農協の時計で午前零時である事を確認した。あの時計は、ズレる事などない筈だが…。
夢であるのか、というと、雪にまみれたコートを着て寝ていた事から、それは違うと確信する。
何より、あの感覚全てを夢だと言うなら、何が夢でないものなのかすら分からなくなってしまう。
ふと携帯を開いてみると、細長い墓石の画像が、確かに入っていた。
間違い無く、あの場所までは行ったのだ。
片道20分は掛かるというのに、何故。
あの鳥居で、光がまるでCGの様に、風に引きずられる様を見た。
光が風に流されるというなら、時間など吹き飛ばされるのが道理だとでも言うのか?
馬鹿げている。何もかも余りに馬鹿げている。
眩暈がした。心臓の鼓動は酷く早いのに、恐ろしく眠い。
あのおぞましい顔は写っていなかったが、さすがに気味が悪く、その場で消した。
しかし、いつシャッターボタンを押したのだったか…。
いや、今はとにかく朝だけが来て欲しい。
何も考えたくない。
そのまま私は、眠りに落ちた。
後に、その石鳥居について、地元大学の調査が行われたという新聞記事を、偶然見る機会があった。
以前から、一部の民俗学者からは、注目されている代物ではあったらしい。
調査では、建てられてから少なくとも千百年以上は経つ、日本の鳥居全体においても、最も古い部類に入るものだと確認されたらしい。
川に沿って、上流の方にももう一つ、同じ型で同じ年代に作られた石鳥居があるらしく、それらはどうやら、龍山と呼ばれる、標高ほんの300m程の山に向かって建っているという。
その山はその一帯の山岳信仰の、一種の聖地的な物であったのではないだろうか。そう記事は締めくくられていた。
なる程、龍山という名前なくらいだから、もしかしたらあの時の突風は、龍が通ったのかもしれないな。
龍だったらば、あんなおぞましい怪物でも怖がって然るべきだ。
その時はあの日の異常な恐怖も忘れ、暢気にそんな事を考えていた。
しかし、今こうして書き出して見ると、再び眩暈がする様な気になる。
人間では立ち向かう意志も奪われる様な怪物が夜の闇の中に居て、そしてその怪物ですら為す術も無いような怪物は、山の中でも一際ちっぽけなものに由来しているに過ぎない、と言うのか。
壁に貼った日本地図を眺めると、その列島は山ばかりの島なのだと気付く。
まして私の故郷は、山に形作られているという事が、そのまま地名になっている様な土地だった。
あの見分けるのも難しい小さな山ですら、途方も無い怪異を起こすと言うのなら、隣の一回り大きい山はどうだろう?
その後ろの雲を突く山は?
もしそれら一つ一つに、あの龍が如き者らが潜んでいるのなら、山を削って道路を作り、トンネルを掘った程度で、何事かを管理出来ているつもりになっていていいのだろうか。
もしや我々は、自らこじ開けた龍口に、それと知りもせず入り込んでしまったのではないのか?
街の隅に在る闇一つすら、征服出来ぬまま。
そう言えば書き忘れていたが、あの夜の異変の片鱗は、次の朝にも思い知らされた。
朝飯の際、母親に
「あんた毎晩夜中出歩いてよく飽きないわね、友達もいないくせに。星空でも見てたの?」
と聞かれた。
あんな大雪ん中で星なんか見える訳ねえだろ、と私は答えると、
「大雪?何言ってんの?どこに雪が積もってんのよ。昨日は綺麗な満月だったじゃない」
と言う。
私は、弾かれる様に表へ出た。
何処にも、雪のかけらも無かった。
…馬鹿馬鹿しい、全部夢だったのだ。
そう思い、携帯を開き、息を飲む。
待ち受け画像は、ひょろ長い墓石だった。
先端がカクリと曲がっている。簾の様なものがバラリと垂れる。
そこに大きな目がある。
歯だらけの小さな口があり、長い、長い舌が垂れ下がっている。
髪は写り得る限りに広がっていて、画面の内側を指が這う。
私は、震える指で何度も何度も押し間違えながら、その画像を消した。
携帯の中のありとあらゆるデータを消し、投げ捨てた。
震えながら、涙が出る。
ああ、今なら、千年以上の昔の人間が、あんな仰々しい石鳥居を建てずにはいられなかった、その気持ちが分かる。
人間はあまりにも知らない事が多く、あまりに力弱い。
昼の日の中でさえ、闇の恐怖を拭い切れない。
日本地図を見、山の多さに眩暈がする。
昨日は晴れだったろうか?
雨だったろうか?
私はあの夜、どうやって帰ったのか?
今夜、眠っている間、何者かが枕の傍に立ちはしないか?
そう考え始めると、地面が音を立てて崩れる気がする。
そして、巨大な何者かの、柔らかな胃袋の中に今立っているのではないか、と。
怖い話投稿:ホラーテラー みさぐちさん
作者怖話