長編です。よっかたら読んでください。
1947年のインド独立宣言まで、インド人たちは何度も反逆を試みて反乱を起こし、イギリス軍に抵抗していた。
1765年6月20日 午後6時
反乱を起こしたベンガル州の太守スラジャ・ドーラーの軍は、東インド会社の本拠地であるカルカッタのウィリアム要塞に奇襲をかけ、イギリス軍との激戦の末にこれを占拠し、中にいた146名のイギリス軍人とその家族を捕虜にした。
反乱軍将校とイギリス軍捕虜のあいだで行われた交渉の結果、捕虜たちには一切危害を加えないという条件で、その夜は兵舎の一角にある“黒い穴(ブラック・ホール)”と呼ばれる29.7平方メートルほどの小さな獄舎に押し込まれることになった。
“黒い穴”と呼ばれる獄舎は、東と南側は厚い壁、北側は頑丈な厚い扉に閉ざされており、西側にある鉄柵のついた2つの小さな窓からのみ辛うじてわずかな外気が流入するだけの狭い獄舎だった。
さらに、29.7平方メートルといえば9坪ほどの広さである。普段の収容人数は、せいぜい2~3人であった。そこに146人もの人間を詰め込んだのである。
9坪を収容人数で割ると、1坪(3.3平方メートル)あたりの収容人数=約16名という割合である。
これでは横になることはおろか、足を伸ばして座ることも出来ない。昼間の激戦で消耗し、中には相当負傷した者もいたが、ここまで狭い獄舎の中では、立ったら立ったまま、座ったら座ったままである。
捕虜たちは、身動きさえままならない状態で閉じ込められ、放置されたのだ。
しかも、ベンガルの夜は蒸し暑かった。
外気の通りがひどく悪い、狭い獄舎に押し込められた捕虜たちは、数分もたたないうちに息苦しくなり、おびただしい汗を流しはじめた。そして大量の汗を流しながら、全員が猛烈なのどの渇きをおぼえた。
「これでは、一晩ももたない。窒息しそうだ。」
そこで、窓のそばにいた男が、窓の外で監視していた兵に、「謝礼はするから、収容人員を2つに分けて、半分を他の場所に移すように取り計らってくれ。このままでは、みんな死んでしまう!」と言った。
それを聞いた兵は上司に相談すると言い、一旦その場を離れた。
数分後再び姿をあらわした兵の返事はこうだった。
「上司と相談したが、太守様の許可がなければどうにもならないということだ。太守様はすでに就寝しておられるから、どちらにしても明朝まで待つしかないだろう。」
捕虜たちは少しでも場所を広くしようと、服を脱いで裸になった。
かぶっていた帽子を扇子がわりに使ったりもしたが、ほんの気休めにしかならなかった。
体を絡み合わせるようにして座っていたが、再び立とうとすると、すぐには立てず、力のない者や疲労が激しい者は、倒れたまま起き上がることができず、一瞬のうちに踏みつぶされて窒息する者もいた。
捕虜たちののどは渇きすぎてカラカラで、呼吸はますます困難になっていった。獄舎の中はアンモニア臭が充満し、いまにも窒息しそうになっていた。苦しさに耐えかねて扉を開けようとしても外からは頑丈に鍵がかけられており、どうしようもなかった。
窓のそばにいる者だけは、鉄柵を通して外気を吸うことができたが、その他の者は息苦しくなるばかりで、しだいに凶暴になり、精神が錯乱しはじめた。
「水!」
「水!」
四方から水を求める悲痛な叫び声があがった。
見かねた監視兵が数個の皮袋に水を入れて持ってきた。
しかしそれは、逆に中にいる者の命を縮める結果になった。
水を見た捕虜たちは狂ったように水に殺到しようとした。しかし狭い獄舎の中で満足に身動きできない。
殺気立った人々は、人を押しのけ、踏みつぶしてでも、水にありつこうと窓辺に突進した。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図であった。
窓のそばにいた者は、鉄柵の間から帽子を差し出して、その中に水を入れてもらって獄中に運んだが、せっかく運んだ水も、我さきにと争う狂気の集団のためにほとんどこぼされてしまい、帽子いっぱいに入っていたはずの水は、誰かの口に入る時には茶碗いっぱい分も残っていなかった。
そして、窓から離れた獄舎の奥にいる人々は、その一滴の水すらあきらめなければならなかった。
しかもそのわずかな水は、かえって渇きの炎に油を注ぎ、さらに猛烈な渇きを誘う手助けをしたにすぎなかった。
わずかばかりの水を求めて強引に窓に殺到しようとする集団のために、押しつぶされ、踏みつぶされ、窒息した者もいた。しかし、彼らを制止しようとする者は誰もいなかった。
そのような状態が夜の9時から11時頃まで続いた。
水は引き続き与えられたが、146人分の渇きを満たすには程遠い量で、まったく焼け石に水であった。捕虜たちは、「もっとだ!もっと水をくれ!」と、いっそうのどの渇きを激しくつのらせた。
また時間の経過とともに関節に痛みをおぼえ、動悸が激しくなり、ますます呼吸が困難になっていった。
夜11時になるまでに、押しつぶされたり、踏みつぶされたり、窒息して死んだ者は、50人に達していた。わずか数時間で全体の約1/3が命を落としたのだ。
午後11時半
「水!」 と叫びながら死んでいく者が何人も出た。
夜の11時半頃になると、さらに多数の者が凶暴な幻覚症状に陥り、まったく手がつけられない状態になっていた。どうにか落ち着きを保っていたのは、窓の近くにいる人たちだけであった。
この頃になると捕虜たちは、水は救いとはならず、かえって渇きを招き、狂気を生む原因になることを知り、水よりも新鮮な空気を求めるようになっていた。獄舎の奥にいる者の中からは、窓辺と場所を交替してくれるよう求める声がしきりにあがっていたが、耳を傾ける者は誰一人いなかった。
時間の経過とともに、狂ったようにわめき、叫び、苦しみ悶えながら死んでいく者が出てきた。
獄舎の中は、生きている者からも死体からも水蒸気が立ちのぼり、強い揮発性のアンモニア臭が充満していた。これに耐えられずに、窒息して命を落とした者もいた。
気力の残っている者は、この臭いを払いのけて空気を吸おうとして力をふり絞り、人の頭を乗り越えて窓辺に押し寄せた。
夜明けまでに、前かがみになったり、横になったり、重なり合ったりして、多くの者が死んでいった。
朝6時
ようやく夜明け近くになって、監視兵たちは獄舎内の捕虜たちが異常な状態にあることに気づいて上司に報告した。“黒い穴”の中で多数の捕虜が窒息死しているとの報告を受けた太守は、「即刻、最善の策を講じるように。」と命じた。
その結果、朝6時頃になって、ようやく獄舎の扉が開かれることになった。
扉は内側に開くようになっていたが、扉の内側には死人の山が築かれていたため、開けようにも扉が動かなくなっていた。獄舎内の生存者は体が弱っており、死体の移動に20分以上もかかった。
およそ12時間ぶりの午前6時半頃に扉が開かれた時には、生存者はわずか23名になっていた。
12時間の間に123名も死んでいたのだ。
このとき収容された捕虜のひとりにケァリー・リーチ中尉という士官がいた。
リーチ中尉は、結婚して所帯を持ったばかりの新婚ホヤホヤだった。
田舎育ちながらも貞淑で、近所でも評判の美人だった若妻は、夫が捕虜になった時、別々になるのを拒んだ。夫とともに“黒い穴”に入るとすすんで希望し、一緒に収容されたが、普段から肥満・多血質で人一倍暑がりだったリーチ中尉は、新鮮な空気と水を求めながら死に、妻だけが生き残った。
釈 放
123名の死者は、インド兵の手で運び出され、そのまま未完成の壕の中に放り込まれ、土をかけられた。身元をはじめとする満足な死体の確認などは一切行われなかった。
23名の生き残りのうち、女性はリーチ中尉の妻ただ一人であった。
生存者は太守の命令でただちに釈放され、全員イギリスに送還されることになったが、リーチ中尉の妻は、若さと美しさが裏目にでて、太守に気に入られてしまった。不運な未亡人はイギリスに帰ることを許されず、太守のハーレムに留め置かれることになった。
釈放された残りの22名も、その後、追っ手をかけられた。
命からがらマハダバドに辿り着くも、体が回復するに至らず命を落とす者もいた。
最終的に無事イギリスに帰国できたのは、わずか10名たらずであった。
怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
作者怖話