中学時代の話だ。その年の夏、私と、私の両親と友人一人の計四人で、一泊二日のキャンプをしたことがあった。
場所は街を流れる川の上流。景観の良い湖のほとりにテントをたてた。水神湖(みずがみこ)という少し変わった名前の湖。観光パンフレットにも載っていないので、周りに人は私たちだけだった。
事前の予定では、両親はいないはずだった。普段は放任主義なのだが、さすがに子供二人だけでのキャンプは危険だと思ったのだろう。いきなり自分たちも参加させろと言いだして、計画にもあれこれ勝手に手を加え始めた。
今ならその心配も十分に分かるのだが、当時は普通にウゼーと思っていたし、実際口にもした。
もっとも私よりもまず友人に申し訳ないと思っていたのだが、彼は表向きはまるで気にしていないようで、私が親がついて来ると告げた時も、「うん。分かった」 の一言だったし、行きの車の中でも、私の両親とえらく普通に会話をしており、私一人だけがいつまでもブーたれていた。
「やっぱりくらげちゃんは、誰かと違って礼儀正しくてしっかりしてるねぇ」
移動中の車内。母が声を大きくしたのはわざとだろう。
くらげとは友人のあだ名だ。私がそう呼んでいるのを聞いて、親も真似をしてそう呼ぶ様になったのだった。しかし何が、『くらげちゃんはしっかりしてるねぇ』 だ。いっそのこと、そのあだ名の由来を教えてやろうかとも思った。
友人は所謂、『自称、見えるヒト』 であり、幽霊の他にも、自宅の風呂に居るはずの無いくらげの姿が見えたりする。だからあだ名がくらげなのだが。口に出したい気持ちを、ぐっと呑みこむ。
くらげはその日、長袖のシャツに黒いジャージという出で立ちだった。彼はあまり親しくない人の前で肌を見せるのを嫌う。つまりは、そういうことだった。
「まあ何ねこの子は、さっきからぶすーっとして」
うっせー。誰のせいだ。
細い山道を幾分上り、目的地に着いたのは、午前十時頃だった。人の手が入ってないからか、湖の水は隅々まで透き通っていた。所々白い雲の浮かぶ空は青く、周りの緑がそよ風になびいてサラサラと音を立てている。
荷物を下ろし、今日のために休暇を取ったという父親が、はりきってテントを組み立てにかかった。くらげがそれを手伝い、私は落ちてある石を集めて積み上げ簡素な竈を作った。口は強いが身体の弱い母は木陰でクーラーボックスに腰かけ、皆の作業の様子を眺めていた。
テントが完成した後、母が、私の作成した竈で昼食をこしらえた。野菜と一緒に煮込んで醤油とマヨネーズで味付けした、ぞんざいなスパゲッティ。鰹節をふりかけて食べる。見た目と同様に味もぞんざいだったが、美味かった。
「そう言えば、前にも一度ここに来たことがあってな」
食事中、ふとした拍子だった。パスタと共に昼間から酒に手を付け始めた父が、しみじみとした口調で言った。
「あの時は、こんなにゆっくりとは出来んかった」
私たちが生まれる前のことだという。麓の街に住む一人の男が、山に入ったまま行方が分からなくなった。次の日家族の通報により捜索隊が組まれ、何日もかけて山中を探しまわったそうだ。
消防署に勤めている私の父も捜索に加わっていた。
そうして二日程たった頃。行方不明だった男は、この湖の近くで、見るも無残な姿で発見された。
「たった二日なのにミイラみたいになっててな、驚いた。腕は一本千切れて無かったし、動物の爪のあとやら、しかも腹にはどでかい穴が空いててな、内臓があらかた食われてた。熊じゃないかってことになって、そこからは皆大騒ぎだよ。猟友会も呼んで男の次は熊の捜索だ」
私とくらげは無言のまま顔を見合わせた。隣の母が露骨に止めてくれというような顔をしていたが、私は構わず父に尋ねた。
「で? その熊は見つかったん」
「いや。見つからなかった。そもそも熊じゃないって話もあったな。猟友会の奴らが、これは絶対熊じゃないって言うんだ。傷がでかすぎるってな。まあ、確かにここらの山に熊が出るなんて、その頃でも聞かない話だったが。でも熊じゃないとしたら、じゃあ何なんだって話だよ」
「……そんなのが出るかもしれん山に、私らを連れてきたん?」
そう言って、母が父を睨んだ。父はどこ吹く風で、缶ビールを口に運ぶ。
「もう十何年も前の話だから心配ない。それに、どこの山だって死亡事故の一つや二つ起きてるもんだ。いちいちビクビクしてたら何も出来んだろ」
「それにしても、食事中にする話じゃなかろーが」
それでも美味そうにビールを飲む父に、母は、「この酔っぱらいめ」 と悪態をつく。そんな夫婦のやり取りを見ながら、私の口の悪さは母譲りだな、と改めて思う。
「ああそう、思い出した……。死体を見た専門家も、こいつは熊じゃないって言ってたな」
一本目の缶ビールを飲みほした父が、そのまま顎を上げ空を見上げた状態で、どこか独り言のように、そう言った。
「腹の傷辺りの内臓が、すっかり溶けてるとかなんとか」
「やめんと刺すぞ」
母が父に菜箸をつきつけ、この話は終わった。
昼食後は、日が暮れるまでそれぞれ好き勝手なことをして過ごした。母は読書をしたり、傍に居たくらげを捕まえて話の相手をさせていた。酔っぱらいは、わざわざ家から持ってきたハンモックを手ごろな木に吊るして、昼寝をしていた。
私はというと、もっぱら釣りをしていた。餌はその辺の岩の下に居た小さな虫で、この湖で何が釣れるのかも知らなかったが、湖の景観は眺めていて飽きなかったし、ついでに何か釣れればいいな、くらいの心持ちだった。小さな折りたたみ椅子に座りぼんやりしていると、ようやく母に解放されたらしいくらげがやって来て、私の隣に腰を下ろした。
しばらく、二人共無言で湖を眺めた。どこかで、ピィ、という鳥の鳴き声と一緒に、木々の擦れ合う音がして、小さなこげ茶色の影が数羽、私たちの頭の上を西から東へと横切っていった。
「さっきの親父の話さ、あれ本当だと思うか」
鳥の影が見えなくなった後、私は何となく尋ねてみた。欠伸の最中だったらしいくらげは、両手首で涙をぬぐいながら、そのまま 「んー」 と伸びをした。
「僕は当事者でも何でもないし」
「まあ、そうだよな」
そうして、くらげは地面に生えていた草を数本引きぬくと、湖に向かって投げた。
「……あのさ。これ、随分昔におばあちゃんに聞いた話なんだけど」
くらげが言った。
「この辺の山には、神さまが住んでるって」
「神さま?」
「そう。みずがみさま、っていうんだけどね」
くらげは湖を見つめながら、そう言った。みずがみさま。その名前は私に、今自分が釣り糸を垂らしている湖の名前を、否応なく思い出させた。
「そのみずがみさまがどうかしたのか? それとも事件は、そいつのせいだって言うのかよ」
くらげは首を横に振った。
「かもしれないねって話。でも、この湖のそばで見つかったんでしょ?」
確かに男の死体はこの水神湖周辺で見つかったそうだが、だからといって、湖の神さまが犯人は突拍子過ぎるのではないか。
そんな私の考えを知らないくらげは、淡々と続ける。
「ふつう、神さまが見える人なんて滅多にいないし。見えない何かに危害を加えられたり、なんてことはあり得ないんだけど」
そうして、くらげは右腕を前に伸ばすと、シャツの裾を少しめくって見せた。白くて細い腕の中に、赤い斑点が数ヶ所、浮き出ている。
「見えない人には居ないも同然だけど。もしも、『それ』 が見える人なら、刺されたり噛まれたり、殺されることもあるんだよ」
それは、彼が自宅の風呂に出たくらげに刺されたという跡だった。最初に見たのは小学校の頃の体育の授業だったが、それから数年経っても消えないで、未だ彼の身体に残っている。
ファントム・ペイン――幻肢痛。そんな、どこかで聞いたような単語が頭に浮かぶ。しかしあれはすでに失った、あるはずの無い手足の痛みを感じる、というものだったはず。この場合、幻傷と言った方がいいのかもしれない。
「……でもなあ。最近の神さまは人を襲って内臓食うのかよ」
私が言うと、くらげは前を見たまま、「どうだろうね」 と少し首を傾げた。
「神さまなんて、善いとか悪いとか関係なしに人が崇める対象のことだし。もしかしたら、生贄だと思ったんじゃないかな。僕らの街も昔は水害が多かったそうだから」
さらりと言って、くらげは再び欠伸をした。それから後ろを振り向き、父が寝ているハンモックをどことなく羨ましそうに見やった。
その後私は夕暮れまで粘ったが、結局一匹も釣れなかった。
夕飯はカレーだった。但し、ここで作ったものでは無い。母が家から鍋ごと持ってきたのである。しかも飯盒も米も無いので、別の鍋でうどんを茹でてカレーうどんという体たらく。何故キャンプに来て昨日の残りのカレーを食べなければいけないのだ。何故白米が無いのだ。ここでも結局、私のみがブーたれていた。
食事の後は、焚き火の光を目印に集まってきた虫達と一緒に、夜の景色を眺めたり、誰かと適当に話をしたり、父のウィスキーを少しなめさせてもらい母に怒られたりした。
時間は驚くほどゆっくり流れ、夜空にはどこも欠けることのない満月と共に、今にも落ちてきそうな、もしくは逆にこちらが吸い込まれそうな、満天の星空が輝いていた。
酒のせいか、いつテントに入ったのかは覚えていない。気がつけば、私は寝袋を敷布団にして仰向けに寝転がっていた。右を見ると父と母が、左にはくらげが少し離れたテントの隅で、まるでカブトムシの幼虫の様に身体を丸めて眠っていた。
どうして目が覚めたんだろう。外の焚き火は消えている様だった。辺りはしんと静まり返り、虫の鳴き声が唯一、静寂を一層際立てていた。
私は上半身を起こした。寝起きだというのに、何故か自分でも驚くほど目が冴えていた。目だけじゃない。五感がこれ以上ない程にはっきりとしている。
何か居る。
ほとんど直感で、私はその存在を認識していた。テントの外に、蠢く何かが居る。直感に次いで、這いずる音が聞こえた。
その内、不意に、テントの壁に大きな影が映った。私の背よりは大きくないが、横にかなりの幅がある。そいつは、テントの周りをのそのそと、入口の方まで移動してきた。
私は無意識の内に、テントの入り口に近寄っていた。二重のチャックは二つとも閉じている。薄い布二枚隔てた向こうに、何かが居る。
不思議と、熊かも知れない、とは思わなかった。
そいつの足かもしくは手が、テントに触れた。でかい身体の割には随分と細い手足という印象だった。細くて、先が鋭い。
みずがみさま。
ガジガジガジガジ。とまるで錆びた金属同士をこすり合わせたような、そんな音がした。鳴き声だろうか。そうだとしたら、そいつは熊ではあり得無い。
私は、手探りでテントの中に転がっていた懐中電灯を見つけ出した。片手に握りしめ、もう一方の手で、ゆっくりと出入り口のジッパーに手をかけた。じりじりとジッパーを下ろしてゆく。片手が入る程の隙間。その隙間に、私は光のついていない懐中電灯を向けた。
スイッチを入れようとした。
その瞬間、突然、後ろから肩を掴まれた。
驚く間もなく、口を塞がれる。
「……静かに」
耳元でも、ようやく聞こえる程の小さな声。くらげの声だった。いつの間に起きていたのだろうか。後頭部から彼の心臓の鼓動がはっきりと聞こえていた。自分の心臓の音も聞こえる。いつの間にか懐中電灯が取り上げられていた。
「今は駄目だ。相手にもこっちが見えるから」
外の気配は相変わらず、すぐそこにあった。
「見えるってことを、知られちゃいけない。見えないふりをしないと」
小さく囁くその声が、僅かに震えているのが分かった。そこでようやく、私の頭の芯が冷えてきた。私は鼻で大きく深呼吸を二回すると、くらげの膝を軽く二度叩いた。
くらげが私の口から手を離した。
星明かり月明かりのおかげで、テントの中でもそれ程暗くない。
テントに映る影。改めてみると、影の高さは、膝を立てて座った時の私の目線とほぼ同じだった。
私が開いたジッパーの隙間から、その姿の一部分が見え隠れしている。但し、夜中だったせいか、黒くしか見えない。
ガジガジガジガジ。あの音がする。不快な音だ。
どうして両親は起きないんだろう、と思った。もしかしたら、彼らには聞こえていないのかもしれない。私とくらげ、二人だけに聞こえている。
くらげと一緒に居ると、私にも常人には見えないものが見える時がある。それをくらげは、『病気がうつる』 と表現していた。見えてしまう病気。それは時には、見えてしまうがゆえに、様々な症状を誘発する。
くらげから離れさえすれば、この病気は治る。それでも、私はくらげと友人でいた。一度覗いてしまった非日常の世界を、簡単に手放すことは出来なかった。
しかし、この病気は、悪化もするのだ。
どのくらい動かずに居ただろう。不意に、外に居るそいつが背を向けたのが分かった。気配が、テントから離れていく。
暗闇の中、私とくらげは目を合わせた。「……ライトは駄目だよ」 とくらげが小声で言う。私は頷いた。
二人で、そっとテントの出入り口に近づく、手が一つ入る程だったジッパーの隙間を、もう少しだけ広げた。二人で片目ずつ、外を覗く。
息を飲んだ。
虫だ。
四本の足で這いながら、湖の方へと近づいて行く。そいつはとてつもなく大きな、まるで、私たちが小指大まで縮小してしまったのかと思う程大きな、昆虫だった。枯れた水草のような色。その畳二畳分はあるだろう背中。頭から横にはみ出した、車すら挟み潰してしまいそうな巨大な鎌状の前足が二本。
「……タガメだ」
くらげが小さく呟いた。
湖の傍まで来ると、そいつは突然立ち止まり、動かなくなった。
その背中が、もぞもぞと動く。同時に、ガジガジガジ、とあの音がした。あれは、虫が身体をこすり合わせる音だったのだ。
そう思った途端。いきなりその背中が二つに裂けた。身体の大きさが横方向に、突如膨れ上がった様にも見えた。
羽を広げたのだ。
その四枚の羽根が目に見えない速さで振動する。ざあ、と風が吹いて、テントが揺れた。
飛ぶ。その大きな体がふわりと、地面から少しだけ浮いた。
水面に波紋が立つ。飛び上がるというよりは、水面を滑る様に。徐々に上昇していって、あっという間に木々の向こうへと飛び去ってしまった。
湖は、また静かになった。
私は、しばらくの間、動くことも声を発することも出来なかった。
くらげがジッパーを開いて外に出た。湖の方へと歩いて行き、先程あの巨大な虫が飛び立った場所で立ち止まった。
「やっぱり、みずがみさまは、タガメだった。おばあちゃんに聞いた通りだ……」
夜空に向かって、くらげは呟く様にそう言った。その声は、どこか嬉しそうにも聞こえた。私も外に出てみる。見ると、焚き火をした後の灰の中に、未だ赤くくすぶっている薪があった。あの虫は、この僅かな光につられてやってきたのだろうか。
ぶるり、と私は一つ震えた。
「……もし捕まってたら。どうなってたんだろな」
タガメに関する知識で、蜘蛛のように、獲物の内臓溶かしながら少しずつ吸う性質がある、ということを私は思い出していた。
「もし捕まったら、僕らお供え物になってたね。きっと今年、このあたりで水害は起きなかったはずだよ」
私の傍に来て、くらげがそう言った。お供え物。私はくらげを見やって、思わず笑ってしまった。すると、くらげは不思議そうな顔をした。どうやら冗談で言ったのではないらしい。
今年水害が起こったら、それは私たちのせいでもあるということか。
「あら……、二人共早起きやねぇ」
声のした方を向くと、母がテントから顔だけ出していた。私の笑い声で起こしてしまったようだ。
見ると、辺りが段々青白く明るんで来ていた。朝はもう、すぐ近くまで来ている。
「何しゆうんよ。二人で」
母の言葉に、私たちは顔を見合わせた。どう説明したらいいものかと一瞬悩んだが、私は本当のことを話すことにした。
「いや、あのさ、テントの外にでっかいタガメが居るの見つけて、ちょっと観察してたんだけど……」
嘘は何も言っていない。
母は、目をぱちくりさせた後、小さく溜息を吐いた。
「ねぇくらげちゃん」
その時の母の笑顔は、私が今まで見たこともないようなものだった。
「ウチの子こんなに馬鹿なんだけど。これからもお願いね?」
するとくらげは、珍しく少し戸惑ったような表情をしてから、こう言った。
「あの、僕、ずっとは無理ですけど……、出来る限り、そうしたいと思ってます」
数秒の間を置いて、母が笑った。当のくらげはやっぱり不思議そうな顔をしていて、どうやらこれも冗談ではないようだ。
くらげの言葉。きっと母と私では、違う受け取り方をしただろう。
正直、おいおいおい、と思ったが、私は笑って流すことにした。
怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
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