姉のいる座敷に近づく時には、必ず白い狗の面をつけなければいけない。
それは私が物心ついた時から、亡き母に厳しく言い付けられていたことだ。
面は紙製の鼻の尖った狗で、どことなく狐のようにも見えなくもない。口の部分が僅かに開いていて、そこから鋭い犬歯が覗く。古く、もう十年以上この面を使ってきた。
面を被ると、視界が急に狭く、息苦しくなる。自分の息が顔に当たって不快だ。
薄暗く長い廊下を照らす裸電球が揺れて、障子に映った影が上下に伸びる。古い日本家屋は隙間風が酷くて、まるで外にいるみたいに寒かった。今日はストーブを焚いたまま寝たほうがよさそうだ。
盆の上には姉の夕食が並んでいる。麦飯、アジの干物、納豆、ほうれん草のおひたし、大根と椎茸の味噌汁。和食ばかりで申し訳ないが、弟ばかりを炊事場に立たせるほうが悪い。母が生きていた頃は、もっと華やかだったような気もする。
姉の座敷は廊下の一番奥にある。以前は離れで寝起きしていたが、母も亡くなったので、私は姉を母屋へと呼び寄せた。姉が不憫だったからというのもあるが、それ以上に食事のたびに中庭を抜けて離れへ向かうのが面倒だった。
「姉ちゃん。入るよ」
障子越しに声をかけても返事はない。
少し間をおいて、私は片手で障子を開いた。八畳の和室。床の間には気味の悪い日本人形が並び、桐の箪笥と火鉢の他には布団しかない。
布団がこんもりと盛り上がり、姉はその中で膝を抱えているらしい。
「姉さん。夕飯、持ってきたよ」
一瞬の間。
「ありがとう」
「具合はどう? 熱は?」
「だいじょうぶ。平気」
「灯りくらいつけろよ。気分まで暗くなるぞ」
「そうね。ごめんなさい」
「じゃあ、部屋に戻るから。なにかあったら教えてな」
「ありがとう。いつもごめんね、藤四郎」
「夕飯、残すなよ。たくさん食べないといつまで経っても元気になれないぞ」
盆を置いて、立ち上がろうとした時、姉の手が服の裾を掴んだ。
真っ白い、まるで骸骨のように細く白い腕。思いきり掴んだら、折り砕いてしまいそうだ。
「今日、誰かきた?」
「いいや。誰も来ないよ。ずっと人なんか来てない」
そう、と姉は消え入るようにつぶやいて、服の裾を手放した。
姉が来客を気にするなんて今までなかったことだ。そもそも姉宛に人がやってきたことなど覚えていられないくらい昔の話だ。
「お面、もう取っていいのよ」
わかっているよ、と答えて私は座敷を後にした。
中庭へ目をやると、曇天の下、雪片がはらはらと舞い始めている。今日はとりわけ寒い夜になりそうだ。
不意に、玄関で呼び鈴が鳴り、思わず飛び上がりそうになった。来客なんて母の通夜のとき以来じゃないだろうか。
慌てて玄関へ向かいながら面を戸棚の上に置く。玄関の磨りガラスの向こうに長身の人影が見えた。
「はい。どちら様?」
⚪︎
その屋敷は驚くほど深い山の中にあった。
あちらこちらで人に道を訪ね歩いて、ようやくたどり着いた屋敷は想像していたよりも遥かに大きく、思わず狐に抓まれたんじゃなかろうかと疑うほどだった。
「驚いたな。本当にあった」
古い武家屋敷といった風情の屋敷を囲うように、椿の生垣がぐるりと立ち、庭には厩戸と土蔵まである。流石に馬はもういないようだが、こんな山奥にあるには不自然な屋敷だ。
表札には「帯刀」とある。
門を潜り、玄関の呼び鈴を鳴らすと、磨りガラスの向こうで勢い良くやってくる足音がした。
「はい。どちら様?」
鍵を開けないままで尋ねる声の主は若い。いや、まだ幼いといってもいいような声だった。
「ええと、こちらに帯刀咲耶さんはいらっしゃいますか?」
声の主はしばらく無言だったが、鍵を外して戸を開けた。
迎え入れてくれた少年はまだ十代の半ばぐらい。精悍な顔つきをした少年だった。歳の割に背が高く、自分とあまり変わらないくらいだ。
「どなたですか?」
挑むように言うので、思わず苦笑した。
とりあえず名乗り、それから一枚の葉書を取り出す。消印どころか切手も貼られていないのに、どういうわけか自宅の机に置かれていた葉書。
「君の姉上から手紙が届いた。それで遠路はるばる来たんだよ。とりあえず中に入れてくれない? 寒さと空腹で死にそうだ」
少年は葉書の裏を食い入るように見てから、本当に渋々といった様子で「あがってください」と言った。
屋敷の中は恐ろしく広く、およそ一家族で住まうには大きい。築年数は百年をゆうに超えているだろう。少年は私を先導しながら、私に注意を向けた。
「ご両親は出かけているのかい?」
「父は生まれつきいません。母は半年前に死にました。今は姉と二人で暮らしています」
「こんな山奥で? たった二人で生活しているのか」
「ええ」
憤慨させてしまったようなので、素直に謝る。
「いや、気分を悪くさせたのならすまない。不便だろうと思ってね」
「不便ですよ。買い物するのも里まで降りていかなきゃいけないし。面倒だから野菜は畑で作ってますし、知り合いの猟師の人が肉を分けてくれたりして凌いでます」
「すごいな」
話している内にひときわ大きな座敷に通された。座布団が二つ、無造作に転がっているのを少年が拾い集め、どうぞと差し出す。
「帯刀藤四郎です。俺、大人の人の対応とかよくわからないんで、無礼なところは許してください。あの、お茶とかいりますか?」
「いや、お気遣いなく。藤四郎くんは幾つ?」
「呼び捨てでいいです。それよりも、姉の手紙の件で話がしたいんですが」
「咲耶さんに会わせて欲しい。この葉書は俺の家の机のうえで見つけたものだ。消印も切手もない。ここの住所と君を連れ出して欲しいという旨の内容だけで、電話番号も何もない。ここまで来るのに随分苦労した」
「姉ちゃんがなにを思ってそういう葉書を出したのか分からないですけど、俺はこの家を出るつもりはないです。そもそも姉ちゃんを置いていける筈がないし、ここは俺の生まれ育った家です」
「ああ。だから、咲耶さんにこの手紙の意図を聞きたい」
「姉ちゃんには会えませんよ。家の者以外の人間とは会いません」
「それはどうして?」
「病気なんだと思います。昔からずっと座敷から出られないんです。だから食事も俺が作ってます。でも、どうやって手紙なんか出したんだろう。ポストなんか里まで降りないとないのに」
「なんとか話だけでもできないかな。俺も仕事だと思ったからここまで来たんだ。このままだと無駄骨になっちまうよ」
「仕事?」
「ああ。そのなんて言えばいいのかな。俺はその困った人を助ける仕事をしていて。そういう仕事の依頼なのかと思ったんだよ。手紙で依頼を受けること」
「なんだかよく分からないですけど、とりあえず姉ちゃんに話を聞いてきます」
「そうしてくれると助かる」
「寛いでてください。あ、上着かけますよ。コートください」
「ありがとう」
片手で服を脱いだ私を見て、藤四郎が目を丸くした。
「右腕がない」
「ん? ああ、驚かせたかな。事故で亡くしたんだ」
「痛くないですか?」
「ああ。痛くないよ。まあ、これのおかげでこういう仕事をする羽目になったんだけどな」
藤四郎は不思議そうな顔をして、それから座敷を出て行った。
座敷には殆ど調度品と呼べるものがない。小さな桐箪笥の上に写真立てがある。家族で撮ったものらしい。
不意に、電球が明滅を繰り返す。
右手を掴まれた。
肘から先のない右腕。その腕に触れる感覚がある。人間の手が手首をしっかりと握っている。
五年前、事故で右腕を失ってから私は視えないものを、この右腕で知覚できるようになった。
今は、そういうものを深く視ることができる。
あの骨董店の女主人は、私のことを「末期患者」と呼んだ。
振り返ると、そこには写真立てに写っていた母親らしき女性と、その一人娘らしい少女が悲しそうに立ち尽くしていた。
「そういうことか」
⚪︎
「おかしいな。どこ置いたっけ?」
白い狗の面が見つからない。あの男が来た時、戸棚の上に置いた筈なのに。
あの右腕のない人は、初対面だが嘘をついているようには見えなかった。そういう匂いはしなかった。
それよりも不思議なのは、姉がどうやってあの人に葉書を送ったのかということだ。姉はあの座敷から出られないし、そもそも俺は葉書の出し方さえ知らない。
「きゃああああああああああああああ!」
廊下の先で、姉の悲鳴が響きわたった。
面のことなど忘れて駆け出す。思えば、母の言いつけを破ったのは、これが初めてのことだ。いや、母はそんなことを私に命じただろうか。そもそも、あの面は誰がくれたのだろう。
「姉ちゃん!」
障子を開けた瞬間、絶句した。
荒れ果てた座敷。壁から天井まで飛び散った赤黒い血の跡。四本の爪が壁も畳も切り裂いて、座敷の中は血の匂いに充ち満ちていた。
「あ、あああ」
布団。姉がいつも寝息を立てていた布団が、血の海に沈んでいる。でも、肝心の姉の姿はどこにもない。まるで獣に食い尽くされてしまったみたいに。
「うああああ、うわあああああああ!」
一瞬、目の前が暗転する。
目を開けると、そこには荒れ果てた座敷。先ほどとは違うのは、血は赤黒く変色して、埃だらけになっていて、あちこちに蜘蛛が巣を作っている。
まるで、もう何年も経ったみたいに。
背後、廊下に何かがいる。
キキキ、と嗤うなにか。
振り返る。
透けた障子の向こうを埋め尽くすような巨躯。巨大な狒々(ひひ)。その瞳が嗤っている。
見つけた、とでもいうように。それは嫌らしく嗤ったのだ。
その瞬間、俺は全てを思い出し、牙を剥いて狒々へと襲いかかった。
あの日、姉を食った化け物。
その喉元に、今度こそ喰らいつく為に。
⚪︎
とつもない物音に思わず身を竦ませる。
廊下に飛び出すと、巨大な狒々が障子も雨戸も吹き飛ばしながら暴れ狂っていた。その喉元に食らいつく大きな白い犬。雷鳴のような唸り声をあげ、狒々の首を噛み千切ろうとしている。
狒々も犬を引き離そうとするが、喉元に深く喰らいついた牙は緩まない。
まるで熊のように巨大な狒々が手足を振り回して暴れている。毛並みは針金のように硬く黒い。あれがこの家を滅ぼした化け物。
二匹は絡み合うように転がり、中庭へ飛び出した。
靴も履かずに中庭へ飛び出した時、深々と刺さった牙が狒々の首を噛み折った。
巨大な狒々の体が痙攣し、やがてそれは動かなくなった。血の塊を吐き、首が捻れるようにぶら下がる。
立派な体躯をした白い犬が、まっすぐに狒々の頭を見ていた。
目の前の光景に、言葉が出てこない。
狒々の首が、落ちて転がる。
「藤四郎」
名を呼んでやると、白い犬は思い出しようにこちらを見た。
写真立てに写っていたのは母親と娘。二人に寄り添う一匹の犬の姿だった。
「お前、自分が死んだことも忘れてずっとこの家を護ってたのか。律儀な奴だな。さっさと成仏すればよかったのに」
私がここへ呼ばれたのは、あの狒々への餌だったのだろう。あの狒々を討つまで、この忠義者はこの屋敷から離れられなかったのだ。
藤四郎は狒々から離れ、私の目の前で止まった。
「お前、あの娘さんと本当の姉弟みたいに育ったんだな。だから死んでも姉の仇を討ちたかったのか。ありがとうな。おかげで俺も助かったよ」
藤四郎の姿が溶けるようにして歪む。
からん、と足元に転がる白い狗の面。拾い上げ、屋敷を見ると、屋敷の姿は無残なものに変わり果てていた。ここにあるのは朽ち果て、今にも崩れ落ちそうな廃屋だ。まるで止まっていた時間が急に流れ始めたみたいに。
面を拾い上げ、空を見上げると、群青色の空から降りしきる雪が強くなったような気がした。
「はあ。いいように利用されたな。せめて一泊したかった」
立ち上がり、白い息をひとつ吐いて、私は山を降りることにした。
作者退会会員
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