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中編4
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風鎮山竜

 神様を見た話をしようと思う。

 熊本県阿蘇郡の某集落に祖父の家があった。祖父の家はとても古く、百年以上は建っているという古民家だった。私が幼い時分には、大きな竈があり、風呂も薪をくべて焚いたものだ。

 私の祖父は猟師を生業にしていて、猟犬を何頭も飼っていた。猟犬というのはそこらで飼われているような犬とは違った迫力を持っていた。猟師に従い、獲物を追う。追われる獲物も必死だ。猟犬が返り討ちにされることも少なくない。

 猟犬たちの中でも祖父が絶対の信頼を置いているのが「グン」という名前の大型の雑種権だった。真っ黒い犬で、耳が尖っていた。幼い私が撫でても決して吼えず、静かに私を見張っていてくれた。本当にグンは大きく、今思えば山犬の子孫ではなかったかと思う。

 祖父は幼い私を連れてよく山に入った。草木の名前、沢の見つけ方、食べられるキノコの見分け方、薬草に使える植物。そうした知識を祖父は、まだ五つにもなっていない私に教え込んだ。祖母や両親などは心配していたが、私は祖父と山を歩くのが好きだった。

 そして、私が山の中で怪我をしたりしないよう見張るのがグンの役目だった。勝手に祖父から離れようとすると、すぐに服の裾を咥えて引き止められた。当時の私はグンは友達と同列に思っていたが、今から考えれば私は手のかかる弟のようなものだったのではないかと思う。

 祖父もまた多くの村人がそうであるように、山に畏敬の念を抱いていた。

「山はおぜぇ。甘く見ちゃあならん」

 山は怖い。甘く見るな。――いつもそう私に言って聞かせていた。

 祖父は私に色んな話をしてくれた。

 鬼の話や、美しい山の神様の話。阿蘇山の神様や、他の山々に住むヌシの話。

 私はそうした話が本当に好きだった。今でもよく覚えている。

 とある夏。お盆を利用して私は祖父の家に遊びに来ていた。

 当時、確か小学校の低学年くらいだったと思う。

 祖父の村には風を鎮める祭りを盆に開く習わしがあった。「風鎮祭」というのだが、この時とばかりに村は普段では考えられないほど盛り上がる。多くの露天が軒を並べ、豪華な山車が周り、花火が上がる。私はこの祭りが大好きだった。

 しかし、この日に限って祖父と山で遊ぶのに夢中になって帰るのが遅くなってしまった。川の上流を辿って山を登っていたので、下りるのにも相当な時間がかかってしまう。とても間に合いそうになかった。

 私は花火が見れないのは嫌だ、と祖父に泣きついた。

 祖父も困ったと思う。

 しかし、祖父は代わりに良いものを見せてやると言った。

「花火よりすごい?」と私が聞くと、祖父は「見えるかどうかはお前次第たい。運がよけりゃ見るる」と言った。

 私はぐずりながらグンの首輪を握り、祖父と共に山を登った。

 なるほど。高い場所から花火を見るのだな、と私はそう思っていた。

 祖父と共にやってきたのは、山肌に突き出た巨大な一枚岩だった。木々を押しのけるように、ぽっかりと空間が出来ていて、眼下には町の様子が一望できた。とてつもなく高い場所にあったが、私はさして怖いとは感じなかった。

 祖父は腰を下ろし、私を膝の上に座らせた。それからタバコを取り出して、ぷかぷかと煙を吸い始めた。グンは隣で伏せ、静かに眼を閉じていた。

「オレも童ん時は見えた。もう今は見えんが、お前なら見るるかも知れん」

「じいちゃんには見えんと?」

「もう見えん。あれは子供んしか見えんとかも知らん。ありがたいもんじゃ」

 そういってニコニコ笑った。

 そうして十分ほど経つと、空が少しずつ藍色に染まっていった。村から微かにだが、太鼓や笛の音が聞こえてきた。太鼓の音はこれだけ離れていても、よく山に響いた。

 不意に、グンが顔をあげた。耳をピン、と尖らせ、鼻先で何かを嗅いでいる。その眼が、なにかを視ていた。

 私もつられて空を仰ぎ見た。

 その時だった。ごおっ、と一陣の突風が背後から抜けていった。とてつもない風で、私は思わず祖父に抱きつき、そして視た。

「あ!」

 蛇だ、そう思った。半透明の巨大な蛇。鱗と長い髭を持ったそれは、身を左右にくねらせながら空を泳ぐようにして、頭上を風と共に過ぎ去っていった。

 半透明のそれは、やがて輪郭を失うように見えなくなった。

 私は呆然となりながら、祖父の首に抱きついていた。

「見えたごとあるな」

 祖父は嬉しそうに呟き、私の頭を撫でた。

 私が蛇を見たよ、と言うと祖父は笑った。

「ありゃ竜神さんたい。風の神様。下でしよる祭りは、あん神様がおぜぇごとせんよう鎮めようとよ」

 そうか、お前にも見えたか、と笑う祖父は本当に嬉しそうだった。

 私が中学に上がる前にグンが死んだ。老衰だった。

 偶然にも、看取ったのは私だった。安らかな死に顔で、眠っているようだった。

 私は悲しかったが、泣いていたらまたグンを心配させると思って堪えた。

 祖父はグンを私有地の山に埋めた。

 去年、祖父が亡くなった。

「オレは死んだら山にかえる。かえってただの風んなる」

 そう口癖のように話していた祖父のことだ。今頃、きっと山を駆け回っている頃だろう。

 来年には私も父になる。

 産まれてくる子供が、あの頃の私と同じくらいの歳になったなら、一緒にあの竜を見に行こうと思う。

 大人になってしまった私にはもう見えないだろうが、私の子供には見せてあげたい。

 風になった祖父も、きっと喜ぶだろう。

怖い話投稿:ホラーテラー 狩人さん  

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