私が学生の頃にある保育園へ実習に行く事になりました。
二週間の実習でしたが、クラスは5歳児の担当になり、毎日子ども達に奮闘しながらも楽しく実習をしていました。
(園の事は詳しくは書きません。
ご了承ください。)
そのクラスの中に、一際大人しいというか、物静かで気になる女の子がいました。
仮にその子をちぃちゃんとします。
ちぃちゃんはみんなが走り回って遊んでいても教室で絵を書いて、一人で遊ぶことが多くて、あまり話さず、自分の感情を表す事が苦手な子のようでした。
当時の私は、戸惑ったり、心配しながらもその子の個性だと考え、徐々にみんなと接するきっかけ作りになれるようにと、積極的にちぃちゃんと関わるようにしていきました。
ちぃちゃんは、いつもどことなく顔色が暗く、目が据わっていて、よく顔を伏せていましたが、関わりが増えていくにつれ、少しずつ笑顔が見られるようになってきました。
そんなある日、
「ちぃちゃん、何書いてるの?」
一人で黙々と絵を書いてるちぃちゃんに話しかけると、ちぃちゃんは何も言わず、画用紙を後ろに向け、決して見えないように両手で画用紙を押さえていました。
見せたくないんだな…と、まだ心を開いてくれていない現実を改めて感じ、悲しくなりながらも、
「ちぃちゃんは、絵を書くのが本当に好きなんだね!今度、先生の絵も書いてほしいなぁ。」
と、笑いかけました。ちぃちゃんは、少し考え、小さくコクッとうなずきました。
少しずつだな…少しずつ…
自分に言い聞かせていました。
そして、その翌朝、ちぃちゃんが私の元へかけよって来ました。
手には画用紙をもっています。
「先生、絵…。」
咄嗟に私の絵を書いてくれたんだなと思い、嬉しさから笑みがこぼれました。
「ありがとう…。」
絵を見ようとしても、表面を隠してるので見えません。
「見せてくれる?」
両手を広げて待っていると、ちぃちゃんは静かに絵を渡してくれました。
絵を受け取り、表面に返し、笑顔で絵を見つめました。
確かにその時までは私は笑顔だったと思います。
でも、次第に笑顔が引きつっていくのが分かりました。
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ちぃちゃんの絵に書かれていたのは、紛れもなく私だったと思います。
真っ黒のクレヨンで書かれた絵の中の私の笑顔。
そして、その隣には…黒い物体。
いや、その物体は手もあり、足もある。
人だ…黒い人。
私の影?いや、影にしては違和感。
なんというか、影ではなく、そのもの自体が独立しているような…。
園児が書いてたということはちゃんと分かってるつもり。
でも、その絵は不気味としか言いようがなかった。
私がちぃちゃんの顔を見ると、
ちぃちゃんは、すぐ横で満面の笑みで私を見ていました。
私は引きつりながらも笑顔になり、せっかくちぃちゃんが書いてくれたんだから…と、何かを言おうと口を開いた瞬間、
「キャハハハハハハハハハハハハハ。
ハハハハハハハハハハハハハハハ。ひぃひひ。ふふふ。ハハハハハハハハハハ。あーあー。ギャハハハ。」
ちぃちゃんが狂ったように笑い出したのです。
「ち…ちぃちゃん。」
ちぃちゃんは、お腹を押さえて立っている事も出来ず、床にのたうち回っていました。
「ギャハハハ。あーあー。ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ。ふぅ。ふぅ。ハハハハハ。」
ちぃちゃんの甲高い声が耳に鳴り響きます。
「な…何がおかしいの!!」
私は怖くなり、つい声を荒げてしまいました。
ちぃちゃんの笑い声がぴたりとやみました。
ちぃちゃんは真顔に戻り、スクッと立ち上がりました。
そして、
「先生の ………。」
「となり……。」
とだけ呟いて、私が持っている絵をつかみ、教室の自分の席へと戻っていきました。
私は、ちぃちゃんの事が気にかかり、クラスの担任の先生にちぃちゃんの事やちぃちゃんの絵の事を話しました。
「あ~ちぃちゃんね、よくある事だから、気にしないで。大丈夫よ。ちぃちゃんの事、気にかかるかもしれないけど…それより、他の子とももっと関わりをもってみたら?」
担任の先生は、この職について数十年の大ベテラン。
担任の先生がそう言うのだから、実習生の私が口出せる事ではない。
実習期間も残りわずか。
たくさんの園児達ともっと楽しい思い出を作りたいと率直に思いました。
その日から何か吹っ切れたかというか、ちぃちゃんだけではなく、周りの子達とももっと積極的に関われるようになりました。
そして、実習期間を無事に終え、最終日。
涙ながらに二週間お世話になった先生方へ、そして、園児達へと挨拶をしました。
「先生、ありがとう!」
「また遊びにきてね!」
みんなからの優しい言葉に涙が止まりませんでした。
すると、
教室の隅にポツンとちぃちゃんが立って私を見ていました。
私はちぃちゃんに近づき、笑いかけました。
「ちぃちゃん、またね。」
ちぃちゃんは、もじもじしながら私の顔を見つめ、笑顔で
「先生………」
「…ありがとう。」
あのときの笑顔は忘れられません。
園へ別れを告げ、不思議で楽しい実習だったなぁとしばらく余韻に浸っておりました。
その数ヶ月後、ちょうど用事で園の近くに行く事があったので、久しぶりに園へ挨拶に行きました。
その日はちょうどお出かけの日だったらしく、園児達は一人もいませんでした。
残念に思いながらも、留守番をしていた園長先生が私の顔を見るなり近寄ってきて、久しぶりですね~と話しかけてきたので、その節はお世話になりましたなど話しました。
園長先生はとても穏やかで優しく上品な初老の女性でした。
園長先生としばらく園庭のベンチに座りながら会話をし、内容は園児達の事になりました。
○○ちゃんは?○○くんは?などと言い、
流れから自然と、ちぃちゃんは?と、ちぃちゃんの話題になりました。
一瞬、園長先生の顔色が曇ったのを私は見逃しませんでした。
「あ、ちぃちゃんね。あの子は…。本当によくある事なのよ。だから、気にしないで。あなたの笑顔は、みんなを引きつけて笑顔にしてくれるのよ。だから、何があってもどうか、保育士の夢をあきらめないで欲しいの。頑張ってね。」
そこまで話すと、園長先生はゆっくり立ち上がり、校舎内へ戻ろうとしました。
私は、咄嗟に園長先生に向かって言いました。
「園長先生…ちぃちゃんの事、詳しく教えてくれませんか?」
園長先生は、しばらく立ち止まっていましたが、静かに私の方へ振り返り、呟きました。
いつも真っ黒い絵だったの。気づけば毎日、机の上に真っ黒い物体の絵が置いてあって。最初は誰が書いているのか分からなかったんだけど、毎日続くものだから、その絵を書いてる園児が心の病気かもしれないと思ったわ。だから、一人一人調べてみたの。誰が書いてるのか。
園児達、みんなに聞いても誰一人自分が書いたなんて答えなかった。不思議な事もあるわね。
でも…
そのうちに、分かったの。
その絵を書いてるのはちぃちゃんだって。
ちぃちゃんが書いてるんだって、この園にきた実習生が教えてくれたのよ。あなたのようによく笑う実習生だったわ。」
私は息をのみました。
「でもね…おかしいのよ。その実習生が、ちぃちゃんのことを知ってるはずないの。だってね、ちぃちゃんは、もう…五年前に交通事故で…。」
優しい園長先生の表情がどんよりと曇り、目には涙が溢れていました。
「ちぃちゃんは、気づいて欲しかったのね。だから、必死に考えたわ。ちぃちゃんが書いてる黒い物体は、もしかしたら自分自身の事じゃないかしら?って。」
そこまで話すと、園長先生は、再び笑顔になって言いました。
「また園に遊びに来てね。」
数年後、私は、保育士として働きました。
実習の時とは比べものにならないくらい、大変ですが、その分、毎日の出来事に感動をしたり、楽しく子ども達と接してきました。
変わったことといえば…
誰もいない園庭で、突然、ボールが転がってきたり、風もないのにシーソーやブランコが動いていたり、誰もいない廊下で走り回る足音が聞こえたり、誰も触っていない積み木が突然崩れたり…なんて、おかしいほどよくある事。
怖がってる実習生を見かけたら、こっそり教えてあげるんです。
「よくある事なのよ。」
作者黒い苺
子供が集まる場所には様々な不可思議な事がよくあります。
静まりかえった園庭。
誰もいないはずの教室。
そこには、あなたの知らない世界が、
あるのかもしれません。