のりつけの甘い紙のはがれるように、ゆっくりと、まぶたが開いていく。私はふとんにくるまって、どうにもたまらず、微笑み。
部屋はゆったりと静かで、ほの暗い。天井や、壁やタンスや鏡台、そうしたいろいろなものが、陽光のノックをじっと待ち受けているよう。
その夢は、目覚めの代わりに遠のいて、ちぎれてとけてしまい、私は何も覚えてないのだけれど、印象だけは鮮やかに、懐かしさと満足感で私の心を満たしてくれている。そういう夢。
影のにじむカーテン、間に覗いた白いレースからは、青空が透けて見える。
何時、なんだろう。
午前10時かお昼頃か、それとも、まだ陽が昇ってまもなくだったりするんだろうか?
枕元の時計代わりの携帯に意識が向く。けど、そんな一日の始まりは、もう少し先延ばしにして、いまはこのまま、のどかな春の目覚めと、幸せな夢の余韻に、もう少しだけ、浸っていたい。ちょうど、最高の映画の、エンディングロールみたいに。
ピーン ポーン
ピリッとした、緊張。軽くて、無機質な音。響く二秒、身体がこわばる。ゆるんで、誰だろう?
裕一? 裕一はいきなり訪ねたりはしない。京子、静江、美佐。彼女たち? それから、郵便配達、宅配人、ご近所の回覧板、集金、新聞や宗教の勧誘……。
思い巡らすうちに、ボンヤリとした部屋の雰囲気が、急にハッキリしだしたような気がして、現実の輪郭が私を包み込み始める。
惜しい気で、私は目をつむり夢の余韻の気配を心に探る。
ピーン ポーン
思わず閉じたまぶたに力がはいる。眉間にしわ。
二度目のチャイム。私、なんだか居留守しているみたい。行かなくちゃ。
でも、布団のここちよさ、寝ぼけた顔と寝ぐせ、余韻、面倒くささをごまかす適当な言い訳と、玄関ドアを目の前にした訪問者の、所在なさ、居心地悪さ、そうしたあれこれを思い浮かべてグズグズしているうちに、なんとなく、行きづらくなってくる。
思い描いたのは、次第にいらだち始める訪問者の姿。居留守に心が傾いていく。決めた。
心持ち身をひそめて、私は玄関へ向けて聞き耳をたてる。玄関は、私の足先の方向にある扉の向こう、ユニットバスとキッチンとにはさまれた短い廊下の先に位置する。
立ち去る足音ぐらいなら、多分、聞こえる。
そうしながらも、私の意識はだんだんちらかって、お母さんやお父さんとの旅行の計画、大学のこと、裕一の誕生日のことなんかをボンヤリ考え始めて――。
ピーン ポーン
三度目。少し、しつこくない? 夢の余韻はもう、すっかり消し飛んだ。しょうがない、か。少し気後れしながらも、とにかく身体を起こそうとする。
コッ
え? いま、なにか。
コッ コッ
ノック。
ゆっくりと、一拍置きに、一つ一つの響きの強い、
コッ コッ コッ
コッ コッ コッ
静かな室内。ノックの音だけが高く響く。
聞き入りながら、徐々に、不安が、せり上がって、頭の中では、訪問者の像がさまざまに変化していく。
なんでもない、大丈夫、放っておけば、しつこいだけ。
なのに、想像の中の訪問者は、次々に、不快で、変質した像を形作っていく。
「アンケートお願いします」
声、が、聞こえた。抑揚のない、高い、男の、早口な声。たんたんとした、感情のこもらない声。内気な子どものつぶやくような。
数瞬の、空虚。
遠ざかる車のエンジン音。樹々の葉擦れ。小鳥の調律。
そうして、じわじわと、空っぽの私を、時間を、空間を、ざわめきが沸き満たしていく。
その声は、けずられた声ではなかった。玄関ドアにくだけ廊下に散り目前の扉を透かしてかろうじて私の耳に届いた声ではなく、それは、同じ部屋、面と向かっているかのように鮮烈に。ハッキリと。声が聞こえた。
「アンケートお願いします」
いや。
とっさに両手を両耳へ、ふさぐより速く、
バン
全身が硬直する。かすかに揺れる空気、後を引く、耳障りな鉄の残響。玄関ドアが叩かれた。強く、思いきり。クラッカーの破裂音のように衝撃音は爆ぜた。平手。きっと平手で叩いて。
バン
「アンケートお願いします」
バン ンンン……
反響と振動。打ちすえるテンポは次第にその速度を増していく。玄関ドアは狂暴に殴られ続ける。
反響と振動は混じり合い、乱暴で容赦ない爆裂音に発展していく。それによって少しもかき消されず繰り返される訪問者の「アンケートお願いします」声。酷い雑音に狂ったアナウンスは少しも邪魔されない奇妙なラジオ。
絶え間ない音の連続は一つの暴力となって私に突き刺さりかく拌していく――
……一瞬間、気を失ったのかもしれない。いつのまにか、音は鳴り止んでいた。ドアの叩かれる音も、あの声もしない。
終わったの?
心臓の静かな脈打ち。目の前の白い扉を見つめ、私は耳を澄ます。
やっぱり、何も物音はしない。緊張が少しだけ、ゆるむ。なんだか、夢でも見てた気がする。夢。案外、そうなのかも。もし、もしそうなら――。確かめるようにもう一度、玄関に向けて耳を澄ます。全部、夢なら。玄関。耳を。カチリッ、と軽快な音が、部屋に響いた。嘘。うそ。引きずるような。短い。きしみ。金属。重く。ドア。ドア? だって。コンクリート、玄関、ざらざらした、ザリッ、ザリッ。二回、二歩? バタン、わずかに、揺れる、部屋、ドア、ねばっこく反響。
心臓の鼓動が深く、速く。私は待つ。何を? 動かなければ。誰が、私が? 大丈夫。誰か。
「アンケートお願いします」
ギィッ、きしむ廊下の音。ギッ、ギッ。一歩、二歩。三歩……。
「アンケートお願いします」
「アンケートお願いします」
ゆっくり、こっちに向かって、ギッ、ギッ、四歩、五歩……。
どうして、こんな、ギッ、いい目覚めだったのに、さっき、ギッ、まで気持ちよかったのに、なん、ギッ、でこんな目に、戻りたい、助けて。ギッ。
扉の裏で、足音は止まった。
「アンケートお願いします」
「アンケートお願いします」
ズ。
扉がわずかに開く、と同時に、私は布団を頭からかぶって丸まった。吐息の熱がこもる。なのに震え。寒い。
「アンケートお願いします」
一歩ずつ歩を進め、訪問者は部屋に入ってくる、足音、私の足元から、私の右横を通る。床のこすれる音。のしかかるように踏み出して、重さが伝わる。足音は私を通り過ぎ右上方、止まって、一歩、大また、左へ寄る。私の頭のすぐ前に。見下ろしている。きっと私を見下ろしている。
「アンケートお願いします」
突如両肩に感触。叫ぶ間もなく、めり込む十本の指は杭のように。痛い! 激痛に喉はふさがりただうめく。痛い! 痛い! 痛い!
「アンケートお願いします」
突然肩が軽く――、と肩を強くまた握られ、引き上げられ、そのまま下に叩きつけられた。何度も、何度も。
「アンケートお願いします」
ガクンと上半身はしなり、叩きつけられ、頭を打ち、叩きつけられる。
「アンケートお願いします」
ゆれながら目はきつく結び私はしわがれた声、
「いや…やめ、やめて、いや……」
床に叩きつけられる寸前で、相手の動きが止まる。と、両肩に一瞬指の力みを感じ、相手は勢いをつけ押し潰すかのように私を床に叩きつけた。そして無防備な背中を子どものバタ足のように踏みつけて何度も。「アンケートお願いします」は狂ったように連呼。蹴られる度に私は短いひきがれた悲鳴。やめて、お願い、助けて。
「……アン、アン、グェッ、ド、ごだえま、ず、ガッ、がら……やめで……お願、しま……」
蹴りつけが止まる。私はただ震え、頭を押さえて息を切らす。
「ありがとうございます。それでは次の一連の質問にお答え下さい。生きたまま片目をえぐり出され、もう片目は押し潰されて殺されたいですか?」
なに、言ってるの?
「……いいえ、いいえ!」
頭を踏みつけられる。敷布団の下、床の硬い感触にぶつかり跳ね返る頭。鼻から、なにかが垂れてくる。
「アンケートお願いします。生きたまま片目をえぐり出され、もう片目は押し潰されて殺されたいですか?」
なんだか、もうどうでも、良くなってくる。早く、早く終わって。
「………はい」
かぼそくつぶやく。つぶやいて、閉じた両目から涙があふれて止まらない。なんでこんな死に方しなきゃいけないんだろう。
「ありがとうございます。それでは次の質問です。生きたまま歯を砕かれそこに針を突き刺していじくられ、唇は削ぎ落し、口は裂かれて、裂かれた頬を縫われた後に、舌を抜かれて殺されたいですか?」
「………はい」
機械的に声を出す。この人は何を言っているんだろう? わからない。
「生きたまま腹を裂かれ内臓をいくつか適当に取り出してから縫った後、手足を10センチずつ徐々に切られて殺されたいですか?」
「はい」
「生きたまま調理されて殺されたいですか? 調理はカレーになります」
「はい」
「生きたままゆっくりとプレス機に押し潰され、死ぬ間際のところで一旦止め、しばらく苦痛を味わった後、またゆっくり押し潰されて殺されたいですか?」
「はい」
「生きたまま下半身を猿と交換して殺されたいですか?」
「はい」
「ありがとうございました。以上でアンケートは終了です。お疲れ様でした。あなたの大切な人たちは、ご希望されたいずれかのやり方で殺されます」
オレンジ色の光線が一条、ほの暗い天井を走っている。カーテンのすき間から差し込む光だった。
しばらく見つめて、それから、のっそりと身体を起こす。汗で身体はべとつき、ふとんはグッショリと水気を含んでいた。
立ち上がり、窓辺に歩んで、カーテンを開く。赤い家々。近くで、子どもたちの騒ぎ声。キンッ、と鳴る金属バット。
放けて、それから、くるりと振り向いて部屋中を見渡す。窓を背にした私の影が、すぅっと伸び、正面の壁に当たって立ち上がっている。布団はグシャグシャだけど、それ以外、なにも変わっていない。なのにどこか、現実感がわかない。
鼻の下をぬぐうと、赤いかたまりがボロボロとこそげ落ちた。
ブゥゥ ブゥゥ
枕元で携帯が揺れている。しばらく眺めて、それからフラフラと歩いていって携帯を手にとる。
「もしもし、あ、やっと出た。俺だよ」
裕一。声の背後に人々のざわめき、駅構内のアナウンス。
「何回も電話したのに出なくてさ。心配してたんだ。今日、そっち行ってもいい?」
少しためらって、でも、小さく「来て」と答える。答えて、涙。
「わかった。待っ――」
声がとぎれた。そして、何かが、裕一の携帯が? 地面に? ぶつかる衝撃音。女の悲鳴、男の怒声。パニックじみた人々の異様な喧騒。
そんな中、ただ一種の、異常な絶叫が響いて。絶望の声。私は耳を澄ます。のどの詰まったような、振り絞るような、声にならない、それでも大きく響く音のかたまり、叫喚。その声は――。私は携帯に耳を押しつける。集中する。はっきり、はっきり聞こえ――。
「いでえええああああああ!!」
耳元で、ハッキリと、裕一の断末魔が聞こえ、電話は切れた。
手に汗がにじむ。心臓の鼓動の一つ一つが、胸をえぐるように。裕一に電話をかける。出ない。かける。出ない。手の平で携帯が震えた。短く叫び、携帯をおとしてしまう。拾いあげ、ゆっくりと、恐る恐る、画面を見る。……お母さん。着信を告げて震え続ける携帯。鳴咽に身を震わせながら、通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
「おか――」
「やめてやめてやめてやめてやめて助けて助けあああああああ!!」
そうして電話は切れた。お母さんの声だった。手の平で、また振動。着信。お父さん。私は放っておく。数秒後、留守番電話に切り替わり、電話の向こうで、何かの叫び。わからない。終わって、画面は待ち受けへ、着信のお知らせが五件と留守電が五件。また携帯が揺れた。私はボンヤリする。携帯は揺れて、揺れて続けている。
怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
作者怖話