木菟の住むこの街には、まとまった雪が降らない。
昨今の地球温暖化のせいかは分からないが、同じ県内でも木菟の住む街周辺だけが白魔から逃れているのである。
その為、木菟は雪の描写が苦手だ。
しっかり見たことがないものを文章に書き表すのは、至難の技である。
しかし、そんな彼にも過去に一度だけ、雪を見た記憶がある。
はっきりとは思い出せない、おぼろげな記憶。
誰と見たのかも分からない、銀世界の記憶である。
ー
「雪が、見てみたいのです」
年の開けた1月1日。
いつものように六花のカウンター席でココアをすすりながら、木菟は呟いた。
「それが新年の抱負?でも、先生寒いの苦手じゃあなかったの?」
「ええ、苦手ですよ。でも雪は別です。一年に一度くらいは降ってほしいですね。」
「先生、仰る事が矛盾していますわ。」
美子はさも可笑しそうに、くすくすと笑った。
「そうですかね?」
木菟はとぼけた顔をして、首を傾げた。
「私が最初にこのお店を見つけた時も、六花という名に惹かれて立ち寄ったのが始まりですから。」
「そうなんですの?」
六花。それは雪の異名である。
「それだけに惹かれてここの常連に?」
「いえ!勿論店の雰囲気も、美子さんのココアも気に入ったから常連になったんですよ。」
「『店の』雰囲気と私の『ココア』ね…。」
美子は少しいじけた様子で溜息をついた。
「ココアは糖分多いですから、飲み過ぎればいくら先生が細身とはいえ太りますわよ。」
女心の分からない彼に対する意地悪に、木菟は自分の腹を見た。
「私、太りました?まあ、30過ぎなので仕方ないとは思いますが…。」
「飲み過ぎればの話ですわ。」
「はは、これは参りましたな!」
へらへらと笑い、帯の締められた腹をぽんと叩いた木菟を見た美子は、呆れてそっぽを向いた。
その時、ドアベルが鳴って客が1人入ってきた。
白いタートルネックのセーターを着た、髪の長い女だった。
「いらっしゃいませ。」
美子が声をかけると、女は微笑んで会釈した。
「どうぞ、お好きなところにお掛けになってください。」
女はカウンターの一番端の席に腰を下ろした。
「アイスコーヒー、下さる?」
「かしこまりました。」
美子は得意のコーヒーの注文が入り、張り切っていた。
「嬉しいですわ、常連でもコーヒーを全く頼まない方もいらっしゃるから。私コーヒー淹れるのは得意なんですのよ。」
木菟をちらりと見て、美子は言った。
「それにしても、この寒い季節にアイスコーヒーを注文なさるなんて、よほどアイスコーヒーがお好きなんですね。」
女は微笑んだ。
「私、生まれも育ちも雪国なんです。幼いころから身近には雪がありましたから、何かと冷たい方が好きなんですのよ。」
その言葉に、木菟が飛びついたのは言うまでもない。
「すみません、今、何と?」
「え?」
女は驚いたように目を瞬かせた。
木菟は構わず女の隣に席を移し、目を輝かせて畳み掛けた。
「故郷が雪国なのでしょう?私、小説家なんですが、雪の描写が苦手で。銀世界というものをしっかり見た事がないのです。宜しければ、雪に関するお話を聴かせてくださいよ。小説のネタが欲しいんです。」
「え…。」
「お願いします、あ、ココア奢りますよ?」
女は木菟の顔を見つめた。
その状況を見兼ねた美子が、木菟に声をかける。
「先生、お客様が困っていらっしゃるわ。おやめになって。」
そこで初めて自分のしていた事を自覚したらしく、ぴょんと飛び上がるように席を立ち、女に深く頭を下げた。
「こ、これは私としたことがはしたない!申し訳ございませんでした、ご無礼をお許しください。」
美子も困ったように微笑み、頭を下げた。
「彼はここの常連なんですけれど、こんな風に少し変わったところがありますの。どうか許してあげてくださいな。」
女は美子に向かって微笑みかけた。
そしてまだ頭を下げている木菟に歩み寄り、戯けたように言った。
「よござんす、話して差し上げましょう。」
「えっ?」
木菟は顔を上げた。
女は薄い唇をふっと緩ませて笑っていた。
「ほ、本当ですか!」
木菟は嬉しそうにネタ帳とペンを取り出し、席に座った。
「美子さん、ココア2つお願いします。」
注文を入れてから、後ろに立っていた女に手招きした。
「ほら、座って。雪の話をお願いします。」
女は頷き、木菟の隣の席に腰掛けた。
まあ、先生ったらニヤニヤしちゃって嫌らしい。思い切り濃いココアたっくさん飲んで、やっぱり5キロ10キロ太ったらいいんだわ。
美子はそんなことを考えながら、2つのカップを用意した。
「これは大分昔の話になります」
女は瞳を閉じた。
ー
ある寒い冬の晩、私は高校生くらいの少年と出会ったのです。
街灯の下に、ぽつんと1人立っていたので驚きましたわ。
体も小刻みに震えていたので、気になって声をかけたんですの。
『あなた、こんな時間にこんなところでどうしたの?』
彼は振り向いて、はにかんだような笑顔を見せました。色の白い、綺麗な子でした。
『家出です。お恥ずかしい事ですが。』
さらっと言ったその唇が、飄々とした表情とは裏腹に青ざめているのを見て、私はとりあえず彼を保護する事にしました。
公園のベンチに並んで腰掛けて、自販機で買った温かいコーンポタージュを一緒に飲みました。
『寒くて参っていたんです。すみません、初対面なのに気を遣わせて。』
寒さは昔から苦手なんです、と、彼は申し訳なさそうに頭を掻きました。
『いえ、それはいいんだけど…。あなた、どうして家出なんかなさったの?』
彼は少し言い辛そうにしました。
『親との意見の不一致と言いましょうか…。』
『つまり、親子喧嘩?』
私は少し微笑ましくなりました。
雰囲気は見た目にそぐわず大人びていても、やはりまだ子供だと思うと何だか…ね。
『またどうして喧嘩なんか?』
彼は恥ずかしげに微笑みました。
『初対面の方にお話しするのは憚られます。』
『あら、ごめんなさい。』
『いいえ。まあ、私の将来に関する事ですかね。』
その年頃にはありがちな喧嘩だと思いましたわ。
『しばらくは家に帰れそうもありません。』
そう言って、彼は困ったふうに笑いました。
その笑顔の儚げな事といったらありませんでしたわ。
『しばらく一緒にお散歩でもしませんこと?』
考えるより先に言葉に出していまいました。
彼は驚いたようにこちらを見て、それからにっこり笑いました。
『いいですね。これも何かのご縁ですから。』
何だか拍子抜けしました。私のしようとしていた事は、ある意味誘拐ですから。
…私、彼を息子のように見ていたんですわ。無意識のうちに。
彼と肩を並べて歩いていると、自分に息子ができたような気がしてきてしまって。
背は私より小さかったけれど、彼の持つ静かな雰囲気は心地よいものでした。
…ふふ、引かないでくださいね。
でも、よっぽどこのまま自分の子にしてしまいたいと思ったことですわ。
私、訳あって普通に家庭を持つことはできないので。
『…あ』
ふと、彼が小さく声を上げました。
『どうされましたの?』
彼は目を輝かせていました。
『雪です。雪が降ってきました。』
俯き加減で歩いていた私は気付くのが遅れたようでした。顔を上げると、街灯の灯りに照らされてひらひらと白い物が舞っているのが見えました。
『…ふふ。君、これは雪じゃないわよ。』
『え?だって、氷。』
私は手を広げて、舞い落ちる氷の欠片を受け止めました。
『これは風花。一度山かどこかに積もった雪が、風で飛ばされてきたものよ。だからこれは雪じゃないの。』
『へえ…。』
彼は何か考え込むような仕草をしました。
そして、私に尋ねました。
『一度山に積もった雪は、もう雪ではないのですか?』
『え?』
予想もしていなかった質問に、私は固まってしまいました。
『一度地に落ちてしまったら、雪は雪でなくなってしまうのでしょうか?』
彼はそんな不思議な事を言って、しきりに首を捻るのです。
私にはさっぱり意味が分かりませんでした。でも、それでいて何か胸の奥に触れるようなものを感じるのです。不思議な気持ちでした。
『…そうねぇ』
私はやっとのことで声を出しました。
『…私には分からないわ。難しい事を考えるのね。』
彼は黒い髪を風花で白くして、黙ってこちらを見ていました。
その様子を見た時に、やはりこの子はどうにも私の手には入らない子だと改めて思いましたの。
どうしてかは分からなかったけど、私とは住む世界が違い過ぎると強く感じたのです。
風花が勢いを強めました。
…いえ、それは風花じゃあなかったかもしれない。
辺りを真っ白に染めて、私達の視界を奪うそれはまさに吹雪でしたから。
『今度こそ、雪ですよね。見てみたかったんです。』
そう言って微笑んだ彼の姿は、吹き荒れる猛吹雪の中に見えなくなっていきました。
『お願い、最後に1つだけ!』
私は彼に向かって叫びました。
『あなたの名前だけ、教えて。』
彼は頷いて、口を開きました。
ー
そこまで話して、女は残っていたアイスコーヒーを飲み干した。
「…それで?彼の名前は?」
木菟は緊張した面持ちで尋ねた。
しかし、女は黙ったまま何も答えない。
「もしかして、個人情報の事を気にしていらっしゃるので?」
女は首を振った。
「え…。お願いしますよ、続きが気になります。」
木菟が困ったように眉を下げると、女はさも可笑しそうに笑い出した。
「鈍いお人。」
呆気にとられている木菟と美子を順に見て、女は言った。
「コーヒーご馳走様。それじゃ。」
踵を返し、店を出ていく。
「…え、あ、待ってください!」
暫くぼうっと立っていた木菟は、我に返って駆け出した。
ー
「ちょっと、待ってくださいよ!」
走っても走っても、何故か木菟が女に追いつく事はなかった。
まるで夢の中のように、自分の思うように体が動かない。
「途中で話をやめちゃうなんて、あんまりですよー!」
一度刺激された木菟の好奇心は、満たされるまで相手を求め続ける。彼は必死だった。
いつの間にか、雪が降っていた。
雪の降らない筈のこの街を、目一杯白く染めて。
吸い込んだ冷たい空気が、木菟の喉を貫いた。元々運動の得意でない彼の肺が悲鳴を上げる。白い息が散った。
異常とも言える早さで積もった雪が彼の足を捉え、引き倒した。
木菟の体は雪煙を上げて、積雪の中に埋まった。
起き上がろうともがくが、いつも身につけている羽織が仇なしてうまくいかない。
「…寒い」
急速に奪われていく体温。
こんな感覚を、昔味わった事があるような気がする。しかしなかなかどうして思い出せない。
そのうち、さくさくと雪を踏み締める音が近づいてきた。
首筋に当てられた熱い感触に、木菟ははっとした。
見上げると、2つのコーンポタージュの缶を持った女が微笑んでいた。
ー
「寒くて参っていたんです。すみません、初対面なのに気を遣わせて。」
降り頻る雪の中、近くのベンチに女と肩を並べて座り、木菟は温かいコーンポタージュを啜っていた。
「その言葉、何だか懐かしいわ。」
「え?」
「あ、いいえ。何でもない。」
女は両手で包み込むようにしてコーンポタージュの缶を持ち、少し俯いた。
「実は先程お話しした事は、この街で起きた出来事なんですのよ。」
「え⁉︎」
木菟は大層驚いたらしく、コーンポタージュを気管支に入れてむせ返った。
「ほ、本当ですか。でもこの街に雪なんて…。」
「降ってるじゃないですか、今。」
木菟は周囲を見渡した。
いつの間にか辺りは一面銀世界で、積もった雪が街灯の光を反射してきらきらと輝いていた。
「どうして今日までこの街に雪が降らなかったか、ご存知?」
木菟の顔を覗き込み、女は言った。
「え?土地の問題じゃあないんですか?」
女は笑って首を振った。
「それは、この街を雪が避けたから。本当はずっと近づきたかったけれど、降ればその寒さを厭う人がいる。」
木菟は首を傾げた。
「え?寒さの苦手な人なら他のところにも…。」
「この街は特別な街なんですわ。」
女は立ち上がった。
「本当に鈍いお人ね。それともわざと?」
「え?な、何がです?」
質問には答えず、女は木菟に背を向けてその場を離れていく。
「…あ、待ってください!」
木菟は女の肩に手をかけた。
女が振り返る。
「私は…、好きですよ。雪。」
寒さは苦手ですけど。木菟は頭を掻いて笑った。
「…そう」
女は何故か寂しげに笑った。
「あまり鈍すぎると、嫌われてしまいますわよ。」
そして女は木菟の耳に薄い唇を寄せ、何か呟いた。
「…!」
木菟は驚いて女を振り向いた。
しかし、既にその場に女の姿はなく、あれほど降っていた雪もその形跡を残さず消えていた。
「彼女…。どうして私の本名を。」
木菟は不思議そうに首を傾げながら、六花へと戻っていった。
ー
寒そうに体を震わせながら戻ってきた木菟を、心配そうにしていた美子が迎えた。
「先生。彼女のお話は最後まで聞けましたの?」
「いえ…。難しい事を仰る方でした。」
木菟は腕をさすった。
「とにかく、雪が凄くて。本物の雪が見られたので良しとします。」
「え?」
美子は怪訝そうな顔をした。
「本物の雪?先生何言ってらっしゃるの?」
「何がですか?」
「雪なんて、ひとひらも降りませんでしたわ。」
「え…。」
木菟は戸惑いを隠せなかった。
「確かですわ、私先生が心配で、暫く外に出ていましたの。でもあんまり帰っていらっしゃらないから、私も寒くなってお店に戻りましたわ。先生がお戻りになったのは、そのすぐ後ですもの。」
「ははあ…。」
木菟は合点がいったように微笑した。
「どうやら私は、吹雪の初夢を見ていたようですね。」
「吹雪の…初夢?」
首を傾げる美子。木菟は踵を返し、窓から外を眺めた。
今年初めての夕陽が、遠く見える富士の雪とは正反対に燃えていた。
作者コノハズク
あけましておめでとうございます。
新年早々、投稿させていただきました。
今年も宜しくお願い致します。