今よりまだ闇が深かった頃、闇から抜け出たとしか思えぬ者達が夜に紛れ、町を彷徨っていた。
町が眠りに就くか否かという時分、一人の男が誰もいない河原で真剣を手に、闇を斬り裂いていた。
その男の名は市倉源次郎。近隣の剣術道場では彼の名を知らぬ者はいない。「俊敏にして品格がある」と、もっぱらの評判であった。背も体躯もけして恵まれたほうではなかったが、相手の瞬きさえ見逃すまいとするかのような異様な集中力と、わずかでも迅く打ち込めると見ると、一瞬の躊躇もなく打ち込む度胸が市倉にはあった。すべては、けして裕福でない家を出、剣で身を立ててゆくと決意し、鍛錬を重ねた成果であった。
そんな市倉でも、このような闇が舐めるような気味の悪い夜には、どうしても眠れないことがあった。彼はそんなとき、刀を手に、一人河原に来るのであった。ここならば、邪魔の入る心配はない。町の中心から離れていることもあるが、それ以上に、この河原に人を近づけない出来事が半年前にあったのだった。
市倉は今でも鮮明にそのときの陰惨な現場を思い出すことができる。その日、市倉は町で信じられないような話を耳にし、河原に走ったのだった。
河原にはすでに多くの野次馬が死体を囲んでいた。野次馬をかき分け、一歩前に出た市倉は足にぬるりといやな感触を感じた。足を挙げると、赤い肉片が転がっていた。死体はかつて市倉の道場を破門された鍬蔵であった。丸太のように太かった首は、そぎ取られたように半分ほど鮮やかに欠けており、腕、胸、脇腹、股とあらゆる部位が骨がはっきり見えるほどそぎ取られ、その肉片と血を辺りに散らしていた。
――人の仕業ではない。
瞬間、そう感じた。そこにはただ殺すのでは飽きたらない、恐ろしいまでの恨みや執念が潜んでいた。一瞬遅れて別の恐怖がわき上がってきた。この男――、鍬蔵とは手合わせこそしたことがないが、かなりの使い手だ。型などないに等しく、どこからでも剣を繰り出し、どんな攻撃も本能的なカンでかわされた。試合ならともかく、なんでもありの実戦ならば、どうなるかわからない。市倉はそう考えていた。鉄蔵はその剣と同じく野蛮で恐ろしいまでのカンをそなえていた。殺す側ならともかく、殺される側に回る人間ではない。
鍬蔵を殺した者も、何を持ってその身を切り裂いたかさえも判らぬまま半年が過ぎた。鍬蔵の亡霊の噂も手伝って、ただでさえ少なかった河原の人通りは完全に絶えた。
市倉がたっぷりと汗を掻き、引き上げようと刀を納めたとき、土手の上を動く灯りに気が付いた。
不自然な光景であった。こんな夜更けに、この河原の近くを通る者など見たことがなかった。彼は足音を忍ばし、土手を登った。
提灯の灯りは人影を一つ作り上げていた。その影は着物を着た女のようであった。市倉の予感は確信へと代わった。暗くなれば、腕に覚えのある男でさえ近づかない河原に女が一人歩いているはずがない。――物の怪の類でもない限りは。
市倉はもともと人外の存在を信じないほうであったが、鍬蔵の一件はどうしても人の仕業とは思えなかった。
女の後を付けた。
市倉が剣の鍛錬にこの河原を選んだ最も大きな理由は、あわよくば鍬蔵を殺した物の怪を討ち取り、名を挙げるためだった。彼にはその腕と度胸があった。
女は人通りの少ない道を選ぶように、畑のあぜ道や狭い路地裏を通った。
道を踏み外さないように、また物音を立てぬように一面の闇に目を澄まして慎重に足を進める必要があった。
女はやがて足軽長屋の一番端に寄りかかるように立っている小屋の前で立ち止まった。
市倉は失望と安堵のため息を吐いた。
「ただの変わり者か……」
女は提灯の灯を消すために顔を近づけ、一瞬だけその顔が浮き上がった。雪のように白い肌に切れ長の冷たい目が映えていた。寒気が走るような美人であった。
市倉はしばらくその場を動けなかった。彼の足を止めていたのは、女の冷たい目から伝わってくる得体の知れない恐怖であった。剣を交えるとき、相手の目はさまざまな色を見せる。怖れ、焦燥、蔑み……。だが、女のそれは初めて見る目だった。
あくる夜、市倉は飯を食べた後、家人である兄と兄嫁に「寝る」とだけ言い残し、一旦部屋に戻り、気付かれぬように裏口から抜け出した。兄夫婦は彼の部屋に来るようなことはなかったし、市倉は嫁も迎えておらず、彼がいなくなっても誰も気付く者はいない。
昨夜よりも早く河原で待ち伏せた。あの女はきっと夜に出かけ、夜のうちに帰ってくるのだと彼は思っていた。
かじかむ手足を擦り、ずいぶん長い間待った。やがて、ぼんやりと土手の上に提灯の灯りが見えた。ただし、昨夜とは逆の方向から。
彼は土手を登り、女の後を付けた。今度は行き先を確かめるために。「妖しい女だから斬った」などと言えるはずもない、あの女が物の怪であろうと、そうでなかろうと、その正体を現すまでは斬るわけにはいかない。
女は一件の家の前に立ち止まると、静かに戸を叩いた。なにかの店のようであったが、暗がりで看板の字が読めなかった。やがて、家の中で階段を下りる音がし、戸が開かれた。女は手に持っていた風呂敷を渡し、代わりに何かを受け取ったようだった。
戸の中の者とニ、三静かに言葉を交わすと戸は締められ、女は元来た道を引き返し始めた。市倉は姿を隠し、女が十分離れたと判断すると、女と同じように戸を叩いた。
出てきたのは白髪混じりの小太りの女だった。
「夜分すまん。いまの女は?」
女は驚いたように市倉を見ると、不審そうに眉をつり上げた。
「いやなに、こんな夜更けに娘一人で出歩くのは不用心だと思ってな……」
市倉がたどたどしく答えたのに対し、女は勘違いしたようだった。
「佐江さんのことかい? あの娘に惚れたんだったら、可哀想だけどあきらめな。ありゃ、たしかに美人だけど、大の男嫌いだからね」
女の口端に浮かぶ笑みが意図するところはわかったが、勘違いさせておいたほうが都合が良い。
「さきほど渡していたのは?」
「ああ、あれかい? そうだね、一月ほど前だったかね。うちに仕事ないかって訪ねて来たから、縫い物の仕事やってもらってんのさ。だけどやだね、あんた見てたのかい?」
市倉は女に礼を言い、来た道を急いで引き返した。物の怪が内職などしているはずはないが、それでも妙な胸騒ぎは消えなかった。
土手まで来たところで女を見失ったことに気が付いた。提灯の灯りはどこにも見えない。
「私をお捜しですか?」
ふいに背後から声が聞こえ、市倉の心臓はドクンと大きく跳ねた。振り返れば、醜い化け物が襲ってくるのだと思った。彼は背後の化け物に全神経を集中した。動く気配はない。彼は背後からはわからぬように刀のツカに手を掛け、すばやく振り返った。
女は身じろぎ一つせず、氷のように冷たい目でジッと市倉を見据えて言った。
「あなたは、どなたですか?」
「市倉源次郎だ。この先の長江通りに住んでおる」
「昨夜も後を付けていましたね?」
「そなたが物の怪の類かと思ってな。だが……」
女の口に一瞬だけ笑みが浮かび、言葉が詰まった。
「物の怪……、そうかもしれませんよ」
女の顔はまた氷のように固まり、市倉の横を通り過ぎた。地面をすべるような滑らかな足取りだった。
「いや、違う!」
「なぜ?」
女は立ち止まった。
「物の怪は内職などせぬよ」
「ひどい人、見ていた……」
振り返った女の顔は恐怖で凍り付き、視線は市倉の背後を凝視していた。
とっさに振り返る。
あぜ道が月明かりで仄かに浮き上がっており、その中ほどに闇から抜け落ちたような小さな黒い影があった。影は藪に入り、カサコソと音を立てた。それからは、何の物音もしなかった。
女は座り込み、今までの冷静さからはとても考えられないほど取り乱し、震えていた。
「そんなに怖がることはない。狸かイタチと言ったところだろう」
そうは言ったものの市倉には今の影がそれとは思えなかった。その影は今までに見たことがない奇妙な形をしていた。
女は唇まで白くし、両手で頭を押さえていた。
市倉は馴れない手つきで佐江の背中に手を回し、震えが止まるまでそうしていた。女の震えと温かさが市倉の腕を伝わってくる。なにが女をここまで恐がらせているのか、そのときはまだ解らなかった。
「そんなに恐いなら、なぜこんな夜更けに出かけるのだ?」
女の震えはだいぶ治まっていた。
「市倉様と申しましたね。夜の闇より、もっと――、もっと怖ろしい闇がこの世にはあるのです」
佐江は腕を振りほどいて言った。
「もう大丈夫です。一人で帰れます」
「本当に平気か? よければ、家まで……」
市倉は何の下心もなく、まったく善意で言ったのだが、佐江は
「お願いですから、もう放っておいてください……」
と力無く言い、走り去った。
あれから三日、佐江とは会っていない。あんな別れ方をしてどんな顔を下げて、また会えと言うのだろう。それに女が化け物でないとわかったいま、出かける理由などないはずだった。
寝苦しい夜だった。それでも、やっと、うとうとし始めていた市倉の耳に、遅番から帰ってきた兄の話し声がぼんやりと聞こえてきた。
「……ひでえもんだ。ありゃ、半年前の殺され方と同じだな……」
市倉は跳ね起きた。そして、兄にその場所を訊くと刀を脇に差し、家を飛び出していた。気味の悪い夜だった。月明かりが照らしているはずなのに、闇はいっそう深く感じられた。
兄から訊いた店の前にはすでに人垣ができていた。人混みをかき分けて前に出ると、そこには半年前と同じ光景が広がっていた。切り裂かれ、血と肉片を散らした死体。それ以上に彼を驚かせたのは、その傍らで泣いている女の顔であった。それは、三日前に佐江の応対に出た女主人だった。
「誰に殺られた!」
市倉は女の元に駆け寄った。
「闇が……、闇が動いて……、動いて……」
後は言葉にならなかった。
人混みをかき分け、市倉は走った。
夜の間にうっすらと雪が積もっており、何度も転んだ。
佐江の家の前まで来たところで市倉は足を止めた。目の前の生け垣の影から気配を感じたからだ。目を細め、その闇を見据えていると、闇の一部がズルリと月明かりに照らされた雪の上に動いた、と思った刹那、闇は市倉の頭を目がけて一直線に跳ねた。
反射的に市倉はその闇目がけて斬り上げていた。
――外した! そう思った時には額に激痛が走っていた。
白い雪にボタボタと赤い血が滴り落ちる。
振り向きざまに、背後から向かってきていた闇に一撃を見舞う。
闇は音もなく、その刃を受け止めた。動きを止めた影は禍禍しい羽根で羽ばたいていた。
闇は刃を受け止めたまま、再び向かってきた。
間一髪で刀を引き、闇を受け止めた。刀を持つ手に強い衝撃が走る。市倉の目の前で、凶暴な三本の爪が獲物を求め、狂おしく暴れた。
押し負けまいと足を踏ん張ったとき、雪で足がすべった。闇はその一瞬の隙を見逃さず、刀を力任せに振り払った。どこか遠くで雪の上に何かが落ちる音がした。
闇に顔はなかったが、薄気味悪い笑みを浮かべたような気がした。
武器を奪った闇は無防備に襲いかかってきた。そこに隙があった。市倉は限界の一瞬まで闇を引きつけ、脇差しを突き出した。
影が雪の上を転がる。
――浅い。
脇差しをすぐに構え直し、闇を見据える。
額の痛みなどどこかへ消えていた。
相手の一挙手一投足に全神経を集中する。
闇は立ち上がり、飛び上がった。
そして、こちらに体を向けたまま飛び去った。
逃げたのではない。「また来るぞ」そう言っているのだ。
刃の先に絡み付いたいくつもの黒い毛だけが、わずかな救いだった。どんなに凶暴で闇に紛れることができても、そいつは斬ることができる。
額が熱を持って痛み出した。
佐江の家の戸から、灯りが漏れていた。
戸を何度も叩き、やっと佐江が姿を現した。
「放っておいてくださいと言ったはずです」
市倉を一目見て、佐江はそう言った。閉められようとする戸を市倉は押さえ付けた。
「あの店の主人が殺され、おれもそこで化け物に襲われた。これはもう、偶然とは言わさぬぞ!」
佐江はやっと市倉が怪我を負っていることに気が付いたようであった。
「あいつはあなたまで……」
悲しみとも困惑ともつかぬ色が佐江の顔に浮かんだ。
「……すべてお話します。どうぞ、中へ」
佐江は戸から外を見回すと、そっと閉めた。
狭い部屋だった。佐江が馴れた手つきで額の怪我に応急処置をした。
二人は無言のまま、小さなちゃぶ台を挟んで向かい合った。
「闇に襲われたのですね?」
「そうだ」
あれは生き物に違いないが、闇としか言いようがなかった。
「あれはなんなのだ?」
「私にもわかりません」
佐江は首を振った。
「ですが、あの闇が現れたときのことならお話しできます」
市倉は無言で続きを促した。
「あいつは五年前に私の前に現れました。あの頃の私は、まだ世の中の事など何一つ解っていない小娘でした。はじめて町に一人で出かけたとき、男に声を掛けられました。男を簡単に信用してはいけないと教えられていても、その男のやさしさと頼もしさに、私は完全に虜になっていました。結局、両親の反対を押し切ってまで、その男と祝言を挙げてしまったのです」
佐江は一旦言葉を切り、続けた。
「男はすぐに本性を現しました。酒を飲んで帰ってきたときなどは、私が殴られない夜はありませんでした。その夜も、ひどく酔っていました。ただ、いつもと違うのはいつまでも殴るのを止めないのです。今度こそ、本当に殺されるのだと思いました。殴られながら私は夢を見ました。その夢にあの闇が現れました。そして言ったのです。”お前は可哀想なやつだ”と。闇は何度もその言葉を繰り返しました。そのときの私には、それが何者かなんてどうでもよかったのです。ただ、その闇に”助けて!”と叫び続けました。闇は何も応えませんでした。だから、私は言ってしまったんです」
「なんと……、言ったのだ?」
市倉の手は汗で濡れていた。
「”どうしたら、助けてくれるの?”と。闇は応えました。”妻となれ”。私は一も二も無く、承諾しました。この暴力から逃れられるのであれば、どんな代償も惜しくはありませんでした」
「それで、男は殺されたのか?」
佐江は黙って頷き、胸元をわずかに開けた。白くすっと引き締まった首の付け根に黒い火傷のような痣が醜くくこびり着いていた。
「それからです。首にこの痣ができ、私に近寄る者を闇が襲うようになったのは」
佐江の話はそれで終わりだった。
女がなぜ夜中ばかり、それも人目に付きそうもない道ばかり選んでいたのかも、すべて市倉は理解した。だが、一つだけ解せないことがあった。
「なぜ、そなたと最初に出逢ったとき、やつは襲ってこなかったのだろう? やつは始終そなたのそばにいるとは限らないのではないか?」
「それは……」
佐江は言いあぐねていた。
「これは、そなたにとっても重要なことだ」
「私は何度も闇から逃げようとしました。ですが、どんなに遠くに逃げても、その夜にはやつは私のすぐそばにいるのです。そして、私に誰か付きまとったり、私が誰かを好いてしまわぬよう、いつも目を光らせているのです」
鍬蔵は前者だったのだ、と市倉は思った。では、なぜ今更自分が、とも思った。佐江とはこの三日逢ってはいなかった。
「私が……、私がいけないのです。昼だからと思って、油断してあんなことを言ったりしなければ……。あなたに……」
佐江は涙で濡れた顔を上げた。
「あなたに、逢いたいなんて」
まったく予期していなかった佐江の顔とその言葉に市倉の呼吸は止まった。
「闇は執念深いわ。あなた、あなたきっと、やつに殺されるわ!」
佐江は市倉の胸に今までの思いをぶつけるかのように、力の限り抱きついた。
佐江の柔らかい乳房から熱い鼓動が直接伝わってくる。そこには、冷たく恐ろしい女はいず、ただ哀れで炎のように熱い想いを秘めた女がいた。
佐江の爪が痛いほど背中にくい込んでくる。
市倉は佐江を乱暴に押し倒した。
着物がめくれ、佐江の白く滑らかな足が裾から覗いた。
「いけないわ。闇が……、闇が襲ってきたら……」
「構うものか!」
市倉は脱がす時間も惜しいかのように強引に着物を剥いだ。佐江の二つの乳房が躍った。
「だめ、逃げて! 闇が追ってこないずっと遠くへ!」
佐江の腕はしっかりと男の首に巻き付けられていた。
長い夜は明けた。部屋にはすでに朝日が射し込み、遠くの通りから子供や売り子の声が心地よく響き始めていた。
男が立ち上がろうとすると、女はほとんど無意識のうちにその腕を掴んでいた。
「心配するな。相手がどんな化け物であろうと、きっと手はある。二人とも生き残り、そなたの呪いを解く方法がきっとな」
市倉は佐江の家を出た。準備が必要だった。闇との何夜になるかわからぬ闘いのために。
市倉の遣いが佐江の元に手紙を持ってきたのは、市倉が姿を消して十日目の朝だった。
その手紙が市倉からのものだと聞いたとき、佐江は涙を流した。何度も何度も読み返し、それが市倉自身であるかのようにしっかりと握ると、すぐにその手紙に書かれている祠へと向かった。
祠は町から遠く離れており、伸びきった雑草は、その祠がずいぶん前に見捨てられ、忘れ去られていることを感じさせた。それは、人との関わりを絶ち、一人で生きてきた佐江にはたまらない光景だった。
祠が祭られている洞窟は昼間でも中は見通せず、不気味な静寂がどこまでも続いていた。だが、その先に市倉が待っているのであれば、足を踏み入れるのにわずかな勇気も必要なかった。
洞窟の行き止まりではいくつもの灯りが焚かれていた。その中央に刀の先を見つめ、まるで別人のようになってしまった市倉が岩に腰掛けている。痩せこけた頬に、両目の周りにできた大きな黒い隈は、死を前にした病人のようであった。だが、目の鋭さだけは前にも増して鋭く光っていた。
佐江には解った。この十日の間、毎夜毎夜、市倉はいつどこから襲ってくるとも知れない闇の恐怖と一人で闘っていたのだ。一晩中、神経を張りつめて過ごしたこの十日間がどれほど市倉を苦しめたかと思うと、佐江の胸ははち切れそうに痛んだ。
「やっとわかったのだ。闇の正体が」
市倉の第一声だった。
「まさか――、まさか、闇を!」
佐江の顔に浮かんだ驚きと喜びは、市倉が首を横に振ったことですぐに消されてしまった。
「やつはこの十日の間、一度も襲っては来なかったのだ。ある夜などはあまりの疲労でうたた寝までしたというのに。そこでこう考えた。”やつはこちらの居場所を探る方法など知らないのではないか?””では、なぜ佐江がどこに逃げても、夜になればすぐ追い付けるのか?””なにか目印があるのではないか?”」
「この痣が……」
佐江は首の痣に手を当てた。そして、この醜い痣を消そうと幾度も自ら傷つけたことを思い出した。
「でも、それは無理なのです。何度傷つけても、必ずこの痣は私の首に……」
「もうひとつ疑問があった。やつはどうやって、そなたのつぶやきを聞いたかということだ。やつの気配を昼間に感じたことはなかったのではないか?」
佐江は頷いた。
「だから、こう考えるとすべてのつじつまが合う。やつは昼間はどこかに姿を隠しているが、その痣を通して、いつでもそなたの声を聞くことができ、どこに居ようとその声を辿って追いつくことができるのだ。あの夜も、そなたの”逢いたい”という言葉を聞いて闇は嫉妬に狂った。そして、夜になってからそなたの後を付けた。だが、闇はどの男がその”逢いたい男”なのかわからなない。だから、そなたに近づいた男を片っ端から襲ったのではないだろうか? 関係ない店の主人までも……」
「そんなことが……」
佐江は言いかけて、口をつぐんだ。たしかに思い当たる節が何度かあった。闇はすべてを知っていると思えることもあれば、逆にほとんど何も知らないのではないかと思えることもあった。
佐江は頷いた。
「たしかに、そうかもしれません」
「近くに駕籠を用意してある。それがしと逃げるのであれば、駕籠に乗った後は一生口を利かない覚悟が必要になる。そうでなければ……、それがしだけでそなたと遠く離れた地へ行かねばならなくなるのだ……」
数日間考え、闇から逃れ、二人が生き残れる方法はそれしかないと市倉は結論を出していた。
「話さなければよいのでしょう? そんなこと、あなたを想う気持ちを隠すことや、会えないことに比べれば問題ではありません」
佐江は驚くほどすんなりと答を出した。
「急ぎましょう。夜にならないうちに、できるだけ遠くへ」
二人は洞窟を出て、別々の駕籠へと乗った。行き先や途中の手はずについてはすでに話してある。
道中、佐江は一言も口にしなかった。やがて、闇が訪れたが、佐江の元に闇は訪れなかった。後ろには市倉の乗った駕籠が付いてきている。
闇は洞窟に飛び込み、そこに誰もいないことに怒り狂っていた。佐江の言葉ですでに二人がいないことはわかっていたが、闇にはもう、ここしかあてがなかった。佐江の言葉はもう聞こえない。切り裂くべき相手を失った爪はやみくもに岩をひっかいた。
”声が聞こえなくとも、必ず見つけてやる! 必ずだ!”
闇の憎悪は最大限に高まっていた。洞窟の入り口からは灯りが近づいてきていた。
「ここならば、飛んで逃げることもできまい」
その男は市倉であった。
闇は男への怒りと嫉妬、そして男を見つけたことの喜びとで震えた。
「佐江の声を返してもらうぞ」
市倉は刀を抜いた。彼は佐江に気付かれぬよう、駕籠を途中で降りていたのだった。佐江がなんと返答しようとこうするつもりだった。
闇は跳ねた。
市倉の刀がそれをたたき落とす。爪にあたったのか、斬った感触は伝わってこなかった。
闇は一度退くと、地を這うような低い軌道で足を狙った。
飛んでやり過ごそうとしたところで、闇は軌道を市倉の首へと変えた。
寸前で爪と首との間に刀を滑り込ませることができた。
前とは違い、今は自分の命の他に、佐江が一生話せないでいるか否かが掛かっている。この闇だけは、なんとしてでも仕留めなければならない。
闇は力任せに刀ごと市倉を跳ね上げた。
市倉は無様に尻から落ちた。
――まずい!
すぐに構えたが、やつは襲ってはこなかった。それ以上に恐ろしいことをしようとしていたのだ。
闇は市倉の代わりに唯一の灯りである提灯の灯りを切り裂いた。
月明かりさえ入ってこない洞窟は真の闇に包まれた。
目を澄ましても、動く者の気配さえ感じられず、耳が痛くなるような静寂だけがあった。
額に激痛が走った。背後に飛び去ったと思われる影に向かって刀を下ろすが、そこにはなにもなかった。切られたのは治り始めていた十日前の傷跡だった。
あざ笑っているのだ。闇の中で負けるはずがないと確信し、いたぶっているのだ。
次にふとももに激痛が走った。市倉は片膝をついた。血の香りが漂ってくる。
――仕留めるまでは倒れぬ。
刀を杖に、もう一度立ち上がった。
闇のすべてがやつの邪悪な気配で満ちていた。やつは遠くにいるのか、それとも目の前か、前か後ろか、なにひとつわからなかった。
背後からの足音で振り返った市倉は、もう少しで振り下ろすところだった。
「お願い! この人だけはやめて!」
佐江だった。市倉を抱きかかえるように腕が回り、佐江の汗が香った。
「この人だけは……」
闇の憎悪は爆発し、どこからか凄まじい迅さで二人に迫ってきているのが感じられた。
市倉は刀を下ろし、佐江のほうへほほを寄せた。
二人の周りを一陣の風が走り去った。
それで終わりだった。
そして、二人はそこに、いつもの洞窟の闇しか残されていないことに気が付いた。邪悪な気配はどこにも感じられない。まるで、闇にとけ込んで消えてしまったかのようだった。
二人はずいぶん長い間そのまま抱きしめ合っていた。
闇がどこに消えたのか、なぜ襲ってこなかったのか、なにひとつわからなかったが、ただ、もう闇は現れない気がしていた。二人の前にはけっして。
怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
作者怖話