私のテリトリーには古く小さい寺がある。毎年この時期になるとその控え目な寺に紫陽花がきれいに咲く。
私は営業職で湘南の、あるディーラーで働いている。
ノルマノルマの業績重視の上司と、無理難題を言いつけるお客の板挟みになりながら、日々自分のテリを回っている。
このあじさい寺のあるテリを引き継いだのはA先輩が辞めたから。
入社したばかりの私を厳しく教育してくれたのも、サボり方を教えてくれたのも他ならぬA先輩。
私はA先輩を本当の兄のように慕っていた。
そんなA先輩が出勤する最後の日、私を呼んでこう言った。
「俺のテリは全部おまえにやる。俺が最高にあたためた客がたくさんいるぞ。しっかり売れよ!
あとな…○○町のあじさい寺は気を付けろ。頼むな。」
そこの住職が厄介者なのか。駐禁が厳しいところなのか。
初めはそのくらいにしか思っていなかった。
A先輩のテリを回り始め、半年ほど経った。紫陽花がきれいに咲き始める季節。
その日は昼過ぎにもかかわらず、霧が出ており薄暗くじとっとしていた。
連日の雨で外回りにもうんざりだった私はあじさい寺の脇に車を停め、一服しながらぼんやりと紫陽花を眺めていた。
ふと紫陽花から目を離すとあじさい寺の墓地から一人の住職が出てくるのが見えた。
「やべ。寺に車停めてるから怒られんのかな。」
A先輩の忠告をふと思いだし、すぐに車を出そうとエンジンをかけようとした。
「…あ。」
おかしい。
おかしい。
違和感。
そんなに遠くではない、いくら霧が出てるとはいえ、その姿がぼやけて分からない。
もうそこ、すぐ近くにいるのに。
そのくせ袈裟を着ていることははっきり分かるのだ。見えないくせに。
視覚からではなく、まるで脳に直接映像が送られてくるような、そんな感じ。
全身の毛が逆立つような恐怖を感じながらも、目を離さなかった。
というか、離せなかった。
ゆらゆらと左右に揺れながら住職はさらに近づいてくる。
得たいの知れないものが近付いてくる恐怖はこんなにも大きいのか、そんなことを変に冷静に考えていたが。
とうとうそれが私の車のすぐ横に、覗き込むようにぐにゃりと体を曲げたとき
首がない。
ありきたりだが、自分の体が意識と反し全く動かない。
やめてやめてやめて
頭の中はパニックで、汗が止まらない。目だけは動かせるのだが体は一向に動かない。
ゆらゆら揺れるそれは車の周りをぐるぐると歩きまる。まるで隙間が開いているところがないか確かめるように。
始めはゆっくりと回っていたのだが窓が開いていないことに納得がいかないように、イライラとしたようにその動きが早く、激しくなった。
車にそれの体が当たる
ダンっ
ダンっ
という音が響く。
「…ぜ」
「…ぜ」
「…ぜ……た」
???
明らかに人間ではない動きのそれが、低く呻くような男とも女ともとれない声で呟いた。
長い間ハンドルを掴み、下を俯いた状態のまま動けなくなっていたわたしのスーツには、顎から滴りおちる冷や汗で染みが出来ている。
ぐるぐる動いていたそれが、運転席、私のすぐ横にピタリと張り付き窓ガラスを指で引っ掻く。
雨のせいでそいつの指が滑り、ギュッギュッと嫌な音を鳴らす。
…見なければよかったと思った。
私が横目でチラリと見たのは、爪がなく、どす黒く変色した私が知る「指」とは到底思えない物だった。
それを見た私の心臓は悲鳴をあげるほどに更にバクバクとし、私は今にも意識を失いそうだった。
「ぁ…」
と情けない、蚊のなくような声を出し、汗だけでなく涙が溢れる。
段々とその声は大きくなり、最後は怒るような、恨めしそうな声で叫んだ
「な゙ぜも゙や゙じだが!!」
その殺気だった怒鳴り声に反応するかのように、ビクッと体が反射し私は顔を勢いよく上げた。
顔を上げた私の目の前、インパネに得体の知れない物が乗っている。
ぼろぼろで、所々がめくれ赤黒い箇所が覗く、いびつだが丸いもの。
どす黒いその球体に2つ濁った黄色の小さい玉がかろうじてついている。
一瞬でそれが何か理解した私の意識はそこで飛んだ。
気がつくと私は病院にいた。
近所の人が、ハンドルにもたれて意識を失う私に気付き、会社に連絡をしてくれたそうだ。
外回り用の名刺が見えるところに出ていて助かった。
後日、その方にお礼をしにに伺った。
私が玄関を閉め、その方の家を出るときに中から家族に話し掛けているであろう声が聞こえた。
「…またあじさい寺で起きたわね。」
と。
会社の上司はなにも言わず1週間の休みをくれた。
なんとなく、A先輩が辞めた理由が分かった気がした。
怖い話投稿:ホラーテラー ちょぴさん
作者怖話