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私は小さい頃、全身が強張るような不安に駆られることがよくあった。特にこれといった理由もないのに、恐怖で身動きが取れなくなる。
一瞬で何か暗いものに、覆い包まれたような感覚になる。家族と楽しい時間を過ごしていても、これから遊びに行こうしているときでも。ふとした瞬間に、ぴたっと身体も心も動きが止まる。周囲との距離が遠くなり、壁一枚を隔てているような、背後からいきなり、別の空間に飲み込まれたような感じがした。
その頃は幼すぎて、自分の感情すら言葉で表せなかったが、ひとりぼっちで、誰とも関わりが持てないような感覚を肌で感じていたのだろうと思う。
そんな恐怖の中でも私は泣かなかった。周りと断絶されているので泣いても助けは来ないと感じていたのだ。それは、耐えるというよりも、受け入れるしかない恐怖だった。
しかし、その恐怖に襲われている時間はそう長くない。「 あ、 来た。 」一瞬の強張りを察知すると、暫くはその感情を押し殺して普通に振る舞う。少しの間、私は私でないような感覚の中で、皆に接した。するといつの間にかその感覚は消えていて、自分でも知らないうちに、普通の自分に戻っている。
それは今になって思い出すと、水辺にいるときに頻繁に起こったように思う。ワイワイと騒がしい小学校のプールの更衣室で、家族と海水浴に行き砂浜で遊んでいたとき母の隣りで、あの妙な孤独感はやってきた。
単に水が苦手な子どもだったのかもしれない。その不安が訪れる回数は、大きくなるに連れてだんだんと少なくなり、小学校の高学年あたりになると、それは殆ど無くなった。今の私はそんな体験があったことさえ忘れてしまっていた。
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久しぶりにその感覚に遭ったのは最近の事だ。それは、幼い頃の夢を見たときのことだった。
私は、家族と旅行に来ていた。私の両親はよくプール付きの旅館を選んで、私たちを遊ばせてくれた。私には六つ歳の離れた姉がいる。夢の中の私は、幼稚園生になったばかりで、姉は小学校四年生くらいだろうと思う。
見覚えのあるプールだった。
「○○ちゃん、走っちゃダメ!」まだ若いころの祖母が私の手を掴む。私は、はしゃいでプールサイドを走り回っていた。
母が申し訳なさそうに近寄ってくる。懐かしい、花柄の青いワンピースの水着。
「すみません、お義母さん。ほら、○○ちゃん気をつけないと。大きい方じゃなくて、こっちの滑り台のプールに行こうね。」
私は母と祖母に手を引かれ、滑り台のある子供用プールで遊び始めた。父と姉は一足早く、大人用のプールで泳いでいるようだった。バシャバシャと威勢よく水しぶきを飛ばして笑う私。赤い水着がお気に入りだった。
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昔の記憶を辿る夢に、心地よさを感じていた時だった。……溺れるんだ。
そうだった、思い出した。私はこの後、大人用プールに落ちて、姉に助けられる。確か生まれて初めての溺れる経験だ。水の中で目を開けたのもこの時が初めてだった。すごく驚いたことを覚えている。
その時の情景が目に浮かぶ。青く不思議な透明感の世界が、目に飛び込んで来た。聞いたことが無い、鈍くて遠い静かな音を聞いた。
人間、あまりにも驚くと妙に冷静になるのは、大人も子供も同じらしい。自分に起こった大変な事態を飲み込む前に、目の前に広がる景色に感動していた。そして、もっと見ていたいと思う間もなく、私は姉に引き上げられたのだ。苦しくなるよりもだいぶ前だったので、正確には溺れたのではなく、水に落ちただけと言った方がいいのかもしれない。
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夢の中の幼い私は、身体の半分しか浸からない水たまりに飽きてきた。案の定、隣に広がる大きな青いゆらゆらした水面をじっと見つめていた。大人用と子供用のプールは並んでいて、一応柵で区切られてはいるが出入りは自由だった。水を掻きながらゆっくりと歩く。プールサイドに上がった。柵の無いところを通り大きなプールに近づいて行く。
なみなみとプールサイドに溢れる水をピシャと踏みつけた。僅かに水面に触れた足が、小さな波を立てる。揺れ広がる波の先端を目で追うと、足元ばかりを気にしていた視線が自然と上がった。大きくなった波紋は、細くなり、音もなく消えた。視界が広がると、私はハッとした。
あれ、周りに誰もいない……。お母さんも、溺れる私を助けてくれるはずのお姉ちゃんも…。天井に並んだ、煌々と光る大きなライトに睨まれた気がした途端、その光を反射している水面は表情を変えた。
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タイルの青さが際立っていたプールの底は、真っ黒になっていた。その黒さがライトの反射をさらに強めて、水が銀色に変わったようにギラギラとしていた。その光る揺れが歯のように浮き上がって見え、不気味にニヤついて、嘲笑っているようだった。
思い出と食い違っていることと、あり得ない色のプールに困惑していると、どぼん。
私はプールに落ちた。足を滑らせだのだろうか。引き込まれるように、私は落ちた。
視界はハッキリとしている。水は透明で底は黒い。水面と反対して、艶のない、抵抗感のある黒だった。
身体は硬直していた。助けてくれる人もいない。あの時と違う、なんだこれ。苦しい。怖い。私は混乱していた。夢だという安心感はとっくに消え失せていた。
その時、プールの底だと思っていた黒いものが、ずずっと動いたのを見てしまった。
何か下にいる。そう思うと余計にパニックだった。逃げなくちゃと思っても、硬くなった体は言うことを聞かない。じたばたしても、口から空気が漏れるばかり。
突然、ぐん、と腰のあたりが重くなったかと思うと、水の底に吸い込まれた。歯と口が見えたと思うと、光は遠のいて、バクッという音で辺りは暗くなった。
バサーッ…………
わあ!……ちょっとメグミ大丈夫??いきなり下から浮かんできたから、びっくりしちゃった。お母さーんメグミが溺れたー!
ああ、お姉ちゃんだ、助かった……。
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「……もう、起きて!メグミ学校でしょ、遅れるよ!」という母の声で目が覚めた。急いで支度をして、朝ごはんを食べる。
行ってきますと、一言いって外に出る。私の家の前には小さな池があった。
変な夢を見たせいか、久しぶりにあの孤独感が押し寄せてきた。体が強張っているその間、ぼーっと水面を見つめていると、肩を叩かれた。
「メグミ、お弁当忘れてるよ。」
メグミという名前と、そこにいる母に違和感を感じた。いつもの母だが、夢で会った母ではなかった。
私の名前はメグミという。
夢の中で呼ばれた名前は違っていた。夢の中の名前を思い出せないけど、なんだかとても懐かしい響きだった。
作者退会会員
自分の実際の思い出をもとに書きました。急に怖くなる感覚も本当ですが、未だに何なのかわかりません。つたない文章の作りで分かりにくい点も多かったと思いますが、最後まで読んでいただきありがとうございました。