涙⑴【涙・涕・泪】
〔古くは「なみた」と清音。万葉後期から濁音〕
①涙腺から分泌され、眼球を潤している体液。興奮したり刺激を受けたりすると多量に分泌される。涙液。「ーを流す」
②泣くこと。「ーなしには語れない」「聞くもー語るもー」
❸思いやり・悲しみなど、人間らしい感情。「血もーもない」
④名詞の上に付いて接頭語的に用い、それが少しばかりであることを表す。「ー金」「ー雨」
(スーパー大辞林より引用)
…余談だが、経凛々は涙を流せない。
涙が流れれば彼の皮膚はふやけ、崩れてしまうからだ。
芦田の事件の時でさえ、彼の目が涙に濡れる事はなかった。
彼自身、そんなふうに人間と違う身体の機能が嫌であるらしかった。
ー
その日、木菟は菓子折を持って六花に来ていた。どうやらまじない人形の件の詫びらしい。
「経凛々さんから、変なまじない師に呪われてあなたにご迷惑をおかけしたと聞きました。何があったのかはよく分かりませんが、すみませんでした。」
「いえ、そんな。こちらこそごめんなさいね。」
木菟は不思議そうな顔をした。
「どうして美子さんが謝るんですか?操られたとはいえ、悪い事をしたのは私です。」
美子は曖昧に笑った。
「とにかく、これどうぞ。美子さん東京の方でしょう、これ、県の銘菓なんです。」
「本当、悪いわ…。」
美子は箱を遠慮がちに受け取り、台所へ引っ込んで包みを開けた。
「…。」
これは…。
うなぎ粉末をふんだんに使用したパイ。有名な夜のお菓子だ。
「よりによって…。」
美子は苦笑した。
その時、六花の玄関の戸が開いた。客が来たようだ。美子は木製のボウルに菓子をいくつか盛り、それを持ってカウンターに出た。
「いらっしゃいませ…、あら、経凛々さん。」
店入口に立っていたのは、トレンチコートを着た経凛々だった。
「身体はもう大丈夫なの?」
「ええ、なんとか。」
彼は頷き、美子の手の盆に目をやった。
「それは…。もしかして木菟先生、これを菓子折に持ったんですか。」
「ええ。」
「へぇ…。」
経凛々は皮肉げに口元を歪め、笑った。
「知らないということは、時として罪ですね。」
「経凛々さん…。」
美子が彼の毒舌をたしなめると、その様子を見ていた木菟は笑った。
「はは、経凛々さん。あなたも言うようになりましたねぇ。」
「…え」
「しかしその方が近しい感じでいいですよ。」
木菟の反応は彼にとって予想外だったらしく、少し頰を赤らめて俯いた。
「経凛々さん可愛い、照れていらっしゃるのね?」
笑って言った美子に、経凛々は顔を真っ赤にして猛然と食ってかかった。
「そんな事ありません!」
「おや、ムキになるなんて珍しいですね。」
「むぅ…。」
追い打ちのような木菟の言葉に、彼は口を尖らせた。
「…とにかく、私は照れてなんかいません!」
そしてすっくと立ち上がり、木菟を睨む。
「特に木菟先生、あなたと近しいだなどと…。」
邪魔をしましたね、と彼は美子に愛想を述べてから、店を出ていった。
「あら、来たばかりなのに…。気を悪くしちゃったのかしら?」
美子が済まなそうに呟く。
「いや…。あれはただ単に私が嫌われているだけですよ。」
木菟は苦々しげに笑って、目を伏せた。
ー
六花を後にした経凛々は、早くも自分の短気を呪っていた。
本当は美子と雑談でもと思っていたのだが。
木菟が自然な様子でカウンターにいるのを見て、つい皮肉りたくなってしまったのだ。
「私とした事が、冗談にムキになるなんて…。」
木菟のことは嫌いではない。むしろ命の恩人だ。しかし、彼は自分に無い物を持ちすぎている…。
自分は物も食べられず、涙も流せず。
対して木菟は人としての身体の機能は勿論、物事を考える文学的頭脳、人にも慕われる。
ふと、昨晩木菟と2人で見ていた深夜の洋画劇場を思い出した。
感動系の映画で、木菟は所々ホロリときていたようだった。
『年をとると涙もろくなっていけませんね』
木菟はそう言って笑っていたが、自分はそんな彼をどうしようもなく羨ましく思ったのを覚えている。
愛した人が消えたその時でさえ、消えるのが怖くて涙を流せなかった自分が今でも許せなかった。
「まさに、『血も涙もない』か…。」
自分を皮肉り、微かに笑う。
その時、彼の耳に耳慣れない音が入ってきた。
これは…。
「ピアノの音?」
弱々しく、しかし確かに鍵盤を叩く音が聞こえてくる。
何の曲だか分からないほどの微かな音色だったのだが、何故かその奇妙で物悲しい旋律に惹かれ、経凛々は音の出所を探し始めた。
目を閉じ、耳を澄ませてみる。
音は背後から聞こえていた。
振り返ると、古く寂れたような洋館が佇んでいる。
「あそこか?」
近付いていくと、ピアノの音は段々と大きくなっていった。
どこかで聞いたような気もするその旋律。
弾いているのはどんな人だろう?
経凛々は気になって、窓を覗きたい衝動に駆られた。
しかし、他人の家を許可なく覗くというのは如何なものだろうか。だからといってわざわざ声をかけて演奏を中断させるのも悪いし…。
悩んだ挙げ句、彼は携帯しているメモ用紙に何かを書き付け、ドアの隙間に挟んでその場を去った。
残されたメモ用紙には、走り書きの行書体で『ピアノお上手ですね』とだけ書かれていた。
ー
翌日、経凛々はまんじりともしないで朝を迎えた。
木菟を皮肉った挙げ句、返り討ちにされて気まずいまま過ごしたため、よく眠れなかったのだ。
尤も、そう思っていたのは経凛々だけのようではあったが…。実際、木菟はいつもと何ら変わらない様子であった。
兎に角、そんなもやもやとした気持ちを晴らすため、彼は散歩に出た。
どこへともなく歩いているうちに、彼の耳にあの音が入ってきた。
顔を上げると、そこには昨日の洋館が建っていた。いつの間に来てしまったのか。
その戸に挟んでおいたメモ用紙はなくなっている。
もしかして、あの音の主が取ったのだろうか。内容を読んだのだろうか。
どぎまぎしながら考えていると、ドアノブに小さなカードが掛かっているのを見つけた。
慌てて駆け寄り、開いてみる。
『ありがとう』
たった一行、そのメッセージからでも充分に書き手の喜びとほんのすこしの照れが見てとれた。
嬉しくなって、再びメモ用紙を破いてメッセージを書く。
『またあなたの演奏が聴きたいです』
経凛々は興奮に頬を赤く染め、戸にメモを挟んだ。
また返事をくれるだろうか。
そんな事を考えていると、ふと心に浮かんだ違和感も消えてしまうような気さえした。
ー
ふわふわとした気持ちで家に帰った経凛々を、蜥蜴の桜華と遊んでいた木菟が迎えた。
「お帰りなさい。…おや?」
いつもより表情の明るい経凛々を見て、彼は首を傾げた。
「何か良いことでもあったんですか?」
経凛々はちらりと木菟を見遣ると、微かに微笑んだ。
「いえ、何も…。」
「何ですか、隠すことないでしょう。」
木菟が粘ると、経凛々は自慢気に言った。
「音楽に明るい、高尚な趣味の知り合いができたんです。」
「ほう、音楽。」
木菟は頷いた。
「それは良かったですね。」
「でしょう?」
経凛々は自室に引っ込んだ。
畳に座って返事のカードを眺めながら、空想に浸る。
こんな綺麗な字を書くのだから、男であろうと女であろうと上品で気品溢れる人物なのだろう。
一度でいいから会いたい。会って直接話したい。そしてあわよくば、友達になったりも…。
…いや、それは欲を出しすぎか。
敷いた布団に倒れ込み、目を閉じる。
今日のメッセージに対する返事はどんなだろう。
明日の散歩が楽しみであることは、言うまでもない。
ー
その日の夜中。
経凛々は暗闇の中、ゆっくりと上体を起こした。その目は虚ろで、焦点が定まらない。
無言で身支度を整え、部屋のガラス戸を開ける。
そのときコートのポケットからメッセージカードが一枚落ちたが、彼は気づいていない様子だった。
ガラス戸の隙間をするりとすり抜け、彼は夜の冷たい空気の中へと飛び込んだ。
軽やかに地を蹴り、暫く走って着いたのは例の洋館である。
門を潜り、重厚な造りのドアノブに手をかけると、いとも簡単に扉は開いた。
開いた扉の前で、暫く立ち尽くしていた経凛々の表情が引き締まる。
「…あれ、ここは…。」
その瞬間、扉の隙間から目にも留まらぬ速さで伸びてきた白く華奢な腕が、彼の手を掴んだ。
声を上げる間もなく、彼の身体は洋館に引き込まれた。
ゆっくりと閉じた扉、その前に、ひらひらと小さなカードが落ちてきた。
『これから毎日聞かせてあげる』
少し震えた文字で、そう書かれていた。
ー
翌日の早朝、冬堂美子は家の戸を激しく叩く音で目を覚ました。
様子見に窓から顔を出すと、いつになく焦った様子の木菟が玄関の戸を叩いている。
彼女は早足で玄関に向かい、扉を開けた。
「どうなさったの、先生?」
木菟は焦りからか、何度も吃りながら言った。
「い、いえ…。こちらに経凛々さんは来ていませんか?」
「経凛々さん?さあ、いらしてませんけど。」
美子が答えると、木菟の顔が文字通り真っ青になった。
「え…。そ、それじゃ何か連絡は、」
「いただいてませんわ。」
美子は心配そうに首を傾げた。
「何かあったんですの?」
そう尋ねられ、木菟は答え辛そうに頷いた。
「経凛々さんが…。朝起きたらいなくて。」
「えぇ!?」
美子は目を大きく見開いてから、木菟に詰め寄った。
「どういう事ですの?」
「分かりません…。ただ、彼の部屋のガラス戸が開きっぱなしだったので、私が寝ている間にそこから出ていったんだと思われますが…。」
美子は弱りきった様子の木菟を見つめた。
「…取り敢えずお上がりになって。こんな早くちゃあ、朝御飯もまだでしょう?」
「ええ、まあ…。」
「やっぱり。何があっても、朝御飯は摂らなくちゃいけませんわ。経凛々さんを探すにも、体力が必要ですもの。私もまだだから、ご一緒しましょ。何かお作りしますわ。」
木菟は恥ずかしそうに笑って、頷いた。
ー
朝日の射し込む部屋のベッドで、経凛々は目を覚ました。
質の良い絹を使っているらしく、シーツの手触りは最高だ。自分のいつも寝ている布団とは全く違う。
「…あれ」
ここは何処だ。昨日の事を思い出そうとすると、頭が痛い。
暫くぼうっとしていると、部屋の戸が静かに開いた。
入ってきたのは、白いシャツに黒いズボンを身につけた黒髪短髪の華奢な青年だった。
どこか人間離れした雰囲気を纏った彼は、経凛々と目が合うとはにかんだような笑みを見せた。
異様な状況に置かれているというのに、経凛々は何故か冷静な気持ちだった。
「私をここに連れてきたのは、あなたですか?」
青年は頷き、経凛々に手を差し伸べた。
「ついてこい、と?」
青年はまた頷き、経凛々の黒手袋の手をとった。
その力は優しいもので、振りほどこうと思えば青年に負けず華奢な経凛々でも簡単にできた。しかし、抗うことは何故か出来なかった。
彼は青年に連れられるままに、部屋を出た。
ー
「先生、御御御付けが出来ましたわ。」
「あ、ありがとうございます。」
美子は居間のちゃぶ台の前であぐらをかいている木菟の前に豆腐と油揚げの味噌汁を出した。
「本当にすみません、美子さんばかり働かせてしまって…。やはり私も手伝いましょうか?」
台所から含み笑いの声が聞こえた。
「そんなにお気になさらないで。それに、先生が作るより私が作った方が絶対美味しいわ。」
「それは確かに…。そうかもしれません。」
木菟は苦笑して、味噌汁を啜った。
そして、むっと顔をしかめた。
「美子さん…。あの、このお味噌汁…。」
「えっ?」
美子はお玉で少し味噌汁をすくい、口にした。途端に、彼女の表情が木菟と同じになる。
「…不味いわ」
どうやらダシを入れ忘れたらしい。
「ごめんなさい、作り直しますわ。」
木菟も流石にただの味噌を溶いた湯は飲めないらしく、申し訳なさそうに椀を出した。
「経凛々さんが心配でこんなミスをしたんですね。すみません。」
「えっ?い、いえ、いいんですのよ。」
言えない。木菟と二人で朝食というのが新婚夫婦のようで、頭の中がお花畑だったからだなんて口が裂けても言えない。
味噌汁を作り直して、美子は木菟の向かいに座った。
目の前で白米をつつき、味噌汁を啜る彼。
手料理を振る舞うのは初めてではないが、朝御飯を二人きりでというのは新鮮だ。
もし彼と結婚したら…。
朝食食べながら新聞読んでるのを注意したり、口の端に御飯粒付けてるのを直したり…。
お互いは何て呼び合うのかしら。
あなた、おまえの関係かしら?先生がおまえって言うの想像つかないわ。でも、それはそれでイイかも…。
「美子さん?」
あ、名前呼び?結婚したら呼び捨てかしら。
きっとそうよね、いつまでもさん付けはしないわよね。
「よ・し・こ・さん!」
「きゃ‼」
美子が前を向くと、木菟が怪訝そうな顔をして首を傾げていた。
「大丈夫ですか、何だか目が虚ろでしたけど。」
「ええ、ええ、大丈夫ですわ。ごめんなさいね。」
「そうですか、なら良かった。」
木菟は微笑み、頷いた。
「それで、どう思いますか?」
「…え?」
いつの間にか話が進んでいたようだ。
美子は焦って答えた。
「え、ええ、いいと思いますわ。」
すると、木菟は深く頷いて携帯を取り出した。
「ですよね。警察はこういう事が専門ですからね。」
「…警察?」
「はい。深山さんに相談してみます。」
美子は凍りついた。
しまった、自分で自分の宿敵を呼んでしまうとは。
携帯を耳に当てた木菟の横顔を見て、彼女は深々と溜息をついた。
ー
経凛々が連れてこられた部屋は、上質な木材の香りの漂う広い部屋だった。
その中央に、あの音色の元であろうピアノが据えられていた。
「あれがあなたのピアノですね?」
青年は嬉しそうに頷き、経凛々をソファーに座らせてから自分はピアノ椅子に腰掛けた。
一呼吸置いて、彼は鍵盤の上に指を躍らせた。
外から聞いた時とは比べ物にならないくらい迫力のある演奏に、経凛々は圧倒された。
曲名は分からないが、やはり聞いたことのある旋律。
十分に利かされたクレッシェンド。波のようなその響きに、彼の心はしっかりと捕らわれてしまった。
「…。」
緩い眠気が襲ってきた。
このまま深く眠って、永久に目が覚めなくてもいい。
そう思わせるほどの流麗な調べだ。
経凛々は目を閉じて雑念を払い、青年の紡ぎ出す音色だけに身を任せた。
演奏を終えた青年は、再び意識を失った彼を振り返った。
そして、微かに口許を緩めて目を細めた。
ー
県警の警部、深山辰二郎のもとに、一本の電話がかかってきた。
「何でぇ、こんな朝っぱらから…。」
画面に表示された名は木菟。
早朝に叩き起こされた不快感を露にしていた深山の表情が、みるみる変わっていった。
木菟に関わると、必ず面白い事が起きる。
刺激がなく、まるでつまらなかった毎日が変わったのも彼と関わってからだ。
彼はニヤリと笑い、携帯を耳に当てた。
「おはようさん、先生。」
『良かったあ、繋がった。』
電話口から、安心したような木菟の声が漏れ出す。
『実は大変な事になってしまって。こんな早朝で申し訳ないのですが、六花まで来てくれませんか。』
「美子ちゃんに何かあったのか?」
『いえ、美子さんではなくて…。経凛々さんなんですけどね。』
「経凛々?」
『あ…。言の葉さんです。』
「ふん…。」
言の葉か。あいつも木菟と会ってから知り合った人間だ。
いや…。人間かどうかは怪しいか。
しかし、何であろうと奴、言の葉はいいやつだ。多少酒の付き合いは悪いが。
「…分かった、待ってろ。」
『はい、じゃあ。』
電話を切り、彼は布団を出た。
肌に触れるワイシャツは冷えきっている。
ネクタイを緩く結び、スーツに袖を通す。
草臥れたトレンチを肩にかけ、彼は部屋を出た。
「あれ、お父さん?」
廊下に出ると、中学二年の娘である律子と鉢合わせた。
「おおー、リッコ。早いじゃねぇか、どうした?」
「うん、なんか目が覚めちゃって。お父さんこそ、忙しいんだね。」
「ああ、これは違うんだ。俺のダチが何か大変みたいでな。」
「ふうん。」
深山は律子の頭を掴むようにして撫でた。
「お前も来るか、今日休みだろ?」
「え?何で?」
「お前、言ってたじゃん。『リッコもパパのお仕事行くー!』って。」
「それ子供の頃の話でしょ!?」
「何言ってんだ、今だって十分子供だろ?」
「そうじゃなくって!」
律子は頬を膨らませたが、ふと思い直したように言った。
「…別についていってあげてもいいけど。」
「おお!流石俺の娘!」
「あ、その代わり肉まん奢ってよね。」
「う、流石俺の娘…。」
「でしょ?」
顔立ちは深山と親子である事が疑わしいほど可愛らしいにもかかわらず、浮かべた笑顔は何故か父親似で悪戯っぽいものであった。
ー
経凛々が再び目を覚ました場所は、真っ白な部屋の中であった。
顔をあげると、先ほどの青年がピアノ椅子に腰掛けていた。
周りが真っ白なので、黒いピアノ椅子とズボン、黒髪と瞳だけがやけに映える。
青年は小さなカードを取り出し、経凛々に差し出した。
『ずっとここにいてくれるよね?』
几帳面な文字で書かれたそれを見て、経凛々ははっとした。
そうだ、自分は昨夜ここに来てしまったんだった。それで家の中に引き込まれて、そのまま…。
木菟に何も言っていない。心配しているだろうか。
「あの…。すみません。私、ここに来ることを誰にも言っていなかったんです。家族が心配してるかもしれないんです、一度帰ってもいいですか?」
その瞬間、視界の端に黒いものが入った。
床を見ると、髪の毛が何本か落ちている。
まさかと思い、恐る恐る頭を触ると、上げていた筈の前髪が下がっている。
よく目を凝らすと、自分の座っている椅子の周囲にはぴんと張られたピアノ線が張り巡らされていた。
再び青年に目をやると、無表情で何かを摘まんでいた。どうやらピアノ線の一本を、思いきり引いたらしい。
一歩でも動けば細切れだ。血は出ないだろうが、死んだも同じになるだろう。
青年は再びカードを差し出した。
経凛々はピアノ線に注意しながら、そのカードを受け取った。
『家族なんているの?』
いきなり目の前に突きつけられた厳しい言葉に、彼の思考は一瞬停止した。
「…な、何言ってるんですか、いますよ。木菟先生っていうちょっと抜けた人で…。」
青年はまたカードを出した。
『人間とモノは家族にはなれないよ』
カードには、そう書かれていた。
「…く」
息が詰まって、胸が苦しくなる。
なぜ青年が自分が人間でないと知っているのかという疑問は既に頭になかった。
青年がまたカードを出す。今度は沢山。
それを足元にばらまいた。
『大事にされても所詮はモノと人だ』
『分かり合える筈がない』
『いつかは捨てられるよ』
捨てられる…。
経凛々の脳裏に、木菟が原稿の自分を没にしようとした時の冷たい視線がよぎる。
「あ…。あ、」
言葉が上手く口から出ない。
それでも何とか、彼は思いを絞り出した。
「…捨てられるのは、怖いです」
青年は満足げに微笑んだ。
そして、新しいカードを取り出した。
『僕となら、家族になれるよ。』
経凛々はそのカードを受け取り、大事そうに胸に押し当てた。
ー
「先生さんよぉ、来てやったぜー。」
深山が声をかけると、六花の奥から木菟が顔を出して笑った。
「早かったですね。」
そして、彼の隣に立っている律子に目を留める。
「あれ、深山さん、その子は?」
「ああ。俺の娘だ。」
木菟と美子は顔を見合せ、吹き出した。
「冗談やめてくださいよぉ、そんな美少女が深山さんの娘さんな訳ないでしょ?ねえ美子さん。」
「うふふ、そうよね。冗談きついわ。」
どうせどこかで拐ってきたんでしょ、と、美子が笑う。
深山は眉間に皺を寄せ、かぶりを振った。
「何馬鹿なこと言ってんだ、俺は刑事だぞ?リッコ、お前からも何か言ってや…。」
彼女はいつの間にか木菟の腕にしがみつき、深山を不審者でも見るような顔で見つめていた。
「リッコ、お前まで…。」
木菟と美子は律子を後ろに隠し、じっとりとしたした目で深山を睨めつけていた。
「最低ですね」
「ロリコンジジイ。」
「なっ…。」
深山はたじろいだ。
律子に目をやると、深山に向かってぺろりと舌を出し、片目を瞑っていた。
「ち…。違うんだ、誤解だ、こらリッコ‼」
こっち来い、と大慌てで手招きする深山。
「…あははっ、ごめんなさい。」
律子は木菟から離れ、深山の横に寄り添ってぺこっと礼をした。
「初めまして、あたし深山律子っていいます。一応、この人の娘です。」
「あら、本当に親子だったの…。」
ごめんね、と美子がすまなそうに言う。
木菟はといえば、さも可笑しそうに笑っていた。
「なるほど…。確かに親子ですね、そっくりだ。」
「ふふっ、よく言われます。」
律子は例の深山似の笑顔を見せた。
「さて、おふざけはこの辺にしましょうか。」
木菟はぽんぽんと手を叩き、深山親子を手招きした。
「美子さん、彼らにも朝食を作ってあげてくれませんか。」
「いや、大丈夫だ。」
コンビニの袋を掲げ、深山は笑った。
「自分の分は買ってきたさね。」
「あら、気を遣わないで良かったのに。」
律子ちゃんがいるなら、と美子は小声で付け足したが、深山には聞こえていないようだった。
「何を買ってきたの?やっぱりあんパンと牛乳?」
「何でそうなる。」
「だって、刑事さんて言うとそんな感じよ。」
「奥さん、バカ言うな。そりゃベタなドラマの見過ぎだよ。」
「じゃ、何買ったのよ?」
ふん、と深山は鼻を鳴らした。
「あんまんとイチゴミルクだ。」
「何よ、大して変わらないじゃないの!」
「何だよ、好きなんだから仕方ねぇだろ?」
「はい、そこまで。」
二人を宥めつつ、木菟は言った。
「喧嘩は後でお願いします。いい大人が、子供の前でみっともありません。」
美子と深山はばつが悪そうな顔をした。
「じゃあ…。お店でお話ししましょうか。」
「そう…だな。」
彼らは六花の店舗スペースへと向かった。
ー
経凛々はピアノの前に座っていた。
白と黒の鍵盤に、そっと手を乗せる。
するとまるで何者かに操られるかの如く指が動き、青年の奏でる音色と同じに美しい旋律が流れ始めた。
手袋をした手で、しかも音楽未経験者がここまでの音色を奏でられるというのは普通ではない。
「あなたは…。何者なんです?」
気のせいか、ピアノの音色が笑うような響きを持った。
そんな事、関係ないでしょ。
そんな声が聞こえた気がした。
「…。」
経凛々は返事をせずに、ひとりでに旋律を紡ぐ自分の両手に目を落とした。
分かり合えるのはモノ同士だけ。
ずっと一緒にいられるのも。
決して裏切らないのも。
そんな声にじっと耳を傾けて、彼は言った。
「…悲しいですね」
ピアノの音が、戸惑ったように小さくなった。
「あなたは随分と、悲しい人のようですね。」
経凛々の手が止まった。
そのまま、ピアノは死んだように沈黙した。
ー
「なるほど、言の葉が行方不明か…。」
深山は食後の一服をふかしながら、ふうむと唸った。
「何か手掛かりになるような情報はないのか?」
すると、木菟は懐から小さなカードを取り出した。
「朝、中々起きてこない彼を起こしに部屋に入ったら、窓際にこのカードが落ちていました。手掛かりになるかどうかは分かりませんが…。」
カウンターに置かれたカードは真っ白で、左端に小さくグランドピアノのイラストが入っていた。
そして、書かれているのは「ありがとう」の一言。
「ここに書かれた文字は、彼の筆跡で書かれたものではありません。」
深山はカードを手にとった。
「随分と洒落たカードだな。」
「あたしにも見せてよ。」
せがむ律子に深山がカードを渡す。
「大事な証拠品だからな、慎重に扱え。」
「分かってるー。」
彼女は暫くカードを眺め、あっと声を上げた。
「どうしたリッコ、何か見つけたか?」
「え…。ううん、何でもない。」
「何でもなくても話してみろ、もしかしたら大切な情報かもしれん。」
深山に諭され、律子は頷いた。
「このピアノのイラスト見て、今学校で流行ってる噂を思い出しただけなんだけど。」
「噂?」
木菟が首を傾げる。
「それはどんな?」
「あ、はい。この辺りを一人で歩いていると、どこからともなくピアノの音が聞こえてくるらしいんです。でも、その音は曲名が分からないほどめちゃくちゃな旋律で…。どうやら調律が狂ってるみたいなんですけど。」
律子の話に、一同が深く頷く。
「みんなの話だと、夢半ばで交通事故死したピアノ少女の幽霊だとか、捨てられたピアノの怨念だとかいう話なんだけど…。色々ありすぎてどれが本当だか。」
「ありがちな幽霊話ですわね。私の学生時代にもありましたわ。」
美子はつまらなさそうに呟き、律子もそれに賛同していたようだったが、木菟の顔は真剣そのものだった。
「彼は消える前の晩、音楽に明るい知り合いができたと言っていました。」
「え?」
「律子さん、その噂に人が消えるという話はありますか。」
律子は首を振った。
「…そうですか」
木菟は肩を落とした。
「しかし、調べる価値はあるぜ?」
「深山さん?」
新しい煙草に火をつけて、深山は言った。
「刑事は足で稼げ、だ。走り回ってナンボさ。」
そして逞しく鍛え上げられた太腿をぱんと叩き、にっと笑った。
ー
黙りこんでしまったピアノを前に、経凛々は一人放心したように座っていた。
「あなたに何があったんですか」
頭の中に、声は響いてこない。
代わりに、鍵盤の上にカードが落ちてきた。
『なにもない』
続いて、もう一枚。
『なにもないから、こうなった』
「…」
何かよく分からない感情が、彼の胸の中で膨らむ。
「可哀相、です」
その言葉で合っているのか分からなかったが、それしか言えなかった。
ー
「噂ではこの辺りなんだけど。」
木菟らは律子に連れられて、寂れた住宅街を歩いていた。
「この辺り、巨大スーパーマーケットの話が持ち上がってて、住人がみんな立ち退きさせられて。でも、建築費が予定より高くつきそうだってことでその話はチャラになっちゃったらしいですよ。」
「そうなんですの…。」
美子は周囲を見回し、溜息を洩らした。
「でも、ピアノがありそうな家なんてありませんね。」
「音も聞こえねぇよな…。」
辺りは静まり返っており、物音一つ聞こえない。全く人のいないゴーストタウンだ。
「なんかゾンビとか出てきそうだよな。」
深山はおどけて拳銃を構える真似をした。
そしてそのまま腰を落として美子に銃口を向け、ばん!と「撃って」みせた。
「ま、やめてくださらない深山さん?」
「へへへ、奥さんにだったら噛まれてもいいな…。」
美子が無視を決め込んでいると、調子に乗った深山は彼女にしつこく絡み始めた。
「…いや、俺が噛みついちゃろか?何せ男は皆オオカミ、獰猛なハンターなんだぜぇ?いやー、あんたまだ若いからね、鮮度バツグン~ってか?はは‼」
美子は軽蔑した目で深山を見上げた。
「いいんですの、律子ちゃんの前ですわよ?」
へらへらしていた深山の表情が、一気に強張った。
「お父さん最低。」
「リッコ!?」
振り返った彼が見たものは、スマホを構えた娘の律子だった。
「今の、ぜーんぶ撮ってたから。お母さんに見せたらぶん殴られるよ。」
「やめろっ、すぐに消せ、いや消してください!」
「ヤダ。」
「金ならやる!ほら、500円!」
「うーん。もう一声。」
そんな親子のやり取りを、木菟は微笑ましく見ていた。
「律子さん。動画見せてくださいよ。」
「あ、いいですよ。」
木菟は動画を再生した。
「わぁ、よく撮れてますね。」
「でしょ?」
彼は暫く深山の人間性の疑われる動画を楽しんでいたが、ふと何かに目を留めて首を傾げた。
「先生、どうなさったの?」
「美子さん、これ…。」
動画を停止して、画面の一部を指差す。
「この家の窓の中、人影が見えませんか?」
美子もその存在に気付いたらしく、あっと声をあげた。
「本当ですわ。この家って多分…。」
先ほど通り過ぎた大きな家を指差し、美子は頷いた。
「もしかしたら彼かもしれません。律子さん、お手柄です!」
木菟に誉められ、律子は顔を赤くした。
「行きましょう。皆さん。」
四人は人影の映っていた家へと近づいた。
深山が玄関の戸に手を掛ける。
「…いいか?」
一同が頷いた。
「行くぞ…。」
気合いを込めて、深山は玄関戸を引いた。
ー
埃にまみれた大広間の中に、立派なグランドピアノが一台据えられている。
その椅子に、経凛々が座っていた。
その目は虚ろで、何を見ているのかとんと見当がつかない。
勢い良く、玄関戸が開く。
「経凛々さ…!」
入ってきた木菟らは息を呑んだ。
「大丈夫ですの、経凛々さん…。」
彼に駆け寄ろうとした美子の肩を、深山が掴む。
「待て、奥さん。これ見ろよ。」
「え?」
深山は空中を指差した。
「…何よ、何もないじゃない。」
「よく見てみろ。」
美子は空中に目を凝らし、ひっと声を漏らした。
部屋の中には、細いピアノ線がびっしりと張り巡らされていた。その様は一種異様なものであった。
「こんなところに飛び込んだら、みじん切りになっちまうぞ。」
へなへなと座り込んだ美子の身体を支え、深山はポケットからナイフを取り出した。
「リッコ、この人を。俺は線を切る。」
「分かった…。」
律子は腰が抜けてしまったらしい美子を深山に代わって支え始めた。
「私も…。」
木菟も懐から小型のナイフを取り出し、ピアノ線を切っていく。
「先生、何でそんなもん持ってんだ?」
「なぁに、護身用ですよ。」
「ふうん…。」
木菟のナイフはよく研がれているようで、よく切れる。
「経凛々さん、しっかり!」
その声が聞こえたのか、経凛々がピクリと動く。
「先生…?」
「言の葉!」
深山も声を張り上げて叫ぶ。
「深山さんも…?」
経凛々の瞳に光が宿った。
「…いけません、危険です!」
「え?」
木菟と深山は動きを止めた。
すると、ピアノの横にふらりと人影が現れた。黒髪の青年。経凛々の前に現れた青年と同じだ。
彼は張り巡らされたピアノ線など意に介さず、滑るように二人に近付いてくる。
「な、何だあいつ…!」
「きっとピアノの幽霊よ、あの噂ホントだったんだ!」
律子が泣きそうな声で叫ぶ。
青年は一切光を感じさせない目つきで木菟を見ていた。
そして、胸ポケットから取り出したカードになにか書きつけて彼に押し付けた。
『お前はあの人の家族なんかじゃない』
「え?」
呆然としている木菟の手に、青年はまたカードを押し付けた。
『人間とモノが家族になれると本気で思ってるの?』
「あ、あの…。」
『だから』
乱れた大きな文字の書かれたカードが、木菟の鼻先に突きつけられた。
『あの人は僕がもらう。』
「…。」
木菟は黙りこんだ。
「…おい、先生?」
深山が不安げに彼を見る。
木菟はゆっくりと顔を上げて青年を見据え、そして…微笑した。
「…あなたの仰る事はよく分かりました。」
青年の顔に、僅かな戸惑いの色が現れた。
「家族というのは、あなたにとってそんな風に簡単に定義付けられるようなものなのですね。よく分かりました。」
しかし、と木菟はかぶりを振った。
「そのように家族を単純にしか考えられないような若者なんぞに、私の大切な経凛々さんを渡してやる筋合いはないと思うんですがね…。」
彼の表情は柔らかかった。
しかし目は例の「猛禽の目」で、その目で睨まれた青年はたじろいだ。
「…大体、一人の人間を「もらう」なんて言ってる時点でアウトです。あなたは自分が一番軽蔑している考えを持っているんです。」
青年は頭を抱え、掻き毟った。
「理解できましたか?自分の考えていることを、改めて。」
「…ううう」
青年が初めて声を発した。
しかしそれは彼の紡ぎ出す美しい音色とは正反対の、苦悶に満ちた唸り声であった。
「分かりましたか?家族というのは一言二言で言い表せるようなものではないということが。」
「あああ!」
青年はその場に崩れ落ちた。
そのはずみで、彼のポケットのカードがばらまかれる。
何十枚ものカードの中で身を震わせる青年を、木菟は冷たく見下ろしていた。
「…寂しいですか」
表情を全く変えず、薄い笑みを浮かべながら彼は尋ねる。
「…一人は辛いですか」
青年は顔を上げた。
「でも」
木菟は屈んでその視線に目を合わせ、言った。
「こんな事をしても、あなたの孤独は続きますよ。」
その場に流れる一瞬の静寂。
「…もうやめてください!」
その静寂を破ったのは、ピアノ椅子に座っていた経凛々だった。
「それ以上彼を責めるのは…。私も何故だか辛くなるんです。」
「経凛々さん…。」
木菟は立ち上がった。
「…君、このピアノ線を解いてくれますか。」
ぷつりと音がして、部屋に張り巡らされた線が全て落ちた。
「凄い…。何だか分からないけど論破しちゃった。」
呟く律子の声を背に、木菟は経凛々に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「ええ。」
「髪の毛、切られたんですか?」
「そんなこと、どうだっていい。」
経凛々は言葉を詰まらせた。
「…彼は悲しい人です。私、彼の過去を見たんです。」
「彼の?」
頷いた経凛々の目を、木菟は見つめた。
「私に話してみてはくれないでしょうか?」
「…はい。」
彼は銀縁の眼鏡の奥で、目を伏せた。
「彼は、ある一家と幸せに暮らしていたんです。両親に、娘が一人。その娘さんと特に仲が良かった。暇があればいつも一緒に音楽を奏でて、それは楽しい時間を過ごしたといいます。…しかし、そんな生活はいつまでも続かなかった。」
経凛々は眼鏡を外し、目を押さえた。
「ここら一帯に、巨大なスーパーマーケットの建設計画が持ち上がったんです。当然、住人は立ち退きを余儀なくされました。」
美子と律子が顔を見合わせる。
「青年の一家も、引っ越しをすることになりました。娘は当然青年も連れていくつもりでしたが、今度の家は一軒家でなく小さなマンションでした。青年の住むスペースはない。」
彼は背後の「それ」に目をやった。
「大きなグランドピアノを置くようなスペースは、なかったんです。」
「何てこった、それじゃこいつは…!」
深山がピアノと青年を見比べて、絶句した。
「それでも娘は彼を連れていこうと思っていました。しかし、両親は年代を経て調律も狂い始めた彼を邪魔に思い始めていたんです。両親は娘を宥めすかして、彼をここに置き去りにしました。」
青年は微かに震え始めた。
「『必ず迎えに来るからね』、娘はそう言いました。彼はそれを信じて待った。ずっと待っていたんです。彼はそれからずっと、窓の外を眺めて過ごすようになりました。娘が来たらすぐに分かるように。そしてある日、彼女はやってきたんです。」
「え?」
「ええ、確かに来たんです…。しかし、一緒に連れていってはもらえなかった。彼女は家に目もくれず、友達らしい少女達と一緒にはしゃぎあいながら素通りしたんです。」
「…なんか、可哀想ね。」
「そうねぇ…。」
律子と美子は頷き合っている。
「彼はそこではっきりと「捨てられた」と感じたんです。そして彼は待つのをやめた。音を奏でようにも、弾いてくれる者はいない。そもそも調律が狂っているので、あの頃のような音色は奏でられない。悩んでいたところに現れたのが、「モノ」である私だったんです。」
「…。」
「彼は私の脳内に、自分の記憶の中にあった音色を響かせた。モノである私になら、自分の気持ちが分かると思って誘ったんです。」
経凛々は立ち上がり、青年に寄り添った。
「人間とモノは、確かに家族にはなれないかもしれません。でも、絆を持つことはできるのではないでしょうか。」
青年は経凛々の顔を見上げた。
「私、あなたとその娘さんの絆が嘘だったようには思えないんです。」
経凛々は、そう言って微笑した。
その時、家の玄関の戸が勢い良く開いた。
一同が振り替えると、そこには若い女性が驚いたような表情を浮かべて立ち尽くしていた。
「あなた達は…。ここで何をしてるの?」
「あ、いや…。」
深山はポケットから警察手帳を出した。
「えー、私こういう者ですが、最近この辺りに不審な人影が出入りしているとの情報を頂きまして…。」
「あら、そうなんですか。」
女性は深山のハッタリを信じたらしく、納得したように頷いた。
「家に被害はないんですか?」
「え、は、はい。」
良かった、と女性は胸を撫で下ろし、部屋の中央のピアノに駆け寄った。
「私、これを取りに来たんです。子供の頃凄く大切にしていて。でも急に引っ越すことになって、手放さなくちゃいけなくなったんです。でも、私一人暮らしを始めたので家に置けるようになって。」
経凛々は青年を見た。
青年の目は女性に釘付けになっており、その目は潤んでいた。
「やっぱり、そうなんですね。」
彼は青年の背中を押した。
「お幸せに。」
青年は瞳から一筋の涙を流して、頷いた。
『ありがとう』
今度はカードでなく、美しい声による感謝の言葉であった。
「業者さん、キズ付けないように気をつけてくださいね!」
成長した娘の快活な声を聞いて、木菟ら一同は顔を見合わせて笑った。
ただひとり、経凛々だけが黒い瞳からはたはたと雫を溢していた。
ー
六花に戻った木菟らは、祝いの盃を交わしていた。
「良かったです、あなたが無事で。」
木菟が微笑んでココアを口に含むと、経凛々は意外そうに言った。
「…心配してくれていたんですね」
「何を言うんです、当たり前でしょう?」
「そうですわ。」
美子は経凛々にもココアを出した。
「みんな心配していたんですのよ。」
「あの、私食べ物や飲み物は…。」
あら、そうだったわねと彼女は気まずそうにマグカップを下げようとしたが、その手を木菟が押し留めた。
「経凛々さん。飲んでみてください。」
「え?」
「いいから、ほら。」
経凛々は勧められるままに、ココアを口の中に流し込んだ。
いつ溶けるかとびくびくしていたが、一向に彼が崩れる様子はない。
「…あれ、どうして?」
「あなた、先ほど涙を流していたでしょう。」
「…え?」
どうやら自覚は無かったらしい。木菟は続けた。
「涙というのは、分泌液の一種です。あなたの身体が濡れてはいけないなら、そんなものが存在するはずがありません。それで、もしかしたらと思ったんです。」
経凛々はココアのマグカップを見つめた。
そうか、自分には涙というものがあったんだ。彼は微笑した。
「…美味しいです。先生がこれを好きな訳が分かりました。」
「そうですか、それは良かった。」
機嫌良さげに笑っている木菟と経凛々を、律子が不思議そうに眺めていた。
「お父さん、あの経凛々て人…。」
袖を引かれた深山は、ちらりと経凛々に目をやってから頷いた。
「ん、ああ。でも、何でもいいだろ。今度飲みに誘ったら、多分付き合ってくれるだろうな。」
深山は何か言いたげな娘の髪をくしゃっと撫で、煙草をくわえた。
作者コノハズク
長々と書いてしまいました…。
初期案が重すぎたので、深山らのシーンを挿入して軽くした結果です。
それから晴明。すっかり影を潜めております。出してやれなくてすまない、晴明よ。