僕が目を開けて最初に目にしたのは、目を大きく見開いた彼女の顔だった。
「嘘…。どうして、」
呟いて、僕の頬に触れた。
「触れる…。本当にあなたなの?」
彼女は大きな瞳に涙を一杯溜めて、こちらを見上げる。
「……。」
声は出ない。
その代わりに、僕は彼女を力一杯抱き締めた。何故だかは分からないが、それが僕に課された唯一の使命のような気がした。
✴︎
その日から、僕と彼女の生活が始まった。
彼女の家の周りには自然が溢れていて、僕らは毎日のように散歩に出た。
道端に咲く小さな白い花や、深緑の芝生を見ながら手を繋いで歩いた。
「ユキトさん、これ見て!」
どうやら、「ユキト」というのは僕の名前らしい。
薄い桃色の緩やかな服を身につけた彼女は、柔らかな芝生の上にしゃがんだ。
「てんとう虫よ、可愛いでしょ!」
彼女は指に小さな赤い虫を載せてこちらに掲げた。
「………?」
僕は彼女に駆け寄り、彼女の手に顔を近づけた。
その瞬間、虫は羽を広げて飛び立った。
「…っ」
反射的に顔を顰める。
「フフッ」
目の前から小さな含み笑いが聞こえた。見ると、彼女が可笑しくて堪らないといった様子で笑いを堪えている。
「あっ、ごめんね!別に馬鹿にした訳じゃないのよ。」
彼女は一息ついて、
「ただ、なんかちょっと嬉しいなぁって。」
僕には、その言葉の意味がよく分からなかった。
「…ねぇ、知ってる?」
不意に彼女が声をかけてきた。
「てんとう虫ってね、漢字で天の道の虫って書くのよ。」
僕が首を傾げてみせると、彼女はまた小さく笑って、言った。
「てんとう虫は、必ず植物とかの頂上に登ってから飛び立つの。」
そして青く澄み渡った空を仰ぎ、
「その姿が天への道を渡るように見えるから、てんとう虫って呼ばれるようになったのよ。」
そう言って大きく伸びをして、また笑った。
「………?」
「あはは、よく分からないか。まあ、無理もないかな。」
時々、彼女の言うことはよく分からない。
✴︎
彼女と過ごし始めて数ヶ月が経ったころ。
彼女の知人らしい女性が彼女の部屋を訪ねてきた。
「ユカリ。久し振り!」
「アヤじゃない!ほんっと、久し振りね!」
彼女の友人であろう彼女に向かって、僕は頭を下げた。が、彼女はそれに気づかなかったかのように、部屋の机の上に置かれた果物を手にとった。
「この林檎、赤くて美味しそう。剥いていい?」
「うん、いいよ。」
僕は彼女のベッドの脇に置かれた椅子に腰掛けた。
彼女らはこちらに見向きもせず、林檎をカットする。
「……っ」
僕は彼女の肩に手をかけようと手を伸ばした。だが、
「ユカリ。ちょっといい?」
彼女は友人らしい女性に呼ばれ、立ち上がってしまったので、僕の手は行き着く場所を失った。
「……。」
二人は談笑しながら部屋を出ていった。
たった一人部屋に残された僕は、先程まで彼女が座っていたベッドに腰を移した。
まだ、少し温もりがあった。
✴︎
年月が過ぎた。
僕らはあまり外に出なくなっていた。
「…ねぇユキトさん。」
彼女は、ベッドの中から白く細い腕を伸ばして僕の頬を撫でた。
まるで、初めて会った時のように。
「…言っておかなきゃいけない事があるの」
「……?」
彼女は大きく深呼吸して、話し始めた。
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あなたは、人間じゃないのよ。
あなたは、私が創り上げた理想の男性像。想像の産物なの。
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私は先天的な病気で、生まれてから殆ど人と付き合った事がなくて…。
友達といえば、昔からの入院友達のアヤだけ。ほら、あの時の女の子。あの時は無視してごめんね。
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でも、私もその、年頃になって。
ボーイフレンドが欲しくなったの。
こんな人がいたらいいのに。そんな風に考えながら想像して、創造した。
ずっとその事ばかり考えてたの。そしたらある夜、ふと目を覚ましたら、ベッドの脇にあなたが立っていたの。
一緒に過ごしているうちに、あなたが感情を持ち始めているのを感じられて嬉しかった。
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彼女は一通り話し終えると、鼻を啜った。
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ごめんね、黙っていて。私、もう長くないの。
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「………」
「死って、分かるかしら?」
「………」
「…そうね。知らなくていいわ。少なくとも、あなたは…。」
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「分かるよ、ユカリ。」
流れるように口から言葉が出た。
彼女は驚いた表情で言った。
「ユキトさん…。口が、利けるの?」
僕は、ゆっくり頷いた。
「僕は、君だけの為に存在してきた。君がいなくなれば、僕だって消える。つまり、死ぬ…。」
僕は優しく彼女の首すじをなで、接吻をした。
「君の死期が近いというのなら、僕の死期も近い。」
言いながら、僕はカーテンを開けた。
昇る朝日に、真っ白な病室が照らされる。
「…ほら、今日は凄く天気がいいよ。」
彼女は身体を起こし、僕の隣まで歩いてきた。
きっと最期の力を振り絞ったのだろう。
「あら…。本当ね。」
彼女は、僕の手を握った。僕も、彼女の手を握り返した。
「ねぇ、ユキトさん。いつかした話、覚えてる?」
「何の話?」
「天道虫。…今なら、私達もなれるかな。」
「…天道虫にかい?」
僕は噴き出した。
「なによぅ、馬鹿にする気?」
彼女は恨めしげにこちらを見上げたが、すぐに笑顔になった。
そして僕の胸に身体を預け、囁くように言った。
「ユキトさん…。そろそろお別れみたい。」
そんな彼女に、僕は微笑んだ。
「お別れじゃないさ。」
そして、彼女を強く抱き締めた。
「…ずっと一緒だよ、ユカリ。」
僕は、この為だけに生まれてきたのだから。
彼女を、ユカリを愛する為だけに生まれてきたのだから。
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翌朝、ある病院の一室の窓から、二匹の天道虫が飛んでいった。
天高く羽音を響かせて、仲睦まじげに、天への道を描くように。
作者コノハズク
久々に執筆したのであまりキレのある文章とは言えない出来になってしまいましたが、読んでくださった方、ありがとうございました。